15年目の真実



今日は、ゴールデンウィークの二日目だ。
つまり、昨日が初日だった。
ここ何年かの間に、あれこれとカレンダーが様変わりしたりもしたものの、今年はそんなものに左右されることもなく、ゴールデンウィークの初日は、15年前と全く同じ日付である。
カレンダーを睨んでいると、それだけで泣きそうになって、俺はそっと目を伏せた。
家の中には俺以外誰もいない。
有希は何年も前に嫁いだし、今日は帰ってくる予定もない。
望実は学校の友達と遊びに出かけて、返ってくるのは夕方になるはずだ。
そして一樹は、……出張で、今日の夜まで帰ってこない。
「…、ぅ、そ、吐き……」
絶対に離さないと言った。
大事にしてくれると言った。
寂しがらせないと約束した。
それなのに、
「…っ、一樹、の、ばか…!」
泣きそうな声で呟いても、怒りを込めて罵っても、返事は返ってこない。
昨日は、15回目の結婚記念日だった。
それを、一樹は忘れたんだろう。
気にする風もなく出張に行くことになったと俺に告げ、詫びのひとつもなかった。
俺が、
「結婚記念日だってのに、出張に行くなんて、」
とよくある昼メロかサスペンスドラマみたいに文句のひとつでも言えば、一樹のことだからあれこれ言い訳もしてくれただろうし、俺をたとえ嘘ででも、納得させてくれただろう。
でも、言えなかった。
自分から誤魔化そうとすることさえ、俺にはしなくていいと思われたんだろうか。
…それだけの、価値もない、と。
思えば、このところ残業だの接待だので帰りが遅い。
休日出勤も多い。
俺もあれこれ忙しくて気にしないようにしていたが、ちょっと異常なほどだったのかもしれない。
一樹が、浮気でもしてるんだとしたら、その相手が、女の子なら、
「…勝てない、よな」
情けない声が漏れて、余計に泣きそうになった。
これまで一度もこんなことはなかったのに。
俺の方が締め切りに追われて忘れちまったせいで、一樹を泣かせたことはあっても、一樹はこれまで、たとえ何があっても覚えててくれて、俺を喜ばせてくれたのに。
なんでだろう。
お互いに、忙しすぎたのがいけなかったんだろうか。
それとも――もう、夢から覚めなきゃならない時が来たのかもしれない。
一人きりの家の中にいるのは、怖かった。
何か悪いことばかり起こってしまいそうに思えた。
だから俺は、一度家を出たいと思った。
今日になれば一樹も帰ってくるんだ。
望実を一人にする時間もそう長くはならないだろうから、今から出て行っても構わないだろう。
望実の顔を見たら決心が緩むか、それとも余計に固まるか分からないと思うと、見たくないと思えたのは、実の娘に対して薄情と言うものだろうか。
考えながら、大きめのスーツケースを取り出したものの、詰め込むものはろくにない。
持っておきたいものなんて、一樹との思い出のものだとか、望実の写真だとか、そんなものばかりだ。
だが、今、それを持っていくのはあまりにも未練がましく思え、無理矢理荷物から外した。
一樹に買ってもらったものも入れたくない。
望実にもらったものも。
そうなると残るのは、ちょっとした身の回りの品と、有希に関するもので。
ああそうだな、実家に帰るのが嫌なら、有希に相談しようか。
有希ならどうにかしてくれるような気がして、だが、そうやって安易に娘を頼って、娘の家庭に迷惑を掛けるのも、親としてどうなんだろうと思いながら、それでも他に頼るあてはないように思えた。
情けない。
そう思うと、こんな俺だから仕方ないのかもしれないと、諦められる気がして安堵した。
荷物をまとめて、玄関に立つ。
かばんの中身は結局、ほとんど仕事道具ばかりになっちまった。
仕事以外は家事しかして来なかったんだからそうなるだろう。
一樹と、いや、家族みんなで15年も暮らした家をぐるりと見つめる。
ここでもうずっと暮らしていくはずだったのにと思えば胸が痛いし、この家の中は楽しい思い出で溢れているように思えた。
苦しいことも悲しいことも辛いことだってあったはずなのに、どうしても思い出せないのは、今からここを出て行くという感傷によるものなのか、それとも別の苦しみや悲しみで胸がいっぱいになっちまっているからなのか。
靴を履いて、それでもまだ少し躊躇って、俺は部屋の中を見る。
「……さよなら。元気でな」
呟きは、俺以外の誰の耳にも届かないまま、家に吸い込まれて消えた。
玄関のドアノブに手をかける。
その冷たさと重さが、自分の気持ちの反映のように思えた。
しかし、重くても冷たくてもドアは開く。
もうこれ以上部屋の中を見るのが辛くて、振り返らないまま後ろ手にドアを閉めた時、
「…お母さん?」
と、驚きのあまり、かえって軽くなったような、ぽかんとした響きの声がした。
「望実…」
今度15になる望実は、思春期の女の子らしく、最近は俺と口もきいてくれなくなっていた。
一樹とは話す、ファザコンぶりは相変わらずだ。
いつまで経ってもお父さんっ子で困る、なんて笑っていられたはずなのに、いつからだろう?
