目が覚めてすぐに、彼にメールを送った。 「ただいま帰りました」 と。 それに返事は来なかったけれど、多分まだ眠っているのだろうと納得した。 昨日はきっと彼も大変だっただろうし、今日は日曜日だ。 彼がまだしばらく眠っていても不思議じゃない。 僕は一日ぶりに見る自分の部屋にほっとしながら起き上がり、部屋の中を見てまわった。 特に何か変ったという様子はないようだと思ったのだけれど、ひとつだけ違った。 キッチンが綺麗になっている。 おまけに、冷蔵庫の中にあった持て余していた食材がきちんとフリージングされているばかりか、見覚えのある乱雑な文字で解凍方法や利用方法まで書いてあるメモまで残されていた。 その末尾には、 『料理をするなら食材を大事にしろ!』 と書き殴られていて、僕は思わず苦笑した。 自分にお説教されるなんて、変な気分だなぁ。 メモと照らし合わせながら冷蔵庫の中身を確かめていると、玄関の鍵が開けられる音がした。 まさか、と思いながら立ち上がり、顔を玄関の方に向けたところで、 「古泉…っ!」 と彼が駆け込んできた。 「ただいま帰りました」 笑ってそう告げると、 「お帰り…」 とほっとしたように返される。 ああ、やっぱり彼が一番愛しい。 そう思った僕に彼が抱きつく。 「…よかった、帰ってきてくれて……」 「帰って来ないとでも思ったんですか?」 そんなことありえないのに。 …ああ、もしかするとそれも、彼を不安にさせてしまっているからなんだろうか。 そうだとしたら申し訳ない、と思った僕の顔を見上げた彼の表情が、何故だか曇って見えた。 「あの…どうかしましたか?」 「ん……あ、いや……なんでもない」 そう言って彼は顔を背けたけれど、なんでもないとはとても思えないような声だった。 不安でならないような、あるいは、迷い躊躇っているような声。 「なんでもないようには聞こえませんよ。言ってください」 「……」 彼はそれでもしばらく困惑気味に視線をさ迷わせていたけれど、ややあって口を開いた。 「お前……無理とか、してないか?」 「…無理、ですか?」 「ああ。……その、俺がいると、自分の家でも敬語で喋ったりしなくちゃならなくて窮屈だとか、思わない…のか?」 「別に、思いませんけど…」 というか、何でいきなりそんなことを言い出すのかそのことの方が気になる。 「嘘吐いたり、誤魔化したりしなくていいんだぞ? お前なら…たとえどんなのでも、その、……よっぽどでなけりゃ、愛せると思うんだ…」 どこか必死な顔で彼が言ってくるけれど、本当だ。 「……本当か?」 「ええ。…あの、一体何があってそんなことを思ったんですか?」 「……別の世界のお前に、会ったんだ」 そう言って彼はそのとんでもなく口が悪くて僕らしからぬ『僕』の話をしてくれたが、その間中僕は苦笑するしかなかった。 そうでもなければ呆然とした間抜けな顔をさらしていただろう。 全部吐き出すように話した彼は、そうしたことで楽になったような、そのくせ僕からも同じように暴露されるのではないかと怖がるような表情で僕を見つめ、 「…お前は、違うのか?」 「違いますよ。それは確かに、僕だってこんな胡散臭い敬語で喋るような人間が元からの姿だなんてことは言いませんけど、でも、そこまで強烈な個性は持ち合わせていません」 苦笑しながら言えば、彼はまだ疑うように、 「でも、敬語は演技なんだろ?」 と聞いてくる。 「もうすっかり癖になってしまっていますからね。苦じゃありません。使うなと言われる方が困りますね」 「本当か?」 「ええ」 「そっか…」 ここでやっと安堵する様子を見せた彼は、 「流石にあれはきつかったんだ。いきなり『いちゃ悪いのかよ』なんて言われた時は心臓が止まるかと思うくらいびびったんだからな」 と笑った。 「大変でしたね」 と同情めいたものを示す僕に、 「全くだ。おまけに、あいつ、なんか凄いコマシっぽかったし…」 何ですって? 「女慣れしてる、って言うと変か? なんか、口説き慣れてるような感じで……」 そう言った彼は意味深にも、恥かしそうに顔を赤らめながら視線を伏せた。 あなた、一体何されたんですか!! 古泉が無事帰ってきたことを祝い、俺の部屋でだらだらと話してやっと、俺は本当に帰ってきてくれたんだと実感出来た。 実感出来るとともに嬉しさがこみ上げてくる。 だから、と俺が隣りに座っていた古泉に体をくっつけるようにしてやると、古泉も嬉しそうに小さく笑った。 それだけでも幸せだな、と思う。 