娘は母のライバル?



俺には娘が二人いる。
一人は戸籍上同い年で物静かな元同級生であり、当然のことながら血の繋がりはないものの、間違いなく俺の可愛い娘である。
もう一人は、俺が腹を痛めて――というか、腹掻っ捌いて――産んだ、今年でもう8歳になる実の子だ。
名前は望実。
無駄に顔のいい父親に似て綺麗な顔で生まれてくればよかったろうに、何の因果か俺に似てしまったかわいそうな娘であり、その点では非常に申し訳なく思っている。
ただし、中身は嫌になるほど父親そっくりで、外面がよくて愛想を振り撒きまくるくせに、実際には人物に対する好悪が激しいという、ちょっとばかり困った娘だ。
ついでに言うと、愛想よくしていれば十人並みの顔立ちであっても効果があるということを知っている辺りも、非常にタチが悪い。
そんな風に厳しい目で娘を見てしまうのはやはり、俺が性別はともかく母親であり、娘の父親の妻であるからだろうか。
なんせ、この娘と来たらびっくりするほどのお父さんっ子なのだ。
今日も、一樹が帰ってくるなり、
「お父さんっ、お帰りなさーい!」
と満面の笑みで叫んで一樹に抱きついた。
「はい、ただいま帰りました」
一樹も、望実に負けないくらいの笑みで望実を抱きしめ返しているが、俺としては面白くないことこの上ない。
「玄関先でいちゃついてないで、さっさと上がれ」
と言い捨ててやる。
「今日は音楽の授業で色んな歌歌ったんです」
などと、今日の報告を始めている望実の声を背後に聞きながら、夕食の仕上げをしていると、隣りで手伝っていた有希が心配そうに俺の顔をのぞきこみ、
「…大丈夫?」
「ああ、気にするな。呆れてるだけだから」
最初の頃こそ微笑ましく思っていたものの毎日ああされると段々呆れるしかなくなってくる。
というか、どうしてほぼ一日中側にいた俺じゃなくて、大抵外に出ている一樹にあそこまでなつくんだ?
一樹も一樹だ。
あんなデレデレした顔してたら、せっかくの綺麗な顔が融けてなくなっても知らんぞ。
高速でアサツキを刻みつつ、俺は望実が生まれた時のことを思い出していた。
初めて望実と対面した一樹は、勿体無いくらいぼろぼろ泣きながら、俺の隣りで寝ている望実を見つめ、それから俺を抱きしめた。
正直腹が痛くてならなかったのだが、突き放すことなど出来るはずもなく、俺は精々眉をしかめて呻きを堪えた。
「…本当に…っ、あり、がとう…ございます…!」
「…ばか。礼なんて言われるようなことじゃねえよ。……お前だけの娘じゃないんだからな」
「ええ、そうですね。…でも、ありがとうございます。僕の分も、あなたが苦しんでくださったんですからね」
そう言って一樹は俺に口付けた。
優しく、労わるためのキスに眉間を開いた俺に、
「…すみません、痛かったですよね」
「いい、気にすんな」
それでも一樹は俺から離れ、とても優しい視線を望実に注いだ。
慈愛に満ちた、なんて言葉を男に使うのは不似合いな気もしたが、そんな言葉が一樹の視線にはぴったりだった。
「ふふ、本当に可愛いですね。有希も勿論僕の可愛い娘ではあるのですが、血がつながっていると思うと格別なものがありますね。それに、こんなに小さくて頼りないなんて……。こんなに小さい、生まれたての赤ん坊なんて見るのもほとんど初めて見たいなものなんです。真っ赤で皺くちゃで…なのに可愛いと感じるなんて、親子って不思議ですね」
「そうだな」
「…ありがとうございます。愛してますよ、奥さん」
微笑んで、一樹はもう一度俺にキスをした。
ところがだ。
ややあって、その目に再び目がじわっと涙が戻ってきた。
「ど、どうした、一樹?」
「え、あ、いえ…その……」
ぼろぼろと涙を零し始めた一樹はまだ眠っている望実に向かって、泣き付かんばかりになって叫んだ。
「…っ、お嫁になんか行かないでください…!」
……もう、アホかと。
本当にこいつと結婚してよかったのかと、本気で思ったね。
ああ、思ったとも。
だって、望実はまだ生まれたばっかりなんだぞ?
