兄さんは、案外プレイボーイだったようだ。 僕がそれを知ったのは、高校に入ってすぐ、それこそゴールデンウィークを迎えるよりも前のことだった。 なにせ、高校入学からそれまでの間に、兄さんが付き合って、そして振った女の子の数は二桁に余裕で達する数だったんだから恐れ入る。 これをプレイボーイと言わずして何と言おうか。 母さんに言わせると、 「もて方は一樹ほどじゃない」 ということだが、それが恋は盲目とかそういう類の精神的視野狭窄の結果でないならば、多分兄さんは、父さんほど笑顔を振りまかない分、近寄り辛いということなのだろうと思う。 それでもこれだけもててるんだから、呆れて言葉も見つからない。 しかし、だからと言って兄さんがいい加減な人間で、根が享楽的なのだと思われるのは心外だ。 兄さんはただ、お人好しなだけらしいから。 「試しに付き合って、って言われると断り辛いんだよなぁ」 先日十数人目の彼女に断りを入れたという兄さんは、悩ましくため息を吐いて弁当をつついたけど、ため息を吐きたいのは僕の方ですよ。 「試してから断る方が、よっぽど酷くありませんか?」 「つっても、試しに付き合ってくれないと断られても納得出来ない、とかなんとか言われると、付き合わざるを得なくなるだろ? 実際、付き合ってみたら楽しいかもしれんし。……今のところ、そんなことはないんだが」 「酷い発言をする時は人のいないところでしてください…」 少なくとも教室ではやめてもらいたい。 弁当を食べるためにわざわざ隣から僕のクラスまで来てくれるのは嬉しいけど、だからといって油断するのは大間違いですよ、兄さん。 うちのクラスにだって、兄さんのファンはいくらでもいるんですし、面白くないと思ってる人間も多いんですから。 ちなみに、断る時にはその理由として、 「弟といる方が楽しいから」 と言う理由をずっと使っているらしい。 兄さんのことだから、それは本当に本心なんだろうし、付き合い続けるかどうかの基準として僕を置いてくれているなら嬉しくもあるけれど、そのせいで最近周りの視線が痛いので、そろそろ別の理由を考えてもらいたくなる。 というか、 「お願いですから、無用な敵を作らないでくださいね…?」 忠告と言うよりも懇願するような感覚で言った僕にも、兄さんは曖昧に、 「んー…」 と頷いただけだった。 頷いたと言えるのかすらも怪しいところだ。 こういう時、クラスが違うと言うのは困りものだ。 兄さんに何かあっても知るのが遅くなる。 双子らしくシンパシーでもあればいいのに、それがないことがいっそ憎らしい。 ハルヒ姉さん、どうしてそういう不思議を願ってくれなかったんですかと今更ながらに思えてくる。 ところが、どうやら心配すべきは我が身だったらしいことが、少しして分かった。 中間テストが近づいてきた頃になって、子供っぽい嫌がらせに見舞われるようになったのだ。 机に落書きとか教科書を捨てられるとか靴箱にごみを入れられるとか、よくまあそんな稚拙な嫌がらせを思いつくものだと呆れたくらいの。 …これくらい、全然堪えないんですけどね。 やっぱり、普段からにこやかにしているからだろうか。 それとも母さん譲りの穏やかそうな外見のせいだろうか。 僕は割と見くびられることが多い。 気が弱いとか頭がよくないとか、勝手にそう思われるのだ。 自分でそう思われるように仕向けている面もあるのだけれど、あまりに見くびられると面白くない。 しかし、面白くないからといって羊の皮を脱ぎ捨てて余計な厄介ごとを起こすくらいなら、羊の皮の下から様子を伺い、必要な時にだけ牙を剥きたい。 というか、そうする。 せっせと証拠を集め、情報を集め、罠を張る。 表面上は嫌がらせに怯え、あるいは参っているようなふりをしつつ、兄さんとほんの少しだけ距離をとって、兄さんを巻き込まないように慎重に振舞う。 そうして、もう少ししたらカタをつけられる、という段階にまで持ってったのに、 「ちょっといいか」 と兄さんに怒った調子で声をかけられてびくりとした。 「なに?」 極力平静を保ちながらそう聞き返しても、兄さんは誤魔化せない。 後ろ手に部屋のドアを閉めながら、僕をじっと睨んできた。 「お前がいじめにあっているらしい、って聞いたんだが?」 どこの馬鹿が口を滑らせたんだ。 舌打ちしてやりたい気持ちになりながら、僕は苦笑する。 「いじめってほどじゃないよ。馬鹿なやつらが遊んでほしがってるだけで」 「お前がそう言うってことは、過激な真似に出てきてるんだな」 当たりですよ。 兄さんのその察しのよさには感心するけど、もっと他のところでも発揮してもらいたいな。 「…なんで俺にまで黙ってた」 唸るように言われ、 「言う必要はないと思ったからだけど、だめだった?」 と僕は愛らしい弟ぶった顔で答える。 実際、言う必要なんてない。 僕だけで何とか出来るんだから。 「だめに決まってるだろ!」 兄さんが怒鳴ると、びくんと体が震えた。 これはもう、反射のようなものだ。 兄さんは父さんそっくりの美貌で、最近特に綺麗になってきていて、それだけに、怒る姿はとても怖い。 