我慢出来なくて



「……よし」
鏡に映った自分を確かめて、俺は呟いた。
何せ今日は生まれて初めての行動に出るのだ。
いつもの比じゃないほど緊張している。
声が上擦っているのは問題じゃない。
それ以上に、こんなところでこんな格好をしていることが恐怖だった。
こんなところ――いつもの駅にある身障者用トイレで。
こんな格好――紺色のキャップにハイネックのシャツ、パーカー、そして恐ろしいことにミニのキュロットスカートという格好で。
自分の中で、女としての欲求と、男としての理性が戦っている。
コンパクトやら口紅やらをポーチにしまい、俺はもう一度鏡を見た。
多少背が高すぎ、顔形もボーイッシュだが、女に見えるだろう。
というか俺は女だ。
男でもあるが。
「――よし!」
気合を入れるためにそう言って、俺は荷物をリュックにまとめてトイレを出た。
これまでは、世間にばれないよう、こんな格好をするのは家からずっと離れたところでだけだった。
ただ街を歩いたりするだけで満足していたから、それでよかった。
だが、今日は――ここである必要があった。
キャップを深めに被りなおしながら、俺は駅を出た。
目指すのは慣れ親しんだ駅前のスペースだ。
そこで俺は――待ち合わせを、していた。
女としては生まれて初めて。
そいつはいつものことながら待ち合わせ時間よりずっと前にそこに来ていた。
俺が駅に来たのが待ち合わせの一時間前。
今は三十分前だから、その間に来たものらしい。
表情はいつもながらの怪しげな笑み。
得体が知れん。
本当に――どうして俺はこんな奴を好きになったんだ?
「一樹」
俺が声を掛けると、そいつは驚いたように眉を上げた。
驚くならもっと素直に驚け。
声を上げるとか目を見開くとかしろ。
「すみません。――本当に、あなたなんですよね?」
他の誰と待ち合わせをしてたと言うんだお前は。
「いえ、そうじゃなくて……あの、」
戸惑うように、一樹は言った。
「とっても綺麗な脚ですね」
……脚フェチか?
「ち、違いますよ! ただ、その…本当に綺麗で…どこから褒めていいのかと……」
「ふん」
それより、と俺は言う。
「今日は間違ってもキョンとは呼ぶなよ。誰かに聞かれたら面倒だ」
「じゃあ、何と呼びましょうか?」
俺はすぐに、「京子」と答えた。
「京子さん…ですか」
こういう風に女の格好をして出歩く時なんかに使ってるんだ。
もっとも、呼ばれたりすることはないから、気分を変える程度の意味もないがな。
「よく、こういうことを?」
街を歩くぐらいだ。
「デートは?」
……初めてに決まってるだろう。
「顔、真っ赤ですよ」
うるさい黙れ。
というか顔が近すぎるだろう。
「恋人同士なんてこんなもんだと思いますよ。まあ、とりあえず、手でも繋ぎましょうか」
と一樹は俺の手を取った。
反射的に手を振り払った俺に、一樹が変な顔をする。
「お嫌でしたか?」
「…すまん」
お前と手を繋ぐのが嫌だというわけではなく、男と手を繋ぐということを拒否する部分が俺の中に残っていたらしい。
「俺の方からなら大丈夫のはずだから」
そう言って俺が一樹の手を取ると、満足げに握り返された。
無性に恥ずかしいのはなんでだ?
「そうですか? 僕は嬉しいですけど」
やっぱりこんなことをするのが初めてだからだろうか。
それが女としてであることに、男としての部分が妙な反発を覚えるのだが。
「それより一樹、面倒だが頭を貸せ」
「はい?」
「もし、万が一、朝比奈さんとかハルヒとか谷口とかに見つかった時のことだ」
「見つかりますかねぇ…」
ないとは言い切れないだろ。
分かってて言ってんのか? おい。
「違いますよ。ただ、朝比奈さんや涼宮さんが、僕如きのことを気にしますか?」
ハルヒなら、ああ見えてゴシップとか好きそうだぞ。
微妙にオヤヂ入ってるしな。
「それも否定できませんが……」
「とりあえず、選べ。俺のことを自分の知り合いで遠方に住んでる奴だと紹介するか、俺の親戚で遠方に住んでると紹介するかだ」
「遠方なのは決定事項なんですね?」
そうじゃないと、呼びつけられたりしたら面倒だからな。
ちなみに「俺」は今日、親戚を訪ねて、電車で2時間ばかりかかる遠方に出かけてることになっている。
「それじゃあ、僕の知り合い説を取るべきでしょうね。凉宮さんのことです。裏を取らないとも限りませんから、知り合いというのは機関の人間の方がいいでしょう。……新川の親類というのはどうです?」
「分かった。じゃあそうしよう」
ところで、俺たちは今どこへ向かっているんだ?
