生まれて初めて嫉妬と呼ばれる感情を知った時、その余りの醜悪さに、吐き気すら感じた。 その日、部室へ向かう途中、俺は9組の様子を伺いながら廊下を歩いていた。 わざわざそんなことをしたのは、古泉がいるならたまには一緒にいってやってもいいかと思ったからだ。 今日は早めに授業が終ったから、大抵俺よりも素早く部室に移動している古泉も、まだ教室にいると思ったのだ。 実際、古泉は教室にいた。 ただし、ひとりではなく、そして3人以上の多数でもなかった。 見覚えのない、真面目そうな女子とふたりだったのだ。 教室の隅でふたり、何やら親しげに話しているのを見て、俺はほとんど反射的に、「似合ってる」と思った。 ふたりの身長差も、場の空気も、絵に描いたようにぴったりだと、そう思った瞬間、俺はその場から逃げ出すように走り出していた。 いや、逃げ出すようにじゃない。 実際、逃げ出したのだ。 高熱でも出している時のように、思考がまとまらなかった。 考えることが全て空回りするようだ。 胸の中で渦巻いているどす黒い感情は、おそらく嫉妬と呼ばれるそれで、古泉にも、一緒にいた女子にも、怒りや憤りのようでありながら、全くもって理不尽極まりない思いが湧きあがってくる。 ただ一緒にいただけなんだろう。 場所も教室だった。 古泉にしてみたら、なんらやましいことはないに違いない。 話していたこともおそらく、クラスで何かやるとか、勉強の相談とかその辺なんだろう。 そう考えようとしてもまだ、嫉妬は止まらない。 思考は暴走を続ける。 嫉妬している自分が嫌で、堪らない。 大体なんで古泉なんだ。 あんなへらへらしてる奴。 無駄に理屈を捏ね繰り回して人を煙に撒いて、自分の思うようにしようとする奴。 ろくに自分のことも話してくれない、未だに見通せない、不透明すぎる奴。 あんな、奴なのに、なんで俺がここまで嫉妬しなきゃならないんだ。 あいつにそんな価値なんかないだろ。 そうだろう? そうに違いない。 大体、古泉ならもっとお似合いの人がいて、その人たちと何もないんだから、妬くまでもない! ――と、ここで俺は大いに方向性を誤ったらしい。 ……そうだ、古泉はもっと……俺よりも、勿論さっきの彼女よりも似合いの人たちがいるじゃないか。 再び胸の内を嫌な感情が渦巻いていく。 俺以上に似合う相手――。 朝比奈さんと一緒にいるところなんか、絵に描いたような美男美女カップルだ。 ふわふわした朝比奈さんと抜け目のない古泉ならぴったりだろう。 それに、森さんだって、同じ機関の人間なんだ。 俺や朝比奈さん以上に古泉と付き合いがあるに違いない。 年齢不詳とはいえ森さんは美人だし、頼りになる人だった。 そんな…そんな、人たちがいるのに、なんで俺なんだ。 俺なんか男でも女でもなくて、どっちつかずで、あいつには迷惑掛けてばっかりだし、好き勝手してるのに、なんで俺なんだ。 機関がそうしろって言ったんだろうか。 ないとは言い切れない。 古泉ならもっとずっと似合う人がいる。 俺よりも好きな人がいても不思議じゃない。 俺と……本心で付き合ってくれてんじゃなかったら、俺は、どうしたらいいんだ…? 気がついたら部室の前にいた。 足を止めて初めて気がついたことは、涙が情けないくらいこぼれてきているということで、ここまで来る間にどれくらいの人に見られたかを考えると恐ろしいものがある。 他に行くところもないのに、部室に入るのを躊躇ったのは、中に誰がいるか分からなかったからだ。 今、この状態で、ちゃんと人と話せる自信はかけらもなかった。 下手に話しかけると妙なことを口走ってしまいそうで。 すすり泣きながら立ち尽くしていると、中からドアが開いた。 立っていたのは長門だ。 「……入って」 長門の静かで穏やかな声に引かれて、俺は室内に入った。 長門が戸を閉め、何故か、鍵まで掛ける。 室内には他に誰もおらず、俺が少なからずほっとした時、 「泣いていい」 長門が俺の肩に触れながらそう言った。 「長門…」 「説明は不要。今のあなたは思いきり泣いた方が落ち着くと推測した。だから、泣いていい」 その言葉に堰を切られたように、俺の目からは涙がいっそう流れ出した。 長門の肩に顔を埋め、そこを湿すほど涙を流す。 それでも長門は文句ひとつ言わず、俺を抱きしめてくれた。 抱きしめられているだけで、自分が少しずつ落ち着いてくるのが分かった。 「…すまん……」 そう言って顔を起こしたのは、どれくらい後だっただろうか。 思ったより時間は経っていなかったようだが、長門の肩も俺の顔もぐしゃぐしゃだ。 だが長門は静かに俺を見つめ、 「もう、いいの?」 「ああ。……悪いな」 「いい」 優しいな。 着せ替えにされた時は正直どうしようかと思ったが、今日みたいに長門に世話を掛けていることを思うと、あれくらい我慢しよう。 「…そう。じゃあ、また着てくれる?」 「……こ、今度はなんだ…?」 