好きになってはならない訳



ああ、朝比奈さんは本当に愛らしい。
天上より舞い降りた天使、あるいは誤って人の世に紛れ込んでしまった妖精のようだ。
それこそ、うっかり惚れてしまいそうなほどに。
しかし俺はあの方に惚れる訳に行かないのだ。
それは朝比奈さんが未来人だからではなく、俺の方にいささか感傷的な理由があるからだった。
「前々から不思議だったのですが、」
唐突に古泉が口にしたのは、ハルヒが朝比奈さんと長門を引きつれてどこだかに行ってしまい、野郎二人だけが残された部室でのことだった。
少し前までは俺に対してもまるで俺が自分にとって利害が相反する存在であるかごとき態度を崩さず、俺としても残念ながらこいつを胡散臭く油断ならない奴だと思ってきたのだが、古泉の態度がいくらか軟化してからは、一応友好的関係を保っている。
もっとも、古泉に言わせれば、俺の警戒心が緩む方が先だったとのことだが、それを論じたところで水掛け論になるだけだろう。
ともあれ、今となっては古泉は俺の友人としてカテゴライズされており、俺としても宇宙人だの未来人だの超能力者だのといった話を笑われも、正気を疑われもせずにすることが出来る数少ない仲間として、それなりにその稀少性を認めている次第である。
「あなたは朝比奈さんや長門さん、涼宮さん、はたまたその他の女性に対して恋愛感情を抱いたりはしないんですか?」
それが俺とハルヒをくっつけようとしての発言なら俺は答えんぞ。
「違いますよ」
苦笑しながら古泉はそう言った。
「機関の一員としての情報収集でもありません。単純に僕が興味を持ったまでのことなんですよ。あれほどまでに魅力的な女性陣に囲まれていながら、あなたは一度も恋情の色を見せたりしないでしょう? それは何故なのか、ずっと気になっていたんです」
それを言うならお前もだろうが。
「僕は、ここで果たすべき役割がありますから」
ああそうかい。
全く、ご苦労なこった。
呆れる俺に、いつもながらの曖昧な笑みを返した古泉は、
「それで、どうしてなんです? 差し支えなければお聞かせ願いたいのですが…」
俺はため息を吐いて古泉を見た。
「お前がそこまで物見高いとは知らなかった」だの、「悪趣味だぞ」だのと言った文句がいくつも思い浮かんだが、結局口にはしなかった。
こいつが露骨に人の主義に興味を示すのも珍しいし、話したところでそう困るような話でもない。
何より俺も、聞いて欲しかったんじゃないだろうか。
ずっと誰にも言わず、黙ってきたことを。
「……お前なら、話してもいいか」
口も固そうだし、変な偏見もなさそうだからな。
「どういう意味ですか?」
意味深な俺の呟きに首を傾げる古泉に、
「お前に果たすべき役割があるように、俺には果たすべき約束があるのさ。それが、俺が誰も好きになってはならん理由だ」
古泉の勿体ぶった言動を真似るように、気障ったらしく言ってやると、古泉は面白がるように目を細めながらテーブルの上で指を組んだ。
「それはまた興味深い発言ですね。詳しくお聞かせいただけますか?」
「いいだろう。ただし、他言無用で頼むぞ」
「心得ました」
おどけるように言った古泉に、一瞬判断を誤ったかと思った俺だったが、今更やめる訳にもいかず、ゆっくりと記憶を辿ることとなったのだった。

そいつと知り合ったのはまだ小学校にも上がっていないような頃だった。
今となってはお笑い種だがその頃の俺は近所でもちょっと評判になるくらい可愛らしいお子様だったのだ。
性格的には少々賢し過ぎて可愛くなかったが、見た目だけなら十分にな。
まあ、うちの妹はあれで小さい頃の俺にそっくりだから、あんな感じでイメージしてくれ。
ともあれ、それだけ可愛かった俺なので、時には哀れにも女の子と間違える愚か者もいた訳だ。
俺はというと、自分がどう見えるかを最大限フル活用していたので、そういうバカは大いにからかってやっていたのだが、その中に極め付けの大馬鹿者がいたんだな。
親に連れて行かれたバスツアーで知り合ったそいつは、三泊四日の旅行の間、ずっと一緒にいたにも関わらず、俺のことを女の子だと勘違いしたままだった。
これはうちの親のファッションセンスにも責任があるのだが、それにしても鈍いと思うだろ?