「デートならやっぱり、喫茶店かと思いまして。あ、安心してください。いつもの店じゃありませんから」
当然だ。
かくして俺たちはいつもの喫茶店とは駅を隔てて反対側にある店に入ったのだった。
だがしかし、運命と言うものは時として酷く残酷であるらしい。
と言うよりもむしろ、それを神と呼ぶ古泉たちの考え方が正しいのかもしれないと、俺は思った。
「あれ? 古泉くんじゃない。こっちこっち、一緒に座りなさいよ。珍しいわね、こんなところで会うなんて」
店に足を踏み入れるなり響いたハルヒの声に、一樹の表情が心なしか引きつったものに見えたのは俺の気のせいではないだろう。
「しかも! 可愛い女の子まで連れちゃって。隅に置けないわね。このこのっ」
ただでさえ万年ハイテンションなくせに、更にテンションが上がっている。
「で! あなたの名前は? どこに住んでるの? 古泉くんとはどんな関係?」
俺に矛先を変えたかと思うと、矢継ぎ早に尋ねてきやがった。
俺は出来るだけ訥々と、か細い声で答えた。
「わ、私は、新川 京子、です。あの、あ、あなたは…?」
「言い忘れてたわね。あたしはSOS団団長、涼宮 ハルヒよ!SOS団って言うのは」
と滔々と語りだした、聞くたびに内容が微妙に変わる活動内容は割愛する。
俺はハルヒに怯える朝比奈さんの姿を思い出しながら、じっと一樹の腕にしがみついていた。
俺の体がかすかに震えているのも気のせいではない。
俺がキョンだとハルヒにばれるのが心底恐ろしかったのだ。
本当に、寿命が縮みすぎて今すぐにでも死ぬかと思った。
その時。
「こほっ」
唐突に、咳が出た。
「けほっ、こほっ、んっ、っく」
止まらなくなる。
どうやら、まだいくらか肌寒い外の気温と、暖かなこの店内との温度差で気道に異常を来たしたらしい。
それに、ハルヒによるプレッシャーがどの程度関与していたかは分からないが。
「だ、大丈夫ですか?」
一樹が本気で慌てている声を出した。
「大、けほん、丈夫…っ」
「ぜ、全然大丈夫そうに見えませんよ! 何か温かいものでも…」
むしろ外の方が気分が良くなりそうだ。
俺がそう伝えると、一樹はハルヒに向かって軽く頭を下げながら言った。
「そういうわけですので、すみません、お先に失礼します」
「いいのよ。そんなの、気にしないで。それより早くしたげなさい」
突然、目の前に病人が出現したことに驚いたのだろう。
ハルヒは俺たちを引き止めるどころか、追及する暇もなく、俺たちを解放してくれた。
水を運んでこようとしていたウェイトレスに謝罪しながら店を出て、何度か深呼吸をすると、咳は落ち着いた。
よっぽどハルヒから逃げたかったのかもしれない。
「本当に、大丈夫ですか?」
まだ心配そうな一樹に、俺は苦笑する。
格好を変えただけで、体が弱くなったりはしない。
精神状態が多少変わるくらいのものだ。
「だったらいいんですけど…」
と安堵した様子で言った一樹は、一変して、からかうような微笑を俺に向けた。
「涼宮さんは苦手ですか?」
「『私』は少し」
いや、男としてもいくらか苦手には思うんだが、こうまで拒絶反応を起こした記憶はない。
けど一樹、これはお前のせいじゃないのか?
「僕のせいですか?」
そうだ。
お前とこうなったから、余計女の部分が強くなってきてるのかもしれない。
だとしたら、男としては今まで以上に気をつける必要があるな。
「……後悔してますか?」
いや。
「本当に?」
当たり前だ。
嘘を吐いてどうする。
お前じゃあるまいし。
「それはちょっと酷いですよ」
そうか? 普通だろ。
そう吐き捨てて、俺は話題を変えた。
「それより、これからどうする」
「そうですね……このまま、散歩でもしましょうか」
「見つかっても知らないぞ」
「今更でしょう。涼宮さんに見つかった以上、隠す意味もありませんし」
そんなことを、こいつは酷く楽しそうに笑って言うのだ。
作り笑いではない、本当の笑みで。
なんでそれが分かるかは聞くな。
……女の勘だ。
俺は黙って一樹の腕に自分の腕を絡めた。
朝比奈さんのように胸を押し付けるようなことにならないのが、いくらか悔しい。
だが、一樹を動揺させるには十分だったらしい。
一樹の取り澄ました顔が、熟したトマトみたいになった。
「ど、どうかしたんですかっ?」
「何か不都合でもあるのか?」
「いえっ、ふ、不都合だ何てそんな……」
それなら問題なしだ。
しっかりしろ。
「ないとも、言い切れないんですけど」
どういう意味だ。
「その……初めてが、ああだったでしょう? だからせめて、その分も普通のお付き合いをしたいと思っていたのに、こんなことをされたら……」
止まらなくなるのか。
耳まで赤くして頷いたこいつは、こう見えて、うぶなのかもしれない。
「人のことを何だと思ってるんです」
口には出さなかったのに、ばれたらしい。
俺は開き直って答えた。
「経験十分の女泣かせ」
「そんなことありませんっ!」
「分かった分かった」
一樹は唇を少し尖らせ、不満を示しながら、やや投槍に尋ねた。
「で、結局どうします?」
「お前の家でいいだろう」
俺の家はどうせ妹がはしゃいで騒ぐだけだろうからな。
あ、ちなみに妹も俺の秘密は知らん。
ただ、時々来る遠い親戚の姉ちゃんだと思っているらしい。
「…それ、意味が分かってて言ってるんですか?」
分からないと思うのか?
