またやっちまった…。 うな垂れながら、俺は帰り道を歩いていた。 残暑と言うには余りにも厳しすぎる日差しが首筋に降り注いでいるのが分かる。 ついでに自分の頭がどれだけどんよりと垂れ下がっているのかということまで痛感させられる。 そこまで落ち込むほど、俺が何をやっちまったのかというと、毎日のように顔を突き合わせ、くだらない話をしつつ時間つぶしのボードゲームをする奴に対して、いささかきつすぎる言葉を言い放ってしまったのである。 確かに、 「あなたが好きです」 なんて冗談を口にする古泉に苛立ってはいた。 隙を突くように何度もそんな類の言葉を言う必要があるのかと、苛立ちを募らせていた。 あいつは少しも自分の気持ちを見せないくせに、人の心を覗こうとするように揺さぶりをかけてきていたから。 しかし、だからと言ってあれは言い過ぎた。 「お前の下らん話はもう沢山だ。本心を出すつもりもないくせに人の本心を探ろうとするな。不愉快だ。そんな奴とは話したくもない」 そんなことを俺は言っちまった。 いや、実際はもっと酷いことを言った気がする。 何を言ったのか、それさえ思い出せないほど、頭に血が上っていた。 言うだけ言って、俺は部室を飛び出し、こうして坂道を下り終えてやっと頭が冷めた。 古泉がどんな顔をしていたのかさえ思い出せない。 今感じるのは、ひたすらに、自己嫌悪、それだけだ。 ……明日、謝ろう。 本当は今すぐ取って返すか、あるいは携帯に電話でも掛けて謝った方がいいってことくらいよく分かっている。 しかし、それが出来ないくらいには俺は妙にプライドが高く出来ていた。 厄介なことだ。 ため息を吐きながら俯き加減に歩いていると、道端に小さな社があることに気がついた。 滅入った気分の時って言うのは無駄に社会奉仕めいたことをしたくなるものらしい。 少なくとも、この時の俺はそうだった。 いじけた子供の如く背中を丸めながらむっしむっしと草を引っこ抜き、社の周辺を整えると、意外とすっきりした。 …俺の気分がじゃないぞ、この場所が、だ。 それにしても、こんなところに社なんてあったかね? 首を捻りながら、俺は一応手を合わせる。 社だから二礼二拍手一礼でいいんだったか? うろ覚えのまま一応そうしておいて、俺は自分が何か願い事があったわけではないということに気がついた。 ……仕方ない。 あれだけ奉仕したんだ、このまま立ち去るのも癪だし、思いつくまま願うとしよう。 ――古泉に対して、もう少しでいいから素直になれますように。 そうすりゃ、ちゃんと謝ることだって出来るだろうからな。 後々、俺はそう願ったことを心の底から悔やむことになるのだが、この時の俺はそんなことなど欠片も知らなかった。 当然だろ。 俺は未来人でもなければ予言者でもない、ただの一般人だったんだから。 俺がただの一般人でなくなってしまったらしいということを知ったのは、翌日の務めも終り、後は下校時刻までだらだらと時間を潰すだけになった放課後になってからのことだった。 いつものようにドアをノックして部室に入った俺を朝比奈さんは極普通に迎えてくださったのだが、古泉は珍しくもぽかんとしたアホ面で迎えた。 長門? いつも通りスルーに決まってる。 「古泉、なんか言いたいことでもあるのか?」 謝ろうと思っていたことなど忘れたように俺は言った。 語調がいささかきつくなったのは罪悪感の表れだとでも思っていただけるとありがたい。 「なんか…って、……あの、気が付いてないん、ですか…?」 「は? 何にだ?」 首を傾げる俺の頭に古泉の視線は注がれているようだった。 さっきの授業中にハルヒに悪戯でもされたとでも言うつもりだろうか。 俺は手を頭の上に載せたが何もない。 いつも通りだ。 「…からかってんのか?」 「違いますよ!」 慌ててそう言いながらも、古泉は俺の頭上から目を動かさない。 そのまま椅子から立ち上がったかと思うと、 「じっとしててくださいね」 と言いながら俺の頭に触れた――はずだったのだが、その手は俺の頭には触れず、何か別のものに触れたようだった。 何かくすぐったいような、妙な感覚が走り、 「んっ…?」 と身を捩ると、古泉の手が離れた。 