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静寂



体を繋いだ直後なのに、やけに静かに思えた。
窓の外に確かにあるはずの街も。
まだ熱気がこもったままのはずの部屋も。
熱を失っていないはずの俺の体も。
さっきまで確かに興奮していたはずの心も。
何もかも、全てが、恐ろしく静かだった。
あの灰色の空間のように。
静かで、孤独だった。
隣りには古泉がいる。
それなのに、どうしてだろうか。
今、俺は一人なのだと思った。
それを寂しいとも思わず、悲しいとも思わなかった。
ただ、どこまでもひたすら静か過ぎるのが、怖かった。
俺がこんなにも静かだと感じている理由があるとすれば、それは間違いなく古泉だと思った。
古泉が余りにも静かだからだと。
まだ俺の上に覆いかぶさったまま、後始末をしようとする様子もなく、古泉はその体重を俺に預け続けていた。
重くないとは言わない。
だが、跳ね除けるほどではないそれを受け入れながら、どうしてこんなにも静かなんだと思った俺の耳元で、ぽつりと静かな声がした。
「…死んでしまいたいです」
幸せそうにでなく、辛そうにでもなく、淡々と古泉はそう呟いた。
それは希望の形をとってはいたものの、とてもそうは思えないほど落ち着いていた。
むしろ、死にますとでも言うかのようだった。
頭の端を、夏目漱石の短編の一節が過ぎる。
俺なら百年待てるだろうか。
真珠貝で掘った墓穴も、星の破片の墓標も、古泉にはきっと似合うのだろうが。
死ぬならば、あの話のように死んでもらいたい。
苦しみも痛みもなく、目を閉じ、長い睫毛の間から零れた涙が頬へと伝い落ちるまでの間の死を願った。
「死んでしまいたいです」
俺のまどろみにも似た考えを優しく裂くように、古泉は言った。
けれどそれは、俺の注意を引くためのものではなかったのだろう。
俺が何の反応もしなくても、それ以上繰り返されはしなかった。
開かれた薄い唇の間から漏れてくるのは、俺に聞かせるためではない言葉だった。
「今、この時に、このまま死んでしまえたらいいと思うんです。これ以上不幸せにも、幸せにも、ならないで済みますから」
古泉の頭は俺の頭の横にあって、表情をうかがうことも出来ない。
ただ、少しばかりくぐもった声が、冗談でもなんでもない事実を話していることだけを伝えてくれた。
だからきっと、古泉は今真剣な顔をしているのだろう。
俺にも滅多に見せてくれないような真面目な顔でいるのだろう。
古泉はどうやら、俺にそんな顔を見せたくはないらしい。
いつもいつも、俺にはよく見えないようにしながらそんな顔をする。
そうでなければ、浮かべたそれをすぐさま引っ込めてしまう。
俺はそれを寂しく思うこともなく、そんなものなのだと受け入れていたが、面白くないとは感じていた。
俺は古泉のどんな表情も見ていたいのに、そうして隠されることが悔しくさえあった。
「これ以上不幸せになりたくはありません。僕はもう十分すぎるほどそうであったはずです。だから、これ以上なんて嫌なんです」
子供のように呟く声は震えてさえもいなかった。
本当に淡々と響き続けるそれは子守唄か何かのようにも思えた。
実際、古泉はたとえ俺が眠ってしまっても気にしなかっただろう。
俺がこの独白染みた告白を聞いていようがいまいが、きっと関係などなかった。
たとえ俺がこの場にいなくてもよかったに違いない。
あるいはいつも、俺がいない時にもそうして呟いているのかもしれない。
誰にも聞かれないよう、この狭い部屋の中でひとり静かに。
だからこんなにも静かになれるのだろうかと思いながら、俺は続きに耳を傾ける。
「でも、僕はもう十分に幸せでもあるんです。これ以上の幸せなんてきっとありえません。あったところで、欲しくなどないんです。これ以上幸せになったところで僕は、きっと耐え切れずにそれを棄てようとしてしまうに決まってますから」
だから今死にたいのか。
俺は古泉を驚かせないよう、出来るだけゆっくりと腕を動かすと、滑らかな肌を滑らせ、古泉の背中に腕を回した。
なだめるためじゃない。
ただ、俺がそうしたかっただけだ。
背中を撫でることも、子供にするようにそっと叩いてやることもしないで、ただ軽く抱きしめた。
「死ぬなら、どうやって死にたい?」
古泉には及ばないなりに、極力静かにそう問えば、古泉はやはり俺以上の静けさを伴った声で答えた。
「……あなたの腕の中で、このまま」
それは半ば予想していた答えだったが、俺はどうしたものかと考え込む破目になった。
このまま古泉が静かに息を引き取ったところで、別にいいとは思う。
だが、そうしたら俺はこいつが冷たくなるまで、このまま抱いていてやれるのだろうか。
力の抜けた体が重くなり、また魂が抜けてかすかに軽くなるのを感じていられるのだろうか。
その体が硬く強張り、また柔らかくなるのを待てるだろうか。
