「おはよう」 俺がそう背後から声を掛けると、古泉は昨日とは少しばかり違う反応を見せた。 困惑と大書されたような顔をして振り向き、 「おはようございます」 と言ったのだ。 昨日の他人行儀なものも面白かったが、これはこれで面白い。 「爽やかな朝なんだ。お前ももう少し爽やかな顔をしたらどうだ?」 せっかく、デフォルトで爽やかな面なんだから、曇った色なんか滲ませるな、勿体無い。 「そうしたいのは山々なんですけどね」 言いながら、古泉はため息を吐き、俺の耳に唇を近づけてこしょこしょと話した。 「あなたが元に戻ってくださらないとどうにも…」 「だーかーらー、なんで戻んなきゃならんのだ。今の方が社会的にも役割的にもいいだろうが。それとも何か? お前が女になった方がいいのか? 下になりたいのか?」 「がっ……! ――そういうわけじゃ、ありませんけれども…っ」 古泉一樹というキャラクターからすると、セーフどころか完全にアウトだろう奇声をなんとか一音で留め、古泉は言った。 つうか今お前なんて叫びかけたんだ? 「が」ってなんだ、「が」って。 「いいから、戻ってくださいよ」 「残念ながらあたしにも戻り方は分からん」 「嘘でしょう。長門さんに聞けばすぐ分かるはずです」 それからわざわざ一人称を直すのもやめてもらえませんかなどと強情に主張する古泉に俺は思い切り眉を寄せ、 「やかましい。昨日と同じ話題の繰り返しなんぞ要らん」 と強引かつ一方的に話題を打ち切った。 「それよりだな、」 俺がずいっと顔を近づけてやると古泉は圧されるように後ずさった。 これくらいの距離なんかどうでもいいだろうが。 「お前、今日の昼は学食に行かずに教室で待ってろよ」 「え? どうしてですか?」 「あのな…」 普通今の発言で察しは付くだろうが。 俺は苛立ちながら古泉を上目遣いに――こいつの目が以前よりも随分上にあるのが悪い――睨み上げ、 「一緒に昼飯食いたくないのか?」 「……え」 反応が遅い。 ため息を吐いた俺は、 「そういうことだから、教室で待ってろ。いいな」 「え、ええ、分かりました」 本当だろうな、と念を押してやりたくなるくらい古泉は呆けた顔をしていたが、一応そのまま別れた。 相手は小さな子供でもないんだ、ああ言ってくれた以上、信じてやらんわけにもいかんだろ。 それにしても……俺も大概そうだが、古泉は俺以上に鈍いんじゃないか? 首を捻りながら階段を上り、教室に入ると、そこにはハルヒがすでに来ていた。 「よう」 「おはよ」 というやりとりはいつもと変わらん。 俺は極自然にハルヒの前の席に腰を下ろした。 俺が女になっている以上、女子が二人連続する席順というのは本来おかしいはずなのだが、そこんところはハルヒのとんでもパワーのおかげか誰も疑問に思わないまま誤魔化せているらしい。 ハルヒは俺が荷物を置いて振り向くなり、古泉でもないというのにニヤニヤした笑いを浮かべていた。 だが、何も言おうとはしない。 俺から言い出すのでも待ってるつもりなんだろうか。 「……お前、何か言いたいことがあるんじゃないのか?」 「…言っていいの?」 「どうせ長門から聞いてるんだろ?」 「まあね」 そう苦笑するように言ったハルヒは、しかし、目をキラキラと光らせながら立ち上がり、俺が予想した以上の大音声で、 「やっと古泉くんと付き合うことになったのね! おめでと、キョン!」 と言って俺を抱きしめたのだ。 これ以上はないと言っていいだろう祝福に、俺は照れるのも忘れて思わず目を細め、 「ああ。…お前らのおかげだ。ありがとな」 心からの礼を述べた。 「何言ってんのよ。あんたが頑張ったからでしょ」 そう言ってハルヒは嬉しそうに笑う。 まるで自分のことみたいに喜んでくれるハルヒに、親友っていいなと思った。 それから、朝のホームルームが始まるまでの間、俺は国木田と谷口どころか、他のクラスメイトにまで、からかい半分の言葉をかけられたりした。 国木田はストレートに、 「おめでとう」 と言ってくれたが、谷口は、 「お前があの古泉となぁ…」 「谷口、それはどういう意味だ」 「いやー…、あいつならどんな女だろうがよりどりみどりだろうになんでよりによってお前なんだと思ってな」 「やかましい。そんなこと、あたしが一番よく分かってるっつうに」 本当に俺でいいのかよと思いはする。 しかし、あいつは俺だから好きになったと言ってくれた。 俺が俺だから、他の誰でもなく俺を。 昨日、長門が帰っちまった後、言葉を変え、表現を変え、そのくせ本当に幸せそうな表情は変えずに古泉は、抱えきれずに零れ落ちていってしまいそうなほど沢山の言葉をくれた。 そのくせ、それまで話せず、隠し通してきたものをそのまま吐き出したという感じもしなかった。 むしろ、そうして溜め込んできた中でもいいものを選びに選んで、しかも磨きをかけて丁寧に口にしたように思えたのは、惚れた欲目というものだろうか。 それでも俺は、二人きりの部室で告げられた一群れの言葉が嬉しくてならなかった。 思い出すだけで幸せだ。 