翌朝の僕のコンディションといったら、正直最悪としか言いようがなかった。 腰は痛いし、お尻はひりついているような気がするし、おまけになんだか熱っぽい。 昨日の夜中、こっそりシャワーを浴びに行ったから、腹痛までは起こしてないけど、それにしても辛いものがある。 でも、精神的にはここしばらくなかったくらい、好調だったと思う。 目を覚ました時には、兄さんがすぐ側にいてくれて、 「おはよう。…大丈夫か? 熱が高いみたいだぞ」 と声を掛けてくれた。 「おはよ……。だい、じょぶ…」 「……さっぱり大丈夫そうに見えんな」 心配そうに言っておいて、兄さんは僕の耳に唇を寄せ、 「…やっぱり昨日、無理させ過ぎたか?」 なんて囁いて、僕を慌てさせた。 「にっ…にいさ……」 「すまん。…お前が可愛すぎたにしても、もうちょっと抑えるべきだったな」 そう思うなら今抑えてくださいよ! 「…顔、どんどん赤くなるな」 「だっ、誰のせいだと思ってんだよ…!」 ひーっと声を上げて布団を頭まで被ると、 「可愛い」 と囁かれたばかりか、布団越しに抱き締められた。 「好きだぞ…」 「……っ」 もうダメだと思ったのは正しかったらしい。 くらりと目眩を感じたと思った後、僕は速やかに意識を手放した。 気がついた時に僕の顔を覗き込んでいたのは兄さんではなく母さんで、なにやら難しい顔をしていた。 「…大丈夫か?」 「えぇと……」 「気分は?」 「…悪くはないです」 ただ単にハイになってるからかもしれないけど。 「……兄ちゃんと仲直りはしたのか?」 「あ、はい、出来ました」 「…本当に?」 「はい、本当ですよ?」 「……いいことを教えてやろうか」 母さんは滅多にないくらいにっこりと微笑んだ。 …怖い。 一体何を言われるんだろうかとびくつく僕に、 「お前な、自分じゃ嘘を吐くのがうまいと思ってるかも知れんが、実はそうでもないんだぞ」 「……と、言いますと…?」 冷や汗が流れるのを感じながら僕は母さんを見つめ返す。 目をそらしたら動揺を悟られそうで。 「まず、そうやって目をそらさなくなる」 「え!」 「お前は普段から割としっかり目を見る方だけどな。それに拍車が掛かるんだ。それから、ポーカーフェイスになる」 「…は?」 ポーカーフェイスになっててどうして分かりやすいんだろう。 「普段より表情が出なくなるってことだ。それこそ、姉ちゃんの真似してるみたいにな」 そう言って母さんは僕を睨みつけ、 「それじゃあ、どうして夜中に風呂に入ったのかってことも含めて、正直に説明してもらおうか?」 と微笑んだ。 …だから怖いですってば。 「怖いって言うならさっさと吐け! 言っとくが、大体察しはついてるんだからな!」 「だ、だったら聞かなくてもいいじゃないですか!」 「アホか! 正直に吐いたら情状酌量も考えてやらんでもないという親心だ!」 嘘臭い。 「なんか言ったか?」 「言ってません」 「とにかく、速やかに白状しろ。さもないと解熱剤をケツから突っ込んでやる」 「病人に言う台詞じゃないと思います…」 「病人に言わずに誰に言うんだ。健康な人間は解熱剤に用はないぞ」 「それはそうかも知れませんけど…でも、脅迫なんて……」 「発熱した息子に解熱剤を入れてやることを指して脅迫と言われてもな。大体、昔からお前にはしょっちゅう…」 「そ、そういうこと言わなくていいですから!」 「だったらさっさと吐け。じゃないと本当に脱がせて確認するぞ」 本気でやりかねない目つきに負けた。 「…お察しの通りです……」 「というと?」 「だから…っ、」 羞恥で死にそうな気持ちになりながら、僕はほとんど怒鳴るような格好で答えた。 「兄さんに食われました!」 あ、熱が上がった気がする。 「……やっぱりか」 ふーっとため息を吐いた母さんは、 「…夜中にこっそり風呂を使った形跡があるし、兄ちゃんは兄ちゃんでお前をやけに心配してるし、ついでにお前は熱を出すしでどうもおかしいと思ったら……」 「わ、分かってたんじゃなかったんですか?」 