彼との待ち合わせ場所に現れたのは、愛らしい少女の姿をした人だった。 一瞬、彼がまた女性になったのかと思ったが違う。 女性になったのなら背も、涼宮さんと同じくらいに低くなってしまうはずだというのに、現れた人は僕とそう開きがないほど背が高かった。 きりっとした高いピンヒールの靴を履いているからだろうか。 それに服装も、いつものあの人なら着ないようなものだった。 体のラインをぼかすようなゆったりした上着だが、きりりと引き締まって見えるのは色が黒を基調としているからか。 出来るOLのようなスーツ姿がよく似合っていた。 タイトスカートからのぞくすらりとした脚は、白くてきれいで、黒いスカートとあいまって、眩しいくらいに見えた。 僕がじっと見つめていると、その人もどうやら何かに気がついた様子で、困ったように小さく笑った。 その唇は赤い。 肌は白く、眉も綺麗に整えられている。 完璧なまでにメイクされていると分かるのに、それでも濃いとは思えなかった。 「古泉一樹――だよな?」 「え、ええ、そうです」 発せられた声は完全に、いつもの彼と同じ男性の声だった。 てっきり女性らしい声が飛び出すかと思っていたので驚かされたけれど、どうしてか、余り違和感は感じなかった。 スカートではあるのだけれど、女性らしさというものが少ない服装だったからかもしれない。 あるいは、彼だと同じだと分かっていたからだろうか。 「どうやら、またハルヒが何かやらかしてくれたらしいな」 苦笑しながら彼が携帯電話をハンドバッグから取り出し、長門さんへかける。 その爪が綺麗に彩られているのを僕はじっと見つめていた。 女性じゃないと分かっている。 男性で、しかも彼なんだと分かっている。 それなのに、なんだか本当の女性よりも女性らしく見えた。 それは芝居の女形に対して多くの人が同じように感じるのと、似たような理由なんだろうか。 女性のように細く引き締まった腰のラインを目線で辿り、おそらくヘアピースなのだろうが頭の後ろで団子に作られた髪の毛の渦を見つめる。 目映いまでに真っ白いうなじが、目に毒だと思った。 携帯をぱちんと閉じた彼は、僕に向かってにやりと笑いかけると、 「そうジロジロ見るなよ。恥かしいだろ」 「え、あ…す、すみません!」 確かに不躾だったと反省していると、 「まあ、いいけどな。…驚いただろ、女装なんて」 「ええと…まあ、そう、ですね。驚かなかったわけではないのですが……」 それ以上に、 「…とてもお綺麗なので、つい、見つめてしまいました。すみません」 僕が言うと、いっそ彼女と言った方がいいような彼は驚きに目を見開いた後、疑うように僕を見つめ、それからくすくすと軽やかな笑い声を立てた。 「そりゃ、どうもありがとよ」 「よろしければ、どこか喫茶店にでも入りませんか? 色々と話す必要もあるでしょうし…」 僕が言うと、彼女――と言わせてもらおう――はもう一度悪戯っぽく笑って、 「ナンパのつもりか?」 と言ってきた。 「そ、そういうわけじゃありませんけど…!」 慌てる僕に、彼女は余裕の笑みを見せ、 「分かってるって。お前、凄く純粋そうだもんな。そういうつもりじゃないってことくらい、ちょっと見てりゃ分かる。からかっただけだ。…悪いオネーサンでごめんな?」 なんてからかう彼女に、僕は赤くなって黙り込むしかなかった。 「デートは、お茶と買い物くらいなら付き合ってやるよ」 くすくす楽しげに笑いながら、彼女は僕に向かって手を差し出す。 手の甲を上に向けて、ということはそれを受け止めていいということなんだろうか。 戸惑う僕に、 「誘ってくれたってことは、お前がエスコートしてくれるんだろ?」 と艶やかな笑顔のままで言った。 「…あなたがいいのでしたら」 緊張しながらその手を取ると、彼の手よりもずっと白くて柔らかくて滑らかなのに驚かされた。 それが顔に出ていたんだろう。 「どうかしたか?」 と訝しげに聞かれてしまった。 「え、いえ……その、綺麗だな、と思って…」 口ごもりながら正直にそう言えば、彼女はまたかすかに声を立てて笑った。 「ただの男の手だろ。ごつくてつまらん。ぼろが出そうだからあんまり凝視するなよ」 「そんな…、とてもそうは思えないくらい綺麗ですよ」 「…そこまで言われると嘘くさいぞ」 そう言いながらも、悪い気分ではないらしい彼女は、内緒話でもするように僕に顔を近づけて、 「なあ、お前、付き合ってる相手とかいないのか?」 「え?」 「いや、本物の女に慣れてないからそういう反応をするのかと思ったんだが……違ったか?」 「…ええと、お付き合いはさせていただいていますよ。