このところ、兄さんの様子がおかしい。 正確には、先日、兄さんとのケンカなのかよく分からないあのちょっとした出来事の後から、兄さんの僕に対する態度が少々変化した、とでも言うべきだろうか。 僕と二人きりになるのを徹底的に避け、それこそ二人きりになるのなんて、下校途中と寝る時だけという状態なのに、そのくせ、学校では前以上にくっついてくる。 人前でべたべたするのなんて好きじゃないどころか、むしろ僕をたしなめる側だったはずなのに、これはおかしい。 でも、どうして兄さんがそうするのかはよく分からなくて、僕はとりあえず合理的な理由として、安全のためだろうかと思っていた。 僕が嫌がらせをされたりするようなことになったことについて、兄さんなりに責任を感じているのかもしれないと思ったのだ。 僕としては、学校でも兄さんと一緒にいられるのは嬉しい。 家でだって、二人きりになるのを避けているだけであって、リビングの隅で母さんがパソコンに向かって仕事をしている時などには、以前と同じように、二人でDVDを見たり、本を読んだりもしているくらいだから、接触時間はむしろ増えた方だと思うから。 それに、こうしているうちは当分、兄さんを取られる心配もないのかと思うと、更に嬉しい。 苦笑せざるを得ない事実だが、僕はやっぱりまだまだ兄離れなんて出来ないらしい。 僕を喜ばせようとしてのことではないのだろうけど、兄さんは最近、女の子に告白されても了解することがなくなっていた。 「だって、お前といる方がいいし」 というのがその理由で、それを聞いた僕は思わず教室だったってのも忘れて兄さんに抱きついてしまった。 僕もまだまだ修行が足りませんね。 しかし、それもあって、更に兄さんに言い寄る人間が減ったのは本当に嬉しかった。 そんなある日、驚くべきことが起きた。 なんと、僕が告白されたのだ。 校舎裏に呼び出された時には、常日頃の言動のせいで、闇討ちか、なんて警戒したのに、やってきたのは隣のクラスの、ちょっと可愛い女子で、拍子抜けした。 そんなある意味薄情と言えなくもない僕に、彼女は恥かしそうに顔を真っ赤にしながら、 「好きです。…あの、よかったら、付き合ってくれませんか」 とか細い声で言ったのだ。 僕は驚いて、 「本当に?」 と非常に失礼ながらそんな風に聞き返した。 彼女は真っ赤な顔を更に赤く染めながら、頷いて、 「う、うん」 「どうして僕なんですか?」 兄さんなら分かるのに、と呟けば、彼女は小さく笑った。 笑うと、ほっぺたに小さくえくぼが出来るのを、可愛いななんて思うくらいには、彼女は可愛かった。 「覚えてないかな? 前に、男女合同で、グラウンドで授業があった時に、あたしがソフトボールのボールをなくしちゃったことがあったでしょ? あの時、一緒に探してくれたから、それから、気になって……」 そんな些細なことで、と戸惑う僕に、彼女ははにかみながら、 「優しくて、しっかりしてるところが、好きなのかも。かっこいいし」 かっこいいとか、そういう外見を褒める言葉は大抵いつも比較の問題で兄さんに与えられてきた。 それにコンプレックスを持つこともなく、他の人が言う通り、兄さんをかっこいいと思ってきた僕だけれど、自分にその言葉が向けられると、不思議な気持ちになった。 誇らしいような、でもどこか、寂しいような、複雑な気持ちだ。 褒められたから、誇らしい。 でも、兄さんに向けられるのと同じ賛辞を向けられると、まるで自分が兄さんのお株を奪ってしまったような、もう兄さんから離れなきゃならないと言われているような気持ちになる。 戸惑う僕を見つめて、彼女はうつむいて言った。 「今、答えが出ないんだったら、今はいいから。…また今度、返事をください」 そう言って、彼女はそのまま走って行ってしまった。 ……僕は一体どうしたらいいんでしょうか。 「そりゃ、返事をするしかないだろ」 あっけらかんと言ったのは母さん。 「そういうことじゃなくて、どう返事をしたらいいのか悩んでるんでしょう。分かっててそういうことを言うのは止めてあげましょうよ。僕はもう慣れましたけど、この子はそうはいかないんですし」 とフォローなのか何なのかよく分からないなりに、一応気を遣ってくれているらしいのが父さんである。 兄さんはというと、おかしなくらいムッツリと黙り込んでいる。 一体どうしたんだろう。 首を傾げる僕に、母さんは自ら揚げた唐揚げを口元へ運びつつ、 「付き合ってみればいいんじゃないか?」 と無責任なほどあっさり言って、から揚げを頬張った。 