還り行くモノ



真夜中に不意に目が覚めるのは、僕にとっては珍しいことじゃなかった。
閉鎖空間の発生を感じたり、そうでなくても、ちょっとした物音で目が覚めてしまうくらい、僕の眠りはいつも浅かった。
深く深く眠れるのは彼を抱きしめて眠っている時や、彼を感じられた後の快い疲労感がある時くらいのもので、それは彼に言えない僕の秘密だった。
言ってしまったら、彼がどんなにか僕を心配してしまうかと思うととてもじゃないが告げられなかった。
それでもそれを告げておくべきだったのかもしれない。
あなたに側にいて欲しいのだと、恥も外聞もなく言ってしまえばよかったのかもしれない。
そう僕が悔やんだのは、突然目が覚めたその夜のことだった。
何があったというわけでもなく目が覚めた。
街もまだ眠っている。
しかし、それだけじゃない静けさを感じた。
余りにも静か過ぎる。
五感のうちひとつを封じられてしまったような違和感があった。
何かを感じられない。
感じられないのは何だ?
部屋の電気をつければ、辺りは見える。
耳も、音を聞いている。
匂いも感じる。
手に触れるものの感触も分かる。
味覚もおそらく大丈夫だ。
それなのに、何かが足りない。
そんな風に辿って行かなくても、本当なら分かったはずだ。
それくらい、僕の失ったものは大きかったから。
だから、すぐそれに気がつかなかったのは、単純に僕がそれを拒もうとしたからに違いない。
――超能力とでも言うべき、あの力を僕は失ってしまっていた。
そうとしか思えない。
僕は愕然としながら携帯電話を掴むと、長門さんに電話を掛けた。
「長門さん、一体どうなっているんですか? 僕の力は…失われてしまったのは、僕の力なんですか…? それとも…」
最後まで口にすることさえ出来ない僕の、中途半端でありながらも恐ろしい問いかけに対する彼女の返事は、
『……彼の…存在を、感知出来ない……』
というものだった。
彼女の声も、彼女らしくなく震えていた。
「長門さん…」
僕よりもよっぽど彼女の方が大丈夫でないように思えた。
今すぐにも機能を停止しようとしている、壊れかけた人形のようだ。
『…涼宮…ハルヒに……変化を…確認…』
「長門さん、」
もう止めてください。
あなたのそんな声は聞きたくない。
そんな言葉も。
『…でも私は、……私も…信じたく、ない…』
「…ええ、そう、ですね……」
彼がいなくなってしまった、なんて。
「学校と…彼の家にも行って、確認してみましょう」
無駄だと思いながら、そう言わずにはおれなかった。
『…私もそうしたい』
「ええ。…では、また……後で…」
電話を切った後も、寝なおすことなど出来なかった。
彼を失ってしまったかもしれない。
それだけで僕の胸は張り裂けそうに痛んだ。
本当は確信しているくせにそれを認めたくない。
僕たちは本当に彼を失いたくなくて、それが一番で、これまで必死に取り組んできたのに、それは全て徒労に終ってしまったのだろうか。
――そうだった、と僕たちはその日の内に認めざるを得なくなっていた。
学校の名簿どころか、戸籍や、機関の資料、ありとあらゆる書類から、彼の存在は消えていた。
彼のクラスに行って、彼の友人にも聞いた。
「キョン? 誰だそれ」
「そんな人いたっけ?」
谷口国木田両氏にそう言われ肩を落とした僕に、谷口氏が言った。
「それよりお前、涼宮をほっといていいのか?」
どうしてそんなことを言われるんだろう、と首を傾げると、
「お前等、付き合ってるんだろ? あいつまた呼び出されてたぞ。心配じゃないのか?」
「…そういうことになってるんですか」
ぼそりと呟いた言葉は、幸い、二人には聞き取られなかったらしい。
「何か言ったか?」
「いえ、」
と僕は笑みを返し、
「どちらに呼び出されてました?」
「中庭、だったかな」
「分かりました。…ありがとうございます」
そう答えて、僕は5組の教室を出た。
早足に中庭に向かえば、男子生徒と話している彼女の姿があったのだけれど、僕は一瞬、それが彼女であると理解出来なかった。
戸惑うような、困ったような表情に相手を一刀両断するような強さはなく、どちらかというと守ってあげたくなるような儚さが漂う。
告白されて断りきれない、というのだろうか。
あの彼女が。
当惑する僕を見つけた彼女が、ぱっと明るい笑みを見せる。
ほっとしたような笑みだ。
そうして僕の方へ駆け寄ってくると僕の手を取り、
「悪いけど、あたし、古泉くんと付き合ってるから!」
と告白してきた生徒に告げた。
「…やっぱり、そうか」
諦めたように笑う彼へ、彼女は申し訳なさそうな顔で、
「…ごめんね」
と言ったけれど、僕は本気で戸惑うしかない。
どこまで世界は変わってしまったんだろうか。
そして僕はどうするべきなのかと。
…いや、もはや超能力が失われている以上、閉鎖空間もおそらく発生しない。
それならば、僕に判断は委ねられている。