すっかり寛いだ気分になったところで、昨日のことを話し、 「どこのお前もヘタレだな」 と言ってやると、古泉は困ったように眉を下げた。 そんな情けない顔をすると、昨日のヘタレとやっぱり似ていると思えた。 「そうですか?」 「ああ。…あんまり酷いから、説教してやったくらいだ」 憤然と言えば、古泉は苦笑して、 「一体どんな風に説教したんです?」 と聞いてくる。 「え」 「気になりますね。何を言ったんですか?」 「…あ……それ、は……」 口ごもりながら視線をそらす。 おそらく顔も真っ赤になっているに違いない。 「どうしたんですか?」 なんて古泉はまだ訳が分かっていない顔をして聞いてくるが、なんとなく察して話を反らしてもらいたい。 いくら俺だって言えるもんか。 ――もっと分かりやすく、俺が自信を持てるように愛してくれなんて。 まるきり、俺がしてほしいことじゃないか。 俺が真っ赤になったまま黙り込んでいると、やがて古泉も諦めたらしい。 「僕も、少し怒られてしまいました」 と言ったのだ。 「…へ?」 怒られたって、なんでだよ。 怒られるようなことをしたのか? 「あなたとのことを相談したんです。そうしたら、大事にするだけでは足りないものなんだと、叱られたんです。大事にすることと愛し合うことは違う、やりたいことを押し殺したりしなくていいと、言われました」 俺は驚いて言葉もない。 同時に、この異変をもたらしてくれたハルヒに、心から感謝したくなった。 だって、そうだろう。 俺が言いたくても言えなかったことを、別の世界の俺が代わりに言ってくれたってことなんだから。 「あなたも、同じように思いますか?」 「そ…んなの、当たり前だろ…」 古泉はほっとしたように笑って、 「じゃあ、――僕も、少しだけ、ワガママになってもいいですか?」 「ワガママって…」 何をするつもりだと少しだけだが警戒する俺に向かって、古泉は優しく笑いながら体を起こし、向き直る。 そうして、まだ不安げに唇を震わせながら、 「……抱きしめて、キスしたいです。……いい、ですか…?」 と聞いてくる。 それでワガママのつもりなのかとか、やりたいことってのはその程度のことなのかとか、色々言ってやりたかったが言葉にならない。 向けられる視線の甘さに、なけなしのプライドまでやられてしまったかのようにさえ思えてくる。 「それ、くらい…聞かずに、したら、いいんだろ…!」 恋人なんだから、と口の中で呟けば、古泉は柔らかく微笑んだ。 その腕が俺を抱きしめ、唇がそっと俺のそれに重ねられる。 これからはこの調子で進んでいけるんだろうか。 ゆっくりでも、少しずつでも、確実に。 胸を恥かしいほどに高鳴らせながら、むしろそれを古泉に伝えたいかのように、俺は古泉を抱きしめ返し、胸を重ね合わせた。 帰ってきた古泉と、あれこれ報告しあった後、俺は声に感情を思い切り滲ませて、 「それにしても、羨ましいよな! 女の子になれるってのは」 「さっきからそればっかりですね」 古泉はそう苦笑しているが、そこを羨ましがらずして何を羨ましがれっていうんだ。 「俺もハルヒをそそのかしてみたら、女の子になれるかな」 俺が真剣に検討し始めたところで、古泉は笑って、 「よっぽど涼宮さんがそうしたいと思わなければ無理だと思いますよ。それに、彼女はあなたを女装させることを楽しんでいて、女性にする必要性を感じていないでしょうから」 「それなんだよな…」 全く、ままならないもんだな。 となると、どうしたらいいんだ? やっぱり長門か? 「それも難しいでしょう。長門さんも涼宮さんと同じく、あなたの女装が気に入っているわけですし」 「そうだな」 残念だ。 「…ちっ」 思わず小さく舌打ちすると、 「舌打ちはやめませんか?」 とたしなめられてしまった。 舌打ちくらいしたくなる、と返そうとした俺に、古泉はその綺麗過ぎる顔を近づけて、 「…せっかく、可愛いんですから」 と囁いた。 それだけで気持ちが軽くなる。 甘ったれるように体を寄せて、 「…可愛いか?」 と聞けば、見ているこちらが恥ずかしくなりそうなほど、甘く蕩けるような笑顔で、 「ええ、とても。女性になる必要なんてありませんよ」 「……お前がそうやって言ってくれて、実際に愛してくれてる限り、女になんかなりたくてもなれねえよ、多分」 それこそ、よっぽどハルヒが気まぐれを起こすか、長門が露出度の高い女装をさせたがるとか、そんな事態にでもならなきゃ無理だろうが、今のところその兆候もないしな。 「では、あなたに謝るべきは僕ですね。