古泉が帰ってしまってから数日が経った。 キョンとしては元通りの親子二人だけの生活に戻っただけだと思うのに、有希はどこかつまらなさそうで、キョンは嫉妬に似たものを感じながら尋ねた。 「お前、そんなに古泉が気に入ったのか?」 「…おもしろいから」 「……面白い?」 有希はこくんと頷く。 「それに……お父さんに似てる」 「…それは俺も思うけど」 「お母さん」 「どうした?」 「何か、隠してる。どうして?」 「お前はまた急な話題転換をするな」 呆れながら笑ったキョンは、その笑みを引っ込め、 「…引っ越すことになったんだ」 「……彼には言った?」 「いや、言ってない。……ごめんな、有希。俺が…こんなだから、お前まで苦労掛けて…」 「いい」 有希は即答した。 「お母さんと一緒にいられることの方が、大事」 「……優しいな」 キョンはそうっと有希を抱きしめた。 「…引っ越すまでに彼が来ればいい」 「……そうだな。そうしたら、ちゃんと引っ越すってことも伝えよう」 けれど、半月が過ぎて、引越しの命令がハルヒから下されても、古泉は現れなかった。 「まあ、そんなもんだろうな」 荷造りをしながらキョンが言っても、有希は首を振った。 「何かあった」 「…そうだったらいいな」 「間違いない」 「有希?」 それ以上キョンが尋ねても有希は答えなかったが、その目は遠く彼方の何かを見つめているかのようだった。 多くの旗本の屋敷などが続く界隈に、古泉の名が掲げられている屋敷があった。 決して小さくはないその中で、しばらく押し問答が続けられていた。 「とにかく、僕はちょっと出かけてきます。今度はちゃんと今日中に戻ってきますから、見逃してください」 と言っているのは古泉だ。 その腕に縋るようにして、 「だ、だめですよぉ。お父上からきつく外出禁止を言い渡されてるのに…」 泣きそうになりながら引き止める少女に古泉は、 「そんなことを言って、もう一ヶ月じゃありませんか。このまんまじゃあ腐っちゃいますよ。お願いします、朝比奈さん。見逃してください」 「そ、そんなことしたら、私が叱られちゃいますぅ」 「気がついたら僕がいなかったとか、僕は鬼にさらわれていったとか適当に言えばいいじゃありませんか」 「そんなのもう使っちゃいました」 「じゃあ母上の病気平癒を祈ってお百度踏みにいったってのはどうです?」 「お母上はもう何年も前にお亡くなりじゃありませんか。そんなこと言ったら頭がおかしいと思われちゃいますぅ」 「ああじゃあもうそれでいいですよ。頭がおかしくなって表通りに飛び出してわけの分からない踊りでも踊りながら行っちゃったとでも伝えてください。さあ、とにかく離してください」 「だめですってばぁ」 「――じゃあ、僕の代わりに行って来てくれますか」 「ど、どこへですか?」 びくびくと尋ねたみくるに古泉は手紙と幾許かの包み、それから読み本などを持たせ、送り出した。 出て行く間際までみくるは、 「私がいない間にいなくならないでくださいね」 と念を押していたが、やっと出て行った。 残った古泉は、というと一応大人しくしていることにしたらしく、逃げ出そうとはしなかった。 これで大丈夫だと思っていたのかも知れない。 だから、キョンたちがいなくなっていたと聞かされた時、古泉は本気で驚いた。 「いなかったって……だって、たったの一月ですよ?」 「その、若様に聞かされていた、谷口と言う方にお聞きしたんですけど、なんでも両国の方へ行かれたとかで…詳しいことは全然分からなくて……」 「両国?」 「あの……その、キョンって方が何を生業にしているのか、若様はご存知なんですか?」 「いえ、知りませんが…」 「そうですか…」 「……何か、聞かされたんですか?」 その言葉にみくるがびくっと飛び上がった。 古泉がそれを見逃すはずがない。 「何か悪いことを聞かされたんですね」 「うぅ……そうです…。でも、だから、若様には…」 「教えてください」 「でも、その…聞かない方が…」 「教えてください」 強く、一音一音区切るように言う古泉に、みくるは泣く泣く折れたのだった。 