憂き世草



両国の見世物小屋の賑わう界隈に程近い場所に、小さな店があった。
元は飲み屋であったのが潰れていたのだが、半月ばかり前から改装がなされ、すっかり綺麗な料理屋の体をなしていた。
料理屋、と言っても高級な類ではなく、夜は酒も商うのだろう。
ある種、両国には相応しい、日常の平穏と非日常の妖しさの中間にあるような店だ。
そこで忙しく働いている少年はキョンだ。
この店は古泉が当てた富くじの金で買い、直したものなのだ。
「やっほー!」
と、まだ開店前の店の裏手から顔を出したのはハルヒで、なにやら楽しげな笑みを浮かべていた。
「あんた、まだ男の格好してんの? いい加減丸髷にでも結って、お歯黒もしたら?」
「お歯黒なんて、あんな臭くて手間のかかるもんがやれるか」
吐き捨てるように言ったキョンにハルヒは呆れたように息を吐き、
「それでもするもんじゃないの?」
「どうせ型破りなんだから、今更だろ。古泉もこれでいいって言ってんだし」
「あれ? そういえば古泉くんは?」
「ちょっと用事で出てる」
「用事って?」
「親に絶縁状を叩きつけに」
「まだしてなかったの?」
「なんのかんの言って忙しかったからな」
「そのまま家から出してもらえない、なんてことにならないといいけどね」
「大丈夫だろ。何度も家から逃げ出してて、逃げ道は熟知してるらしいし」
「……古泉くんって、変なところ器用よね」
ハルヒがそう笑ったところに、有希が二階の部屋から下りてきた。
料理屋なのは一階だけで、二階は住居として使っているのだ。
「有希? どうかしたのか?」
いつもなら大人しく遊んでいる有希が店に顔を出したのを訝しみながらキョンが問うと、有希は頷き、
「お父さんが帰って来るから……お迎え…」
「ああ、そうか。……思ったより遅かったな」
一樹がここを出たのは朝方のことで、今はもう夕方が近い。
実家まで距離があると言っても、少し時間がかかりすぎてはいた。
キョンは有希へちょっと笑いかけ、
「それじゃあ、迎えに行くか」
こくんと頷いた有希の手を取り、キョンが店の表通りへと出ると、何やら騒がしい人の声が聞こえてきた。
囃し立てるような声と、何かを訴える女性の声、それからやけに耳慣れた男の声。
そちらの方へ足を進め、騒ぎの中心を見たキョンは呆れ切った顔で言った。
「何やってんだ、古泉」
若い女性に抱きつかれ、それでも前進しようとしていた古泉は苦笑を浮かべた。
「ちょっと、色々とありまして」
「その色々の部分は後で説明しろよ。それで、そっちの人は…」
と女性に目を向けたキョンは軽く目を見張った。
可愛い、とかなんとか思っているのだとしたら、それはとりあえず男性としては正常な反応だろう。
じっと見つめられながら彼女はぺこっと頭を下げ、
「あたしは朝比奈みくるといいます。あなたが、キョン…さん、ですか?」
「え、ええ、はい、そうです」
らしくもなく敬語など使いながら答えたキョンに、古泉が眉を寄せたのにも気がつかず、みくるは言った。
「お願いします! あたしもお店に置いてください!」
「え?」
「そうじゃないと、あたし……」
じわりと涙を浮かべたみくるにキョンが慌てて、
「と、とにかく店へ入りましょう。往来でするような話でもないようですし」
とみくるを連れて店へ向かうのを見送りながら、古泉は有希に尋ねた。
「……彼の好みはああいう女性なんですか?」
「見ているだけなら」
「…なるほど」
ふぅ、とため息を吐いた古泉の手を取って有希が歩きだすと、古泉は苦笑を浮かべ、歩きだした。

「若様が勘当になったので、あたしもお屋敷にい辛くなったんです」
とみくるは白湯を舐めながら言った。
「あたしは若様の乳兄弟として、若様の面倒を見るためにお屋敷にお勤めしていました。だから、若様がいないお屋敷にいる意味はないんです。…あたしの両親はもうとうにないですし、それで、どうせなら若様と一緒にお屋敷を出ようと思ったんです」
微妙に声が震えているのは、緊張や疲れのためではなく、先程ハルヒに襲われた衝撃が抜け切っていないためだ。
ちなみにそのハルヒは今重石として有希を膝に乗せられ、みくるから一番遠い席についている。
「身勝手なお願いですけれど、でも、あたしは他にどうしたらいいのか分からなくて…それで……」
キョンはしばらく考え込んでいたが、
「…朝比奈さんは何か得意なことってありますか?」
