本日最後の授業の終了を告げる起立の言葉と共に立ち上がろうとした瞬間、目の前が真っ暗になった。 そのまま重力に負けて倒れる。 「キョン!?」 ハルヒの声だけがやけに鮮明に耳に突き刺さった。 目を開けると、俺は保健室のベッドに寝かされており、側にいたのもハルヒではなく古泉だった。 「大丈夫ですか?」 「ああ…。ハルヒは?」 俺がそう聞いても、古泉は気を悪くした様子もなく答えた。 「先に帰りました。僕は、男同士の方がいいだろうとのことで、あなたの付き添い役を仰せつかりまして、こうして待たせていただきました」 そうか。 体を起こそうとしたが、そうするだけで目の前がぐるぐる回っているように感じられて、俺は起き上がるのを諦めた。 もう一度目を閉じて、目眩が治まるのを待つ。 差し込んでくる日はすでに赤い。 どれだけ眠ってたんだろう。 「調子が悪かったんですか?」 「少しな」 目を開けないまま、俺はぶっきらぼうに答えた。 このところ調子が悪いとは思っていたが、まさか倒れるとは思わなかった。 特に痛む所もないから大丈夫だろう。 「…すみません」 唐突に謝られ、おれは驚いて目を開けた。 見えたのは、やけにしょげ返った顔をした古泉の顔だ。 「何に謝ってるんだ?」 「あなたの不調に気がつけなかったことが申し訳ないんです」 なんだ、そんなことか。 気にするなよ。 気付かれないように必死だったからな。 「…どうしてです? それは僕に隠さなければならないことには思えないのですが」 色々とあるんだよ、俺にもな。 「それを、教えてはくれませんか。今、ここには他に人もいませんから、聞かれる心配はありませんし」 出来れば言いたくないようなことだ。 俺の勘違いという可能性も高いからな。 しかし、こうなったら話さないわけにはいかないだろう。 俺ひとりの問題でもないんだ。 それに、下手に黙っておくと、考えすぎた古泉が妙な方向に暴走しないとも限らないからな。 俺は少し考え込み、言葉を選ぼうと思ったのだが、うまい言葉が見つからない。 古泉からの無言の圧力に堪えかねたこともあって、俺はストレートに言葉を口にした。 「…生理が来ない」 「……え」 古泉はらしくもなく絶句した。 気持ちは分かる。 俺も半分は男だからな。 だが残り半分は女なわけで、その女の部分に、今のリアクションはかなり答えたぞ。 「す、すみません。驚いて…」 慌てて謝った古泉は、ごくりと唾を飲み、 「…それは、つまり……妊娠したってことですか?」 俺の勘違いかも知れないけどな。 もともと、生理は不順になりがちだったし。 それにしたって、もう丸々二ヶ月ご無沙汰だ。 いくらなんでも遅れすぎだろう。 ついでだから言っておいてやるが、どんな避妊方法も完璧じゃないから、避妊具をつけてたのなんのと最低の男みたいな発言はするなよ。 俺の独白じみた呟きを聞いていたのかいなかったのか、古泉は肩を震わせ、頬を紅潮させ、 「――っ嬉しいです!」 と俺を抱きしめた。 こいつ、大丈夫かよ。 俺は今妊娠したかも知れないということを伝えたんだぞ。 男ならもっとこうびびるとかするんじゃないのか、おい。 「どうしてそんな必要があるんです? 僕が父親になる覚悟もなしにあなたを抱くような男だとでも思っていたんですか?」 沈黙した俺に、古泉は喜色に満ちていたはずの顔を曇らせて、 「酷いですね」 と言った。 「いや、そこまで酷い奴だと思ってたわけじゃないんだぞ。ただ、まさかそこまで腹を決めてたとは思わなかっただけで」 「初めての時から言っていたでしょう? 涼宮さんや世間のことを考えなくていいのなら、いくらでも注ぎ込んで孕ませたいと」 確かに、そういう危ないことを言ってたような気がするな。 まさか本気だったとは思いもしなかったが。 というか、孕ませるとか言うな、気色悪い。 「僕はいつでも本気ですよ。