その日は朝から酷い雨が降っていた。 大粒の雨はかさでもなければ身を貫くようで、道を歩く者はほとんどなく、いても急ぎ足に駆け行くのが常だった。 彼もまたそんなもののひとりであったらしい。 何を入れているのか、小汚い服装に似合わず、大事そうに懐を抱え、蓑も笠も吹き飛んでしまいそうなほど早足で走っていく。 ところがその足が突然止まった。 少年の口から漏れるのは小さな舌打ち。 「なんだってこんなところで行き倒れてやがるんだ」 その足元に倒れているのは、少年よりいくらか年嵩に見える青年で、妙に身なりがよかった。 少年はその青年のみなりやなんかをしばらく見ていたが、 「仕方ない」 と嘆息すると自分の懐を確かめた後、青年の側にかがみこんだ。 「おい、大丈夫か? 生きてるなら助けてやらんこともないが、死んでるんだったら遠慮なく懐の物くらいもらうぞ」 「う……」 返事のつもりだろうか、唇が震え、呻くような声が漏れた。 「動けないのか?」 返事はない。 やれやれ、と肩を竦めた少年は、 「ちょっと待ってろよ」 と青年を飛び越え、その向こうの汚い長屋へと駆け込んだ。 そこの戸のひとつを開けると、 「おい谷口、手を貸せ。……風邪ひくぅ? これくらいで風邪を引いちまうようならこんなところでのさばっちゃいないだろ」 「うるせぇよキョン。お前も人に頼むんならそれなりの態度ってもんがあるだろ」 「お前には無駄だ」 そう吐き捨てるように言って、キョンと呼ばれた少年は谷口と言うらしい青年と共に青年を助け起こしに行った。 「どうせ拾うなら可愛い女の子にしろよな」 と文句を言う谷口にキョンが、 「可愛い女の子なら間に合ってる」 と言い切ってやりながら。 そうして二人がかりで青年を運び込んだ先は、谷口の家の隣り、キョンの家だった。 天気の悪さと時間の関係ですっかり薄暗くなっている家の中に明かりは灯っていなかったが、人がいないわけではないらしい。 こほこほと小さな咳の音が聞こえた。 「有希、薬もらってきたぞ」 キョンが笑顔で言うと、敷かれた布団の中から小さな女の子が赤くなった顔を出した。 「ごめんなさい…お母さん……」 キョンは笑みを崩さず、 「気にするなって。それより、ちょっと拾っちまったからお母さんはなしな」 「…分かった」 こくりと頷いた有希に、懐から取り出した薬の包みを取り出して渡すと、キョンは意識の戻らない青年を見た。 谷口は彼をびしょぬれのまま土間に放り出して行ったらしい。 「ぼろ切れも手ぬぐいもあんまりないんだがな…」 とりあえず濡れた物脱がして上に上げるか、とキョンはため息をついた。 青年が目を覚ましたのは結局翌日、昼も近くなってからのことだった。 「ここは…?」 天井を見上げてそう呟いた青年に、有希は警戒するような目を向け、土間でお粥を炊いていたキョンは顔を上げて笑った。 「やっと起きたのか?」 「ええと……あなたは…?」 「キョンって呼ばれてる。変な名前だと思うだろうがまあ気にしないでそう呼べ。お前、長屋の入り口のところで倒れてただろ。邪魔だから俺が拾ってきたんだが、まずかったか?」 「いえ…助かりました……」 そう言って体を起こした青年は自分が裸なのに気付き、ぎょっとしたようだった。 キョンは笑って、 「びしょぬれだったから脱がせたぞ。着替えはそこにおいてあるから勝手に着ろ。お前が持ってたものも一緒だ」 「何から何まですみません…」 もそもそと着替える青年にキョンは続ける。 「お前の服はさっき洗ったところだから、乾くまで少しかかると思う。急ぎの用がないんだったら乾くまでここにいてもいいぞ」 「ご親切にありがとうございます」 苦笑しながら青年は言い、着物を整えて正座した。 