思わず顔をほころばせると、 「キョン、締りのない顔になってるぞ」 と谷口に注意され、俺は慌てて口元を押さえた。 そうして、待ちに待った昼休み。 俺は手早く筆記用具などを机の中に押し込むと、大きめの弁当箱を手に教室を飛び出した。 向かう先は勿論古泉のクラスだ。 気が急いているせいでやけに遠く思えた9組のドアの側に立ったところで、ショートカットの女子が俺に気がついて小さく笑った。 嫌な笑いじゃない、優しい笑みだった。 彼女は席についたままぼうっとしている古泉に目を向けると、 「おい、可愛いカノジョが来てるぞ」 とまるきり男みたいに言った。 なるほど、こういうタイプの女子がいるから俺がほとんど男の時の口調そのままに話していても変に思われないんだなと妙な納得をしている間に、彼女に礼を言った古泉が席を立ち、俺のところまでやってきた。 古泉は柔らかな笑みを浮かべていたが、俺が手にしている弁当の包みに気がついた様子で軽く目を見張り、 「もしかして、作ってきてくださったんですか?」 と驚きを隠しもせずに聞いてきた。 「変か?」 ひねくれた俺がそんな風に聞くと、古泉はオーバーなくらい大きく首を振り、 「いいえ。嬉しいです」 「味の方は間違っても期待するなよ。全部俺の手作りかなんて期待もな。一部はお袋が作ってくれたもんだし、一部は冷凍食品だ」 「それでも、嬉しいものは嬉しいですから」 そう言ってふわりと微笑んだ古泉は……その、なんだ、正直、今現在女であるはずの俺よりもよっぽど綺麗で、可愛かった。 俺は赤くなりつつある顔を古泉に見られないようにそむけつつ、古泉を連れて中庭に出た。 靴を履き替えるのが少しばかり面倒だったが、恋人同士らしく弁当を広げるならやっぱり中庭あたりがいいだろう。 都合よく、中庭の木の下は塞がっていなかった。 気持ちいい空の下、ピクニックシートなんかも敷かずに俺たちは直に地面に座った。 少しだけひやりとした草の感触が心地好かった。 「飲物は…」 「ああ、買ったらいいかと思ったんだが…」 「では、僕が買ってきましょう」 そう言って古泉はぱっと立ち上がり、 「減糖したコーヒーでいいですか?」 「ん、頼む」 「はい」 まるでお使いを頼まれた子供かフリスビーを投げてもらった仔犬のように楽しげに、ぱたぱたと自販機の前に走っていった。 俺はその背中を見つめながら、自分が目を細めていることに気がついて苦笑する。 すぐ近くにある自販機まで行ってコーヒーを買ってきてもらうという、ただそれだけのことが嬉しいって、なんなんだ。 お手軽すぎるだろ。 ……でも、そんなことさえ悪くないと思えてくるんだから、おかしなもんだ。 両手に紙コップを持って戻ってきた古泉に、 「ありがとな」 「いいえ」 これだけのやりとりがくすぐったいくらい幸せだ。 顔が緩みっぱなしで困る、と思いながら俺は弁当箱を開けた。 「おいしそうです」 嬉しそうに言う古泉に、 「本当はな、全部手作りしたかったんだが、今現在の俺の技量じゃ難しいと思ったんでな。…その、お袋に教わって、うまく作れるようになったら、食べて…くれるか?」 「喜んで」 そう言って、古泉は本当に嬉しそうに笑ってくれた。 それが無理をしているようなものに変わったり、あるいはあからさまに不調そうにならないことを祈りながら見つめる俺の前で、古泉は馬鹿丁寧に、 「いただきます」 と手を合わせた上で弁当に箸を伸ばしかけ、 「あなたが作ったのはどれですか?」 と聞いてきた。 「俺は…そこの玉子焼きと、おにぎりを……」 「では、玉子焼きからいただきましょうか」 そう言って古泉はいびつな形に巻かれた玉子をひとつつまみ、口に運んだ。 そのままひとくちかじって、 「うん、おいしいですよ」 笑顔で言われてほっとする反面、こいつのポーカーフェイスがどれだけのものか知っている身としては安心しきれず、 「ほんとか?」 「本当ですよ。疑うなら、自分で食べてみてください」 そう言って突き出されたのは、古泉の食べかけのそれで。 「……食べかけを俺に食えと」 「……あ、食べかけは嫌ですよね。すみません、つい…」 慌てて引っ込めようとした箸を手で止めて、俺はそれに食いついた。 もぐもぐと咀嚼し、 「…ちょっと醤油が多かったかな」 そう感想を述べても、古泉は硬直していた。 赤くなった顔もやっぱり可愛いんだから、美形は得だな。 俺は苦笑しつつ、形の悪いおにぎりを箸で割り、一口大にして古泉の口に持ってった。 「ほら、あーん」 更に驚きに目を見開きながら、古泉は素直に口を開く。 ぱくりとおにぎりが口の中に納まったのを確認して、 「美味しいか?」 と聞いて見ると、 「…味なんて、分かりませんよ」 と拗ねたように言われた。 なんでだよ。 「あなたに手ずから食べさせてもらったりしたら、ドキドキしすぎて味なんて分からなくなりますよ…!」 そんなことを真っ赤になりながら言った古泉に、俺は笑うしかなかった。 どうしようもなく幸せだ。 …やっぱりこのまま男に戻らなくってもいいんじゃないか? |