憂き世忘れ 3



キョンが指定された料理屋に行き、名前を告げると、その店で一番いい部屋なのだろう、上等な部屋に通された。
階段を上り、往来を見下ろす部屋の襖を開き、
「お呼びとのことで参りまし…」
と頭を下げようとして、キョンは動きを止めた。
そこにいたのが古泉だったからだ。
「…古泉?」
「お呼び立てしてすみませんでした」
と古泉は小さく微笑んだ。
キョンはもごもごと何か答えながら、勧められるまま席についた。
「何て言うか……落ち着かないな。こういう店は」
「そうですね…」
と古泉は苦笑する。
「下賤だからだって笑ってもいいんだぞ、古泉」
「そんなこと思いませんよ。僕も、こういう堅苦しさは好きではありませんから」
「でもお前の住む世界はこうなんだろ」
古泉に酌をするのではなく、逆にされながら、キョンは言った。
「金持ちなんだろうなとは思ってたけど、本当はどうなんだ? お前」
「財など大したことはありませんよ。ただ、格式ばって喧しいだけで」
その言葉に、家への嫌悪感が滲んでいた。
「本当は、あの後すぐにお礼に行きたかったのですが、外出さえ禁じられてしまいまして、それが解けたのもつい昨日のことなんです」
「外出禁止とはまた大変だな」
「ええ。…父は頭が硬いものですから」
「ふぅん…」
ところでお前、とキョンは古泉と目を合わせないようにしながら言った。
「……見たのか?」
何を、とは言わない。
言いたくないからだ。
けれど古泉にはちゃんと通じたらしい。
「…見ました」
「……そっか」
困ったように笑って、キョンは言った。
「見損なっただろ」
「どうしてです?」
「恥ずかしげもなくあんなことしてるんだ。軽蔑くらい慣れてる。だから、隠さずに言ってくれ。誤魔化される方が嫌だ」
「…僕は……」
古泉はキョンを直視できないかのように視線をさ迷わせながら答えた。
「…あなたが、綺麗だと思いました…」
「……綺麗?」
思いがけない答えに、キョンは目を見開いた。
しかしすぐにその表情が曇った。
「…嘘つけ」
「嘘なんかじゃありません」
「そんなこと思うわけない。俺の、こんな、醜い体を見て、そんな風に思う奴なんて…いるわけない…」
「じゃあ、有希さんの父親はどうだったんです?」
古泉の問いに、キョンはぎょっとしたようだった。
「失礼ながら、有希さんと涼宮さんに聞きました。あなたは有希さんの父親ではなく、母親であるということも、有希さんが小さいうちに亡くなったのが有希さんの父親、つまりあなたの夫であったことも」
「あいつら……」
思わず呻いたキョンに、古泉が更に問う。
「僕のことは、信じてもらえませんか?」
「――信じられるわけないに決まってるだろ」
苦しそうにキョンは答えた。
「あいつは俺やハルヒと同じ、見世物にされて見世物小屋のごちゃごちゃした薄汚い中で育ったんだ。こうやってお綺麗な料理屋で下にもおかないような扱いを受けるお前とは違う。だから……からかうつもりならやめてくれ」
「からかってなんて…」
「じゃあ、何か? 俺をその辺の遊び女と同じだと思ってるのか?」
「そんなことありません」
「……じゃあ、これは何だ?」
キョンが立ち上がり、続き部屋になっている隣室への襖を開いた。
そこにはいっそあからさまな意図を持って、布団が延べてある。
「それは僕がそうするように言ったのではなくて…」
「…もう、いい」
キョンは唇を卑しく歪めた。
「綺麗ごとなんかもういらない。そんなもん、いくら持ってたって食って行くことさえ出来やしないんだからな。――布団が敷いてあるなら丁度いいだろ。俺を抱けよ」
古泉が驚きに目を見開く。
「僕は、そんな…」
「分かってたんだろ。本当は、そうしたいって思ってたんだろ。いいさ、今更体なんてどうなったって変わらないんだ。好きに嬲ればいいじゃないか」
「…っそんなことはしません!」
「正直になれよ。そうしたかったんだろ」
そう意地悪く言いながら、キョンは古泉に近づき、煽るように口付けた。
「久し振りの感じだ…」
呟いて、キョンは古泉に言う。
「抱きしめないのか? 押し倒さないのか? それともお前は俺に触れもしないつもりなのか?」
