還り来るモノ



彼が、消えてしまった。
それでよかったのだと、受け入れられるようになるまで、要した時間は意外と短かった。
およそ、三ヶ月。
その間に僕は、気持ちに整理がついてしまった。
そうしようと努力したわけでもない。
彼のことばかり思っていたはずだった。
でも、人は忘れてしまえる。
そのことが悲しかった。
「忘れてしまっていいんだと思います。忘れることが…きっと、救いになるはずですから……」
朝比奈さんがそう言ったのは、未来へ帰る日だった。
自嘲するように、
「もう、彼のことを思い出すことも少なくなってきてしまったんです。気がつくと、笑っていることさえあるんです」
と僕が言ったから、優しい彼女はそう言った。
あるいはそれは、自分がいた痕跡をほとんど全て消して、ひとり未来へ、自分がいるべき時代へ、帰っていく彼女が、自分を納得させるために口にした言葉だったのかも知れない。
そうして、SOS団は3人になってしまった。
奇しくも、発足当時と同じ人数だ。
あの時は、涼宮さんと長門さん、そして彼がいたのだけれど。
彼が消えてしまってから、涼宮さんは大人しくなった。
かといって、無茶をしないわけでもない。
ほどほどに奇天烈で、ほどほどに静かで、僕たちは寂しがってなどいられない程度には彼女に振り回され続けた。
そうして卒業の日を迎えた僕は、高校における最後の団活を終えて、名残を惜しみつつも帰ろうとしていたのだが、その僕に、長門さんが小声で言った。
「……後で、私の部屋へ来て」
理由を問い返す間もなく、長門さんはさっと通り過ぎてしまった。
残された僕は唖然とするばかりだ。
後ろで部室の鍵を掛けていた涼宮さんは不思議そうな顔をして、
「どうしたの? 古泉くん。珍しい顔しちゃって」
「え、あ、…すみません。ちょっと、ぼんやりしてしまって…」
「ぼんやり?」
訝しむように呟いたけれど、彼女はそれ以上詮索しようとしなかった。
そんな風に節度のあるところを見せるのが、以前との違いといえば違いなんだろう。
以前の彼女ならば遠慮なく勢い任せに白状させるところだろうし、彼ならばいい意味でお節介なところを、もう少しばかり発揮して、どうしたのかと聞いてくるところなんだろうけれど、そういうところも中和されてなくなってしまっているらしい。
寂しいな、と思いつつ、
「って、有希! なんで先に行っちゃうのよ!」
と怒鳴りながら長門さんを追いかける涼宮さんに笑みを零し、僕も彼女らを追いかけた。
舞い散る桜が、物悲しくてならない。
中学校の卒業式の時も、小学校の卒業式の時も、こんな気持ちにはならなかった。
僕はやっぱり、SOS団という集まり自体も好きだったんだな…。
「古泉くん、しんみりするのもいいけど、どうせまた春からは同じキャンパスに通うんだから、もうちょっとしゃきっとしたら?」
振り向いてそう言う涼宮さんに、
「そうですね」
と返す。
僕たちは春から、学部こそ違うものの同じ大学に通うことが決まっている。
これは機関の意思とか情報統合思念体の指示ではなく、僕たちが自分たちで決めたことだ。
もう少し、一緒にいたいと思った。
彼ではないし、もともとの涼宮さんとも違うけれど、彼女は十分に惹きつけられるところのある人で、僕たちは彼女を核にして集まりたいと思っていたのだ。
機関も、そろそろ解体されるのだろう。
彼女がもはや何の力も発揮しないから。
情報統合思念体がどうするのかは聞いていないけれど、もしかしたら、そのことで話があるということかもしれない。
そんなことを思いながら、三年弱の間に何度か足を運ばせてもらった長門さんの部屋を訪ねた僕を迎えたのは、
「…よう、久しぶり……だな?」
と困ったような苦笑を浮かべつつ僕を見上げる、6歳くらいの子供だった。
短いこげ茶の髪、まるい瞳は子供らしい純粋さよりもむしろ大人びた疲れに染まって見える。
子供らしい高い声は、しかし、どことなく低めに響いた。
それが誰か、なんて、考えるまでもない。
どうして、と問おうとした唇は震え、うまく言葉も出なかった。
それが、自分が泣き出しているからだと言うことさえ、なかなか気がつかなかった。
それくらい、驚き、戸惑い、……そして、喜んでいた。
彼が、いる。
僕の目の前に。
姿は変わってしまったし、違和感だっていくらかある。
それでも、彼は彼なんだろう。
それだけで嬉しくてならない。
「泣くなよ」
呆れたように彼は言って、僕を慰めるように手を伸ばそうとして、それから小さく笑い、
「…だめだな、これだけ小さいと涙も拭いてやれなくて」
「一体、どういう……」
「説明は、奥ですりゃいいだろ。ほら、いいからついて来い」
言われるまま、僕は袖口で乱暴に目元を拭い、彼に続いて部屋の中に入った。
この三年間でいくらか物が増え、また生活感の増した部屋の、まだ仕舞われていなかったこたつに僕たちは座った。
長門さんはどうやら席を外してくれているようで、部屋の中には僕と彼しかいなかった。
彼と向かい合わせになるように腰を下ろして、しばらく居心地の悪いなんとも言えない沈黙を味わっていると、不意に彼が口を開いた。
「なんでもな、情報統合思念体ってのにも妙な情けがあったらしくってな。6年ばかりの長門の役目と功績を評価して、ひとつ好きにしていいって許可が出たんだそうだ」
「それで…あなたを……」