多分、俺は本気で望実に嫉妬してた。
それを感じて、なのかも知れない。
望実がよそよそしくなったのも、一緒に食事すら取ってくれなくなったのも。
望実は、俺が出て行くと知ったらむしろ喜ぶかもしれない。
悪いのは俺なんだから、と思うと、自分の情けなさのあまり、小さく笑えた。
「早かったんだな?」
望実は緊張したような、珍しくも真剣な顔で俺を見つめた。
「え、ええ…。他の子たちの都合が悪くなってしまったので、先に帰ってきたんですけど…お母さん、どこかへ行かれるんですか? そんな大きな荷物を持って」
「ああ、ちょっと出かけてくる。夜には父さんも帰って来るから、それまで一人でも平気だろ?」
「旅行…ですか?」
「…そんなとこだ」
「お母さん一人、で?」
「…ああ」
望実の声がかすかに震えているように思ったのは気のせいだろうか。
いや、気のせいではなかったらしい。
「っ、旅行なんて嘘ですね!?」
えらい剣幕で怒鳴った望実が、いきなり俺を抱きしめた。
その手も、体も、震えている。
「望実…?」
「嫌ですっ、出てったり、し、ないで、ください…っ!」
え。
どうしてだ、と戸惑った時点で、俺はもう母親失格だろうな。
「俺が出てったって、お前は困らんだろ。…大好きな父さんと仲良くやってくれ」
なんてことを言っちまったのも。
それくらい、俺には余裕がなかった。
自分の悲しみや苦しみでいっぱいで、望実の気持ちを考えることすら出来なくなっていたんじゃないかと思う。
「ちがっ、違う、ん、です…っ! ごめんなさい、おかあ、さん、ごめんなさいぃ…!」
こんな風に望実が声を上げて泣くなんて、小さな頃以来だと思った。
しかも、俺に縋って泣くなんて、本当に小さかった頃、何も訳の分かってなかった頃以来だろう。
最近成長著しい胸のふくらみを押し当てられることにうろたえる以上に、望実の態度のあまりの急変っぷりに、俺はもう気が狂うかどうかして、自分に都合のいい幻覚でも見てるんじゃないかとさえ思えた。
「落ち着け、望実、何が違うって…?」
「お、かあさん、が、お家の、中に、入って、荷物を置かなきゃ、言えませ…っ……」
泣きじゃくりながら、今度は俺の荷物を奪おうとする。
それに圧されて荷物を手放せば、かなり強引に玄関へと押し込まれた。
その勢いで、ほとんど押し倒されるような形で上がり框へ腰を下ろせば、また抱きつかれた。
望実はまだぽろぽろと涙をこぼしながら、
「僕が本当に好きなのは、お父さんじゃなくて、お母さんです…っ…」
「……え」
にわかには信じ難い言葉だった。
望実はもうずっと、それこそ物心ついてすぐくらいの頃からずっと一樹のことが大好きで、俺なんかどうでもいいとばかりに扱ってたのに。
「ほんと、です…っ、し、信じて、もらえないかも、しれませんけど…でもっ、僕、お父さんより、お母さんの方が、ずっとずっと、大好きです…」
「なら、なんで…」
「だ、って、」
言いながら、望実の顔は真っ赤になっていく。
恥ずかしそうに、赤く、赤く染まっていく。
「お母さんのことが、好き過ぎて、好きって言うのも、お母さんに近づくのさえ、恥ずかしくなっちゃうんです…っ。ち、ちっちゃい頃はまだ、よかったんです。お母さんのこと見てたら、それでよかったし、お母さんが困ったりしてるの、見るのも、好きだったから。でも、最近は、僕、おかしいんです。お母さんを見るだけで、お母さんのこと、好きだなって思って、だから、それだけで、恥ずかしくって、お母さんに知られたらどうしようって、変な子だって思われるかも知れないって思って、それで、お母さんと顔をあわせられなくなっちゃって、でも、っ、でもっ、…うぇえ、ごめんなさいぃぃ…」
そう言ってまたわんわん声を上げて泣き始める望実を、俺はまだ信じられないような気持ちで見つめた。
小さい頃から俺のことが好きだった?