「…8割方そうじゃないかと思いつつ、そうでないことを願ってただけだ。それをまあ、見事に裏切ってくれやがって……」 深く深く吐き出されたため息が耳に痛い。 「すみません……」 「いつか来るかとは思っちゃいたが、それにしたって…」 「うう…」 「何でお前がネコなんだ」 ……は? 「…ちょっと母さん」 「なんだ」 「そこなんですか、問題は」 「いや? 他のあれこれももちろん問題だぞ。なんと言ってもまだ未成年だし、目に余るようなことがあれば止めるのは親の責任でもあるだろうしなぁ。しかし、俺もあまり人のことは言えないというかなんというか……」 もごもごと言い訳のようなことを口にしておいて、 「で、なんでお前がネコなんだ」 そこに戻るんですか。 「いつもいつもお前が兄貴の尻を追い掛け回してると思ってたんでな。違ったのか? そりゃあ、兄ちゃんの方だってお前を意識してるのが丸分かりな態度ではあったが……」 「…あの、母さん、」 「なんだ?」 「兄さんって、性格は母さんそっくりなんですよ?」 「そうだな。だからこそ不思議なんだが……」 「…二人とも、居直ると強いでしょう?」 「……そうだな」 「それでですよ」 「つまり、兄ちゃんの方が先に居直っちまって、お前は押し切られた、と」 「…そんなところです」 脱力しながらそう答えておいて、僕は慌てて言い添えた。 「あのっ、でも、元はといえば僕が押し倒そうとしたせいですから、兄さんをあまり責めないでください…っ!」 「……本当にお前ら兄弟は…」 と母さんはため息を吐く。 「兄ちゃんも同じようなこと言ってたぞ。自分のせいだからお前は悪くないんだって」 「兄さんも……」 「そうやって思い合うのは麗しいとは思うが、それでちゃんと事情を聞き出せんようじゃ困るからな。正直に話せよ」 「あの……ですから、本当に僕が…兄さんを押し倒そうとして……返り討ちに……」 「…本当らしいな」 僕のどこを見てそう判断したかは分からないけれど、母さんはそう呟き、 「で、返り討ちにあったにしては満足そうだな」 「それは……その…」 熱のせいでなく羞恥で真っ赤になりながら僕はなんとか言葉を探す。 「…予定とは、違っても…兄さんと……その、出来て、嬉しいですから……」 「……本気ってことか」 はぁぁ、と母さんは深い深いため息を吐き、 「まあ、お前についても、兄ちゃんの方も、無責任に育てた覚えはないからな。本気でなかったらこんなことなんかしないんだろうが……。16やそこらで人生決める気か…?」 「それを母さんが言うんですか?」 「…俺は、観念したのはもうちょっとしてからだ」 不貞腐れたように母さんは呟いた。 「あの馬鹿が俺の前からいなくなろうとした時に、たとえ世界を崩壊させてでも取り戻すと決めた。それくらい、あいつが俺に必要だと思い知ったからな」 「…母さん……」 それは、普段の飄々とした母さんの姿や、でれでれと脂下がった顔をしている父さんの姿からは想像出来ないほどの重い決意だ。 「今だって、変わらん。何があっても、俺はあいつを手放せやしないと思ってる。だから、それを守るためならなんだってしてやる。……お前には、それくらいの覚悟があるか?」 「……」 「昔と違って、同性婚も認められるようになったが、だからって風当たりが弱くなったわけじゃない。この辺りの人は結構優しく接してはくれてるが、これだって最初からそうだった訳じゃないしな。ここまで来るには並々ならぬ努力があったんだぞ」 「それは…お察しします…」 「ましてや、お前らは兄弟だ。俺たちなんかよりもよっぽど風当たりはきついと思えよ。それでも……一緒にいたいのか?」 「はい」 これには迷うことなく応えた。 「どうなるかなんて、分からないことも多いです。でも、決して楽観的な想像はしてません。大変だということも、いくらかは分かっているつもりです。でも……それでも、僕は、兄さんと一緒にいたいんです。弟としてでなく…」 「……分かった」 と母さんは嘆息した。 「お前がそこまで言うんなら、相当だろうな。一応、認めてやる」 「母さん…!」 