「長門が取ってたデータのバックアップから、俺を再構成したってことらしい。…だから、俺からするとつい昨日覚悟を決めてお前らと別れたはずなんで、こうしてるのも妙な気分なんだけどな」
そう苦笑した彼は、
「それで、俺は6年分の記憶とかしかないから、6歳児にされたらしい。この辺は多分、長門の趣味だろうな」
「なんとなく分かりましたけど……これから、あなたは一体どうされるおつもりなんですか?」
彼の存在がなくなってしまってから、彼の家にもまた彼がいた痕跡はなくなっている。
それなのに帰れるのだろうか、と思っていると、
「それも、長門が手を回してくれたから、心配しなくていいらしい。俺は元いた家に、今度は末っ子として暮らすことになってる。…妹が今度は姉かと思うと変な感じだが」
そう彼が笑えるのは強いからなんだろうか。
それとも、自分がいない間の僕たちの気持ちを分かってくれていないからなんだろうか。
またもや泣きだしてしまいそうになりながら、僕は無理に笑って、
「何はともあれ……お帰りなさい」
と言ったのだが、彼はかすかに眉を寄せて、
「…ただいま、って、言いたいのは山々なんだけどな」
僕の顔をじっと覗き込み、
「……お前、本当にそれでいいか?」
「…それは、どういう意味ですか?」
「俺のことを、元の俺と同じだと、思えるか?」
「…ええ、と……」
「変に賢いお前のことだから、本当はちゃんと分かってんだろ? 俺はお前の知ってる元の俺そのものじゃないってことも、お前のことを愛しているがためにハルヒに戻ることを決めて、今も多分変わらずにお前のことを好きでいる俺が別に存在するんだってことも。――それでも、俺を元の俺と同じだと、思えるのか?」
そう言われ、ずきりと胸が痛んだ理由は自分でもよく分からなかった。
彼にそんな風に言わせてしまう自分の不甲斐無さのせいなのか、それとも彼の言葉に図星を指されたからなのかさえ。
疼痛を訴える胸を押さえた僕に、彼は念を押すように言う。
「俺だって、そうだ。…俺にとっては覚悟を決めてからでさえ丸一日も過ぎてないってのに、それを放り出したみたいにこんなところにいるのも、少しばかり成長したせいか、顔だの雰囲気だのが変わっちまったお前や長門を見るのが、全然辛くないって言ったら嘘になる。自分はしょせんバックアップだってことも申し訳ない。お前にも、長門にも、………お前とずっと一緒にいることを捨てて、お前とこの世界を守るって決めた、本当の俺自身にも」
「……でも、あなたはあなたです」
ちっとも変わっていないのは、バックアップだからなのかもしれない。
再構成されただけだからなのかもしれない。
それでも、僕にとって彼は彼であり、一度失ってしまった人を目の前にして平気でなどいられるはずもなかった。
「あなたが、好きです。姿が変わっても、たとえ二つに分かれてしまったかのようになっていても、好きである気持ちに変わりはありません。あなたのことも、涼宮さんの中へ還ってしまったあなたのことも、僕は同じくらいに好きでいます。同じくらい、大切にしたいんです。…それでは、だめ、ですか…? また、僕を置いて……どこかへ……遠くへ…行って、しまうん、ですか…」
言いながら、しゃくりあげ、ボロボロと涙をこぼす。
見っとも無く泣く僕に、立ち上がった彼は今度こそ手を伸ばし、僕の涙を指先で拭ってくれた。
そのまま僕の頭をかき抱くように抱きしめてくれる。
その温かさに、本当にこれが彼なんだと感じた。
「俺は、変わったぞ。少なくとも、お前にとって俺は変わったとしか言いようがないだろ。見た目はこんなだし、お前の知っている俺が知っていても、俺は知らないってこともあるかもしれん。俺がいなくなってから後のことは全然分かってもいない。それでも……俺を、好きでいて、くれるか…?」
彼の声が震えて、僕はやっと、彼も不安なんだと分かった。
その小さすぎる体を抱きしめ返して、
「好きです。あなたが、好きです…っ、あなたで、なければ……こんな気持ちに、ならないほどに、好きなんです…!」
「……ありがとな」
優しく微笑んだ彼の、前以上に柔らかな唇が僕の頬に触れる。
驚いてぽかんとしている僕に、彼は顔を赤くしながら、
「っ、しょ、しょうがないだろ! こんなに縮んじまってるんだから、下手なことしたらお前が犯罪者になるだろうし」
なんて、よく分からない言い訳をしている。
僕は思わず笑って、
「あなたのためなら犯罪者になろうとも構いませんけどね」
「って、お前な」
「冗談です。…以前よりもずっと、大切にさせてください。ずっと一緒に…いさせて、ください」
「……俺の方こそ、よろしくな」
嬉しそうに微笑んだ彼を、心の底から愛おしく思った。
これから僕は、一体どれほどの彼を知るのだろう。
これまで見られなかった幼い彼を見るかも知れない。
以前なら知らなかった彼を知ることが出来るのかも知れない。
そして、これまでにない彼を。
その結果として、彼が元の彼とは違うような人に育っていったとしても、僕はきっと彼を嫌いになったりはしない。
むしろずっと愛おしく感じ、その想いを強め続けるのだろう。
いつか、以前の彼と比べることもしなくなるんだろうと、どこか確信めいたものを感じつつ、僕は今度こそ、言いたかった言葉を口にした。
「お帰りなさい」
僕の愛しい人。
「…ただいま」
一度別れを知ってしまったから、余計に強く思った。
この笑みも、この声も、何もかも全て、ひとつ残らず覚えていたいと。