嫁に行かれる心配をしたいなら、まず有希の方だろう。
なのに何を言い出すかと思えばそんなことで。
俺ははっきりと言った。
「アホか」
「うぅ…すみません。自分でも馬鹿だとは思うんですけど、こんなに可愛い子です。きっと大きくなったらすぐにお嫁に行ってしまうんだろうなと思ったら悲しくて……」
……もう好きにしろよ。
俺はほとほと呆れ果ててため息を吐くしかなかった。
思えば、あの時から一樹は望実にでれでれだったな。
んで、望実の方もどうしてか、一樹に懐きまくって夜泣きなんかしても一樹がいたらけろっとしてたんだった。
…くそ、面白くない。
「ほら、飯出来たぞ。一樹も望実もさっさと食卓につけ」
怒鳴るように言うと、
「はい」
と一樹が答え、望実は嘘泣き顔で、
「お母さん顔怖いですー」
なんて言っていやがる。
「お母さんの顔が怖いのは生まれつきだ」
そう返しながら俺はむかむかするものを押さえつつ、テーブルにオムレツの皿を運んだ。
一樹はにこにこ笑顔でそれを受け取りながら、
「あなたはとても綺麗ですよ。怖いなんてことありません。昔からずっと、僕を魅了してならないほど美人です」
と歯の浮くようなことを言ったので、
「ばか」
と毒づいて頭を軽く叩いてやった。
口元の緩みは見なかったことにしてもらいたいのだが、そうもいかないのが一樹らしく、にやにやしたどこかいやらしい笑みに唇の形を変えると、
「愛してますよ」
そう囁いた。
「うるさいって言ってるだろ」
苛立った口調を作りながらも、その実、かなり怒りが収まっている自分が単純すぎて嫌になるぜ、全く。
それでも、気分よく食事をとれるというのはいいことだ。
俺が椅子に座るのを待って皆で手をあわせて食事を始めるというのがうちのいつもの習慣なのだが、俺が椅子を引いてさあ座ろうかと言う瞬間、
「僕も、お父さん大好きですー」
と望実が言った。
ああ、こいつの一人称が僕なのは、こいつがお父さんっ子だからだ。
俺としては曲がりなりにも女の子なんだから可愛らしく私と言ってもらいたいと思っているのだが、言うほどに反発されるのは目に見えているので諦めている次第である。
年頃になって惚れた腫れたのひとつやふたつ経験すれば自然に治るだろうと思っている。
それにしても、だ。
思わず硬直した俺にどこか挑戦的な目を向けた望実は、ぎゅっと父親に抱きつき、
「僕ね、おっきくなったらお父さんと結婚しまぁす!」
とのたまいやがり、俺の気分は最低にまで落ち込んだのだった。

「…あ、の」
「うるさい」
「いえ、その……僕の、布団は…」
「うるさいって言ってるんだろうが」
言いながら、俺は布団の中で丸まった。
と言っても、小さく丸まったわけじゃないぞ。
布団を巻き込むようにして、自分が巻き寿司の具なら布団を海苔みたいにして、丸まっているわけだ。
おかげで、広々としたダブルベッドの上にはすっかり掛け布団がなくなっている。
それで、一樹の発言に至ったというわけである。
「…困りましたね」
そう言いながら一樹は諦めたように俺の隣りに横になった。
少し距離が空いてるってのに、風呂上りだからか、一樹からはどこか甘いようないい匂いが漂ってきた。
むずむずする。
「寝たいなら望実の布団にでも入れてもらったらどうだ。あいつならきっと大喜びだぞ」
「…娘に、妬いたんですか?」
「うるさいって」
もぞりと布団ごと転がり、一樹に背を向けると、一樹がかすかに笑う声が聞こえた。
ひんやりとした手が、強引に割り込んできて俺の髪に、首筋に触れる。
「触んな…!」
と怒鳴っても、一樹には少しも堪えやしないらしい。
「ねえ、顔、見せてくれませんか?」
「嫌だ」
「見せてくださいよ。あなたのその、可愛らしい顔を…」
そう言った一樹の指先が、首筋から耳にかけてをねちっこく撫で上げる。
それだけでぞくりとしたものを感じる自分が嫌になるね、全く。
「妬く必要なんてないでしょうに。…子供の戯言ですよ?」
「だとしても、敵意を感じたぞ、俺は」
あれだな。
女ってのは生まれた時から女だという説を信じざるをえないような気分だ。
でもって、あいつが俺のことをライバル視してるってのも多分間違いないんだろうよ。