「…やっぱり、僕の目がおかしいというわけではないようですね……」 真剣に言いながら古泉が今度は俺の腰の辺りに手を伸ばし、何かを掴むような仕草をした。 すると、俺の方には何かを掴まれたような感覚が伝わってきた。 一体どうなってんだ? 「長門、」 と声を掛ければ十分だったらしい。 本から顔を上げた長門はじっと俺を見つめた後、 「……あなたの身体情報の一部に改変が見られる」 ……あー……つまりどういうことだね長門さんや。 「端的に言えば、あなたに狐のものと考えられる耳と尻尾が生えているということ」 「――は!?」 絶句した。 そうすることしか出来なかった。 言葉すら失った俺とは逆に、古泉はほっとした様子を見せた。 「僕の目がおかしくなったわけではないんですね」 てめえ、結局自分が一番かよ。 「そういうわけではありませんよ。ただ、いよいよ自分の頭がおかしくなったのかと思ったものですから」 などと弁明する古泉に構わず、長門が言った。 「ただし、それを視覚及び触覚で認識出来るのは古泉一樹のみ」 「……え」 今度は古泉が絶句する番だった。 だが、俺も安閑としてはいられん。 「長門、どういうことなんだ?」 「そのままの意味。耳にも尻尾にも、あなた自身も触れられない。他の誰にも見えない」 「…よく分からんが、古泉にしか見えないし触れないってことか」 「そう」 「何でそんなことになっちまってるんだ?」 いや、原因は聞くまでもなく分かってるんだがな。 「…半分はそう。でも、残り半分は――あなた」 と長門は俺を真っ直ぐに見つめた。 …って、 「俺!?」 「そう。あなたが願ったこと。それが原因」 「願ったこと…って……」 くらくらする頭に蘇ってきたのは昨日の記憶だ。 願ったことといえばあれしかない。 だがどうして、あれがこんな珍奇な有様に繋がるっていうんだ? 「理由は分からない。ただ、あなたが満足すれば元に戻ると推測される」 「俺が満足すれば?」 一体どういうことだ。 俺はこんなもん、欲しいと思った覚えもないぞ。 救いと言えば、古泉以外には見えないし触れもしないってことだろうか。 うんうん唸りたくなっている俺に、すっかりいつもの調子を取り戻したらしい古泉はあの憎たらしい笑みを見せながら、 「いやあ、知りませんでした。あなたにこういうものを身につけたいといった願望があったなんて」 ねーよ、んなもん。 「おや。では何を願ったんです?」 「何って……」 言えるもんか。 ふいっと顔を背けた俺の背後で違和感が湧き上がる。 古泉が尻尾を掴みでもしたんだろう。 「てめ…っ」 「元気がないようですね。尻尾も耳も垂れ下がってしまって…」 そう言いながら伸ばされた手が頭にあるらしい耳に触れる。 触れるだけのはずの手が、びくりと竦みそうになるほどくすぐったかった。 「やめんか!」 「もう少しだけ触らせてください。ふわふわしてて凄く触り心地がいいんですよ、これ」 「離せっつうに」 「そんなこと言って、」 くすりと古泉が笑い、唇が意地の悪そうな形に歪むのが分かった。 「…嬉しそうに尻尾が揺れてますよ?」 「……は?」 「触られて気持ちいいんじゃないですか?」 にこにこと笑いながらそんなことを言う古泉に、俺は何故だが無性に恥かしくなり、 「…っ、帰る!」 と言って部室を飛び出していた。 心臓がやけに激しく脈打って気持ちが悪い。 顔が熱くなっているということからして俺は今真っ赤になっちまっているんだろう。 だが何故。 そんなおかしな状態になる理由がないだろう。 召喚された白兎のようにばたばたと走りながら、俺は耳があると思しき場所を押さえた。 そうして気がついたのは、間抜けにも荷物を部室に忘れてきちまったということだけで、俺は昨日以上に絶望的な気分で坂道を下る破目になったのだった。 本当なら昨日のあの社に行って何か調べるなり試すなりするべきだったのかも知れん。 だが、訳の分からない出来事に、俺はもう疲れきっていた。 大人しく家に帰り、自分のベッドに身投げして、俺は目を閉じた。 心臓がまだ落ち着こうとしないのが苛立たしかったものの、変に疲れたせいだろう、俺は気がつくと大人しく眠っていた。 