好き過ぎて、顔を見るのも恥ずかしい?
嘘だろ…。
「ほんとですっ…! 僕、お母さんのことが一番好きです…っ! 他の誰より、何よりも、好きなんですっ」
「って、お前、彼氏の立場は…」
「彼氏なんていたことありません。ただのお友達です。…いるって分かったら、お母さんがどう思うかなって思って、それで付き合ってみただけですから、とっくに別れました」
って、おい。
「僕、ね、本当にお母さんが好きなんです。お父さんなんかに負けないくらい、大好きなんです。だから、どうしても出て行くって言うなら、止めません。止めませんけど…っ、僕、も、つれて、って、ください…っ」
「望実…」
「お母さんは、僕なんて、嫌いかも、しれませんけど、でも、僕は、お母さんが好きなんです…」
「…ばか。俺がお前を嫌うはずなんてないだろ。…腹を痛めて産んだ、大事な娘だぞ」
言いながら、俺は望実を抱きしめた。
まだ成長途中の華奢な体を抱きしめるのも、一体いつ以来だろう?
もうずっと、触れてすらなかった。
望実が嫌がるからと、しようともしなかった。
でも本当は、それじゃいけなかったんだな。
「ずっと、こうやって、して、ほしかったです…。お母さんに、ぎゅって、して、もらいたくて、……されてる、お父さんが、妬ましいくらい、羨ましくって……」
「気づいてやれなくて、ごめんな」
「…自業自得だから、それはいいんです」
そうはいかんだろ。
「ごめん。母さんは、母親失格だな」
「そんな…っ! 僕の方こそ、長い間嘘ばっかり言ってごめんなさい。…お母さん、嘘なんて、嫌いなのに……」
「いいって。ほら、分かったからもう泣くな。お前に泣かれると困る…」
「は、い……」
軽く鼻をすすって、望実は小さく笑ってくれた。
恥ずかしそうに照れ臭そうに、それから…幸せそうに。
「お母さん」
「ん?」
「…大好きです」
「俺も、大好きだよ」
望実は感極まったように俺の首へ腕を絡めるような形で抱きついてきたかと思うと、
「大好きです…。大好き…。……お母さん、いい匂いがします…」
「いい匂いって……」
「お母さんの匂い。……僕の、大好きな匂い」
そのまま眠り込みそうな声で呟かれるとくすぐったい。
が、それ以上にまずいものがある気がする。
「あー……望実」
「はい?」
「せっかくのところに水を差すようで悪いんだが、もう少し体を離してくれ」
「え? どうしてですか? …っ、やっぱり、僕のことなんて…」
「違う違う! 違うから!」
お前、そんな微妙にネガティブに陥りやすいところまで父さんに似なくてよかったんだぞ。
「じゃあ、なんですか?」
「…その、だな」
「はい」
「………胸、が……当たって……非常に恥ずかしいものがあるんだが…」
真っ赤になりながら言えば、望実はゆるゆると視線を下げ、自分の胸が俺との間に挟まれて潰されているのを見つめ、それからゆるゆると俺の顔を見つめて、
「…お母さんの、すけべ」
と楽しそうな笑顔で言いやがったが、そこはそんないい笑顔で言うところじゃないだろう!?