いつ気付くかと呆れていた俺なのだが、そいつを見直す事態が起こらなければそれだけで終っただろうな。
そいつを見直す事態――それは旅行の最終日、解散間際の空港で起こった事件がきっかけだった。
その時俺は母親から離れ、土産物コーナーを眺めていたのだが、その時突然、誰かに抱え上げられたのだ。
変質者だとすぐに分かったのは、そういう目に遭うのが別に初めてじゃなかったからだ。
しかし、その変質者はそれまでのどいつよりも手際が良かった。
驚いて声を上げるより早く口を塞がれ、人気のない方へと連れ込まれた。
力いっぱい抵抗してやろうと暴れても、幼児の腕力では少しも敵わず、俺は己の非力さを憎んだ。
その時だ。
「火事だ! 誰か来て!」
と叫ぶ声がし、続いて大勢の足音が聞こえてきた。
驚いて、俺を押さえ込んでいた男の手が緩んだ隙に俺は、走ってきた人間の中に間抜けだとばかり思ってきたそいつの姿を見付け、迷うことなく抱きついた。
火事だと言われて駆けつけてきた店員や警備員も、実際には火事などではなく、俺が襲われていたのだと気付くなり、その変質者を押さえつけてくれたが、俺はその人たちに感謝するよりも早く、そいつにすがりつき、声を上げて泣き始めていた。
それは、安心したせいでもあったし、それ以上に感動してもいたのだろう。
聞かなくても分かったからな。
火事だと叫んで俺を助けてくれたのも、俺の危機に気付いてくれたのも、そいつだったんだと。
「大丈夫ですか?」
泣きじゃくる俺を抱き締めて、そいつは言った。
「早く助けられなくてごめんなさい。確実な方法を考えたら、遅くなってしまって……」
そんなことはどうでもよかった。
重要なのは俺をそいつが助けてくれたということだ。
「あり、が…と……」
それだけをなんとか伝えると、そいつは嬉しそうに照れ臭そうに顔を赤らめた後、
「……君が好きなんだから、当然のことをしたまでです。本当はもっと早く、かっこよく助けたかったんですけど。……そうしたら、君に好きになってもらえるかなって……」
「…バカ」
小さく毒づきながら、俺はそいつのことをしっかりと抱き締めた。
「十分、好きになってる」
「…本当ですか?」
喜色を滲ませたそいつに頷けば、そっと頬にキスされた。
「君が好きです。……本当はテレビみたいに、別れ際に言おうと思ったんですけど、今、言わせてください。――僕が十八歳になるまで、待っててくれませんか? 十八歳になったら、君に相応しい人になって、君を迎えに行きますから。そうしたら、僕のお嫁さんになってくれませんか…?」
まだ小学生にもなってないガキが何言ってんだとも思うだろうが、この時の俺は状況が状況だっただけに、素直に頷いちまったのだ。
「待ってる…。他の誰も好きになったりしないで、ちゃんと、待ってるから…だから、十八歳になったらなんて言わずに、早く…迎えに来いよ…!」
「約束します。十八歳になるまでに、君を迎えに行きます」
本当はこの時、俺は本当は男なんだと伝えてやるべきだったんだろう。
けど俺は、最後の最後、本当に別れるという時になってもそれを言わなかった。
理由は単純で、しかも身勝手なものだ。
――男だと知られて、そいつに嫌われるのが怖かったのだ。
嫌われるだけならまだしも、幻滅され、目の前で口汚く罵られたりしたら嫌だと思うくらいには、そいつに惚れちまったらしい。
だからそいつはきっと、俺のことをまだ女だと勘違いしたままでいるんだろう。
つまりは俺のことを見つけてはくれないに決まってる。
俺はこんな風に平々凡々とした野郎に育っちまったからな。
それでも俺は、嘘を吐き通した罪滅ぼしというわけでもないが、あいつとの約束を守り通すつもりでいる。

「だから、俺は少なくとも十八歳を終えるまでは、他の誰も好きになってはならんという訳だ」
俺が話し終えるまで、古泉はいつものにやけ面のポーカーフェイスを保ち続けていた。
相槌を打ちもせず、ひたすら黙って。
その仮面のような顔の下に、動揺が見て取れるのは、俺の気のせいなのだろうか。
「……変な話を聞かせちまってすまん。普通ドンビキするよな」
そう言いながらも、どこか胸が痛んだ。
古泉なら笑って、
「淡い思い出というやつですね」
とか返すと思っていたせいだろうか。
「ドンビキ……と、言いますか……ちょっと待ってくださいね」
焦るようにそう返した古泉は真剣な表情になってしばらく考え込んだ。
さっきのにやけ面はもしかして、単純にその表情のまま硬直していたということなのだろうか。
「……それ、あなたが4歳の時の話ですか?」
「あ? ……ああ、そうだな、そうなるが……」
一体どうしたんだ?