優しく撫でられる感触があった。 触れる指先が気持ちよくて、もっと触れて欲しいと思うとその通りにされる。 もっと撫でて欲しい、もっと優しくして欲しい。 そう思うだけで伝わる気がした。 実際、その手は優しく、しかも根気よく俺を撫で続けていた。 そんな風にしてくれる手の持ち主は誰だろうかと俺は目を開き、――そのまま硬直した。 「…こ、いずみ……?」 「ああ、すみません。起こしてしまいましたか?」 柔らかく笑う顔は、今日別れた時と寸分も違わない。 その手はまだ俺の頭の上にあり、俺が咎めるように見つめてやっと離された。 「あなたがカバンを忘れて行ってしまったので、持ってきたんです。妹さんがここまで上げてくださって…。でも、あなたは気持ちよさそうに眠ってらしたので、起こすのも忍びなくって自然に起きられるのを待っていたんです。眠っているあなたを見ていたら、つい、もう一度その耳に触ってみたくなりまして」 そんなことをつらつら言う古泉に、 「なら、目的は果たしたんだろ。とっとと帰れ」 礼も言わず、そんな可愛げのないことを言って、またぞろ俺が自己嫌悪に陥りそうになったところで、古泉は小さく声を上げて笑った。 立ち上がりかけたはずの脚をもう一度元のように戻しながら。 「な、なんだよ」 「いえ。……素直じゃないなと思いまして」 余裕ぶった笑みを浮かべて、古泉がまた耳へと手を伸ばす。 「まだ帰ってほしくないんじゃないですか?」 「んなわけあるか」 噛みつくように言っても古泉はにやにやとした笑いを引っ込めようとしない。 「おや。それはおかしいですね。…耳も尻尾も、こんなに寂しそうに垂れ下がっているのに」 そう言って強めに耳を握られると、これまでより明確な感覚が伝わってきた。 「っ……」 「痛くは…なかったみたいですね」 「…お前には、一体どういう風に見えてんだよ…」 唸るように問えば、古泉は笑みを崩しもせず、 「大きく愛らしい耳と尻尾がはっきりと見えていますよ。それから、どういう作用かは分かりませんが、耳と尻尾を見るだけであなたがどう考えているのかが分かる気がするんです」 「な…」 「撫でられて、気持ちがいいんでしょう? 僕も楽しいんです。だから、もう少しだけ撫でさせてください」 あくまで下手に出ながらも、古泉の手は強引に耳を撫で始める。 くすぐったい感覚が伝わり、俺はびくびくと体を震わせる。 笑い出さないのが不思議なくらいだった。 それでも、堪えきれずに声が漏れた。 「っ……、ぅ…」 「……困りましたね」 ぴたりと手を止めた古泉を見上げると、古泉はどこか赤味を帯び、切羽詰ったような顔をして、 「なんだか、変な気分になってしまいそうです」 「へ…ん……って…」 何言い出すんだ。 「あなたがいけないんですよ。本気で拒んでくださらないばかりか、少しも嫌がってくれないから……」 「な…っ、俺は嫌だって言ってんだろうが!」 「ですから、それは口だけなんでしょう?」 したり顔で古泉は言い、俺にも見えない耳へと唇を近づけ、それを甘噛みしたようだった。 「ひゃう…っ…!」 俺が思わず声を上げると、古泉は楽しげに言う。 「どうしても解放して欲しいんでしたら、教えてください。……あなたが何を願ったのか」 そう言われて、どうしてだろうな、胸がずくりと痛んだ。 こいつは結局、俺からこの見っとも無いものを外したいだけなのか。 愛らしいだのなんだの言ったのも、俺をからかってるだけで……。 「どうして落ち込むんです?」 不思議そうに俺の顔を覗き込みながら古泉は聞いてきた。 「こんなに耳も尻尾も垂らして……。何か、あなたを落ち込ませてしまうようなことを言ってしまいましたか?」 ……なんでだ。 なんでそんな、俺を心配するようなことを言うんだこいつは。 「俺、なんて、…どうでも、いい、くせに…っ」 ぼろ、と涙が零れ落ちてきた。 古泉が耳を掴んでいるからか、頭を動かしてそれを隠すことも出来ず、ただ零れ落ちていくばかりの涙まで古泉に見つめられる。 古泉はあからさまに驚きを示しながら、動けないようだった。 「どうして…泣くんですか…」 「し、るか…!」 