いまだかつてないほど、完全に。
それでも、それだけに僕はどうしたらいいのかと迷った。
そうしているうちに、彼女は手を離し、
「ごめんね、古泉くん。断る口実に使っちゃったりして…」
ああ、それでは付き合っているというのは周囲の誤解であり、そんな事実はないのか。
そのことにどこかで安心しながら、
「いえ、構いませんよ」
と答えた。
ほっとしたように力なく微笑む彼女の笑みに、彼の影がちらつく。
僕は迷いながらも聞かずにいられなかった質問を口にした。
「…キョンと呼ばれた人を、覚えていませんか」
彼女は首を傾げ、
「誰? それ。面白いあだ名ね。古泉くんの知り合い?」
「……ええ、そんなところです」
答えた自分の声がどうしようもなく沈んでいることが分かった。
「古泉くん? 大丈夫なの?」
「…すみません。実は少々体調が優れないので、今日の団活はお休みさせていただきたくて、涼宮さんを探していたんです」
「そうだったの?」
目を丸くした彼女は、
「分かったわ。本当に辛そうだもんね。早退するの?」
「ええ」
「気をつけてね。…難だったら、送っていこうか?」
「いえ、大丈夫ですよ」
お願いだから優しくしないでもらいたい。
彼を思い出してしまう。
彼女の中に、彼を探してしまう。
そんなことは、彼のためにも、自分のためにも、したくないのに。
泣き出しそうになるのを堪えながら、僕は彼女に別れを告げて、その場を離れた。
本当に今日はもう帰ってしまおうと荷物をまとめ、昇降口へ下りたところで、長門さんに会った。
僕たちは交わす言葉もなく、ただ見つめあうしかなかった。
間違いなく、彼は失われてしまったのだ。
「…彼は、涼宮ハルヒに吸収されたと思われる」
「それで…彼女の力もなくなったんですか…?」
そんな風に話し始めることが出来たのは、帰りの坂道を下り始めてからだった。
彼女も今日は早退するらしい。
朝比奈さんは最初から登校していなかったことも、僕は知っていた。
おそらく、かなりショックを受けたのだろう。
「違う」
と長門さんは僕の問いに対して首を振った。
「…涼宮ハルヒの力はまだ存在している。ただ、強く抑圧されていて表面化しないだけ」
「それは……」
「……おそらく、彼の意思」
どうして、と問うまでもない。
彼は、僕の、僕たちの、ために……。
「そんなこと…求めてなどいなかったのに……」
優しすぎる彼。
自分は弱さの集まりだと自分を卑下するくせに、とても強くて温かで。
もっとワガママになってもよかったはずなのに。
涙が出ないのが不思議な気持ちを共有しながら、僕たちは帰った。
帰った後はそれぞれに、一人きりの部屋で膝を抱えて、彼を思ったのだろう。
どうしてと問いながら、自らの無力さに打ちのめされながら。
それでも、日は沈み、また昇り来る。
僕たちにも僕たちの生活があり、営みがあり、引きこもり続けるわけにもいかない。
お腹も減る。
しなくてはならないことに追い立てられもする。
それが自然でありながら、そのことが酷く不自然で薄情なことのように思えた。
だって彼はもうそんなことさえ出来ない。
ただ彼女の中で眠り続けているだけだ。
彼女の力を押さえ込むように胸に抱き、体を丸めて眠る彼の姿が見えるように思えた。
SOS団は解散もされずにあり続けた。
前ほどアクティブではないけれど、間違いなく涼宮さんは涼宮さんで、不思議探索もしたし、色々と企んでもくれた。
ただ、実行に移す前にきちんと考えてくれるようになったようで、前ほど無茶な要求はされない。
彼を失ったことに絶望しながら、彼女のそんな変化にも僕たちは寂しさを感じた。
彼女が彼女でなくなってしまったように思えて。
自分で思っていたよりも、僕は彼女のことを好きでいたらしい。
そんなことを今更知ったところでどうしようもないのだけれど。
「古泉くん、オセロでもしましょ」
涼宮さんに言われ、僕は頷いた。
「いいですよ。ただし、お手柔らかに願います」
「古泉くんって勉強は出来るのにボードゲームはからっきしよね。どうしてかしら?」
首を傾げながらオセロの準備を整えた彼女は、
「もしあたしに遠慮して手加減してるんだったらやめてよ?」
と彼のようなことを口にした。
それだけでずしりと重たいものを飲み込まされたように感じる。
彼女が悪いわけじゃないと、分かっているのに。
「…本当に僕が弱いだけですよ」
「ふぅん」
そう言いながら彼女は片肘をついて駒をパネルの上に置いた。
そんな仕草のひとつひとつが彼と重なる。
間違い探しか何かみたいだ。
彼とならあんなに楽しかったボードゲームが辛く思えるのは、彼を思い出してしまうからだろうか。
それとも、彼との思い出を彼女とのそれに上書きされてしまうのが怖いのだろうか。
僕は笑みを必死に保ちながら、ゲームを続けた。
前ほどとげとげしくなくなった彼女は、前よりも男性にもてているらしい。