引きつりながら問い返すと、長門はガラス玉の目にいくらか光を宿らせて、 「着物と割烹着」 マニアックだな。 「……だめ?」 「いや……まあ、それくらいなら」 「ありがとう」 その時、だ。 ドアのノブが鳴り、それからドアがノックされた。 「すみません、どなたかいらっしゃいませんか」 古泉の声だと分かった瞬間、またあの嫌な感情が舞い戻ってきそうになる。 思わずびくりと震えた俺の両腕を押さえて、長門が俺に向かって言う。 「大丈夫」 大丈夫ってお前……。 「中には入れない」 その声はドアの向こうの古泉に向けてのものだったらしい。 古泉はおそらくあの困ったような笑みを浮かべているのだろう声で答えた。 「長門さんですか? どうしてそんなことをおっしゃるのか、聞かせてください」 「あなたは彼を悲しませた。それだけで、十分」 長門の声はどこまでも冷たい。 だがそれが、酷く嬉しくて、照れくさかった。 「な、長門…」 「彼が許しても、私が許さない」 静かにではあるものの、長門が怒っているのは間違いないだろう。 それは古泉にも分かったらしい。 「ちょっと待ってください。僕が彼を悲しませたとはどういうことです? 僕には心当たりがないのですが」 というかお前ら、俺のことは「彼」という人称代名詞だけで話を進めるのか、進められるのか。 俺の疑問など知らず、長門は話を続ける。 「あなたが教室で女生徒と話していたから彼は傷ついた」 ドアの向こうでは古泉が弁明している。 「教室で話していたのは学級委員です。話していたことも、今度のロングホームルームでやることという、至って事務的なものですよ」 それは俺が予想していたものと対して違わず、やっぱりいくらかほっとした。 だが長門はどこまでも厳しい。 「それはきっかけに過ぎない。あなたが彼を不安にさせ続けてきたから、そうなっただけであり、あなたが彼を大事にしてきたならそうはならなかった。だから全てはあなたに帰結する」 長門が長文を喋っている。 それもほぼ確実に、俺のために怒って。 嬉しくて泣きそうだ。 今日の俺は本当にどうかしてる。 「それを言われると弱いですね」 古泉が困りきった声で答えた。 「僕も、彼を不安にさせているという自覚はありますし、それを解消するための努力を怠ったと言えば否定はしきれません。しかし、名誉挽回のチャンスくらい、いただけないでしょうか」 長門が躊躇するように黙ったのを見て、俺は言った。 「いい。長門、入れてやってくれ」 「…そう」 長門がどこか残念そうに鍵を開けると、古泉が戸惑いがちにドアを開け、入ってきた。 そうして俺の姿を見つけ、開口一番、 「すみませんでした」 と頭を下げた。 俺は言葉もない。 ただぽかんと間抜け面をさらしながら古泉を見ているだけだ。 「僕がちゃんとあなたに話せずにいるために、あなたを苦しめてしまいました。あなたが誰より辛く、難しい立場にいると分かっているというのに…」 「違…」 馬鹿みたいに声が震えた。 また涙がこぼれてきているようだが、それを確かめる余裕もない。 「俺が、勝手に嫉妬してた、だけだろ。お前が悪くないって、分かってるの、に、自分でも、止められなくて…ごめん……」 なんで、俺が悪いのに古泉が謝ってくるんだ。 心の底から謝りたいと思った。 「嫉妬してる、自分がっ…嫌で、お前のことまで、貶め、て、なんで、こんなになるまで、って、思って、そのくせ、自分は長門に、長門に、慰めてもらったり、し…」 そこまで言ったところで、いきなり抱きしめられた。 息が止まるかと思ったくらい、突然、強く。 それも古泉と長門に、いっぺんに。 「お、おい…?」 言おうとしたことが頭から吹き飛んだ。 なのに古泉はため息を吐きながら、 「全く……あなたはどうしてそんなにかわいいんですか」 「かっ…!?」 顔が真っ赤になる。 長門の前でいきなり何を言い出すんだこいつは。 「かわいいですよ。他の誰にも絶対に渡しません。あなたが嫌と言ってもね」 「はっ!?」 何言ってんだ、と聞き返す間もなく、反対側から長門が言う。 「あなたに彼を恒久的に束縛する権利はない。今日のように彼を傷つけることが度重なれば、彼の意思に反しても、私が彼を保護する」 「それは挑戦と受け取ってもいいんでしょうか」 古泉が、それこそ挑戦や挑発という言葉に相応しい目つきで長門を見たが、長門はこくりとやけにはっきりと頷いた。 古泉は軽く肩を竦めるようにしながら、俺に目を向け、 「あなたは僕に嫉妬してくれたようですが、おそらく僕の方が回数も度合いも大きいと思いますよ。何しろあなたは魅力的な人ですから」 長門は長門で俺に、 「何かあれば私のところへ来るといい。私にはあなたを守る義務がある」 ふたりともが本気で言っていると分かった。 そのことがやけに嬉しい。 あの毒々しい感情のことなど、少しも覚えていないかのように、胸の中が暖かくなった。 |