「…俺が何をしたってんだよ……」
「あの子は、あなたを嫌っているわけでもなければ、敵視しているわけでもないと思いますよ。ただちょっと、」
と一樹は困ったように笑い、
「…愛情表現が歪んでるだけじゃないかと」
「……はぁ?」
なんだそりゃ。
訝しみながら振り返ると、一樹は嬉しそうに笑った。
毎日突き合せている顔を見れたってだけでそこまで嬉しがるか? 普通。
「嬉しいですよ。僕の太陽が、天岩戸からやっと顔を出してくださったようなものですからね」
そう言っておいて、一樹はさっきの話の続きをした。
「考えて見てくださいよ。あなたが普段から仰るとおり、あの子は本当に僕そっくりです。考え方も、物事に対する好みも、ね。…そうであれば、あの子があなたを嫌いであるはずなどありません。むしろ、僕のことを好きと言っていることの方が、よっぽど本気じゃないと思いますよ」
「本気じゃないってのに毎日続けられるのかよ。大体、あいつはまだ小学生だぞ?」
「ええ、でも、それが何の関係があるって言うんです? 小学生でも、ちゃんと考えてますよ。賢すぎて困るくらいだったのは、もっと小さな頃からずっとでしょう?」
「それは…そうだが……」
「僕としては、心配なのはむしろあなたのことですよ」
と言って一樹は大袈裟なため息を吐いたが、意味が分からん。
「何がどう心配なんだ?」
「たとえばです。このままあなたがへそを曲げてしまって、僕との距離が開くとします。まあそんなこと、可能性が出てきた段階で全力で阻止しますけど、仮定の話ですからね」
いいから続きを話せ。
「その場合、あの子が僕ではなくあなたの方に近づいたとしたら、あなたはどう思います?」
「どう…って……」
「いつもいつもああいう態度を取っているあの子が、あなたのところに行って、あなたを慰めたとしたら?」
「そりゃ……嬉しいに決まってるだろ」
「そうでしょうね。…大袈裟に言えば、そんなことを狙っているのかもしれませんよ、あの子は」
「…は?」
「ゲイン・ロス効果狙いとは、小学生ながらなかなか見事だと言わざるを得ませんね」
などとひとりで納得しているが、俺には全く納得行かん。
つか、そんな可愛くない小学生がいて堪るか。
それくらいならまだ、一樹にどっぷり惚れ込んでる方がマシってもんだろう。
「…ほら、やっぱり」
と何故か一樹は残念そうに呟いた。
「何がやっぱりだ」
「あんな態度に出られても、あなたはあの子が可愛くて仕方ないんですよ。そして、あの子もそれが分かってるからあんな態度に出られるんです」
「…だって、しょうがないだろ。どんなに憎たらしいことを言われても、俺の娘だぞ。俺が腹を痛めて産んだんだ」
「ええ、分かってますよ。…だから、心配なんです。あの子が年頃になった時、あの子にあなたを取られるんじゃないかと」
「ばか。それなら俺の方がよっぽど心配だ。……お前は、戸籍上あいつとは他人だから、あいつと結婚することだって出来るんだからな」
呟いた声があからさまなくらい涙声になっていて、余計に泣きたくなった。
むしろ恥かしくて死ねる。
「関係ありませんね。…たとえ、きちんと入籍出来なくても、僕の人生の伴侶はあなたひとりです」
そう言って、一樹は強引に布団をめくると、俺の顎を持ち上げてキスを寄越した。
「…絶対にか?」
「絶対にです。…愛してます。あなただけです。こんな気持ちになるのは…」
「ん…俺も……」
布団の端を掴まれて引っ張られると、ころころと体が転がり布団が広がる。
だが、一樹は広がった布団になど目もくれず、俺を優しく抱きしめてくれた。
その体温がどうしようもなく嬉しくて、幸せで。
だから俺は知ろうともしなかったんだ。
俺たちがそうしている間に、有希と一緒に寝ていた望実が、
「お母さんってちょっとからかうとすぐに反応してくれるし、またその反応が可愛くって面白いんですよねー。だから僕、わざと好きって言わないし、お父さんのことばっかり好きって言ってるんですー。うふふー、僕っていけない子ぉ」
などということをくすくすと楽しげに笑いつつ、有希に打ち明けていたなんて。