唐突に、視界が開けるような感覚がした。 まるで夢から覚めたような感覚。 実際、俺は夢から覚めたんだろう。 …目覚めたくなんかなかったってのに。 俺にとって、現実は酷いだけだった。 いたくない世界だった。 この世界は、俺から古泉を奪った世界だから。 古泉のいない世界なんて、いる価値はない。 古泉がいないなら死んでしまいたい。 でも、死ぬことは許されないのだろうと、何故か分かった。 どうして俺がいきなり正気に返ったのかと言う理由も何故か分かった。 おそらくこれが、以前古泉が言っていたのと同じ感覚なんだろう。 ――分かってしまうのだからしょうがない。 諦観を孕んだ言葉は鮮やか過ぎるほどだというのに、もうあの声を聞くことは出来ない。 幻の中ですら、許されない。 ハルヒが望んだから、俺は現実に引き戻された。 もう気が狂うことも、自殺することも許されない。 まだ長い残りの一生を、天寿を全うするまで生き通すしかない。 俺が正気に返ったことで、家族はきっと喜ぶんだろう。 妹も随分大きくなっている。 結婚の話が出てくる前に、兄が精神病院から出ることになったのはむしろ喜ばしいことなのかもしれない。 そう言って自分を慰めようとしてもだめだった。 ただひたすら悲しい。 もう古泉と一緒にいられない。 たとえ幻のそれであっても、古泉といられれば俺は幸せだったのに。 それでも俺は現実に戻らざるを得ない。 ――ハルヒがそう望んだから。 いつも通り、いくらかの警戒を含んだ様子で俺の状態を見に来た先生に、俺は真っ直ぐ目を向ける。 古泉に、少しだけ似ているところがあるこの先生が、俺は結構好きだった。 「先生、」 俺から声を掛けるなんておそらく初めてのことだからだろう。 先生が驚きに目を見張る。 更にその目が大きく見開かれたのは、俺の目が完全に正気だと分かったからだろう。 やっぱり先生は腕がいいらしい。 「…長い間、お世話になりました」 「あなた…」 「古泉は、もう……いなかったんですね」 分かっていた。 だが、そう言葉にすると余計に堪えた。 泣きそうになるのをぐっと堪えたが、俺は果たして古泉のようにうまく笑えたんだろうか。 慌てた先生によってあれこれ検査され、家族にも引き合わされ、俺の正気はあっという間に証明された。 「時にはあるものではあるんです。何か特にきっかけがあったと思われないのに、急に回復するということも。でも……あなたはもうだめだと思っていました」 困惑を滲ませながら説明した先生に、お袋も親父も、妹も一緒にぼろぼろ泣きながらお礼を言った。 俺はと言うと、改めて時の経過を認識し、今更ながら罪の意識に似たものを感じ、胸を疼かせた。 俺の体の方がおかしいんだろうが、妹はもう俺と並んでいたら俺と同じか、下手をすると俺より年上にしか見えないくらい成長していた。 本当に俺の妹なんだよなと確認してみたら、 「…っ、キョンくんの、ばか! もう絶対、お兄ちゃんなんて呼んであげないんだからね!」 と怒鳴られ、ついでに抱きしめられた。 非常に居心地が悪いのは、妹がある意味で朝比奈さんのように立派に成長していたせいだ。 「…すまん」 「……ほんとに…よかったよ…」 そう言って俺の肩を濡らす妹を、俺は出来る限り優しく抱きしめた。 退院間際の俺を見舞いに来たのは、家族だけじゃなかった。 妹が知らせたらしく、ハルヒと谷口、国木田、それから長門も来てくれた。 朝比奈さんが来ないのはつまり、あの人が帰って行ってしまうほど長い時が過ぎていたということに相違ない。 「この…っ、馬鹿キョン!」 そう言ってハルヒは泣いた。 「あたしのこと、ちゃんと分かる? ほんとに、分かってる?」 「ああ。…お前が高校に入学して早々にほざいたとんでもねえ台詞も覚えてるとも」 「…ばか」 ハルヒが泣くほどのことだったんだろう。 