「……僕は、あなたにそんなことをしてもらいたくて呼んだんじゃありません」
古泉の声は硬い。
それでもどこかに余裕をなくした焦りのようなものが滲んで聞こえ、キョンは嫣然と微笑んだ。
「じゃあなんだよ。――ああ、やっぱり俺が醜いから触れたくもないのか?」
「違います!」
驚き慌てたように否定する古泉の肩に、キョンの手がゆるりと触れる。
目の高さが合ったところで、古泉が言った。
「あなたに会って、お礼を言いたかったんです」
「…嘘だろ」
古泉は困惑しながら、
「どうしたら、信じていただけるんでしょうか」
「どうやったって信じられない。そんな奴が今時いるもんか」
「困りましたね…」
そう苦笑して黙り込んだ古泉はじっとキョンを見つめているだけだ。
その視線に耐えかねたかのようにキョンは手を離し、ため息を吐いた。
「本当に…お前も、あいつらも、一体何考えてんだ?」
「涼宮さんが何を考えているかは僕には分かりませんが、有希さんがどう考えているのかは少し分かりますよ」
「何だって?」
「有希さんは小さいのに随分しっかりされてますね。本当に四つとは思えないくらいです」
「そんなことは知ってる。有希が何考えてるか分かるってお前、なんでそんなこと言えるんだ」
「彼女と話していれば分かりますよ」
と古泉は微笑んだ。
「ある意味彼女はあなたによく似ているんでしょうね。自分のことよりもまずあなたの幸せを思っていて、自分が負担になるのが一番嫌なようですよ」
「…有希が……」
「あなたも、そうでしょう?」
「……子供が一番じゃない親がいるかよ」
「少なくとも、うちの親はそうですね」
古泉の発言にキョンはぎょっとしたように古泉を見た。
その表情はいつもの笑みである。
「なんだ、冗談…」
「うちの両親は不仲でした」
笑って誤魔化そうとしたキョンを遮り、古泉は表情ひとつ変えもしないで言う。
「間に僕という子供が生まれたのが不思議なくらい、仲が悪い人たちでした。滅多に会ってもくれない母は僕を憎むように見ていましたし、母よりもずっと顔を合わせない父は僕をただの飾りにしか思っていません。母が亡くなって何年も経つ今も、父の態度は変わりません。あるいは、悪化し続けているのでしょうね。後添えを迎え、その人に息子が出来ましたから。そう――僕は、邪魔でしかないのです。だからこうして家を抜け出してきても、咎めるのは乳兄弟として一緒に育った姉代わりの人、ひとりだけで、後は僕がどうしたって気にしない。家の名前さえ汚さないのなら、僕がどこでのたれ死んでも構わないんですよ。だから僕は、あなたたち親子が羨ましくて堪らないんです」
「……なんで俺にそんなことを聞かせるんだ?」
「…あなたが隠そうとしていたことを知ってしまったから、というのもありますが、僕はそれ以上に、」
と古泉は楽しげに笑い、
「あなたに、僕のことを知ってもらいたいと思っているんです」
キョンの顔が奇妙に歪む。
泣き出したいのか、それとも笑いたいのか、それさえ分からないというように。
あるいは怒りたかったのかもしれない。
表情を隠すように俯いて、キョンは言った。
「お前、ずるいな。そんなこと言われたら俺が突き放せないって分かってて言ってんだろ」
「おや、ばれてしまいましたか」
「ばればれだ。……なのに、なんでこんなに簡単につられるんだろうな、俺は」
苦笑にも似た表情を浮かべて、キョンは少し腰を浮かせると、古泉を抱きしめた。
優しく、その腕の中に抱え込むように。
「そういうところも、あいつにそっくりだよ、お前は」
「そうなんですか?」
「ひとりで無理して抱え込んで、そのくせ、甘え方が下手くそで、本当にだめにならないと頼ってもくれない奴だった。本当にだめになってからじゃ、遅いのにな…」
キョンの目に涙が浮かぶ。
それは亡夫を思いだしてのものなのだろうが、酷く艶かしく見える。
「僕は…あなたを悲しませないようにします。いえ、少し違いますね…。……あなたを今のように悲しませない、と言うべきでしょうか」
「…どういう意味だ」
「何かあったらちゃんとあなたに相談しますし、その結果あなたを困らせたり悩ませたり…時には悲しませたりするかも知れません。でも、あなたに秘密を作ってあなたを苦しめたりすることはしません」