「えへへ、冗談ですよ。おっぱいくらい平気ですよー? だって僕、お母さんのこと、だぁい好きですもん」
言いながら、望実はまるで俺の反応を楽しむようにぎゅむぎゅむと胸を押し付けてくる。
いや、まるでじゃない。
明らかに面白がっている。
「こらっ、望実! 年頃の女の子がたとえ親にでもそんなことするんじゃ…」
と俺がたしなめようとしたところで、玄関のドアが開き、
「………一体どういう事態ですか」
と、夜まで帰って来ないはずだった男の声が低く静かに響き、一気に血の気が引いた。
「い、い、一樹…!? お前、夜まで帰らないんじゃ…」
「思ったより早く終わったんで、急いで帰ってきたんです。そうしたら、なんですか? なんで実の娘に自分の奥さんを寝取られかけてるんですか、僕」
「寝取られ…って、お前はまた何を言い出すんだ何を!」
「違うんですか? そうにしか見えませんよ」
そう言っている一樹の顔が怖い。
それこそ、いつ以来見るのかと思い出すのも恐ろしいほどに。
こんなに本気で怒るなんて。
怒りのあまり、逆に淡々としている響きの声すら怖かった。
しかし、望実は怯みもせず、挑戦的に一樹を睨んだ。
当然のように俺を解放してはくれないのはどうなんだ。
頼むから解放してくれ。
せめてもう何センチか距離をとってもらえると助かる。
「僕としては、むしろお父さんに感謝してもらいたいくらいですね。…お母さんを引き止めててあげたんですから」
「引き止める? 一体どういう意味でしょうか」
この父子が敬語で話すのはいつものことなのだが、いつもは感じられないはずの寒々しさに場の空気すら凍り付きそうだ。
…正直、怖い。
「お母さんは一人で出て行こうとしてたんですよ。そこのスーツケースが見えるでしょ?」
「出て…!? 一体どうしてですか!?」
そのことだけで、怒りも忘れてうろたえた一樹に、さっき引いたはずの血の気が戻ってきた。
むしろ、沸点まで上がった。
「どうしても何もあるか…っ! お前が全部悪いんだ! 結婚記念日を忘れたり、して、俺のこと、も、忘れて、仕事、仕事って……」
ぼろ、と涙がこぼれた。
望実の目の前で恥ずかしいと思っても止められないほど大きな涙が伝い落ちる。
声を上げて喚きそうになるのを堪えるのが限界で、優しく抱きしめてくれる望実の暖かさが嬉しかった。
なのに、
「…結婚記念日、覚えててくださったんですか?」
という一樹のわけの分からん言葉で、また頭に血が上りそうになる。
せっかく望実のおかげで落ち着きかけていたのが容赦なく再燃する。
「忘れたのはお前だろ!?」
「忘れてません」
嫌にはっきりと、一樹は告げた。
「忘れたりするわけないでしょう。あなたと二人で歩んでいくことを、皆さんの前で、あなたのご家族ばかりか、涼宮さんたちの前で、誓えたあの日のことを、忘れたりするはずないでしょう。僕の人生において、最も輝かしい日のひとつです。今だって、鮮明に覚えています。あなたのウェディングドレス姿も、笑顔も、何もかも。そんな僕が、結婚記念日と言う大事な日を忘れるとでも?」
「じゃあ、なんで、そんな日に出張なんて行ったんだよ…」
恨みがましく睨みつけて唸れば、古泉は申し訳なさそうに苦笑して、
「せっかくの、記念すべき15年目の記念日でしょう? ですから、今年は奮発して、二人で旅行にでも行きたいと思ったんです。そのために、どうしてもまとまった休みが欲しくて、仕事を詰め込みました。出張もそのためだったんです。あなたに説明しなかったのは、その、…勿論、あなたを驚かせたかったというのもあるのですが、それ以上に、ですね…」
言い辛そうに言葉を途切れさせた古泉だったが、困ったように眉を下げて、
「…あなたがあまりにもつれなかったので、言うのが恥ずかしくなってしまったんです。まるで、僕だけがはしゃいでいるようで…。それだけのことで、あなたを誤解させてしまって本当にすみませんでした」
「俺のことなんか、もう、飽きたんじゃ、ないの、か…?」
「あり得ませんよ、そんなこと」
そう断言した一樹は、靴を跳ね脱ぐようにして脱ぎ捨て、俺の傍らに膝をついた。
望実に唸られながら睨まれても構わず、だ。
「何年経っても愛しています。ずっと、あなたが好きです。この気持ちが強まることこそあれど、薄れるなんてことは絶対にあり得ませんよ」
「…一樹…っ……」
真っ直ぐな優しいが強い眼差しに、本当のことなんだと分かった。
ほっとすると、もうひとつだけ涙が零れ落ちた。
暖かく、ひとつきりの涙が。
もう大丈夫だと思えた。
ところがである。
「お母さんを悲しませるような人に、お母さんは渡せません」
と望実が堂々の宣戦布告をしやがった。
そのせいで、確かに緩んでいたはずの古泉のまとう空気が一気に緊張し、その表情にも怒りか苛立ちらしいものが滲む。
「やっぱり、お母さんのことが好きだったんですね…」
気づいてたのか。
「気づきますよ。この子は呆れるほど僕にそっくりですからね」
一樹、さっきから顔が怖いぞ…。
呆れ、かつ怯む俺ではなく、真っ向から睨み返している望実を見つめ、一樹ははっきりと言った。
「たとえ娘であるあなたに言われても、到底頷ける言葉ではありませんね。渡せませんも何も、この人はもうずっと僕の伴侶です。勿論、この先も、ね」
その言葉と共に、かなり強引な力で以って望実は俺から引き剥がされ、俺は一樹に抱きしめられる。
「い、一樹、娘相手にそこまで敵意を丸出しにしなくても…」
と俺がとりなそうとしたってのに、望実は負けじと、
「分かってないのはお父さんの方です。お母さんと僕は戸籍上もちゃんとつながりがありますけど、お父さんなんて所詮同居人でしかないんですから」
の、望実!?