「え、あ、あたしですか? お裁縫とか、お料理とか、得意です」
「料理が得意ってのはいいですね。うちの店は上品な店じゃないんで、客にもかなり品のないのがくるんですけど、……それでも、大丈夫ですか?」
「はい、あたし、頑張ります」
「じゃ、こちらこそお願いします。本当の所、店に人手が欲しいと思っていたところなんで。古泉も、それでいいよな?」
古泉は肩を竦め、
「もう決定したんでしょう? 店の経営はあなたに任せると決めた以上、僕は口出ししませんよ」
それより、と古泉はキョンへ顔を近づけ、
「もう勘当された以上、古泉姓を捨てたということになるのですが、あなたはいつまで僕を名前で呼んでくださらないつもりでいるんでしょうね?」
「う」
思わず呻いたキョンへ、古泉は楽しげに笑う。
「ねぇ?」
「……っ鬱陶しいから離れろ!」
とキョンが思いきり古泉を突き飛ばしたせいで、古泉は椅子の上から床へ落下した。
「何やってんのよ」
ハルヒが笑いながら言うと、キョンは顔を赤らめて、
「こいつが悪いんだろ! 人前で、あんな…」
「顔を近づけただけでしょうが。まったく、心が狭いわね」
頭を押さえながら古泉が起き上がると、みくるが心配そうに、
「若様、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですけど、若様と呼ぶのはやめてくださいと言ったじゃありませんか」
「…はい」
しゅんとしたみくると、複雑な表情のキョン、それからため息を吐く古泉を見た有希はぼそりと、
「……また一騒動」
と呟いた。
その呟きはハルヒにしか聞こえず、ハルヒはその言葉を面白がってか、それをキョンたちへ伝えようとはしなかった。

それから十日ばかりが過ぎ、みくるも店に慣れはじめているのだが、それと共に古泉には気になることがひとつあった。
みくるが来て以来、キョンが娘らしい格好をしているのだ。
白粉を塗り、きちんと紅をさしたキョンの姿は愛らしく、客を集めるのに一役買っていることは言うまでもない。
古泉自身、そんなキョンの姿を見られるのは嬉しいのだが、そうする理由が分からないのだ。
キョンは古泉と付き合いだしてもずっと、「女の格好は金がかかる」と主張して男の格好ばかりをしていた。
店で接客をしていてさえ、である。
それがどうして今頃になって、と首を捻ってばかりいると、
「朝比奈さん、俺が行ってきますよ」
とみくるから酒の器を受け取るキョンの姿が見えた。
「え、でも…」
「あの席でしょう? 俺の知り合いですけど、ちょっと節操がない奴等なんで、朝比奈さんを行かせるのは心配ですから」
「気を使っていただいてすみません」
「いえいえ」
と答えるキョンは笑顔だ。
なんとなく面白くないものを感じながらため息を吐いた古泉に、
「おにいさん、お酒もう1本お願い」
と客から声が掛かる。
反射的に笑顔で振り向いて、
「畏まりました」
と大仰に頷いた古泉に女性客が向ける目は秋波に似ている。
卓上に酒をおきながらそれを見ていたキョンは軽く眉を寄せた。
それは古泉が女性客に愛想を振りまくこと自体への苛立ちだけでなく、みくるが来て以来の疑問を解決出来ずにいるためもあるのだろう。
キョンが、何度か聞こうと思いつつも聞けずにいることとは、みくるが古泉をどう思っているのか、ということだった。
半分女性のキョンから見ても、みくるは可愛らしく、守らないといけないと思わせるような女性だ。
そんなみくると乳兄弟で、つまりは子供の頃から一緒にいたのだろう古泉が、みくるに憧れや思慕を抱いたことがあっても不思議ではないだろう、とキョンは思う。
古泉を疑うわけではないが、みくるがどう考えているのか読めず、キョンは困惑していたのだ。
つい考え込んでいると、
「もう舞台には立たないのかい?」
と客のひとりが声を掛けた。
キョンは憮然とした表情を作りながら、
「立つわけないでしょう」
「いやあ、いっつも楽しそうだったから、まさか引退なんてすると思わなくてなぁ。大体、前に結婚してた時は続けてただろ」
それは相手も芸人で、収入も少なかったからだよ、とは言わず、キョンは笑みを作る。
「俺ももうそこそこ歳ですから。お兄さん方はまた若い子が舞台に立つのを待ったらどうです? 蛇女とかも、そろそろ出てくる頃でしょう」