泣きたいから泣くんだ、どうして泣きたいかなんてことは俺にも分からん。 「それに…あなたのことがどうでもいいなんて、そんなことはありません」 「じゃあなんだよ! 鍵だからとか、そういうつもりか!?」 逆切れしたように喚けば、古泉は悲しげに眉を寄せながら首を振った。 「違います。……僕は……」 古泉の手が耳から離れる。 しかし、俺は顔をベッドに伏せることも出来なかった。 そのまま古泉に抱きすくめられたからだ。 「…あなたが、好きなんです」 「っ、だから、冗談なんて…」 「冗談なんかじゃありません。本当に、あなたが好きなんです」 「嘘だ…っ、本気なら、あんな、何度も……軽々しく、言えるかよ…!」 「少なくとも最初は、軽々しくなんて言ったつもりはありません。真剣に言いましたよ。…冗談だと思ったのも、そう笑って、深く考えてくれなかったのも、あなたの方でしょう?」 古泉がそう言ってそっと目を伏せると、長い睫毛の影がまぶたの下に落ちた。 「あなたが本気だと思ってくださらないなら、何度言ってもいいと思ってしまったんです。口に出して告げることが出来れば、それだけで、僕は楽になれたんです。ひとりきり、胸の中に抱え込んでいるには余りにも大きくなってしまいましたから。だから、何度もあなたに告げました。でも、いつだって本気だったんです。いつかあなたに伝わらないか、信じてもらえないか、そう、願って……。でも、あなたを傷つけてしまっていたんですね」 すみません、と言った古泉が俺の背中を優しく撫でた。 「もう言いませんから、」 「いや、だ…」 子供が駄々をこねるように、ぼろぼろ泣きながら俺は古泉を抱きしめた。 「俺の方こそ、すまん…。だが、俺だって……本気だなんて、思えなかったんだ。あんな風に、部室で、誰かが聞きつけるかもしれないのに、お前が本気でそんなこと言う、なんて、おもわ、なく、て……」 しゃくり上げる俺を古泉が優しく撫で擦る。 「場所なんて、気にしてられなかったんです。そんな余裕も僕にはなくて…」 「ごめん…」 「――今なら、信じてくださいますか」 真剣に見つめられ、俺は少し躊躇った後、頷いた。 疑ってはいないが、ここではっきりと告げられて、それで俺はそのままハルヒたちを誤魔化していけるのかと、そう思ったせいで躊躇った。 だが古泉は、俺よりもよっぽど思い切りのいいタイプらしい。 「あなたが好きです。あなたを愛しています。好き、なんです…」 そう言って強く抱きしめられ、胸の中が熱くなった。 それはつまり、そういうことなんだろう。 答えないと、と思うのに、うまく言葉が出てこない。 それくらい、嬉しい。 どうしたらいいのかと戸惑う俺に、古泉は優しく微笑んで、俺の頭上に手をやって、 「嬉しいです。あなたも同じ気持ちでいてくださったんですね」 「な、んで…」 「耳と尻尾が教えてくれますから」 それでも、言わずにいるなんてことはよくないだろ。 第一、俺の方が釈然としない。 だから俺は古泉の頭を引き寄せてその耳に唇を近づけ、あるかなきかのかすかな声で囁いた。 「…俺も、好きだ」 目をこちらに向けた古泉が、至近距離から俺を見つめながら、 「……キスしても、いいですか?」 「っ…そんなの、聞かなくてもいい、から……」 真っ赤になりながらそう答えた俺に、古泉は目を細め、更にその目を閉じて俺に口付けた。 素直になれた。 やっと、言いたかったことを全部言えた。 俺がそう思ったからだろうか。 唇を離した古泉が、 「あ」 と小さく呟いたかと思うと、俺の頭をわしゃわしゃと撫で、ついで俺の腰の辺りを撫で回した。 「ちょっ…、お前、どういうつもりだ!?」 慌ててそう叫ぶと、 「耳が…それから尻尾も…なくなってしまいました」 残念そうに言われた。 「……なるほど」 俺が呟くと、古泉は納得しきれない様子で、 「どうしたんです?」 「いや、なんでなくなったのか分かったんでな」 「どうしてなんです?」 それの説明のためには俺が何を願ったのか聞かせてやらなければならない。 素直になりたかったんだなんて聞かされたら、こいつは一体どんな顔をするんだろうか。 そう思うだけで楽しくて、俺は唇を弧の形に歪めた。 |