ずっとずっと大好きだよ



最初こそ、いつもと変わり映えのないようなケンカだったんだ。
ただ、兄ちゃんがまたちょっとへまをやらかして、俺に誤解されるような迂闊なことをしちまったってだけで。
でも、俺は、ケンカのきっかけや内容や兄ちゃんの謝り方そのものよりも、そんな風に何度も兄ちゃんとケンカしてしまうことこそが悲しくて、兄ちゃんの部屋を飛び出した。
やっぱり合わないんじゃないかとか、兄ちゃんといたってどうしようもないんじゃないかなんて、思ってしまう。
それくらい落ち込んで、酷い顔になっているという自覚があったから、俺は素直に家に帰ったりせず、飛び込んだ喫茶店の薄暗い隅の席で突っ伏していた。
そこへ、
「キョンくん、大丈夫?」
と声が掛けられた。
驚いて顔を上げると、そこには長門がいて、だが、いつもと違って分かりやすい表情を浮かべていた。
「長門…」
「あたしのことは大丈夫だよっ。あたしの知り合いにはあたしだって認識されないように、ちょろっとだけ工作してあるから」
そう笑って見せながら、長門は俺の向かいに腰を下ろした。
そうして、さっきのように心配そうな顔で俺の目を覗き込みながら、
「…ねえ、そんなに落ち込んでるの? いっちゃんともう付き合ってられないとか、思っちゃうくらいに」
心を読んだのかとかなんとか言うより前に、俺は頷いていた。
頷くと余計に泣きそうになる。
熱を持った涙腺は油断をすればすぐさま決壊しそうですらある。
「いっちゃんと、別れちゃうの? でも、そしたらキョンくん、寂しいよね」
だからやめておけと、長門は止めてくれるのだろうと思った。
長門は兄ちゃんの背中を押してくれたことがあるくらいだから、俺たちの、特に兄ちゃんの味方だと思っていたのだ。
しかし、長門は驚くべきことに、
「……だったら、ねぇ、あたしと付き合わない?」
と言った。
あまりのことに俺は驚きの声も上げられず、ただまじまじと長門を見つめた。
長門は苦笑して、
「あたし、ずっとキョンくんが好きだったんだ。…キョンくんは、気付いてくれてなかったみたいだけど」
と言った。
どうしてだろうか。
その言い方も、声も、表情すらも、悲しいものに見えた。
なのに、笑顔なのだ。
幸せそうですら、あった。
「好きだよ、キョンくん」
「…本気で言ってんのか……」
「そうだよ。もうっ、冗談だと思った?」
そんな風に、それこそ冗談のように、笑いながら怒って見せながら、長門は繰り返す。
「あたしは、本当にキョンくんが好きだよ。いっちゃんのことが凄くすっごく羨ましくてたまらないくらい、キョンくんが好き。もうずっと、そうだね、出会ってからずっと、好きだよ」
「…なのに、兄ちゃんと仲がいいのか?」
「だって、それはまた別のことだもん。いっちゃんは友達として最高だと思ってるからねっ」
「俺と兄ちゃんのことを応援してくれたりしたんだろ? なんで、そんなことが出来たんだ?」
戸惑いを隠せずにそう問う俺に、長門は事も無げに微笑む。
「だって、しょうがないじゃん」
しょうがないと言って諦めるとにしては、あまりにも明るい声で。
「キョンくんが好きなのはいっちゃんで、あたしじゃキョンくんをいっちゃん以上に幸せに出来ないって思ったんだもん。だったら、キョンくんがいっちばん幸せになれるようにしたいって思うのが、当然じゃない?」
そんなのは、俺には理解出来なかった。
俺は兄ちゃんが好きだから、独り占めしたかった。
他の誰にも与えたくなかった。
たとえ兄ちゃんどころかほかの誰か、この世界の全てと引き換えにしたって、兄ちゃんを手に入れて、幸せになりたいと思ったことすら、一度や二度でなくあった。
それなのに長門はそんなことを言う。
戸惑う俺に言い聞かせるように、柔らかく、
「あのね、キョンくん、愛ってやつにも色々あるんだよ。あたしは、キョンくんが好き。でも、好きだからこそ、キョンくんが一番好きな人の側でにこにこしててくれるのが、一番嬉しいの。その、キョンくんの一番好きな人があたしじゃないってことが、寂しくも悲しくもないって言ったら、さすがに、嘘になるけどさ」
そう言っておいて、長門は慌てたように言い足した。
「それにあたし、いっちゃんのこともかなり好きだよ。キョンくんといっちゃんなら、キョンくんの方が断然好きだけど、友達として、いっちゃんが好き。いっちゃんが、大して抵抗も感じないで、こんなあたしを受け入れてくれたから…」
