複雑な感情



兄さんに「嫌い」と言われてはや三日が過ぎた。
たかが三日、と笑われるかもしれないけれど、僕にとっては一日千秋で三千秋くらいに思えるほど長い。
兄さんは、僕と一緒の部屋にもいたくないとでも言うのか、身の回りのものをまとめて姉さんのいた部屋に行ってしまっている。
何年も前に嫁いだ姉さんの部屋は、そのまま置いてあるから、いつだって僕たちのどちらが使ってもいいと言われてはいたけれど、こんな使い方をする日が来るなんて思いもしなかった。
ひとりきりで、姉さんの部屋で、兄さんは何を思って過ごしているんだろう。
僕はと言うと、ひとりきりで、兄さんのいない空っぽのベッドを見るだけで、泣きそうな気持ちになる。
生まれてからずっと側にいた。
いつかは離れなくてはならないにしても、まだ当分は側にいられると思っていた。
それなのに、こんな形で兄さんから離れるなんて、考えたくもなかったのに。
でも、兄さんの側にいられないこと以上に、兄さんに嫌われてしまったということが、何よりも辛かった。
だって、僕にとって兄さんは誰よりも好きで、大事な存在だから…。
兄さんがいたから、捻くれた性格に生まれついた僕でも、素直になれる相手がいたから、僕は父さんほど歪まずに済んだと思うし、何があっても兄さんはいてくれるという安心感があったから、僕は何だって出来た。
それなのに、兄さんに嫌われたのでは何もないのと同じだ。
そう言うと、母さん辺りには怒られそうだけど、父さんには同意してもらえる気がした。
きっと、父さんにとって母さんはそういう存在のはずだから。
だから僕は、もし本当にこれで許してもらえないなら、いっそ死んでしまおうと、それほどまでに思いつめて、姉さんの部屋に兄さんを訪ねた。
「入って、も、いい…?」
ドア越しに、びくつきながら声を掛けると、兄さんの機嫌の悪い声が返ってくる。
「入ればいいだろ」
「失礼します」
震える手でドアを開け、逃げ出しそうな足を叱咤して部屋の中に入ると、兄さんはベッドの上で胡坐をかいて待ち構えていた。
「何か用か?」
「え、ええ、そう、だけど…今、いい、かな」
緊張と恐怖で敬語を使いたくなるのをぐっと堪える。
ここで敬語を使ったら、きっと余計に兄さんの機嫌を損ねるだけだから。
「ああ」
「…あの、その……っ…」
らしくもなく口ごもりながら、僕は一気に頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「……は?」
兄さんの戸惑いきった声を聞きながら、僕はこれ以上はないというほどに頭を下げる。
「ごめんなさい…っ、兄さんが、嫌、なら、もう、敬語もやめる、し、愛想笑いもやめる。だから、…許して……」
言っているうちに、涙が止まらなくなった。
ぼろぼろと溢れて、流れのようになる。
それが床にぱたりと落ちても、拭えないくらい、胸が苦しかった。
怖かった。
本当に兄さんに嫌われたならと思うと。
こんな風に泣いてしまって、更に嫌われたらどうしようかと、そう、思ったのに。
「……泣くなよ」
と言った兄さんの声はとても優しかった。
優しくて、柔らかくて、誤解してしまいそうになるくらいだった。
それなのに、僕の涙は勢いを増す。
止めるなんて話じゃない。
「昔から、お前に泣かれると勝てないんだ」
ため息を吐きながら、兄さんは泣きながら立ち尽くしていた僕を抱きしめてくれた。
暖かい。
小さい頃、僕はよく泣いていて、兄さんに抱きしめられると黙っていたらしい。
母さんが愚痴交じりに言っていたことを思い出す。
それくらい、安心感はあるのに、今の僕にはその温もりすら、胸を刺すように思えた。
ひくりと泣きじゃくる僕を兄さんは強く抱きしめる。
それに誘われるように、僕は兄さんにぎゅっと抱きついた。
「嫌い、に、なら、ないで……」
「なるわけないだろ」
優しく言って、兄さんは小さく笑ったようだった。
見えないけど、なんとなくそう思った。
「…と言うかお前、本気でその心配してたのか?」
呆れたような声に、僕は戸惑うしかない。
「え? …う、うん、そう、だけど……」
兄さんは僕の返事にため息を吐いた。
僕は何かおかしなことを言ってしまっただろうか。
びくついていると、兄さんは優しく、
「ムダだから、やめろ」
「ふ、ぇ……?」
「だからっ、」
兄さんは――これが兄さんの、照れ臭いことを言う時の癖なんだけど――まるで怒ったように声を荒げながら言った。
