盛りのついた猫の鳴き声や匂いに、ああ、春だなぁ、なんて思っていると、発情期の風物詩と成り果てた、あるものが足早に駆け抜ける音が聞こえた。 「待ってよ、古泉くぅん!」 「待ってってばぁ!」 なにやら色っぽいメス猫たちの鳴き声と、 「待ってくれって」 「あんな奴追いかけなくていいだろ!」 負け組と思しきオス猫たちがメス猫を追う声。 そして、ひらりと塀から庭の中に着地する古泉の姿が見えた。 他の猫たちは俺に遠慮してか、庭の中まで入ってくることはない。 恨みがましい声と共に散っていくのが聞こえた。 ここまで必死に逃げてきたのだろう古泉に、普通はお前がメス猫を追いかける側だろうと呆れながらも、今更そんなことを指摘する気にもならない。 なにせ、もうずっとこうだからな。 「お疲れさん」 ニヤニヤ笑いながら言ってやると古泉はツンと澄ました顔で水入れに向かうと一口二口水を飲み、それからやっと俺のところに来た。 「あなたも一度ああいう目に遭ったら、そうやって笑ってられなくなりますよ」 恨みがましい視線に俺は苦笑して、 「悪いが、俺はお前ほどもてないんでな」 「どうでしょうね」 そう呟いて、古泉は俺の隣りに寝そべると、ほうっと悩ましげなため息を吐いた。 「お前も変わった奴だよな。いい加減、発情して子供の5匹くらい、いたっておかしくない年頃だろうに」 俺がそう言うと、古泉は俺を軽く睨みながら、 「あなたに言われたくありませんね」 まあ、それもそうだ。 俺だって、いまだに発情した記憶がないからな。 ちなみに、古泉のような猫にせよ、俺みたいな犬にせよ、大抵は同じく猫やら犬やらのメスが発情するのに誘発されて発情するものであるらしい。 殊に、古泉の場合のようにあからさまにメスが誘ってきていれば、まず間違いなく発情するはずなのだが、どういうわけか俺にも古泉にもその兆候はない。 これが人に飼われているがゆえなのか、はたまた何か異常があるからなのかは分からないが、差し当たって問題も生じていないので特に気にしていないのが現状である。 とりあえず、 「可哀相なのはお前に振られたメス猫たちか」 「別に可哀相でもなんでもないでしょう? 本当に子孫を残したいのであれば、適当に折り合いを付けると思いますよ」 そういう問題じゃないだろう、と思いはしたのだが、なんとなく言いかねた。 これ以上あれこれ言えば古泉がここから逃げ出してどこかに行ってしまうかもしれないと思ったからかもしれないし、あるいは古泉をこれ以上思い悩ますこともないだろうと思ったからかもしれない。 古泉は小さく笑って、 「今の僕はまだ、あなたといる方がいいんです」 と言った。 その意味を汲みかねて、 「……どういう意味だ、そりゃ。俺はオス犬だぞ?」 「関係ないですね」 古泉はどこか悪役めいた笑い声を立ててそう言った後、俺の鼻先に顔を近づけ、 「ただ一緒にいたいという、ただそれだけなのですから」 それとも、と悲しげに目を伏せた古泉は、 「…そんなことさえ、ご迷惑ですか?」 古泉がそんな風に殊勝なことを言うようなやつじゃないということくらい、俺だって分かっている。 この表情が、たとえて言うならば飼い主達の同情を誘う時のそれとよく似ていることも。 それなのに俺は、 「…いや、別に……」 と答えていた。 乗せられるようで面白くはない。 しかし、実際迷惑とは感じていないし、古泉がどうしてそんな風に演技までして見せるのかと疑問にも思った。 「ありがとうございます」 嬉しそうに笑った古泉が、至近距離にあった俺の鼻を舐めた。 ざらりとした感触に体がびくついたのは、それが余りにも突然だったから……だろうか? 「…古泉?」 「嫌でしたか?」 「嫌というか……、今のは、どういう意味だ?」 「親愛の情を示したつもりですが」 それにしては何かが違うように感じた。 それだけじゃないような、あるいは、それよりもよっぽど濃密な何かがあるような気がする。 「毛づくろいなんて、今更じゃありませんか」 そう言って古泉は俺の頬を舐め始める。 俺の体に長くて綺麗な尻尾を巻きつけるようにしながら。 そのまま頭の上だの、首の後ろだの、自分じゃ到底出来ないような場所を、あの小さな舌で一生懸命舐めてくれるのは、ありがたいし、気持ちよくもある。 しかし、余りに懸命過ぎるようにも見えるそれは、どこかあのメス猫たちを思い出させた。 古泉に気に入られようと必死な彼女らに似て、どこか必死に舐め取っていく古泉の行動は、まるで求愛行動みたいで……って、 「ちょっと待て」 「どうかしましたか?」 俺の茶色い毛を舌先につけたまま、古泉は振り向いた。 それへ眉を寄せながら、 「まさかとは思うんだが、お前……俺に発情してんじゃねぇだろうな」 古泉は一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに笑って、 「発情なんて、そんな直接的な感情ならまだいいんでしょうけどね」 何がいいんだ。 というか、直接的じゃないならなんだって言うんだ? 俺の問いに答えるように、古泉は俺の頬へ顔をすり寄せると、 「…あなたが好きですよ」 と囁いた。 ぽかんとする俺の耳を甘噛みして、もう一度繰り返す。 「あなたが、好きなんです。あなたは犬で、僕は猫だとか、どちらもオスだとか、そういうことも関係なく」 こいつは人間みたいだと、前々から思っていた。 それこそ、こいつと親しく話をするようになってからはずっとだ。 こいつは妙に博識だったし、あれこれ考えたりするだけでなく、それを俺に言ってみたり、議論を吹っかけてみたりするあたりなんて、本当に人間そっくりだと思ってきた。 それにしたって、こんなところまで人間的ってのはどうしたことだ。 もしもこいつが、「実は僕の正体は人間で、猫に変えられただけなんです」なんてことを言いだしたとしても、俺には笑い飛ばすことなど出来ないだろう。 それくらい、古泉は人間染みた妙な猫で、それこそなんでこいつが猫なんだと思いたくなるような奴だ。 しかし、だからと言って好きと言われても困る。 俺は古泉とは違い、平々凡々としたただの犬だからな。 好きなんて言われても、それが何なのかよく分からん。 発情する=好きっていうのがなんとなく違うというのは分かるんだが、しかし好きだからどうというのもまったく分からない。 古泉は分かっているんだろうか? あるいは、分からないままこんなことを言っているのかもしれない。 自分でも意味がわかりきっていないのに言葉を使うなんてことも多いからな。 「……あの、」 俺がずっと黙って――と言うよりもむしろ唸りながら――考え込んでいたからか、古泉は心配そうな顔つきになって俺の目を覗きこんできた。 「…あなたは……嫌、ですか?」 俺に嫌われたとでも思ったのだろうか。 不安げな声に胸が痛んだ。 だから俺はもごもごと、 「別に、何をされるわけでもないなら、構わん…が……」 と答えた。 答えかけた、と言うべきかもしれないが。 しかし、俺が続きを言うより先に古泉は満面の笑みを浮かべて、 「じゃああなたに、他に好きな相手が出来るまで、僕に恋人面させてください」 と言って俺の口元を舐めた。 恋人面ってお前は猫で俺は犬なんだがと突っ込む気力もなく、俺はため息を吐き、 「勝手にしろよ」 「勝手にさせてもらいます」 そう言った古泉が毛づくろいを再開し、俺は気持ちよくなりながらとろとろと眠りについた。 |