「それなら、兄ちゃんの方が好きなんじゃないのか?」
素朴な問いをぶつけてみれば、長門は笑いながら手を振って否定する。
「違うよ。だってね、確かに、こんなあたしを受け入れてくれたのはいっちゃんが最初だったけどさ、あたしを最初に人間として扱ってくれたのも、あたしのことを労わったり、慰めたり、あたしの心ってのを考えてくれたのって、やっぱり最初はキョンくんだったもん。だから、だか、ら…」
長門の目から、涙が溢れて落ちた。
そのことに、驚かされる。
長門が泣くなんて。
それも、こんな風に大粒の涙を流して。
そう思うってことはやっぱり、俺は長門のことを普通の人間扱いしてないってことじゃないのかと思うのに、だが、そんな俺を、長門はずっと好きでいてくれたんだと言う。
だからこそ、その涙が重く、拭い取ることすら出来ないばかりか、慰めの言葉を口に出来るだけの価値すら、俺にはないように思えた。
長門は小さくしゃくり上げながらしばらく泣き、ようやく、それでも自力で泣き止むと、わざと笑って見せた。
痛々しいほどに、はっきりと。
「だから、チャンスかもしれないって思ったから、こんなことだって、言っちゃうんだよ。…ふふ、びっくりした? あたしも結構したたかなんだよっ?」
そう言っておいて、長門は涙を袖で綺麗に拭い取り、そのままぐいっと身を乗り出してきた。
「ねえ、キョンくん、あたしじゃだめ? いっちゃんの代わりにもなれない? 言っとくけど、キョンくんのことを思う強さと深さは、いっちゃんにだって負けてないつもりだよ!」
「って、言われても……」
正直、困る。
だって俺は、兄ちゃんのことを嫌いになったわけでもなければ、そもそも長門が俺を好きだと言ってくれるそのことをまだ完全に理解し切れていないような有様なのだ。
「あたしは、キョンくんが好き。そのことだけでも分かってよ」
「う…」
「それとも、だめ? あたしなんかがキョンくんを好きでいちゃ、迷惑、かな?」
悲しげな上目遣いで問われ、俺は慌てて首を振る。
それだけで長門はほっとしたように微笑むのだ。
酷く、健気に。
「よかった。…それだけでも、あたしは嬉しいよ。キョンくんってやっぱ優しいね。…大好き」
さっきから連発される言葉に、無理も誇張もないように思えた。
ただ、そう思うから口にしているだけと言うように、とても自然に。
でもだからこそ、同じように答えられず、その想いに応えられない自分が、申し訳なく思えた。
「で、どう? いっちゃんみたいなヘタレじゃないから、あたしはキョンくんを悲しませたりしないように、キョンくんのことを一番に考えて、キョンくんのためだけになんだってしちゃうよ? うん、少なくともいっちゃんみたいに、キョンくんを悲しませたりはしないって誓える。だから、あたしと付き合ってみない?」
「え、あ、いや…それは……」
どう答えりゃいいんだとおたおたしていると、窓の向こうに兄ちゃんの姿が見えた。
どこをどうやって探してきたのか、こんなところまでやってくるなんて、凄い。
おまけにばっちり目があって、兄ちゃんがドアの方へ走っていくのが見えた。
必死の顔に感じるのは、愛しさと嬉しさだ。
兄ちゃんも、まだ俺のことを好きだと思ってくれている。
俺のことを大事に思ってくれている。
そう分かるだけで、幸せで。
「…あーあ、時間切れみたいだね。ざぁんねん」
と長門は悪戯っぽく笑った。
「もうちょっとでキョンくんを落とせるかと思ったんだけどなー」
とまで言っている。
「…悪い」
俺がなんとかそう謝ったところで、長門はにんまりと笑い、いきなり予想だにしなかった行動に出た。
兄ちゃんがもうすぐそこにいるってのに、俺を引き寄せて強引にキスしたのだ。
呆然とするしかないのは俺だけではなく、至近距離でそれを目撃しちまった兄ちゃんも同様らしい。
怒鳴るのも怒るのも忘れて突っ立っている。
それにも構わず、長門は笑顔で俺に言った。
「忘れないでね? あたしがキョンくんを本当に本当に大好きってこと」
そうして、俺が答えなくても気にせずに、すったかすったか軽い足取りで出て行こうとする。
「長門…っ」
思わず呼びとめようとした俺を振り返って、長門は恥かしげもなく、店中に響き渡る声で、
「ずっとずっと大好きだよ!」
と言ってのけたのだった。