僕の知るあなたと」 「へえ、やっぱりどこの世界もそうなってんのかね」 世界とは一体どういう意味だろう。 軽く首を傾げた僕に、彼女は簡単に説明をしてくれた。 ここは僕が本来いる世界ではなく、彼女のいつ世界であるということや、今晩には元の世界に戻れるということなど、先ほど彼女が電話で長門さんに聞いた話をしてくれただけなのだけれど、僕はその間中、じっと彼女を見つめていた。 話を聞きながら思ったのは、やっぱり彼が彼だから、こんな風に話を聞いていたいとか、見つめていたいと思ってしまうんだろうなと思った。 話している間に喫茶店に着いた僕たちは、奥まった席にまるで人目を避けるように腰掛けた。 こっちの世界の涼宮さんに見つかってしまうとまずいと考えたのかもしれない。 そうして落ち着いてから、 「まあ、お前が男の俺と付き合ってるってことからして、女慣れしてなくても不思議じゃないのか」 そう微笑んだ彼女に、僕は答える。 「そういう訳でもないんです」 「どういう意味だ?」 「僕の世界のあなたは、時々、女性になるんです」 「……は?」 ぽかんとした顔をする彼女に、僕は笑って、 「せっかくの綺麗な顔が台無しですよ?」 と指摘したが、遠慮なく眉を寄せた彼女に、 「うるさい」 と小さく怒られてしまった。 「女になるって……それは、ハルヒのせいか? それとも長門に頼んだとかなのか? まさか、最初っからそうじゃないんだろ?」 「ええ、細かく話すと長くなりますが…掻い摘んでご説明しますね」 僕はそう言って、自分に恋愛経験が極端にないということから、涼宮さんの驚くべき行動、長門さんが振られてしまったことなども含めて、説明した。 彼には内緒にしてある、あの競争めいた協力関係についてまで、一応同じ彼であるはずの彼女に話すのは、なんだか不思議な気分だったけれど、悪くもなかった。 彼女は驚きながらも最後まで話を聞いてくれた後、酷く悩ましげなため息を吐いた。 「……羨ましい」 「は?」 一体何が羨ましいんだろうか。 まさか、長門さんに告白されたことではないだろう。 「一体何がですか?」 「そんなもん、女になることがに決まってんだろ」 そう言って彼女は眉を寄せた。 その表情に僕が、古代中国の有名な佳人、西施を思い出しているとも知らずに、彼女はもうひとつため息を吐き、 「女になれたら、もっと色々な服が着れるのにな…」 なんて呟いている。 「そういうものなんですか?」 「そういうもんなんだよ。…夏には水着とかで苦労させられたんだからな」 そう憎らしげに呟いているけれど、今のまま女物の水着を着たところで、きっと彼女には似合うに違いない。 「いいな…」 恨めしげに何度も繰り返す彼女に僕は苦笑して、 「でも、ちょっとしたことで女性になられるのは困るんですよ?」 「そうなのか?」 「ええ。…ちょっと目を放していたらもう変わってたりするものですから」 「例えば?」 と聞いてくる彼女に、僕は少し考え込む。 ここ数回、一体どういう理由で変わられたんだっただろうか。 「そう…ですね……。一度、少し、クラスメイトの女生徒と話し込んでいるのを見られたことがあるのですが、それだけで女性になられた時は困りましたね。なかなか機嫌も直していただけなくて…」 つまりはなかなか男性に戻ってくれなかった。 「……でも、それってつまりは、不安ってことなんじゃないのか?」 彼女が呟くようにさらりと言った言葉に、僕ははっとさせられた。 いきなり、厳しい現実を突きつけられたよう――と言ったら言い過ぎだろうか。 見れば、彼女は咎めるような難しい顔をして僕を見つめている。 「…やっぱり、そう思いますか」 「お前も、分かってはいるんだろ?」 その可能性は高いと思っていた。 何故なら、彼が女性に変わってしまうのはいつも、自分が男性であるということが嫌になった時で、そういう時というのは決まって、僕が彼を愛しているということを、彼が信じきれなくなった時なのだから、これで気がつかないというなら、僕は本気で彼の恋人と言う光栄極まりない身分を出来るだけ早く返上した方がいいどころか自らそうするまでもなく、涼宮さんか長門さんによって取り上げられていることだろう。 「不安ってことは愛され足りないか、お前が信用ならないってことなんだろうな。…お前、天然っぽいのに変なところで口がうまいから、心配になるのも分かるが」 「口がうまいなんて…」 そんなことはないと思うのですが。 「そうだろが」 そう言って彼女は、僕の額をぴんっと指先で弾いた。 そんなことして、付け爪、取れませんか。 というか、ラインストーンが額を擦って痛かったです。 「自覚してないのか? お前、女の扱いが巧過ぎて、正直困るくらいなんだぞ」 「困るって…あなたが困るんですか? どうしてです?」 