それはそうだろう。
才色兼備の美少女で、しかも面倒見もいいとなれば、少々変なところがあっても惹かれるはずだ。
こうして考えると、彼女と彼が合わさったというのは本当に向かう所敵なしの最高の人のように思えた。
でも、それだけに、彼が彼女を完璧にするためだけの存在のように思え、苦しかった。
彼は彼だけでも十分素敵な人だった。
彼女もそうだ。
そんな風に、彼女が彼を取り込んだということの影響を観察していた僕だったのだけれど、ひとつ見落としがあった。
彼女と彼が合わさったことで訪れた変化の中には、性格におけるものだけでなく、意識や心の変化もあったということに、僕は気がついていなかったのだ。
「…好きよ」
と彼女に言われたその時まで。
「……え…」
「と、突然こんなこと言って、ごめん。驚かせたと思うし、その、あたしからこんなことを言うなんて本当にあたしらしくないとはあたしも思うわ。でも、言いたかったの」
そんな風に、慌てた時に饒舌になるのは、彼の癖。
「…古泉くんが、好きなの」
僕を好きだと感じてくれたのは、彼の心。
「古泉くんさえよければ…あたしと、付き合って、ください」
恥ずかしそうに、不安を感じるように、かすかに震える声の調子は、彼のもの。
それなのに、僕の目の前にいるのは彼ではなく、涼宮さんで。
どうしようもなく、悲しかった。
彼は彼女の中にいる。
でも、彼女は彼じゃない。
僕が好きになったのは彼で、僕を好きになってくれたのも彼だ。
それを彼女のものにされたようで、嫌悪と言っていいほどの気持ちが湧きあがった。
それと共に込み上げてきたのは、悲しみだった。
彼女の意思はどこに行ってしまったんだろう。
彼の意識は?
ふたつであったものがひとつになるというのはどういうことなんだろう。
片方が失われてしまうということじゃなかったのか。
両方が、失われてしまうということだったのか。
そうして生まれた新しいものは、ふたつのうちどちらでもないものは、一体何なんだろう。
ぼろ、と涙が零れ落ちた。
「な、何で泣くの!? そんなに、迷惑、だった…?」
不安そうにうろたえる彼女を、僕は慰めるべきだった。
嘘でも嬉しいと言うべきだった。
でも、出来なかった。
僕の心は今も彼のもので、これからもそうだから。
「……どうしてなんですか…」
気がつけば、最悪の言葉が口から零れていた。
止めようにも止められない。
いや、止めようとする意思さえ湧かなかった。
「どうして、いなくなってしまうんです。どうして、彼女の中に還ってしまったんです! どうして、僕を…っ、置いて、行ってしまうんですか…」
「古泉くん…? 何、言ってるの…?」
怯えるように戸惑う彼女の肩を痛みそうなほど強く掴む。
「ただ置いていかれるだけなら…まだ、いいんです。時が経てば忘れられるでしょう。僕だって人間ですから、悲しいですが、忘れてしまえたと思います。…でも、こんな風に名残を見せられたら、忘れることも出来ないじゃないですか…! どうして、あなたの痕跡を残すんです。僕に見せつけるんです。…その方がよっぽど……残酷なのに…」
震える彼女に縋り、僕はただどうしてと叫び続けた。
彼女が答えられるはずなどないと分かっていたのに。
繰り返し何度も。
誰かが来ても構わないと思いながら。
そうして、彼の名前を叫んだ時だった。
「――古泉」
と、その人が僕を抱きしめた。
困ったような笑みを浮かべているだろうことが、見なくても分かった。
「バカだろ、お前」
記憶にあるよりも華奢すぎるけれど、強く優しい手が僕の髪を撫でる。
「何が、バカなんですか…っ。……いえ、たとえ、バカでも何でもいいんです…」
あなたがいなくならないのなら。
「俺がハルヒの中にいるって、ちゃんと分かってたんだろ? それでも、嫌か?」
「嫌ですね。僕が好きになったのはあなたそのものであって、涼宮さんではないんですから」
睨みつけるようにしながらそう言うと、その人は笑って、
「ワガママだな」
と言った。
「お前がそんなだから、俺はまだまだ苦労させられるんだな」
「…嫌ですか?」
「……いいや」
とこの上なく優しく笑ったその人は、
「お前のための苦労なら、どんなに大変でもいいさ。…古泉」
「は、い…」
「……愛してるぞ」
かすかに震える声が耳に触れた。


「……っ…」
目を覚ました僕は、慌てて辺りを見回した。
大丈夫だ。
いつも通り、何の変化もない。
何よりも、隣りで彼が眠っている。
幸せそうな穏やかな顔で。
「…よかった……」
言葉と共に吐き出した吐息は深く、重苦しいものを吐き出せたように思えた。
僕は恐る恐る手を伸ばし、彼の前髪に触れた。
「ん…」
と身動ぎした彼の手が僕の肌に触れる。
間違いなく、彼はここにいる。
そのことに安堵しながら、僕はもう一度布団に潜り込んだ。

それにしても……全ては夢、だったんだろうか。
それとも…?