「嫌いになれるわけ、ないだろ! 大事な……その、……双子の弟、だぞ」
それだけのことで、僕のことを嫌いにならないと保証してくれるんだろうか。
それだけのことでも、これだけ情を掛けてくれるのか、この人は。
そう思うと、僕は、兄さんと双子であることを、何よりの幸福だと思えた。
兄さんをぎゅっと強く抱きしめて、僕はやっと笑えた。
「兄さん、大好き」
「っ、だ、から、そういうことを軽々しく言うなって」
「なんで?」
兄弟なんだから、これくらいいいじゃないですか。
首を傾げて尋ねれば、兄さんは顔を赤らめながら、
「――なんででもだっ」
と叫ぶ。
分からないけど、でも、
「だって、本当に兄さんが好きなのに」
「だから…」
「好きだから、言いたいのに、だめ?」
「う……」
言いよどむ兄さんに、僕はもう一押しとばかりに問いかける。
「素直になっていいって、兄さんはよく言ってくれるのに、違ったんですか?」
「違わない、が……」
「じゃあ、いいでしょ?」
兄さんはしばらくむっつりと黙り込んだ後、諦めたようにため息を吐いて頷いてくれた。
ちょっとずるかったかな、と思いながら、
「兄さん大好き」
と兄さんの肩に頭を摺り寄せると、兄さんはむずがゆそうにしながら、
「…で、告白の返事は結局どうしたんだ?」
と話をそらした。
「断ったよ」
「え?」
そんなに驚かなくても…。
「いや、だって、付き合ってみるんじゃなかったのか?」
「それもいいかとは思ったけど、兄さんにあんなこと言われたら、そっちの方が気になっちゃったんだからしょうがないだろ」
「う、わ、悪かった」
「別にいいけど。だって、その程度だってことだろ?」
「…かもな」
そう頷いた兄さんだったけど、独り言みたいに、
「そう、か…断ったのか」
と呟いた。
ほっとしたように見えたのは気のせいだろうか。
…きっと気のせいだろう。
兄さんがほっとするようなところじゃない。
「兄さんのせいで断ることになったんだから、その分甘やかしてよ」
といってみると、兄さんは苦笑しながら、
「今だって甘やかしてるだろ」
「もっと」
「もっとって……俺に何をしろって?」
そうだな。
「まず、今日こそ部屋に戻ってよ。一人じゃ寂しいから」
「寂しいって…お前ももう高校生だろうが」
「放っといて。兄さんが寂しがらせたのが悪いんだから」
「変な理屈をこねるな」
と言いながらも、
「まずってことは、他にも要求があるのか?」
と聞いてくれる。
兄さんは本当に優しい。
「うん。…兄さんの作る、玉子焼きが食べたいな」
「分かった」
「あと、」
「まだあるのか?」
「一緒に寝ていい?」
僕が言うと、兄さんは唇をひん曲げて、
「……却下」
「えええええ」
なんでですか。
「なんででもだ。というか、狭いだろうが」
「隅っこでいいから」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ何が問題なのさ?」
「何って……」
「一緒に寝るだけでも、だめなくらい、やっぱり僕のことなんて、嫌い?」
上目遣いに兄さんをうかがうと、兄さんは耐えかねたように、
「…っ、分かった、分かったから、それくらいにしてくれ」
と言って僕を引き剥がした。
「それより、その、……なんだ。……俺の方こそ、悪かったな。あんな、八つ当たりみたいなことしちまって…」
「いいよ、もう、大丈夫だから。兄さんに嫌われてないなら、それでいい」
僕が笑ってそう言ったのに、兄さんはどこか複雑そうな顔をした。
何か言いたいような、言えないような、そんな顔だ。
多分、兄として弟の行く末を案じてくれたんじゃないかと思う。
僕だって、ちゃんと分かってる。
いつかは兄さんから離れなきゃいけないってことも、こんな風に甘えてばかりじゃ兄さんを困らせるだけだってことも、分かってる。
だから、……許してよ。
兄弟だからってことに、しておいて。
兄さんを、弟としてでなく好きなのかもしれないと思いながら、僕はそれを押し隠す。
兄さんは常識的で保守的な人だから、僕がそんなことを言っても困るだけだろう。
うちの場合、両親がああだから、それで縁を切られたりはしないだろうけど、だからと言って受け入れてもらえるなんて軽々しく考えられはしない。
兄さんは女の子にももてるし、女の子とだって付き合えるんだから、わざわざ弟の僕となんて、考えてもくれないだろう。
だから僕は自分でも見ないフリをする。
気付かないフリをする。
ただ、弟として好きなんだと、自分で自分を誤魔化した。