そうして古泉の体が腐り、得も言われぬような臭いを放ち始めても、俺は側を離れられるのだろうか。
綺麗な顔を無数の蛆虫が這い回り、元の顔がどんなだったかを思い描くことさえ出来なくなっても、俺は古泉から離れられないかもしれない。
自分の体も冷たくなって、そうしてどこまでが古泉の体で、どこからが自分の体かなんてことさえ分からなくなってしまえるなら、それはそれで悪くはないとも思う。
だが、それでもが困るのは、最後まで正気でいられるかということだ。
古泉は俺を好きだと言ってくれる。
特に俺の内面を褒めてくれる。
俺の適応能力も、遠回りしがちな思考も発言も、愛おしいと言ってくれる。
愛してやまないとも。
それはあるいは当然のことなのかもしれない。
見た目など、俺に人より秀でたところなどないのだからな。
それでも古泉が俺を好きだと言ってくれるだけのものが俺にあるのだとしたら、それは内面的なものであると思ってまず間違いはないだろう。
だから俺は、それはそのまま保ちたいと思う。
自分の主義を曲げることさえ嫌なのだ。
気が狂うなど以ての外に決まってる。
しかし、そんな風に古泉に今このまま死なれてしまったら、俺はきっと間違いなく正気を失う。
それも、かなり早いうちに。
古泉の体が冷え切るまで持つかさえ怪しい。
いや、
「…無理だな」
思わず呟いた一言に、
「無理ですか」
と問い返された。
俺は小さく頷きながら、
「無理だ」
と繰り返す。
古泉は、いつもならするように苦笑することもなければ、大袈裟な反応を寄越すこともなく、ただ静かに呟いた。
「残念です」
「そうか?」
気が狂ってしまっても、お前が俺を好きなままでいてくれるのならば、俺は一向に構わないのだがと思いながらそう問えば、それに対する返事ではなく、
「無理なら諦めます」
と返された。
「そうかい」
まあ俺も正気を失いたい訳ではないから諦められたところで構わないのだが、忘れずに釘だけは刺しておこう。
「だからって、別の場所で死んだりするなよ」
「はい。約束します」
それがまるで神聖な結婚の宣誓か何かのように、古泉は囁いた。
「死ぬ時は、あなたの腕の中で死なせてください」
「忘れるなよ」
俺は古泉を抱きしめ直しながら目を閉じた。
後始末も何もしていないのに気にならなかった。
後先を考えないというのはどこか死を覚悟した人間の思いに似ていると感じるのは、気のせいだろうか。
あるいは、本当にこのまま死んでしまえるのかもしれない。
そう感じたことを、まるで朗報のように思った。
古泉も、今、こんな気持ちなんだろうか。
これが古泉と同じ気持ちならば、何よりも嬉しい。
それこそ、古泉に好きだと言われた時よりも。
初めて体を繋げた時よりも。
だから俺は思うのだ。
俺が死ぬ時も、やっぱり古泉の腕の中で死にたい、と。
同じ時に、同じ場所で。
固く抱き合ったまま死にたい。
それならやっぱり今この瞬間に死ぬしかないのだろうか。
「なあ、」
と声を掛けたのは、古泉が眠ってしまっているかもしれないと思ったからだ。
「なんですか?」
返ってきた声は意外とはっきりしたものだったが、それでもまだあの静かさはなくなっていなかった。
俺は一度は閉じた目を開きながら、
「お前が死ぬ時に、俺も一緒に死んでもいいか?」
俺がそう問うと、古泉は少しの間沈黙した。
少し、と言いはしたものの、それがどのくらいの間だったのか、俺には分からない。
もしかすると恐ろしく長い間考え込んだのかもしれないが、俺には特にそうは感じられなかった。
かといって、何秒くらいだったかと自分の時間感覚を試すようなことを考えてみると、秒単位で済むようなものではなかったような気もするので、やはりかなりの長考だったのだろうか。
それでも待ち侘びるほどでもない間の後、古泉は静かに言った。
「駄目です」
「どうしてもか?」
「どうしても、駄目です」
「そうか」
それなら諦めるが、残念だ。
一緒に死ぬのが駄目ならどうしようか、と俺はまだ考える。
見上げた薄暗い天井は古墳の石室に似ていた。
灰色の空間にも重なって思える。
分散しそうになる思考回路を無理矢理束ねて俺は決めた。
死ぬ時はせめて、古泉の墓の側で死ぬことにしようと。
俺が拾って据え付けた星の破片の墓標の下、俺が真珠貝で手ずから掘った墓穴に眠る古泉を思いながら、その上で骨になり、塵になろう。
寂しさに慣れ過ぎてしまった古泉がこれ以上寂しくなどならないように願いながら。
俺は目を閉じ直したが、頬を涙が伝うことはなかった。
きっと俺はこのまま死ねずに、また明日を迎えるのだろう。
いつもと変わらない明日を。
怒ったような顔をして見せながら、
「お前がちゃんと後始末しなかったのが悪い」
などと古泉を責め立ててみる自分を想像すると、笑いそうになった。
ああ、どうしようか。
俺はまだまだ幸せになれるみたいだぞ。