間抜け面をさらしやがって。
「からかわないでください」
いつになく、強い調子で一樹が言った。
「僕が右往左往するのを見るのが楽しいんですか?」
違うって。
ただ…お前を信頼しちまってんだろうな。
にっと笑うと、一樹の口が鯉のようにぱくぱくと開閉されるのが見えた。
履いているミュールのせいもあって、今日の俺とこいつの間に身長差はあってなきが如しだ。
俺は間の抜けた口に、軽くキスをした。
ここが天下の往来だということも忘れ切って。

「なあお前、9組の古泉と仲いいよな?」
月曜日、登校するなり谷口にそう言われ、俺は一瞬息が詰まった。
適当に頷くが、谷口は気にした風もなく、
「あいつの彼女見たか!? すっごい美人だったぞ! 校内の女共に無関心だと思ったら外で作ってやがったんだな」
見たのか。
「おう、昨日たまたまな。駅の近くの道端で堂々とキスまでしていやがってなー」
目撃談を話す様子が悔しいと言うよりもむしろ得意げに見えるのは、それだけ古泉に浮いた噂がなかったということのあらわれなのかもしれない。
俺は小さく笑いながら尋ねた。
「凄い美人だったって本当かよ。まともな女ならあんなわけの分からん奴と付き合うと思えないが」
「本当だって! 背があいつと同じくらい高くて、迫力のある美人だったぞ」
そのほか、谷口が色々と並べ立てる「古泉の彼女」への賛辞を、俺は心地よく聞いたのだった。
その日はそんな話ばかりだったと言っても過言ではなかった。
日曜日に駅前に繰り出す連中は意外と多かったらしく、古泉の彼女の噂は校内にすっかり広まっていたし、部室へ行けば行ったでハルヒがうるさく騒ぎ立て、古泉にまとわりついていた。
「古泉君、昨日の彼女はやっぱりカノジョなのね!?」
「ええ、そうです」
古泉は俺をちらりと見ながら答えた。
わざわざこっちを見るな、気色悪い。
昨日十分発散したからか、俺の中の女はかなり落ち着いている。
だから古泉からのアイコンタクトもあまり嬉しくない。
そんな俺の内面など知らず、ハルヒは古泉を追及していた。
「で、どこに住んでるの? うちの生徒じゃないわよね」
「ええ。彼女は電車で…そうですね、一時間か二時間ほどかかる…」
あまり妙な返事をしないでくれよと願いながら、俺はなんでもない風を装ってお茶をすすった。
すると、いつの間に俺の側に来ていたのか、長門が小さな声で俺に囁いた。
「よく似合っていた」
一瞬、俺の体が強張ったが、ハルヒには聞こえていなかったらしいと知り、ほっとする。
どうせ、俺のことや昨日のことなど、長門にはお見通しなのだ。
俺は苦笑しながら答えた。
「そうか?」
「そう」
とりあえず、礼は言っておこう。
でも、分かってるとは思うが…と言いかけた俺に、
「大丈夫。私も情報統合思念体も余計な混乱は望むところではない」
……すまん、長門。
いい、と言うように長門は首を振ったが、不意にすっと朝比奈さんを指差し、
「次回はあのような衣装を推奨する」
朝比奈さんは今日もいつもの可愛らしいメイド服姿でいそいそと働いている。
あれは彼女が見ての通りのナイスバディで小柄で可愛い顔立ちだからこそ似合うのであって、俺が着たんじゃお笑いにしかならない。
「問題ない。肌の露出が少なく、ヒールも低い靴を履くのであれば、あなたの条件に合うはず」
確かに、メイド服は肌が出ず、体型がほとんど問題にならないというのは同意できるが、胸もないのに着てもなぁ?
それに、メイドというのは朝比奈さんのように小柄で可愛らしい女の子に似合うものだと思う。
でかいメイドなんて恐怖だ。
というか、メイド服は普段着ではないぞ、長門。
「……そう」
長門は納得したように言って俺に背を向けつつ、
「…残念」
と呟いた。
待て長門。
お前はそういうキャラじゃないだろう。
一抹の不安を感じつつも、俺はしばらく続くであろう、一樹とその彼女にまつわる話に耳を澄ませて過ごすこととなるのだった。