俺が徹底的にハルヒのことを忘れていたと言うことも、改めて思い出したということも。 だが、その涙は俺の心を少しも波立たせられなかった。 憎しみが湧かないだけいいのかもしれない。 しかし、罪悪感も懐かしさも何もない。 どこまでも冷めた、マヒしきったような心だけがあった。 谷口と国木田は、 「お前、ほんと変わってねぇな。俺たちなんかこれだけおっさんになっちまってるってのに」 「谷口、キョンだって大変だったんだから、そういうことを言うのは不謹慎だよ」 お前らだって、変わってないだろ。 そう笑った俺に、病室の中にいた誰もが柔らかく微笑んだ。 「お帰り、キョン」 「そうだな。お帰り」 「お帰り」 口々に声を掛けられて、ぽつりと思った。 そうか、俺は帰ってきたのか。 それならまだ、あの幻想の世界はどこかにあるのだろうか。 またそこへ、赴けるのだろうか。 俺がそんなことを思っていると見透かしたわけではないのだろうが、ハルヒは思い出したように背後を向くと、 「ほら、有希もなんか言ってやんなさい!」 と言って長門を後ろから押し出した。 長門はあまり変わっていなかった。 周囲に違和感を抱かれない程度に成長して見せたとでも言うような姿をしていたが、その目の色は以前と何一つ変わりない。 「よう、久しぶりだな」 こくりと頷いた長門が、俺の手に軽く手を触れさせた。 そう思うと、密やかな声が耳ではなく頭の中に響く。 『退院したら、私の部屋に来て』 驚いて目を上げると、長門は唇を硬く引き結んだまま頷いた。 今のはテレパシーとかいうものなんだろうか。 どうやら長門の宇宙人的能力も健在らしい。 ハルヒに気付かれないよう目配せしながら、俺たちはそのまましばらく話しこんだ。 誰がどうなったという話もさることながら、外界の変化こそが俺の聞かなくてはならないことだった。 いくらか、社会復帰への訓練も兼ねてあれこれ学習させられてはいるものの、おそらくそれでは足りないことはまず間違いない。 もしかすると、長門が俺を呼んだのもその関係だろうか。 なんとかしてくれるなら助かる気もするのだが、それもまた味気なく思えるのは、俺がまだ古泉のことを引き摺っているせいだ。 忘れたくない。 古泉への愛しさゆえにこんなことになったなら、最後までそれに浸っていたい。 そう思うのは俺の弱さで間違いない。 だが、これまで取り上げられたくなかった。 そんなことを考えつつ、見慣れない、歩き慣れない街になってしまった中をひとりでなんとか歩き、俺は長門のマンションを訪れた。 真新しかったここも、随分と年季が入ってしまっている。 それでも丁寧にメンテナンスなどはされているようで、寂れたりする様子もない。 そうして足を踏み入れた長門の部屋は、全く変わっていなかった。 「…本当に、変わりないな」 帰ってくるのが頷きひとつだということも。 長門はそうすることに決まっているとばかりに俺を座らせ、お茶をこれでもかと言うほど飲ませたが、口を開こうとはしなかった。 それに痺れを切らせて、 「で、どうして俺を呼んだんだ?」 そう聞いた俺に、長門はすっと指を上げて、隣りの和室を指差した。 いつだったかに、朝比奈さんと二人してお世話になった部屋だ。 「…そこが、どうかしたのか?」 「……開けて見て」 なんなんだ、と思いながら俺は立ち上がり、襖を開けた。 軽く、音も立てずに開いたその先には布団が一組延べられており、そこには誰かが眠っているようだった。 暗くてよく見えないが、誰だ? 訝しさに眉を寄せ、部屋の中に足を踏み入れた俺は、部屋の明かりを点けた。 「……嘘…だろ……」 そう、呟くだけで精一杯だった。 あっという間に熱を持ち、雫をこぼし始める目元を押さえながら、ずるずると床に座り込む。 