何より僕は、昔も今も兄さんに嫌われてしまうことが怖くて、泣きそうにすらなった。 すぐさま謝ってしまいたいとも思った。 それでも僕は、あえて反発する。 不機嫌な顔を作って、兄さんを睨み返す。 「どうしてだよ? 兄さんに言ったってどうしようもないだろ? 僕はいつまでも兄さんに守ってもらわなきゃならないような子供じゃないんだし、これくらい一人で何とか出来るよ」 「だが、」 「大体、誰のせいでこんな目に遭ってると思うの?」 そう言うと、よく分かっているらしい兄さんが顔を歪めた。 ……ごめんなさい、兄さん。 そんな顔をさせたかったわけじゃないんです。 ただ僕は、兄さんに危険性をちゃんと分かって欲しかっただけだ。 それに、兄さんから離れる日は遠くてもいずれ必ず来るんだから、それまでに兄さんに依存している状態から脱却したかった。 そうして、兄さんの邪魔にならないように、弟としてでも可愛がってもらえるようにしたかった。 だから、兄さんを怒らせたことを悔やんではいない。 それでも、兄さんに嫌われたかと思うと悲しくて、苦しくて、兄さんがいない時に限ってどうしようもなく落ち込み続けた。 兄さんが彼女とどこかを歩いているんだろうなと思いながら居間のソファで寝そべっていると、それだけで泣きたくなったくらいだ。 そんな状態をしばらく続けていたからだろうか。 はたまた兄さんとの喧嘩がすっかり筒抜けだったからだろうか。 こういう時には珍しく、父さんが僕らの部屋まで慰めにやってきた。 …と思ったら、 「そういう妙に不器用なところまで、僕に似てしまったんですかねぇ?」 という絶妙に腹の立つことを言ってくれたので、 「知りませんよ」 と噛み付いてやろうとしたけれど、残念なことに、兄さんと父さんは見た目がそっくりなので、それ以上反発出来なくなった。 というか、見るだけで正直つらいので、父さんすら見たくない。 見たら兄さんを思い出す。 「……大丈夫ですよ、きっと」 と父さんは優しく、兄さんとそっくりな声で囁いた。 「不器用でも、分かり辛くても、素直になれなくったって、そんなところもひっくるめて、受け入れてくれる人がきっと現れますから」 「…父さんにとっての母さんみたいに、ですか?」 僕の問いかけに対する答えは、穏やかな微笑で、聞くんじゃなかったと心底思った。 この永遠の万年新婚馬鹿ップルめ。 「それに、」 と父さんは僕が苛立っていることを分かっているだろうに、柳に風とばかりに受け流し、言葉を続けた。 「あの子も分かっていると思いますよ。あなたが頼ってこなかったのは、自分のことを考えてのことだと。分かっているけれど、頼って欲しかったと思って、あんな風に怒ったんでしょうね。……そういうところは本当に、母さんそっくりですから」 「だからって兄さんに何かしようとしたら、たとえ父さんでも殺しますよ」 割と本気で言うと、流石の父さんもあせったらしい。 「父さんは、母さん一筋です!」 と叫んだが、そんなこと、胎児の時から知ってます。 そんな風に話していると、兄さんが帰ってきた。 思わず逃げようとした僕の手を父さんが掴んでとめると、兄さんがこちらを冷たく睨んできた。 …怖いです。 正直、死んだ方がマシなくらい。 しかし父さんは平気な様子で苦笑して、 「これは…もしかして……」 とよく分からないことを呟いている。 「父さん?」 一体なんだって言うんです? と戸惑っていると、 「んー…いえ、ちょっと失礼」 兄さんには聞こえないくらいの小声で言った父さんが、いきなり僕を抱きしめてきた。 「全く、本当に、母さんそっくりで困りますねぇ!」 とデレデレした声で言いながら。 いきなり何をするんだこの馬鹿親父は! と驚いていると、兄さんが、 「何やってんだ!」 と怒鳴り、父さんを引き剥がしてくれた。 その顔は憤怒に染まっている。 「いえいえ、ちょっとした親子のスキンシップですよ?」 「黙れエロ親父。母さんに言いつけるぞ」 と兄さんは父さんを睨んで退散させた。 凄い。 思わず感心した僕だったけれど、その目がこちらに向けられると、びくりと竦みあがるしかなかった。 「お前もちゃんと抵抗しろ!」 と思い切り怒鳴られ、 「す、すみません」 と反射的に謝りつつも、 「でも、僕だって抵抗くらいちゃんとするよ。…今のは父さんが相手だったし、ちょっと、驚いて……反応が遅れただけで」 「……お前な」 呆れた声で言った兄さんは、僕の安全を確かめるように僕を見つめ、それからぽんぽんと優しく頭を撫でてくれた。 それだけのことが、酷く嬉しい。 それなのに、兄さんが珍しくも笑顔を見せてくれたから、更に嬉しくなる。 柔らかくて、どこか心配そうな笑顔。 「…お前、時々そんな風に迂闊なところとかあるだろ。案外脆いところも。……だから、心配なんだよ」 そう言われ、僕は嬉しくて笑ってしまった。 「説教してるんだからへらへらすんな」 と言いながらも、兄さんも笑ってて。 もう少しだけ、そう、本当にあと少しだけでいいから、兄さんにとって一番大事な弟でいたいと思った。 ああ勿論、嫌がらせには適切な処理を行わせてもらいましたよ。 言うまでもなく、兄さんには内緒ですが。 |