キョンは両国の見世物小屋が並ぶ界隈を歩いていた。 その辺りは子供にとっていいとは言えない場所だ。 人さらいも多いし、何より並ぶ見世物小屋も、趣味がいいと言えないものが多い。 それでも、面倒を看てくれる人間がいない以上、有希を放っておくわけにも行かず、キョンは有希を連れてきていた。 キョンは有希の手を離さないようにぎゅっと握り締めて言った。 「もう少し近くに部屋でも借りられたらよかったのに、毎日歩かせることになってすまないな、有希」 「大丈夫」 「疲れたら言えよ。おぶってやるから」 「……うん」 それでも有希は健気に何も言わずにハルヒが両国に構えた見世物小屋までしっかり歩いた。 「よく歩いて来たわね」 どこか呆れたような調子でハルヒは言い、口上を述べる壇上に有希を抱え上げた。 「ここなら安全でしょ? あたしの膝の上から物をとってける奴なんていないんだから。たとえそれが髪の毛一本であってもね」 「それはそうかもな」 キョンは何を言っても無駄だと思ってか、かなり投槍に言ったのだが、ハルヒはそれでよかったらしい。 「でしょう。だからあんたはしっかりやるのよ! あたしが見てないと思って手え抜いたりしたら許さないんだからね!」 「へーへー」 キョンはため息を吐きながら有希に軽く手を振り、裏から見世物小屋へ入った。 そうして薄汚れた着物を普通の男物に着替える。 顔はほとんどいじらない。 準備万端整えて、舞台の袖へ向かった。 丁度その頃小屋の外では小屋に入りきらないほど押し寄せた人が溢れ返っていた。 ハルヒはほくほくしながらなおも客引きの口上を述べる。 と、そこへ、 「有希さんじゃありませんか。よかった、見つけられて」 「あんた誰?」 と言ったのは当然有希ではなく、ハルヒだ。 「古泉一樹と申します。先日は有希さんたちにお世話になりまして」 「何? あいつまた拾ってたの? 相変わらずね。もうそろそろ懲りてもいいのに」 「また拾うとは…?」 「ああ、見ての通りの稼業でしょ? それだからか、自分の子供の頃と同じように、困ってたり弱ってたりする人間を見つけると必ず拾ってくのよ、あいつは。ね、有希」 有希はこくりと頷き、 「お父さんのこと、知ってしまった…?」 と古泉に尋ねた。 古泉は一瞬躊躇したが、しかし笑顔で誤魔化しもせずに頷いた。 「…そう」 「有希さんも、ご存知だったんですね」 有希は頷き、 「……お母さんは嫌がるかも知れないけど…見ていって。多分、あなたにはその必要がある…」 「…分かりました」 ハルヒは首を傾げていたが、 「なんだかよく分からないけど、お客さんなのよね? 有希とキョンの友達なら、いい席に案内するわよ。もちろん、お代はまけないけどね」 と笑顔で言った。 薄暗い見世物小屋の舞台と客席は近い。 芝居形式なのか、色々と物が置かれたその舞台に、ひとりの少年が現れる。 キョンだ。 舞台の中央には何故か鏡台と衝立が置かれている。 「ああ、疲れた疲れた」 とまるで先程まで表で働いていたかのように言い、舞台の上が我が家であるかのように手ぬぐいを放り、懐から取り出した物を置く。 キョンは更にざくざくといささか乱暴な足取りで鏡台の前まで来ると、そこへどっかと腰を下ろし、簡単に結ってあった曲げを解いた。 客席から見えるのはキョンの背中と鏡に映った顔くらいである。 その状況で、キョンは用意されていた化粧道具を取り出し、その顔に白粉を塗り、紅をさす。 それだけで、顔立ちがどんどん変わっていくのは役者が女に化けるのと似ているかも知れない。 しかし化粧を終えたキョンは立ち上がり、衝立の向こうへ隠れる。 見えるのは足元と、頭の上の方だけだが、時々ちらりちらりと白い手足が扇情的に覗く。 そうして衝立の向こうから姿を現した時、キョンはすっかり女の姿になっていた。 「さてさて、旦那を迎えなければならないが、ちゃんと化けられているかいな」 口から漏れる声もいくらか高い。 客席へ送る視線も、色気を増している。 そうして常連の客か、はたまたサクラなのだろう声が客席から掛かる。 