「ああ、そうだねえ。でもやっぱり、もう一度くらい見たいな」
「お断りです」
さらりと言ってキョンはその場を離れた。
調理場へ引っ込み、注文されていた焼き物を用意する。
「……人手足りねえな」
関係のないことを呟くのは、そうでないと余計なことを考えてしまいそうになるからだ。
信じられん、とキョンは小声で毒づいた。
その先は言葉にさえ出来ない。
――俺の知らない古泉を知ってるってだけで、朝比奈さんに嫉妬してるなんて。
「きゃあっ!」
店から聞こえた悲鳴に、キョンは飛び上がらんばかりに驚いた。
そのまま店へ飛び出すと、みくるがチンピラ染みた若い男に手を掴まれている所だった。
古泉が男を睨みつけ、
「やめてください。彼女が嫌がっているのが見えないんですか」
「嫌よ嫌よも好きのうちって言うだろ? 野暮だなぁあんた」
「あなたほどではありませんよ」
どうしたものか、と呟いた古泉の隣りを駆け抜けて、キョンが男の頭をお盆で叩いた。
かぁん、と軽い音が響き渡る。
「うちは色茶屋じゃない! 出てけこのスットコドッコイ!」
「な…っにしやがんだこのアマ!」
「うるせぇ。ガタガタ抜かしてっと丸裸にひん剥いて表に転がすぞ」
ぎろりと睨みつけたキョンへ助け舟を出すかのように、見世物小屋の常連だった連中が声を掛ける。
「やっちまえー!」
「手伝うぞー!」
キョンはにやりと笑うと、
「よしっ、てめぇら、やっちまえ!」
オウともゴウともつかない掛け声と共に男はキョンの言った通りにされたのだった。
「ありがとうございます」
みくるがキョンにそうお礼を言うと、キョンは笑って、
「いや、俺は大したこともしてませんから」
「それでも、キョンさんのおかげですから」
そう微笑むみくるにキョンが相好を崩すと、古泉が言った。
「しかし、もうやめてくださいね。あんなことは」
「あんなことってのは何だよ」
キョンが古泉を睨みながら言うと、古泉は珍しく苦い表情を浮かべていた。
「女性に乱暴を働くような男にいきなり殴りかかるようなことです。今回はこれで良かったものの、もしあの男があなたに危害をくわえていたらどうなっていたと思います」
「あんな奴くらい簡単に伸してやるさ」
「出来るとも限らないでしょう。とにかく、余り心配を掛けないでください。僕は心臓が止まるかと思いました」
キョンは不機嫌に顔を歪め、
「お前、妬いてんのか?」
「心配しているんです」
「でも、妬いてるだろ」
「ええ、妬いてますよ。それが何か?」
「――っ」
キョンは勢いよく古泉に背を向けると、
「お前なんか知るか!」
「えっ?」
「出てく」
「えぇっ!? ちょ、ちょっと、なんでそうなるんですか!」
「うるさい!」
怒鳴りながらキョンは階段を駆け上がった。
そこには有希が一人で寝ていたのだが、キョンが部屋に入ってくると起き上がり、
「お母さん…?」
「有希、悪いが起きててくれ。荷物まとめて出てくから」
「…落ち着いて」
「無理だ」
「………」
困った、というように沈黙した有希は布団から起き出すと、ぎゅ、と柱にしがみついた。
「…有希?」
「……私はここにいる。出ていかない」
キョンはぽかんとした顔で有希を見たが、
「…そんなに古泉が気に入ってんのか?」
「それもある」
でも、と有希は言う。
「それ以上に、お父さんと一緒にいる、お母さんが、好き」
「……俺は、」
とキョンは息を吐く。
「古泉といる時の俺なんて、好きじゃない。……馬鹿みたいに嫉妬して、考えすぎて、苦しくて、自分が嫌で堪らなくなる」
「そんなお母さんも、私は好き。無理してないお母さんだから」
「無理?」
小さく頷いて、有希は言った。
「二人だけの時は、お母さん、忙しくて大変そうだった。私の面倒を看てから、小屋へ行って、帰ってきて私の面倒を看る、その繰り返しばかりで……。でも、今はお父さんもいてくれるから、お母さんの好きに出来る時間も増えたし、私も…お母さんの迷惑になってないか、心配しなくて、済む」
「迷惑じゃないかって、思ってたのか…?」
「…ひとりでいると、考えてしまう。今は、平気。だから、お母さん、ちゃんと、お父さんと話し合って。今のお母さんは冷静じゃない。落ち着いたら、分かりあえるはず」
「………分かった」
キョンが観念したように呟いたすぐ後、二階へと上がってくる足音が聞こえた。

その少し前、店の方では古泉が呆然としていた。
「わ、若様…」