「ただし、」 と母さんは釘を刺した。 「今日から部屋は分けさせてもらうし、他にも注意すべきことはあるからちゃんと聞けよ」 「はい」 「とりあえず…二人まとめての説教は、一樹が帰ってからにするか」 「え?」 「…あいつにもちょっと話があるんでな……」 と言った母さんが、お説教をする時よりもよっぽど怖い顔をしていたので僕まで怖くなった。 父さんは一体何をしたんだろう。 それは、父さんが帰ってきてすぐに分かった。 「この、変態親父が!!」 といつになく低くどすのきいた声で怒鳴った母さんが、いきなり父さんを殴り飛ばしたのだ。 「え、あ、い、一体何なんですか?」 と戸惑う僕をさり気なく避難誘導しながら兄さんが言うには、 「多分、俺のせいだ」 「ええ?」 「いや…お前に手を出したかどでしこたま叱られたんだが、その時に俺がつい、好きな相手に乗っかられて抵抗出来るわけがないとかって弁明したのに加えて、日に日に母さんそっくりに成長していくから、いつ父さんに手出しされるかと思うと気が気でなくて焦ったって言っちまってな……」 「えええ?」 「実際、あの変態親父はそういう目でみてたんだよ。気付いてなかったのか?」 「え、だ、だって、父さんは母さん一筋だろ?」 目をぱちくりさせる僕を、 「……」 兄さんが呆れたような目で見るのが痛い。 そうこうする間に母さんが父さんを床に沈めてマウントポジションに移ったらしい。 ううん…ここまで派手な夫婦喧嘩を目撃するのは初めてかもしれない。 「申し開き出来るとでも思ってんのか!?」 「…っ、た、確かに、高校生の頃のあなたのことを思い出してにやにやしちゃったりもしましたけど、でも、僕はちゃんと欲求はあなたに向けました…!」 「そんなもんが言い訳になるかああああ!!」 ……父さん、明日は休みだっけ…? 「例のバイトのせいで打たれ強いから平気だろ。それより、お前の具合はどうなんだ?」 心配そうに兄さんは僕を見つめて、 「熱は下がったみたいだが……」 「あ…うん、大体平気。……まだ、その、ちょっとだけ……違和感が残ってる…けど……」 かあぁっと赤くなった僕に釣られるように、兄さんも赤くなる。 「そ、そう、か。…すまん。ろくな準備もなかったのに…やっちまって……」 「いえ…僕がそうしたかったんだから、兄さんは悪くないよ」 「でも、母さんにはしこたま注意された」 それが堪えたのか、兄さんは疲れたようなため息を吐いて、僕に抱きついてきた。 そんな風に、兄さんが僕に甘えるようなことをするのは珍しくて、でも、だから余計に嬉しくて、 「どんなことを言われたのさ」 と聞いたら、 「……中出しするなとかゴムを使えとかローションを使えとか傷がついたんなら薬くらい用意してやれ間違っても塗ってやるとまでは言うなよ恥ずかしくて死ねるからなとか……」 「っ…それ、は……」 「必要な忠告だとは思うが、それにしたって何の躊躇いも遠慮もなくぽんぽん言われてみろ。そういうことをしたってのを親に知られるだけでも恥かしいってのに……」 「……辛い、ね…」 「…まあ、ちゃんとしなかった俺が悪いんだがな……」 そう言いながら兄さんは、父さんと母さんがケンカに夢中になってるのを確認した上で、ちょっと触れるだけのキスをしてくれた。 「次からは、ちゃんとするからな?」 「つ…次って……」 耳まで赤くなる僕に、兄さんは意地悪く笑って、 「もう嫌か? 二度としたくない?」 「…っ、そ、んなこと…ないけど……」 「…やっぱり可愛いな」 嬉しそうに言った兄さんにもう一度キスされて、僕はドキドキしながらも、 「兄さんこそ…、母さんにお説教なんてされたら、もうしないって言うかと思った……」 「んなわけないだろ? 兄さんを見くびるんじゃない」 ちょっとだけ怖い顔でそう言った兄さんだったけれど、声は優しい。 「俺は、ちゃんとお前が好きなんだからな」 そう言ってもうひとつキスされる。 幸せだと思ったら、泣きそうに嬉しくなった。 だから僕からもひとつキスをして、 「兄さん、大好きだよ」 と囁いた。 |