「……まるで、熱烈な愛の告白だな」
「よかった。ちゃんとそう聞こえましたか」
そう微笑む古泉をキョンは驚きを隠しもせずに見つめた。
「からかってるんだろ?」
「違います。本気であなたが好きなんです。本当は…あなたを探していたのも、ここにお呼びしたのも、お礼をしたいと言う純粋な目的だけじゃなくて、……僕とお付き合いしていただきたかったんです」
「お付き合いって……」
身分もないような芸人、それも自分の体を見世物にしているような者に使う言葉じゃないだろ、と笑いながら、キョンは言った。
「それ、どういう意味なんだ? 友人としてか? それとも……囲い者か何かとしてか?」
意地の悪い物言いにも、古泉は怯まず、真剣な眼差しを向けて言った。
「率直に言わないと、あなたは逃げてしまいそうですね。――僕は、あなたの夫になりたいんです。それを前提に、お付き合い願いたいんです」
キョンは呆れたように笑い、
「お前、馬鹿だろ。俺みたいな、見世物にされるような、こんな普通じゃない奴に、しかも子供もいるようなのに、そんな…」
でも、とキョンは古泉の頬を手で挟んだ。
「そういう馬鹿は、好きだ」
唇が重なって、離れる。
古泉はキョンを抱きしめながら言った。
「嬉しいですが、いくらかよろしくないこともお伝えしておいた方がいいですよね」
「なんだ?」
「多分、もうお気づきでしょうが、僕は士分の者です。しかしおそらく、近いうちに廃嫡になります。そうしたらきっと屋敷も追い出されて、僕はただの浪人になりますが、何しろ生活能力がないものですから、あなたにご迷惑をお掛けすることになるかもしれません。――そんな僕でもいいですか?」
「…ほんと、馬鹿だな。それとも狡猾なのか?」
くすくすと笑いながらキョンは言った。
「よろしくないこととか言うから、俺は一瞬、お前の家に嫁げって言われるのかと思ったぞ。その方が俺には嫌だ」
「ふふ、それでは、勘当される方が丁度いいのかもしれませんね」
「ああ。お前くらい、俺が食わせてやるよ」
キョンはそう言いながら口付けて、そのまま古泉を押し倒した。

すぐ戻ると言いながら、キョンが見世物小屋に戻ったのは結局翌朝になってからのことだった。
古泉を伴って帰ってきたキョンにハルヒはニヤニヤと笑いながら、
「ゆっくり出来てよかったわね?」
と言い、長門は静かに、
「お帰りなさい…」
と言っただけだった。
「ぅぐ…ただいま……」
後ろめたい気持ちがあるのだろうキョンに、ハルヒは今度こそ楽しげに笑い、
「で、キョン、見世物は辞めるんでしょ。あたしとしては今月一杯やってもらいたいところだけど、流石にそんなことは言えないし、まあ、構わないわ」
「へっ?」
「何? あたしのことを、夫が出来ても見世物として働かせるほど鬼だと思ってたわけ?」
「いや、そうじゃなくて、……なんで辞めるって話になるんだ?」
「はぁあ!? あんた何考えてんのよ、このアホ!! どこの世界に嫁さんの裸さらして平気な男がいるって言うの!? 古泉くんのことも考えてやりなさいよ!」
大声で怒鳴るハルヒに思わず耳を押さえながら、キョンは反論する。
「食ってくためには稼がなきゃならんだろうが」
「それにしたって他にいくらでもあるでしょが! 古泉くん、何とか言わないとこいつその通り実行しちゃうわよ!?」
「僕も説得は試みたんですが……」
と古泉は苦笑を見せた。
「聞き入れていただけなくて」
「お前が無収入になるんだから仕方ないだろ。それで俺まで辞めたら飢え死にだろうが。これより割のいい仕事なんかそうそうないだろうし」
「とまあ、こんな感じでして」
助けを求める古泉に答えたのは有希だった。
「お父さんが仕事を見つければ、お母さんが見世物を辞めても問題ない」
いきなりお父さん呼ばわりなのか!? と突っ込むキョンを無視して、古泉は頷いた。
「そうですね。上手くいくかは分かりませんが、それくらいはしてみるべきでしょう」
「じゃあ、」
とキョンは憮然としながら言った。
「とりあえず今月以内だ。今月以内に生計を立てられるような仕事を見つけて来い。今月だめだったら来月。俺はハルヒに義理もあるから、月の途中で興行を放り出すわけにはいかん」