「戸籍なんて、大した問題じゃありませんね。それに、いずれこの国でも同性婚が認められるでしょう。そうなったら、一番乗りでも果たしてやりますよ」
「どうなるか分からない先のことなんて今は関係ありません。僕は今のことを言ってるんですから」
じわじわと熱を帯びてくる口論に、俺は何を思えばよかったんだろうか。
ひたすら、唖然とするしかなかった。
間抜け面をさらしながら、内面がよく似た娘と夫の論理的なんだか感情的なんだかよく分からん言い争いを聞いていると、そのうちなんだか笑えてきた。
だって、そうだろ?
こんなにも愛されてたのに、そうじゃないと思い込んでたなんて、酷く勿体ないことをしてたんだと思うと、自分が愚かしくて笑えた。
それ以上に、こんなにも愛されていることが嬉しくて、笑顔になる。
だから俺は、話すのに夢中になって一樹の拘束が緩むと、望実と一樹、二人をいっぺんに抱きしめた。
「お母さん…っ?」
「どうしたんですか?」
戸惑う二人を力いっぱい抱きしめて、望実には頬へ、一樹には唇へ、キスをした。
「愛してる」
黙り込んだ二人の顔立ちは、あんまり似ていない。
残念ながら、望実は俺によく似た…というか、俺の一族に似た、つまりはベビーフェイス系の可愛い顔だし、一樹はいくつになっても変わらず、整った顔立ちの美青年である。
そんな二人が、そっくり同じような顔に見えたのは、その浮かべた表情が同じだったと言うことだろう。
幸せそうな、くすぐったそうな、照れ臭そうな顔。
口論していたことも忘れたような二人に、俺は小さく笑って言う。
「愛してる。二人とも大好きだ。…ありがとな? こんな、だめな母さんで、妻、なのに、愛してくれて……」
「そんな、お母さんは、」
等と言おうとするのを遮って、俺は続ける。
「ありがとう。…もう、よく、分かったから、俺は、もっとちゃんとしてられるようにするからな。……だから、言い争うのはもうなしだ。いいな?」
渋々、と言った様子で二人が揃って頷くのを見ていると、本当によく似た親子だと思う。
それこそ、呆れたいくらいに。
俺は望実の頭を撫でてやりながら、
「これからは、もっと素直に甘えてくれよ?」
「う、わ、分かりました…。努力します」
「ああ、頼む」
恥ずかしそうに顔を赤らめながら頷く望実に目を細めつつ、
「それから、お父さんの気持ちはよく分かったから、許してやってくれないか?」
「…お母さんが言うなら、許してあげます」
でも、と望実は一樹を睨んで、
「次またこんなことがあったりしたら、今度こそ、倫理的にどうであろうと、お母さんはもらいますからね…!」
ちょっと待て、何でそうなる。
「いいでしょう。そんなことはもう二度とありませんよ」
そっちも頷くなよ、おい!
「いいじゃないですか。…あなたを悲しませなければいいんでしょう?」
「……それだけじゃ、嫌、だ」
恥ずかしさのあまり顔が赤くなるのを感じながら、それでも何かひとつは言ってやりたくて、俺は真っ赤になった顔を一樹の肩に押し付けながら唸るように呟いた。
「…もう、寂しくさせるな」
甘ったれた言葉だ。
それこそ、自分のことを棚にあげたような。
それなのに、一樹は嬉しそうに笑うのだ。
「ええ、誓います。もう、あなたを寂しがらせたりなんてしませんよ」
すっかり機嫌を直した一樹は、さり気なく俺を抱きしめ直し、望実を軽く遠ざけすらしながら、
「旅行は勿論二人きりで行きましょう。望実のことは、実はもう、有希に面倒を見てもらえるよう頼んであるんです。出版社の方にも連絡して、あなたが休めることは確認してあります。旅程もちゃんと組みましたし、チケットも取ってあるんです。後は、あなたが頷いてくださるだけですよ」
そう言われ、つい、望実を見ると、望実が寂しそうな縋るような目をして俺を見ていた。
…が、すまん、望実。
お土産買ってくるから許してくれ…!
「………仕方ありませんね」
不承不承、というのを隠しもせずに、望実は言った。
「お母さんの頼みだから、許してあげます」
いかにも拗ねたような調子で言われても、その方が前よりずっと嬉しく思えた。
一樹が恥ずかしげもなく抱きしめてくることさえ、嬉しくて、幸せで。
結婚15年目にして気づけたことに、呆れるより前に本当に幸せだと思えた。