「古泉一樹といいます。危ないところを助けていただき、ありがとうございます」 「改まって言わなくったってかまわねえのに」 言いながらキョンは鍋を火から下ろし、小さな器にお粥を注ぎながら古泉に言った。 「お前も食べるか? 白粥でよければだが」 「いただきます」 「口にあわないかも知れないぞ」 そう意地悪く言ったのは古泉の身なりや持ち物がよかったからだろう。 着替えを終えても悠長にして荷物を検めないせいもあったかもしれない。 キョンは古泉に器と箸を渡すと、小さな器にさじを添え、有希の所へ持っていった。 「有希、食べれるよな」 「……」 有希は黙ったまま首を振った。 「……有希」 キョンの声が怒ったように響く。 「ほら、口開けろ。あーん」 渋々口を開けた有希の口に、キョンがさじでお粥を放り込む。 仲のいい二人に、古泉が目を細めると、いきなり振り返ったキョンに見咎められた。 「何がおかしいんだ?」 「おかしいのではなくて、微笑ましいと思いまして」 「ふぅん……別に、普通だと思うけどな」 「そうかもしれませんね」 そう笑った古泉は、 「妹さんですか?」 とキョンに尋ねた。 キョンは首を振り、 「俺の娘」 「……え?」 笑顔のまま固まった古泉にキョンは笑い、 「そんなにおかしかったか?」 「え、だってあなた…僕より若いんじゃあ…」 「……お前いくつだよ」 「二十になりますが…」 「俺と同じじゃないか」 「……本当ですか? 随分若く見えますけど…」 「童顔だって言いたいんなら自覚はしてるから言うなよ」 「そうじゃなくて……で、娘さんはおいくつなんですか?」 「もう四つだよな、有希」 有希はこくりと頷いた。 古泉はしばらく考え込んだ後、 「年齢を聞かされるとそう不思議でもありませんけど……見た目だけだと不思議な感じですね」 「童顔で悪かったな」 「そういうつもりではなかったんですが…」 「お前は?」 意地悪くニヤリと笑ってキョンが尋ねた。 「はい?」 「妻子や妾のひとりやふたりいるんじゃねえの?」 「残念ながら良縁に恵まれないままでして」 「へぇ、もてそうなのにな」 「女性にもてるのと結婚相手が見つかるのは別でしょう」 「うっわ、嫌味な発言」 からかうように笑ったキョンに古泉は苦笑して、 「違いますよ」 「分かってる。ほら、お前もとっとと食えよ」 そう言いながらキョンは有希にお粥を食べさせる作業を再開し、古泉もまた楽しげにそれを見ながらお粥を食べきることにしたようだった。 その日の天気もとてもいいとは言えない曇り空で、古泉の服が乾いた時にはもうほとんど日が暮れかかっていた。 夜、江戸の街を歩くことは出来ない。 それでも申し訳無さそうに出ていこうとした古泉にキョンは軽く、 「泊まってけ」 と言い、 「大体お前、動けるのか?」 と痛いところを突いた。 そもそも古泉が雨の中倒れていた理由は追剥にあって殴り倒されたためであったらしい。 腹や背中に大きくあざが残り、見ていられないほどだ。 そのせいで古泉はほとんど無一文状態。 起き上がってすぐに所持品を検めなかったのも納得と言えば納得だろう。 「お前の家、遠いのか? そんなに遠くないなら一っ走り行って、居場所くらい知らせるぞ」 そう言ったキョンに古泉は苦笑して、 「そこまでお手間をお掛けするわけには参りませんから」 と言ったが、それはどこか誤魔化しのようでもあった。 「なんなんだろうな、あいつ」 古泉が厠へ行っている間にキョンが呟くと、有希がキョンをじっと見上げ、小さな声で言った。 「お母さんの好み……」 「っ」 キョンは顔を赤くして有希に抗議しようとしたが、 「あれ、どうかしましたか」 その寸前に、古泉が戻って来た。 