「俺が確かめてやろうか」 それへキョンは、 「はっ」 と高慢に笑って見せる。 「お呼びじゃないんだよ、鏡見て出直しといで」 その言葉に客席がどっと笑いに湧く。 「あぁ、でも……」 ちらりとキョンが流し目を送る。 客席へ、まんべんなく。 「そうだねぇ、確かめないと不安だね。どれ、」 とせっかく着た着物の襟を肌蹴ると、胸が露わになった。 しかしそこにふくらみはほとんどない。 「あれ、今日は調子が悪い。ちゃんと化けられていないようだよ」 芝居がかった調子で言うと、また客席から、 「大丈夫かい」 「ほらほら、旦那が帰ってきたら大事だよ」 などと煽る声がする。 「全くだね。このまんまじゃあ怖いから、下も確かめておこうかえ」 と着物の裾を割り、手を中へと押し入れる。 でも中を見せようとはしない。 「ああ、だめだねえ、今日は。困ったねえ」 と独り言のように呟くばかりだ。 しかしその手がどんどん奥へと向かうだけで、客席が興奮してくるのが分かる。 その手がピクリと止まった。 「…ん、ぁあ」 まるで嬌声のような声がキョンの口から漏れた。 客席がごくりと唾を飲む。 ところがそこでもまた肩透かしだ。 「よかった、ここは大丈夫のようだよ。ちゃあんと女だ」 満足そうに言って、着物を直そうとするのへ、 「だめだよちゃんと見せてくれよ」 「どこが大丈夫だったんだい」 と声が掛かる。 「うるっさいねぇ」 面倒そうに言って、キョンは髪を掻き揚げた。 「あたしが女じゃないって疑うのかい? そんなに言うなら見せてやろうじゃあないかえ」 そう言って舞台の上に座りこむと、大胆に着物の裾を割った。 裾から覗くのは、女のそれではなく男の一物だ。 「どこが女になったんだい」 からかう声が掛かるのへ、キョンはニヤリと笑い、 「ちゃあんと女じゃないか、ほうら、ごらん」 と脚を開いて見せた。 わっと客席が湧く。 そこには女にしかないはずのものがあった。 「これでも女じゃないって言うのかえ?」 脚を開いたままそう言うキョンへ、 「女に一物はねえだろうよ」 と声が掛けられる。 しかしキョンは怯みもせず、 「何言ってんだい。男なんて穴さえありゃあいい生き物だろうに」 その言葉にまた客席が湧き、キョンがすっと脚を閉じると共に幕が下ろされた。 「あー…疲れた」 楽屋に戻るなりそう言ったキョンに有希が駆け寄る。 「お母さん、お疲れ様」 「ん、ありがとう、有希」 と微笑んだキョンに、ハルヒが言う。 「あんた、悪いけど今日そこの料理屋まで行ってきてくれる?」 「料理屋だと?」 怪訝そうにキョンはハルヒを見た。 「接待なら俺はしないって言ってるだろ。大体、ここんところの興行だけで千両は稼げるって言ってたのに、まだ欲が出るのか、お前は」 「人を守銭奴みたいに言わないでよ。あたしだって、断れるなら断ってるわ。あたしとあんたの関係は興行主と芸人だけど、一応昔っからの仲間でもあるんだもん。あんたの意思くらいある程度通してあげるわよ」 「ある程度ね…」 胡散臭いと言わんばかりに呟いたキョンに、ハルヒは眉を寄せ、 「とにかく、行ってお酌してくるだけでもいいし、相手をぶん殴ってきてもいいから行ってきなさい!」 「有希は?」 「あたしが看とくわよ」 「…お前が?」 「何か文句あるの?」 「大アリだ。お前に子供の面倒なんか看られるもんか」 「子供じゃなくて有希だから大丈夫よ」 「なんだそりゃ…」 ふう、とため息をついたキョンの手を、有希が引っ張る。 「お母さん」 「何だ?」 「行ってきて」 「……有希?」 「私は大丈夫だから」 「……分かったよ」 有希に言われたら仕方ない、とキョンは天井を見上げながら呟き、 「でも、出来るだけ早く帰ってくるからな」 「……分かった」 キョンは諦めたように身支度を整える。 と言ってもやる気は全くもって見られず、化粧も落とし、着物も男物の質素な物に改めてしまった。 「じゃあ、すぐ戻るからな」 宣言して出て行くキョンに有希は無表情で、ハルヒは笑顔で手を振り、 「……ゆっくりでいいのに」 「そうよね」 と二人顔を見合わせた。 |