「あたしは別にいいって言ったでしょ」
憮然としてハルヒが言ってもキョンは受け付けない。
「うるさい。こんな仕事だが、それでも一応自分で選んでやってきたんだ。筋は通す」
「この頑固者! 古泉くんも何か言ってやりなさいよ!」
そう言われた古泉は少し考え、
「分かりました。出来るだけ早く、ちゃんと仕事を見つけてみせます」
と笑顔で答え、ハルヒを脱力させた。
その日の夜のことである。
キョンが新しく借りていた部屋に泊まることになった古泉が寝場所を整えていると、有希が近づいてきた。
有希はキョンを気にするように見ていたが、キョンが夕食の支度に集中しているのを確認すると、古泉の耳に口を寄せ、小さな声で言った。
「お父さんは、私のこと、信じる…?」
「当たり前じゃありませんか」
古泉は有希を気遣ってか小声で返した。
「有希さんの助けがあったからこそ、僕はこうして彼を得られたのですし」
「じゃあ、私の言う通りにして」
と有希は何度か瞬きをして、口を開いた。
「この先のお寺で、富をしている」
「富? ……ああ、富くじですね」
「そう。明日、正午に買いに行って」
「分かりました。でも、富くじに頼るのはどうかと思うんですが…」
「大丈夫。…信じて」
「……分かりました」
古泉が笑顔で請け負うと、有希はほっとしたようだった。

数日後、ばたばたと走ってきたのは古泉だった。
「お邪魔します!」
と言うなり戸を開け、飛び込んでくる。
「ああ、よく来た…な?」
とキョンが声を掛けようとした時にはもう中にいた。
「どうしたんだ、そんなに慌てて…」
それも珍しく真顔で、と言うキョンを他所に、古泉は部屋の隅でお手玉を広げていた有希に詰め寄った。
「有希さん、どういうことなんですか」
「…何が」
有希は表情を動かしもせずに問い返す。
「富くじのことです」
古泉の言葉を、キョンが聞き咎める。
「富くじだと? お前、何やってんだよ。あんな高いもん買ったって、外れてだめになるのが目に見えてるだろ」
「ええ、僕だってそう思いますし、そう思ってましたよ。でも、当たったんです!」
ほらっ、と古泉が取り出したのは、小判を束ねたいわゆる切り餅で、それもひとつではなかった。
唖然として言葉もないキョンに背を向け、古泉は有希に問い直す。
「あの日僕はあなたの言う通りにしました。その結果がこれです。どういうことですか。まさか偶然だなんて誤魔化すつもりじゃありませんよね」
有希はしばしの沈黙の後、口を開いた。
「お母さんにも言っていない」
「どうしてです」
「……」
有希はぺたりと座りなおすと、じっとキョンを見上げた。
「有希?」
「……お母さんに、心配を掛けたくなかった」
キョンは小さく微笑んでくしゃりと有希の髪を撫でた。
「…黙っていられた方が嫌だって、いつも言ってるだろ。何を隠してたんだ?」
有希は静かに答えた。
「…私は、未来が見える。その変え方が分かる。だから、お父さんに富くじが当たるようにした」
「やっぱりそうでしたか……」
古泉が納得したようなのに対して、キョンはぽかんとした顔で有希を見ていた。
有希はそれを見て、消え入りそうな声で言った。
「…お母さん……ごめんなさい…」
その言葉にキョンははっとして、
「別に、謝らなくていい。ただ少しびっくりしただけで…」
「本当に…?」
「ああ。…ずっと隠すのも、大変だっただろ」
「…辛かった。お母さんに、言わないでいるのが」
「だから、隠し事はするなって言ってるんだ」
よしよし、と有希の頭を撫でたキョンは、古泉に目を向け、
「で、お前はそれでどうするつもりなんだ?」
「そうですね…。三百両ありますし、どうです? 小料理屋でもやりませんか?」
「俺がか!?」
「ええ、あなたの料理はとても美味しいですから」
「いや、だけど……」
戸惑うキョンに、有希が言う。
「それが最良」
「ほら、有希さんもこう言ってますし、これで僕の仕事もあなたの新しい仕事も決まりでしょう? 一件落着ですよ」
古泉はそう笑顔で言ったが、キョンはげんなりとして、
「一件落着……ねぇ? むしろ面倒が増えた気がするのは、俺だけか?」
と呟き、深くため息をついたのだった。