ああ、俺はまた狂えたんだ。 おかしくなれたんだ。 そうでなければ説明がつかない。 古泉がいる、なんて。 「夢でも幻でもない。…現実」 そう言って長門は、眠る古泉を見下ろした。 「涼宮ハルヒが力を失い、私の役目もまた終了した。私には一定の自由が認められた。だから、私は自分に残された力で以って、彼を――古泉一樹を再生した」 「再生…?」 「あの事故でなくなったその瞬間の記憶をそのままに、体の損傷を修復した。彼は間違いなく、あなたの知る古泉一樹」 「…なんで……なんで、お前がそんなこと…」 そんなことをする必要も義務もなかっただろう? なのに、どうして。 「……もう、あなたの悲しい姿を見たくなかった」 静かに落とされた言葉が、何より優しく響いた。 「長門……」 「起こしてあげて」 そう言い残して、長門は部屋を出て行った。 丁寧に、きっちりと襖を閉めて。 残された俺は、這うようにして古泉ににじり寄った。 静かに寝息を立てるその姿は、あの時と変わらない。 高校生のあの日、目の前で無惨に引き千切られた、あの古泉だ。 「…古泉…っ……」 ぱたぱたと音を立てて涙が零れ落ちていく。 その肩に手を掛け、揺さぶる。 「起きろよ、古泉…っ!」 だが、古泉は身動ぎひとつしない。 強制的に眠らされているように見える。 どうしたらいいのか、と考えかけて、笑った。 長門も意外にロマンチストなのかもしれない、と。 暖かな、もう二度と触れられないと思っていた肌に触れる。 忘れたことなどなかった、柔らかな髪の感触を味わうように、その中に指を通して髪を撫で付ける。 溢れてくるのは愛しさに他ならない。 「…古泉……愛してる…」 滅多に口にも出来なかった言葉を、狂気が見せる幻想の中で叫び続けた言葉を、そっと囁く。 もうずっと、触れられなかった唇に、怯えるように口付けた。 それで夢が醒めてしまわないように、これが幻として消えうせてしまわないように、心の底から祈りながら。 触れるだけで離れようとした俺の体に、腕が回される。 すぐ離れようとしたことを咎めるように、強く抱きしめられ、唇を乱暴なほど荒っぽい動きでこじ開けられる。 「…ぁ、ん……んん…ぅ…」 泣きながら、その体を抱きしめ返した。 そのキスに応えた。 こぼれ続ける涙を優しく暖かな指が拭ってくれてやっと、俺の視界は晴れた。 目の前にあるのは、古泉の優しい笑みだ。 「…おはようございます」 「……っ!」 何も言えない。 ただ、愛しさと嬉しさがこみ上げてきてどうしようもなかった。 ひたすらに抱きしめてキスをして、その存在を確かめたかった。 「古泉…っ、古泉古泉古泉…!!」 狂ったように名前を呼んで抱きしめる。 「大丈夫ですよ。僕はちゃんと、ここにいます」 俺が落ち着くまで、優しくそう繰り返してくれた。 古泉は長門によって再生される過程で、俺がどうなっていたかとか、今の世の中の状況だとか言ったものも記憶の中に組み込まれたらしい。 「古泉一樹は死にました。だから、僕は古泉一樹ではないんです。古泉一樹ではなく、…本当の僕として、あなたの側にいさせてください」 「もう、どこにも行かないな…?」 「ええ、あなたが離せと言っても、出来ません」 そう言って、心底嬉しそうに微笑んで、またキスをする。 愛しくて、愛しくて、嬉しくて、嬉しくて。 「…お前の方が年下になっちまったな」 軽口を叩くだけの余裕を取り戻した俺がそう言うと、古泉はニヤリと笑って、 「あなたは全然年上に見えませんけどね。全く…こんなに痩せ細って…」 「お前のせいなんだから、責任取れよ」 「ええ、なんとしてでも」 死んでしまいそうなほど幸せで、だが、それでもこの幸せが続くんだということが分かった。 どうしてかなんて聞かれても困る。 分かってしまうんだからしょうがない、だろ? |