「いや、何でもない」 とキョンはそそくさと立ち上がり、 「ああ、そうだ。古泉、俺、ちょっと出かけなきゃならないんだ。悪いが、有希を見ててくれるか? 手間は掛けないと思うんだが…」 「僕は構いませんが…こんな時間にどちらへ? 今から出て、今日中に戻ってこられるんですか?」 「あー……いや、多分無理だな。明日の朝になると思う」 「……分かりました。有希さん、よろしくお願いしますね」 有希はこくんと頷き、 「おか…お父さん、いってらっしゃい」 「おか? おかってなんですか?」 と首を傾げる古泉にキョンは慌てて、 「じゃあ、頼んだぞ!」 と飛び出して行ってしまった。 「いってらっしゃい」 ひらひらと手を振って送り出しながら、古泉は楽しげに微笑んだ。 そうして戸が閉まってしまうと、古泉は有希に尋ねる。 「さて、どうしましょうか」 「……話したい」 「風邪を引いているんでしょう? 喉が痛みませんか?」 「大丈夫」 その言葉通り、有希の声は掠れても嗄れてもいなかった。 古泉は少し考え込んでいたが、有希の意思を尊重することにしたらしい。 「では、僕が何か話でもしましょう。でたらめな話になるかも知れませんけれど、構いませんでしょうか」 こくりと有希が頷いたのを確認して、古泉は小さな声で語り始めたのだった。 「はああ!? 両国で興行!?」 キョンがそう叫ぶとその前でふんぞり返る派手な美女が満足げに言い切った。 「そうよ!あんたも喜びなさい。とうとう見世物の本場に乗り込めるんだからね!」 「ちょっと待てよハルヒ!」 「ハルヒじゃない! 座長と呼びなさいって言ってるでしょ!?」 「座長でもなんでもいい。俺は嫌だぞ。なんでわざわざここを離れなきゃならないんだ」 「両国の方が儲かるからに決まってんでしょうが。なんでそんなことまでわざわざ説明させんのよ」 「ここでだって十分儲かってるだろうが」 「……あんたねぇ…」 呆れきった調子でハルヒは言った。 「やっぱり、あんたに家を持つことを許すべきじゃなかったわね」 「なんだと?」 「家があるから離れたくないんでしょうが。違うの? しかも昨日も娘が体調崩したって言って出て来なかったし。売れてるからってあたしをなめるんじゃないわよ」 ハルヒの目が剣呑に光る。 しかしキョンは怯まない。 「今日はちゃんと来ただろ。それにそもそも昨日は雨で、どうせ興行は中止だっただろうが」 「うるっさいわね。昨日は話し合いをするから集まれって言ってたじゃないの。その時に両国行きをみんなで決めたの。だからもうあんたに拒否権なんてないわ。あたしの命令に背いたら死刑なんだからね!」 「ああ、もう分かったよ、仕方ない」 諦めたようにキョンが折れた。 「何があっても有希は連れてくからな」 「置いてけって言うほどあたしは鬼じゃないわよ。小屋にだってまだ余裕はあるんだし」 しかしキョンは首を振り、 「連れてくけど、ここには置かない」 「じゃああんたはどうするのよ。まさか、向こうでわざわざ家を借りるっていうの? これだけ長くいるのならともかく、精々半年よ? あたしたちみたいなのに家を貸すようなのが見つかると思うの?」 「見つけてやるさ。――有希だけは、俺たちみたいにしたくないからな」 見世物小屋の子は見世物小屋で働くしかない。 それでも、女の子で器量がよくて、作法もちゃんとしていたら、抜け出す道もないではない。 だから、とキョンは言う。 「座長命令だろうがなんだろうが、これだけは譲らないからな」 「――しょうがないわね」 ため息混じりにハルヒは言った。 