すみません」 そう言って忍び笑いを漏らしながら、古泉は俺を抱き寄せてキスをする。 触れるだけでは足りなくて、俺の方から口付けて、深いキスへと変えていく。 「ん…謝らなくて、いい。……今の方が、間違いなく、幸せだからな…」 「…本当に、可愛いことを言ってくださいますね」 そう囁いた古泉の声も熱を持っているのが分かる。 その熱が欲情や劣情と言うよりもむしろ、愛情と言うに相応しいものであることも。 「愛してます」 「俺も…愛してる」 抱きしめて、キスを繰り返して。 愛し合うってのはこんなに簡単なのに、そんなことにも苦労しているらし別の世界の俺たちに同情したのはほんの短い間だけで、後はもう、自分の幸せにどっぷりと浸るだけになった。 目を覚まして、体を起こしてやっと、自分がベッドじゃなくて床に敷いた布団の上で寝ていたことに気がついた。 それで、本来俺のものであるところのベッドに誰が寝てたかっていうと、キョンだった。 静かに眠ってるその鼻先に触れて、 「おはよ。朝だぞー」 と囁くような小さい声しか掛けないのは勿論わざとだ。 起こすつもりなんてないんだからな。 思った通り、キョンは軽く眉を寄せただけで起きようとはしなかった。 だから、俺は、 「起きないならキスするからなー…」 とこれまた小声で言う。 当然、キョンは起きない。 俺はにんまり笑いながら身を乗り出した。 ベッドがきしんだけどそんなものでは起きないと信じて――起きたところでもう遅いとも思うし――、キスをした。 眠っている間に少し乾燥しちまってかさついた唇だってのに、どうしようもなく気持ちよく思えるのはやっぱり、精神的なもののせいかね。 キスだけでは我慢出来なくなって、そのまま抱きしめると、流石にキョンが目を開けた。 「ん……おま…え…」 「ただいまー」 にぱっと晴れやかに笑って言うと、キョンはちょっとだけ苦いものを含ませた、照れ笑いに近いような笑みを見せて、 「…お帰り」 と俺を抱きしめてくれた。 そのまま、 「寂しくなかったか?」 とまで言ってくれる。 「…寂しかったに決まってんだろ。あんたが、同じ世界にすらいなかったんだぜ?」 皮肉るように口にすれば、優しく俺の背中を叩いて、 「お前がいなくなってたんだろうが」 と言いながらも笑ってる。 とても優しく。 ――ああ、やっぱりいいな、俺のキョンは。 可愛いし、包容力もあるし。 大好きだ。 「大好きだよ。愛してる」 そう口にすると、キョンはいつもみたいに恥かしそうに顔を赤くしながらも、珍しく、 「…俺も、愛してる」 と返してくれた。 珍しい、と思いながらもそれ以上に嬉しくて、強く抱きしめると、 「こら、苦しいだろ…!」 と叱られたけど、気にならない。 「愛してる。…あんただけだよ。別の世界のあんたでもだめだ。絶対に、あんただけなんだって、今回のことでよく分かった」 「…俺も……まあ、似たようなもんだ」 そう笑ったキョンは、流石に恥かしさが限界に達したのか、俺の肩に手をやって俺を押し退け、 「ほら、もういいだろ? 腹が減ったから何か作ってくれ。…お前の料理が食べたいんだ」 「ん、了解」 そう言われたら作るしかないってもんだろ。 「待っててくれよ。出来るだけ早く、美味しいもの作るからさ」 「ああ、大人しく待ってるからな」 そう言ってくれたキョンに頷き返して、キッチンに行きかけて、聞きそびれていたことを思い出した。 「なあ、」 「ん?」 もう一度寝直すつもりなのか、布団にもぐりこみなおそうとしていたキョンが目から上だけを出してこっちを見てくる。 …それ、殺人的なまでに可愛いんだけど、朝っぱらからそういうのはやめてくんねえ? 「…なんで、あんたがベッドで寝てたんだ?」 「それ、は……」 かっと赤くなったキョンは、それを隠すように布団の中にもぐりこむと、そのままの状態で、 「…っ、お前が帰ってきた時、俺がいてやらないとお前が寂しがるかと思ったんだよ…! 違うか!?」 なんて、自棄になったみたいに怒鳴ってくる。 それが可愛くて愛しくて、 「違わない」 とどうしようもなく蕩けた声で返す。 「あんたがいてくれて嬉しかったよ。本当に、ありがとな」 「…ん、どう、いたしまして……」 恥かしそうな声すら愛おしい。 俺はもう一度キョンの側に戻ると、布団越しにキスをして、 「愛してる」 と、とどめのように囁いた。 おまけの答え合わせ その1 S古泉がM世界へ その2 M古泉がT世界へ その3 T古泉がJ世界へ その4 J古泉がS世界へ その5 M→T→J→S の順番 |