特に、あなたとのことに関しては」 それで、と古泉はただでさえ近い距離を詰めながら言った。 「妊娠したかもしれない、というのはどう言うことですか? 二ヶ月も経っているなら、妊娠検査薬で調べられるものだと思うんですが」 詳しいな。 「一応調べましたから。将来のことを考えて」 いつものことながら、嫌な感じに前向きで行動力のある奴だ。 だが、それなら妊娠検査薬がどうやってそれを判別するかも知ってるんだろ? 「うろ覚えですが、確か、妊娠時にのみ出るホルモンを検出して妊娠の有無を判断するんでしたよね」 そうだ。 だが、俺の場合、そのホルモンがちゃんと分泌される保証はない。 普通の女性でも、分泌量が少なくて市販の検査薬だと分からないってこともあるらしいしな。 それに加えて、さっきも言った通り、俺は生理が不順な方だから、判別も難しくてな。 「主治医の先生に相談はしたんですか?」 まだだと俺が答えると古泉は首を傾げて、 「どうしてです? 専門家に聞くのが一番確実でしょうに」 勘違いかもしれないからな。 それに、どうせ定期検診に行く予定がもう数日後に迫ってたからな。 その時でも遅くはないと思ったんだ。 正直、妊娠したかもしれないなんて人に伝えるのは、遅らせられるなら極力遅らせてしまいたいようなことだからな。 「気持ちは分からないでもないですが、それで倒れては元も子もないでしょう」 全くだな。 「せめて、僕には言ってほしかったですね」 ……すまん。 だが、正直言って喜ばれると思わなかったんだ。 それに、喜ばれたら喜ばれたで、勘違いだった時にお前を落胆させそうで嫌だしな。 「たとえ勘違いでも、落胆まではしませんよ。今回がダメだったとしても、それが許されるようになってから、励むまでです」 励むとか言うな、恥ずかしい。 恥ずかしいのに、やっぱり嬉しがっている自分がいる。 愛されていると実感出来ることが、何よりも嬉しいんだろう。 「古泉」 「はい?」 「…ありがとう。……愛してる」 言い慣れない言葉を口にして顔を赤くした俺以上に、古泉は顔を赤らめ、 「僕も、あなたのことを愛してますよ。この世界以上にね」 それはおそらく、古泉にしてみると最高の愛の言葉なんだろう。 俺はふっと目を細め、古泉を抱きしめ返した。 「それでは、先生の所へ行きましょうか?」 その先生ってのは俺の主治医のことなんだろうな。 機関は先生にまで接触したそうじゃないか。 先生から聞いたぞ。 「やはり、事情を鑑みると必要なことですから」 そりゃあそうだろうが、先生まで巻き込んだ気になって申し訳ないな。 「でも、彼女は喜んでいましたよ? 面白がっていた、と言うべきかもしれませんけど」 ……そういう人だからな。 俺は古泉の手を借りながらベッドから下り、おいてあったブレザーを羽織る。 ついでに、 「ところで、保健医はどこに行ったんだ?」 と古泉に聞くと、古泉は曖昧な笑みを浮かべて、 「ああ、少々席を外していただきました」 …どういう方法で、と聞きたかったのだが、嫌な予感がして聞けなかった。 知らない方がいいことも、世の中には多いしな。 ああしかし、古泉の反応がこうなら、もっと早く打ち開けてればよかったな。 今日倒れたのも、毎日怖くて仕方がなくて、寝不足なったせいで倒れたようなものだし。 本当に俺の子宮は正常に機能するのかと考えると、不安でたまらなくなった。 正常に機能していないのに、受精だけしていたらどうしようと思ったこともある。 命と言えるかどうかすら分からない段階にある存在でも、俺がこんな体のくせに古泉とセックスしたせいで生まれ損なうとしたら、たとえそれが不可抗力であっても堪えられない。 考えれば考えるほど怖くなった。 母親になるかも知れないという恐怖。 宿ったかもしれない子供を、自分の体のせいで死なせてしまうかもしれないという恐怖。 不確実な要素ばかり多いのに、不安ばかりが募った。 