父さんも、苦笑しながらとはいえ、 「それもいい経験にはなると思いますよ」 と言う。 経験か。 それに……そうだ、僕の方に彼女が出来たら、兄さんに彼女が出来ても、寂しくはならないかもしれない。 ちゃんと、兄離れも出来るかもしれない。 それなら、僕にとってもメリットはあることになる。 「でも、好きでもないのに付き合うってどうなんでしょうか」 僕が呟くと、父さんは教え諭すように、 「はっきり好きだと分かってから付き合うというのはとてもレアなケースだと思いますよ。漫画や小説を読んでいると、そうは思えないかもしれませんけど、自分が好きになった相手も自分を好きでいてくれるとか、好きな相手の方から告白してくれるなんて、まずありません。後者があるとしたら、それは、相手に自分の思いを悟られていて、それで相手の気持ちを惹けた時だけだと思います。父さんと母さんもそのパターンでした」 と言った途端、母さんに叩かれていた。 「余計な事まで言わんでよろしい」 そう言う母さんの顔が赤い。 いつまでもお熱いことで、と皮肉りたくなるのを堪えていると、母さんは小さく息を吐き、やっと真剣に答えてくれた。 「そう言うわけだから、嫌な相手じゃないなら、付き合ってみるのもいいとは思うぞ。ただ、それで合わないと思ったら、相手を傷つけないように気をつけて、早めに断るようにな」 それにしても、と母さんは僕をじっと見つめ、 「俺そっくりなのに告白なんてされるのか。意外だな」 それは僕も思いましたけど、人から言われると複雑なものがあるんですが。 「…やっぱり、笑顔のせいか?」 「知りませんよ」 父さんはいつもとそう変わりのない苦笑を浮かべて、 「敬語と物腰の柔らかさに騙されているのかもしれませんね」 等と言うが、あんたが言うのか、こら。 「実際そうじゃないんですか?」 へらへら笑いながらそんなことを言った親父は、 「まあ、作ってる自分しか受け入れてくれないような人だったら、さっさと別れた方がいいですよ」 ああそうですか。 「じゃあまあ、考えてみます」 と、僕が言った時だった。 椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった兄さんが僕を睨みつけ、 「っ、俺は、媚びてるみたいで嫌いだ! お前の敬語も、フェミニストぶったところもっ!」 と叫んで、そのまま食べかけの夕食も放り出して出て行ってしまった。 残された僕は呆然とするしかない。 頭の中では兄さんの言葉だけが木霊し続ける。 嫌い、と、兄さんにはっきり言われたのは、これが生まれて初めてじゃないだろうか。 嫌い…。 ……嫌い、かぁ…。 ……泣きたくなってきたんですけど、泣いていいですか。 「ちょっ、な、泣くなって! あれは、ほら、弾みって奴で、本当にそう思ってるわけないだろ!?」 「そうですよ! あれは意地を張っているだけで、本当に嫌いなわけありません。むしろ、嫌いならそんなことも言いませんよ。そういうところもお母さんにそっくりなんですから」 慌てふためいた両親のフォローすら耳に入らず、僕はテーブルに伏せた。 涙は出てこなかったけど、ずきずきと胸は痛み、他の何も考えられなくなった。 悲しくて、苦しくて、あまりにもショックで、僕はその夜、兄さんと一緒の部屋に戻ることも出来なかった。 母さんに抱きしめてもらっても、父さんと二人して優しく慰められても、心は少しも晴れなくて、一睡も出来ないまま夜を明かした僕が、まともな返事を考えられたはずもなく、次の日は本当に散々だった。 勉強も何も手につかないし、うっかりミスばかりしてしまった。 それでも、兄さんは僕の様子を見に来てくれることもなかったし、お昼も別にとることになった。 そんな状態だったから、僕は、彼女に会って返事をしようにも、まともな返事も考えられていなかったから、おそらく最悪の対応をしてしまった。 彼女と顔をあわせるなり、 「…っ、ごめんなさい」 と謝ったのだ。 びっくりしている彼女に、 「今は、…付き合うとか、考えられないんです……」 と情けない声で言うしか、出来なかった。 彼女は悲しそうに笑って許してくれたけど、酷い対応だったと思う。 正直過ぎて、失礼にもほどがある。 断るならもっとうまく、と思っていたのに出来なかった。 そんな風に考えをめぐらせる余裕すら、僕にはなくて、彼女にも申し訳ないと思った。 それなのに、僕の頭を占めるのは、兄さんのことばかりなのだ。 僕は…どうしたら、いいんでしょうか。 |