というか何故分かる。
「時期は?」
「冬だな」
「ち…ちなみに旅行先は……」
「九州だが…」
「……」
それっきり、古泉は沈黙した。
なにやらぐるぐると考え込んでいるのが見て取れるほど、青い顔をして。
というか、先ほどから要らんフラグが乱立している気がするのだが俺の気のせいだろうか。
焦る俺に視線を戻したかと思うと、古泉は真剣に、
「…相手の名前、覚えてますか?」
「いや…忘れちまったんだが……」
お袋にでも聞けば分かるんじゃないだろうか。
「……最後にもうひとつだけ、教えてください。……あなたの子供の頃のあだ名って――」
そう言って古泉は正確に、「キョン」ではない、俺が小さかった頃の呼称を口にした。
「…どうやら、あってたみたいですね」
「……嘘だろ…」
頭がくらくらする。
皆まで言われなくても分かる。
あの間抜けなマセガキが古泉だってことだろう?
そんなことが有り得るのか?
「あるいはそれが、僕が涼宮さんに選ばれた理由なのかも知れませんね」
苦笑するように言った古泉は、
「困りました」
「何がだ…」
俺以上に困ってるというなら口にしてみろ。
多分俺の方が困っているからな。
だってそうだろう。
何も知らない奴だと思って恥ずかしくも赤裸々な思い出話をしたら、相手が当事者だったんだぞ。
偶然に乾杯どころか、グラスを力いっぱい殴り捨ててやりたい気持ちだ。
「僕は本当に相手が愛らしい女の子だと思っていたんです。男かもしれないなんてことは微塵も思っていませんでした。…言われてみれば、服装だっていつもズボン姿で、スカートをはいてたなんてことは一度もなかったんですから、気付いても良かったんでしょうが」
「何が言いたい」
「困った、というのはそのことじゃありませんよ」
古泉は俺の苛立ちを見抜いたように笑って、
「――約束をした彼女があなただと知って、困ってしまうほど嬉しくてならないんです。うまく言葉も紡げないし、表情を取繕うことも出来ないくらいで、本当に困りますね。それに、この偶然を、涼宮さんに許され、祝福された証ではないかと勘違いしてしまいたくなるんです。正直なところ、僕はこのまま、あの子との約束を破棄しなくてはならないとばかり思っていましたし」
「……は…?」
戸惑う俺にも構わず、古泉は俺の手を取ると、指先に軽く口付けて言った。
「あなたが好きです。あなたに出会った時から、ずっと」
「なっ……!?」
俺は男だってもう分かってるんだろう!?
しかも俺はもう昔みたいに可愛くなんかなくって、それなのにこいつは一体何を言い出すんだ。
狼狽しながら、どうして俺はこんなにも真っ赤になっちまってるんだろうな。
楽しげに笑った古泉は、
「あなたも、僕をまだ好きでいてくれるんですよね?」
ああ、畜生。
俺の手札はすっかりオープンにされ、丸裸も同然だ。
その状況下で古泉がこんな風に強気に出たって俺にはどうしようもない。
「あ、う……」
と口ごもりながら古泉を睨むが、堪えるはずなどない。
「約束を守れて何よりです」
嬉しそうに笑う古泉が憎らしい。
「ねえ、僕のお嫁さんになってくださいますか?」
「…っ、俺は男だぞ?」
「分かってます。それでも、好きになったんです。あなたが約束の相手だとは知らずに。不実な奴だと言われるかもしれませんが、あなたに高校で会えて以来、僕はずっとあなたのことばかり想ってきました。性別なんて障害にならないということは、言えませんか?」
そう言われてしまえば、俺に反論など出来るはずなどない。
そもそも、あいつが男だと知っていながら約束を守り通してきたのは俺の方だしな。
だから俺は、
「……だ、大事にしてくれるんなら、考えてやらんでもない…」
「ありがとうございます。一生、大事にしますよ」
うかれた笑顔で言った古泉に抱きしめられ、俺はもはや言葉さえ失い、硬直したのだった。