それなのに、古泉に話して、受け入れられただけで、こうも楽になるというのは、どういうことなんだろうな。 思わず苦笑を浮かべながら、俺は古泉と共に保健室を出た。 正門まで行くと、いつものように新川さんの運転するタクシーが滑りこんでくる。 一体どこでどうやってタイミングを計っているのかと聞きたくなるほどに見事だ。 そんなことを考えられる余裕が生まれたのも、古泉のおかげだな。 感謝を込めて座席に置かれた古泉の手を握ると、優しく握り返された。 先生はいつも通りの笑顔で、ただ少し、怒ったような困ったような顔をしていた。 腰に両手を当てて、ぐっと身を乗り出し、 「どうして早く来なかったの」 「恥ずかしかったんです」 と正直に言うと、彼女は意外そうに目を見開いた。 何でだよ。 「これも、古泉くんの影響かしら」 と独り言のように呟きながら、彼女は俺と古泉を見比べた。 古泉の被っている笑顔の仮面の下にも困惑がうかがえる。 「大体、」 と彼女は苦笑して、 「生まれた時からあちこち散々検査してるし、相談に乗ったりもしてるんだから、今更じゃないの?」 そう言われるとその通りなんだが、どうしても嫌だったのだ。 「本当に、女の子に近づいてるのね」 感慨深げに呟いた彼女はぎゅうっと俺を抱きしめた。 「ああ、もう、可愛い!」 「せ、先生…」 胸に顔を沈められ、思わず俺が声を上げても先生は気にしない。 「本当に、生まれてすぐのキョンくんを見て、これからどう接して行くべきかとか親御さんと一緒になって話し合ったのもつい昨日のことみたいなのに、キョンくんももうこんなに大きくなってるのよね。身体も心も。もちろんそれは喜ばしいことだけど、少し寂しいわ。子離れされる親の心境って感じね」 はぁ。 それより、診察をお願いしたいんですが。 「あ、そうだったわね。ごめんなさい」 言いながら彼女はやっと俺を解放した。 俺は古泉を置いて奥の診察室へ向かった。 酷く心臓が落ち着かなくて、怖かった。 検査のために採尿をしたら、下着もズボンも脱いで診察台に上がった。 産婦人科特有と言っていいだろう診察台に上がるのも久し振りだ。 初めてじゃないのは、昔から定期的に検査でお世話になっているからだが、いつもと状況が違うだけで妙に緊張する。 もともと、慣れることも出来ないようなものだしな。 「そんなに固くならなくていいのよ?」 と先生は笑顔で言ってくれたが、そう言われても緊張するんだから仕方ないだろう。 緊張と羞恥でかすかに震える俺をなだめるように声を掛けながら、先生は内診をしてくれた。 気を遣ってくれるのが凄く有難い。 が、検査後の第一声は、 「えぇと、残念だったわね、って言ったんでいいのよね?」 という非常に頼りないもので、俺は思わず、 「どういう意味ですか」 と聞き返した。 「うん、キョンくんの性格なら多分残念だったって言うべきだと思うんだけど、流石に自信がなくて」 「あの、いっそのこと結果を端的に言ってくれませんか」 先生は少し考え込んだ後、 「……妊娠はしてないわ。いつもの生理不順ってところね」 「そう…ですか」 落ち込むべきなのかほっとするべきなのか分からないまま呟くと、優しく頭を撫でられた。 「大丈夫?」 「え、ええ。大丈夫です。……その、先生、お願いがあるんですが」 「なぁに?」 「…ついでに、ちゃんと検査してもらえますか? 子宮とかが正常に機能するのかどうか、気になるんです」 「あら、いい心がけね。前はあんなに嫌がってたのに」 「妊娠したんじゃないかと思ってる間、ずっと怖かったもんですから」 とため息を吐くと、彼女は楽しげに笑って、 「キョンくんらしいわ」 ……褒められてるんだろうか。 それとも、ただ単にからかわれているのか? 「古泉くんのこと、愛してるのね」 笑顔でそう言われた。 間違ってはないんだが、面と向かって言われるとコメントのしようがなく、俺は返す言葉を失ったのだった。 |