思わずみくるがそう声を掛けると、古泉の目からぼろっと涙がこぼれた。
「わっ!?」
「……嫌われて、しまいました…」
二階への階段を見上げてそう呟く古泉に、みくるは、
「なにか、誤解されたんだと思うんです。だから、若…古泉さんも早く上がって、お話して来てください」
「…あんなにもはっきりと拒絶されたのに、ですか?」
「それも何か行き違いがあってのことだと思うんです」
「そう…でしょうか……」
声さえ涙に震える古泉の背へ、女性客のひとりが触れた。
「お兄さん、あたしが慰めてあげようか…?」
艶を帯びた声と視線に対して、古泉は、
「触らないでいただけますか」
酷く冷たい声音で言い、ただでさえ重苦しく沈黙していた場が沈みこんだ。
しかしそれさえ意に介さず、古泉はみくるに言った。
「本当に、話し合えば大丈夫だと思いますか?」
「ええ、多分、大丈夫ですよ。ワ…古泉さんに疚しいところがないのでしたら」
「疚しいところ……」
「…あるんですか?」
「あると言えばありますが…」
「何やったんです! キョンさんみたいないい人に」
怒ったように言ったみくるに古泉は苦笑し、
「彼にというより、あなたにですね」
「え? あたしにですか?」
「……あなたに、嫉妬していたもので」
「…あぁ」
みくるは小さく微笑んだ。
「それでだったんですね。なんとなく、分かっちゃいました」
「何がです?」
「キョンさんがあんなに怒ったり、古泉さんが理由を分かっていないのがどうしてなのか」
「教えてください」
「だめです」
楽しげにふふっと笑ってみくるは言う。
「でも、保証してあげます。それをちゃんと説明したら、キョンさんは分かってくれますよ」
さ、とみくるは古泉の背中を押す。
「早く行ってください。お店はあたしが頑張りますから」
「……おねがいします」
古泉はそれでもまだ躊躇っているのか、涙に濡れた顔を袂で拭うと、ゆっくりと階段を上っていった。
襖を開ける前に、落ち着くためにと深呼吸をしようとしたところで、中から襖を開けられ、古泉は息が止まる思いがした。
中から開けたのは有希で、キョンはぺたりと座りこんでいた。
有希は古泉へ、
「…頑張って……」
と声を掛けると階下へ向かってしまい、古泉は怖々と室内に足を踏み入れた。
灯を灯さない室内は暗く、その表情までははっきりと見えない。
それが今はかえって都合がいいと、古泉はいくらかほっとしながら、キョンと向き合うように座った。
「あの……どうして、あんなに怒ったんですか」
かなりの間を置いて、古泉が問うと、キョンは信じられんとでも言いたげに目を見開いた。
そうして憎々しげな目で古泉を見ると、
「そんなことも分からないのか!?」
「分かりませんね。どうして、僕が朝比奈さんに妬いたら、あなたが怒るんです? 逆ならともかく」
「え」
呟いて絶句したキョンを、今度は古泉が驚いたように見た。
「まさか、逆だと思ってたんですか?」
「だ、だって、お前、朝比奈さんがきてからずっと機嫌がいいし、それに朝比奈さんもお前を追ってこんな所に来るくらい、お前のことが好きなんじゃ…」
「彼女が僕に恋愛感情を抱くなんてことはありえませんよ。何しろ、彼女にとって僕はあくまでも弟のようなもので、かつ、仕えるべき相手であって、恋愛対象にはこの世でもっともなり得ない存在なんですから」
「そうなのか?」
「難でしたら、後で聞いてみたらどうです? おそらく、笑って答えてくれますよ。僕なんて好みじゃないとね」
「そうか…」
「それから、彼女が来てから機嫌がよかったというのは多分、あなたが毎日そんな姿をしてくれるからですよ。男の格好のあなたも、女性の格好のあなたも、僕はどちらも好きですけれど、見ていて華やかな女性の格好の方が、見ていて嬉しいものですから」
「…そうだったか?」
「気付いてなかったんですか?」
「いや、しばらく女の格好をしてるとは思ってたが……朝比奈さんが来てからだったか?」
「間違いなくそうだと断言出来ますよ。理由は分かりませんけどね」
それにしても、と古泉は苦笑した。
「あなたが朝比奈さんに嫉妬していたなんて、意外でしたね」
「なんで意外なんだよ」
「朝比奈さんに優しくしていたでしょう? だから僕はあなたが男性として、彼女を好きになったんじゃないかと考えて、気が気じゃなかったんですよ?」