「あたしも有希は可愛いし、特別に、認めてあげるわ。後で泣きついてきても知らないんだからね」 「…ああ、感謝する」 「じゃあ、今日もよろしくね。昼間来なかった分もしっかりやって頂戴」 「分かってる」 そう言って準備に入るキョンを見ながら、ハルヒは小さく笑った。 「全く、娘のための我がままは言えるくせに、自分のことには無頓着なんだから」 「ただいま」 と帰ってきたキョンは小さな声で言った。 返事などはなから期待していなかった。 まだ夜が明ける前だ。 起きているはずがない。 しかし、 「お帰りなさい」 と古泉が答えた。 「あれ、お前もう起きてたのか?」 「ええ、有希さんに付き合って早く寝たからか、すっきりと目が覚めましたよ」 「有希、ぐずったりしなかったか?」 「しないと分かってて聞いてるんでしょう?」 そう古泉が笑うと、キョンも笑った。 「有希は本当に手のかからないいい子だよ。俺の方が寂しくなる」 「……ひとつ、お聞きしたいのですが…」 真面目な顔で古泉が言い、キョンはつられるように居住いを正した。 「なんだ?」 「いえ、物見高さゆえのことですから、答えなくても結構なんですよ」 「なんだ? 言われないと分からないだろ」 「――有希さんは、あなたの実子なんですか?」 キョンは気を悪くした風もなく、薄く笑って答えた。 「ああ、間違いなく俺の子だ」 「似てないように思うんですが……」 「こいつは…母親に似たから」 「…有希さんのお母さんは…」 「ひとつだけって言っただろ」 悪戯っぽくキョンが言うと、古泉は恥じ入るように視線を伏せた。 しかし、 「……病死したんだ」 キョンは静かに答えていた。 「体の弱いところまでそっくりだ。薄幸そうなところも。だから俺は、あいつの分まで、こいつを幸せにしてやりたいんだ…」 キョンの指が、眠る有希の頬を撫でる。 酷く、愛おしそうに。 「愛してたんですね。その人を」 「……ああ、そうだな…」 ふっと目を細めたキョンに、古泉はなんとも言いがたいような表情を浮かべていたが、キョンはそれに気がつかなかった。 「ところで古泉」 「なんでしょう?」 「お前、ちゃんと自分の家まで戻れるんだろうな?」 「……ええと、どういう意味でしょうか」 「いや、いいとこの育ちみたいだし、自分がいる場所も分かってないんじゃないかと思ったんだが」 「流石にそれはないですよ。…ああでも、」 と古泉は笑みを向け、 「あなたにお礼をしたいですし、一緒に来ていただけるとありがたいですね」 「困った時はお互い様だろ。礼なんていらねえよ」 「いえ、それでは申し訳ありませんから」 そう言った古泉がくしゃみをした。 「あれ、有希の風邪がうつったか?」 心配そうに顔をのぞきこむキョンに古泉は、 「それもいいですね。そうしたらもう少しここにいられますから」 「妙な奴だな。家に帰りたくないのか?」 「……そうですね。そうかもしれません」 「分からん奴だ」 「わがままだとは思うんですけどね」 ふふっと笑った古泉に首を傾げながら、キョンは何も聞かなかった。 自分にも聞かれたくないことがあるからかもしれない。 「本当に、思ったより長くお世話になってしまいましたね」 「別に、これくらい構わないさ」 「そう言っていただけるといくらか気が楽です。……また、来てもいいですか?」 キョンは一瞬躊躇った。 いつ引っ越すか分からないのにそれを言わないのはいけないだろうかと。 同時に思ったのは、そうやってしまえば縁が切れるということと、縁が切れれば古泉に迷惑が掛からないということで。 「…ああ、いつでも来いよ」 キョンはそう言った。 後ろめたさを感じるのか、どことなく目を逸らしながら。 |