「うっ…」 口ごもった彼女はほんのり赤くなった顔を背けながら、 「こ、困ると言ったら困るんだ。そんなんじゃ、そっちの俺が不安になったりしても当然だろうな」 「……僕としては、彼だけが好きで、彼を大切にしているつもりなんですけど…それじゃ、ダメなんでしょうか」 「あのなぁ…」 呆れたような顔をして、彼女は言った。 「大事にするだけじゃ、ダメなんだぞ」 「そう…なんですか?」 彼女は僕の問いかけに笑い、 「そんなことも分からないくらい、経験がないんだな」 「…すみません」 「ああ、いや、謝らなくてもいいんだが…」 僕が小さくなっていると、彼女は優しい声で、 「あのな、一方的に大事にするだけじゃ、ダメなんだよ。勿論、大事にするってことも、大事にしたいと思うこともいいことだ。その気持ちがないといけないと言ったっていい。だがな、それだけだと、足りないんだよ」 「足りない……ですか」 一体何が足りないんだろう。 「じゃあ、お前ならどう思う? 好きだと言ってくれた相手が、お前のことが大事だからって自分のことは何も言わないし、何かしたいことがあるとも言わない。ただ、自分に合わせてくれているだけで、それで、お前は満足か?」 ……どうだろう。 側にいさせてくれるだけでいいと、彼には思う。 僕なんかが、と思ってしまうからだ。 僕なんかが彼と付き合ってていいのだろうか。 僕なんかが幸せになっていいのだろうか。 そんな風に…思ってしまう。 あるいは僕は、彼といるだけで幸せなんだ。 「本当にそうか?」 僕の心の奥底まで見透かそうとするかのように、彼女はじっと僕を見つめてきた。 深い知性を感じさせる瞳にたじろぐ僕へ、 「本当は、違うだろ? もっとやりたいこととか、あるんじゃないのか?」 「それ……は……」 「それを、押し殺す必要なんてないんだ。お前とそっちの俺との気持ちはちゃんと通じてるんだろ? お互いに好きなんだろ? おまけに、ハルヒまで認めてくれてるときた。それなら、何をはばかる必要があるんだ? お前は、したいようにしていいんだよ」 「……でも、僕は…そうして、彼に嫌われるのが、怖いんです」 「嫌ったりすると思うのか?」 「……」 答えられない僕の頭を、彼女は優しく撫でてくれた。 「嫌うわけないだろ。お前のことが好きで、女にまでなっちまうくらい好きなんだ。それなら、お前が多少鬼畜だろうが変態だろうが許してくれるに決まってるさ」 「きち…っ!?」 びっくりする僕に、彼女はくすくすと軽やかに笑って、 「冗談だ。俺のと違って、お前はそんなんじゃないよな。分かるって」 「それはそうですよ…」 なんだか、今のでどっと疲れた気がする。 「自信を持てよ、古泉一樹」 僕の髪をくしゃりと乱した彼女は、 「もっと相手のことを知りたいから、付き合うんだろ。あるいは、一緒にいて楽しいから。そうじゃなかったら、離れられないから付き合うんだと俺は思う。俺が思うに、お前らは多分まだ、相手のことを知りたいって時期なんだろうな。だから、そっちの俺はお前が自分のことを教えてくれないことで、不安を感じてるんじゃないのか?」 「…そうなんでしょうか」 でも僕には、全てを明かすことなんて出来ない。 「それでも、言えることはあるし、言わなくても、伝えられることはあるだろ? たとえば、ふたりでどんなことをしたいのかとか、な」 そう言って悪戯っぽく笑った彼女に、僕は顔を赤くしながらも、少しだけでも言い返したくて、こう聞いた。 「あなたは、どうなんですか?」 「…俺?」 きょとんとした彼女に、 「ええ。…あなたは、不安を感じたりしないんですか?」 「……そう、だなぁ…」 考え込んだ彼女の表情が、これまで以上に柔らかく緩む。 「まあ、最初の頃は不安だった、かな。あいつが俺なんかを好きでいてくれるってことが信じられなくて、すぐに嫌われたりするんじゃないかって、そんなことばっかり思っていた」 「あなたが…ですか?」 「そりゃそうだろ。俺なんて平々凡々としたただの人間で、面白いところなんてない。おまけに女装趣味と来た。振られる要素の方がどう考えたって多い」 「そんなことは…」 思わず身を乗り出しかけた僕の額を爪の先でつついて、 「ああ、今はよく分かってる。それを、分からせてくれたのも、あいつなんだ」 と言って嫣然と微笑んだ。 「俺は、本当に大事にされてるからな。それに、あいつも俺のことを本当に好きなんだって、言葉だけじゃなくて態度で示してくれてるから。…これで不安になんか思ってたら、バチが当たるってもんだ」 その笑みを見つめながら、僕の世界の彼にも、こんな風に幸せそうに笑ってもらいたいと思った。 |