「朝比奈さんは意地悪をしてやりたくなるような人じゃないだろ。どちらかと言うと、お前が朝比奈さんの側にいたり、女の客に愛想よくしてると、お前にイライラした」
「おやおや。それでは僕は接客しない方がいいんでしょうかね」
「そうは言ってないだろ。その…」
とキョンは恥ずかしがるように目を逸らしながら、
「お前は力も強くないし、腕っ節が強いわけでもないけど、それでも、こんな店やってて、男手があるってのは頼もしいんだ」
「本当ですか?」
「疑うのかよ」
「いえ、さっきお役に立てなかったものですから」
「あれは、手伝ってくれる奴等がいたし、それに、朝比奈さんをあんな目に遭わされて黙ってられなかったんだよ。本当ならお前みたいに穏やかに対処して追い出してやった方がよかったってことは、分かってる」
「……ねえ、本当にそれは恋愛感情じゃないんですか?」
「え?」
「朝比奈さんへのそれですよ」
「――違うな」
とキョンは苦笑した。
「朝比奈さんの可愛らしい感じとか、お淑やかさは、俺じゃどうやったって真似もできないから憧れるけど、これは恋愛感情なんかじゃない。それに俺は、お前に初めて会った時から、お前のことばかり考えてるよ。もう何ヶ月も経つってのにな」
そう嫣然と微笑んだキョンを、古泉が抱き竦めた。
「古泉?」
「…いい加減、名前で呼んでくださってもいいんじゃありませんか?」
「…なんか、恥ずかしいんだよ。お前のことはずっと古泉って呼んでたから、呼び方を変えると別の奴を呼んでるみたいで」
「困りましたね」
「……でも、お前は名前で呼んで欲しいんだよな」
「出来れば、そうですね。でも、無理強いはしませんよ。あなたは華奢な見た目以上に強くて、頑固な人ですから」
そう微笑んだ古泉の顔を、キョンは至近距離で見つめた。
躊躇うように何度か口を開いては閉じていたが、きゅっと目を閉じると、
「一樹」
と小さな声で呼んだ。
古泉は自分の口元を押さえて言う。
「どうしたらいいんでしょうか。今…、物凄く、嬉しいです」
「そんなにか?」
「ええ。あなたが僕を名前で呼んでくれたというそれだけのことで天にも昇る心地ですよ」
「…天に昇られたら困るな」
困ったように照れたように笑いながら、キョンは古泉の背へ腕を回し、抱きしめた。
「お前がいなくなったら、俺はもちろん嫌だし、困る。有希も、出て行くって言った俺に抗議して柱にしがみつくくらい、お前のことが気に入ってるのに」
「僕の方こそ、あなたに出て行くと言われてどれだけ絶望したと思っているんです? 人前で涙を流すなんて、生まれて初めてですよ」
「泣いたのか?」
「お恥ずかしながら」
苦笑した古泉を、キョンは更に強く抱きしめながら、
「すまん。もう、冗談でも出て行くなんて言わない。お前の側にいるから」
「僕も、愛想を尽かされないよう、頑張りますから、……一緒にいてくださいね」
「約束する」
どちらからともなく唇が重なり、暗い中、ふたつの影がひとつになって床へ倒れこんだ。
「だ、めだって……店も、閉めてないのに…」
心なしか艶を帯びた声で訴えるキョンへ答える古泉の息はどこか荒く、
「店なら、朝比奈さんがなんとかしてくれますよ。有希さんも、出て行ったのは気を利かせてくれたということなのでしょうし」
「んな…まだ、四つの子供に、あっ…、気を、遣わせて…っどう、するんだよ…!」
「あなたももう我慢なんて出来ないでしょう?」
「…誰の…ふぅ…っせい、だと、思ってんだ!」
「僕のせいでない方がおかしいでしょうね。だから、責任を取りますよ」
「…っんの助平野郎」
もはや抵抗や苦情ではなく、誘い文句にしか思えないような言葉がキョンの口から漏れ、古泉が思わず笑みを浮かべた時、すっと襖が開き、みくるが姿を見せた。
「あの、そろそろ店仕舞いを――」
三者三様にそれぞれ硬直してしまったところへ、とことこと階段を上がって来た有希が、
「……少し目を離したらこうなった。…ごめんなさい」
と言って襖を閉めた。
それから少しして、ふたりが階段を下りていく足音が聞こえてくる。
片方は淡々と、もう片方はよろけるように。
どちらがどちらのものかは言うまでもない。
「えぇと……」
と古泉は困惑した笑みでキョンに尋ねた。
「どうします? せっかく気を遣っていただいたので、続きをしましょうか」

数秒後、平手打ちにしたような大きな音が店にまで響き渡った。