コール



高校を無事卒業した後、俺は地元国立大学に辛うじて進学した。
ハルヒは日本の狭さに辟易したらしく、国外への脱出を奴にしては穏便に、しかしながらそれなりにとんでもない方法で、それでも一応合法的に成し遂げた。
長門と古泉は同じ東京で、それぞれ別の大学に進学した。
朝比奈さんも未来に帰ってしまわれた以上、SOS団で地元に残っているのは俺一人ということだ。
それらのことで、察しのいい人間なら分かるかもしれないが、ハルヒのあのとんでもない能力は失われた。
失われたっていうよりは、使い果たしたとでも言った方がいい気がするけどな。
まあ、これ以上詳細は語るまい。
ともあれ、ハルヒの力がなくなっても、俺たちは極普通の――ともやはり言いかねるのだろうが――集まりとしての繋がりを持ち続けている。
多少の変化は含みつつも、それはそれで悪くないものばかりだ。
ハルヒがたまにとはいえ手紙を寄越すようになったことも、長門が自己表現の塊のような長文メールを書いて寄越すようになったことも。
それから何より、古泉との関係も。

卒業式の直後、すぐさまブレザーについていた全てのボタンをむしり取られた古泉は、代わりの上着を手に入れる間もなく俺を体育館の裏に連れて行った。
とうとう来たなと思ったのは、それまでにも古泉の言動からなんとなく察していたからだ。
その、…古泉の、俺への……その、なんだ、恋心とかそういう風に甘っちょろく呼ばれるものを、な。
気付いたのはかなり前で、それでも古泉が隠し続けるから、きっと機関的にまずいんだろうなと思っていた。
こっちを見るなとか、いい加減にしろとか、言おうと思えば言えた。
そして、言っていたら確実に、古泉はやめていたんだろう。
自分の心にすら嘘を吐き、蓋をして、思いを押し隠すことなど、あいつにしてみればなんでもないことだっただろうからな。
それが嫌だった。
それがどうしてなのかなんてことは、最初のうちは分からず、ただ、同じ人間として、自分に嘘を吐く苦しさを味わわせたくないだけなんだろうとぼんやりと思っていたのだが、そのうちそうじゃないと知った。
ただ俺は、嬉しかっただけなのだ。
古泉に、熱心に見つめられることも、ひそかに思われていることも。
だから、止めなかっただけなのだ。
しかし、いよいよ告白してくれるかと思った古泉は意外に情けない奴で、いつまで経っても口にしやしなかった。
場の空気を和ませようと話を振れば、そのまま告白を取りやめようとしたくらいで、俺は古泉にその言葉を吐かせるために随分苦労もしたし、恥ずかしい思いもしたが、とりあえず晴れて恋人となったわけだ。
……それからがまた結構大変だったがな。
何しろ相手が一見恋愛に慣れた色男、実はヘタレの極みのような古泉だったから、恋人らしいことをするまでにも並々ならぬ苦労を要した。
それでもまあ、三月の末までには古泉が東京に出て行ってしまうこともあいまって、駆け足であれこれやらかしてしまったわけだが、反省も後悔もしていない。
そうするだけの必要があったんだから仕方ないだろう。
満足もしてはいるしな。
東京は遠いから、度々会うことなど出来ないが、その分俺たちは頻繁に電話やメールでやりとりをしている。
特に、毎晩寝る前に掛かってくる電話が重要だと気付かされたのは、四月下旬のことだった。
新歓コンパだかなんだかで俺の方もそれなりに慌ただしく過ごしていたのだが、俺はそれほど飲めるわけでもないので二次会三次会と雪崩れ込むようなことはほとんどなく、飲みに行ってもさっさと帰っていることが多かった。
逆に古泉はあの面のよさが災いして――と言っていいんだろう、多分――毎日のように誘われては断りきれずに飲まされていたようだ。
まあ、ヘタレで事なかれ主義なあいつのことだから、仕方ないだろう。
そう割り切れていたのは、たとえどんなに忙しかったとしても、あいつが必ず電話をくれたからだ。
飲み会に行っていても、ちょっとした隙を見つけては俺に電話を掛けてくれるのが、嬉しかった。
「あまり無理して掛けなくてもいいんだぞ?」
ある時、古泉の声の向こうに聞こえる喧騒に気兼ねして俺がそう言うと、
『無理はしていないつもりですよ』
と返された。
嘘吐け。
疲れた声してよく言うぜ。
そう呆れながらも指摘はせず、
「そうか。まあ、飲むのも程ほどにしろよ。強いからって無茶はするな」
『はい。……おやすみなさい』
「ああ、おやすみ」
古泉が毎晩そうやって電話を掛けてくるせいで、古泉から電話があったら眠気が来るほどになっちまった俺は、そのままのそのそと布団に潜りこみ、目を閉じた。
それが日々の習慣になっていた。
俺は文系でいたって気楽な大学生活を送っていたのだが、古泉の方は理系だったこともあり、忙しくしているのがメールから見て取れた。
始めの内こそ頻繁に携帯からもメールが来ていたのだが、気がつけば毎日一回か二回、長文でパソコンからのメールが届くように変わっていた。
仕方ないと思いながら、もやもやとしてくる自分に呆れながら、それでも、そんな自分の感情にもどこか甘ったるい幸福感を感じながら過ごしていた。
ところが、だ。
「……まだかかってこねぇ…」
うんともすんとも言わない携帯を睨みつけながら、俺は今にも家を抜け出して駆け出して行きそうになる自分を必死に抑えていた。
時刻は既に日付が変わった午前2時。
ベッドに入ってはいるが、眠いわけじゃない。
それに、たとえ眠たかったとしても眠れなかったに違いない。
古泉から、電話が掛かってこないから。
……我ながら、馬鹿だとは思う。
思うのだが、事実そうなのだから仕方ないだろう。
昨日はたまたま夜更かしをしてしまったせいで、今日はさっさと寝てしまおうとあれこれやることを済ませてベッドに入った。
そうして古泉からの電話を待っていたのだが、一向にかかってこない。
明日読むことにしていたはずの本を読み終えても、だ。
俺の方から電話を掛けてみても反応はない。
今日は飲み会があるという話も聞いていなかったのだが、何かあったんだろうかと思っても、東京は余りにも遠くて分からない。
遠すぎる距離がもどかしく、悔しかった。
遠距離恋愛なんてものをここまで意識したのは初めてだ。
俺は唸りながら携帯を睨み続け、ひとつ決意した。
このまま朝まで電話がなかったら、有金全部はたいてでも新幹線に飛び乗ってやる、と。

午前5時前。
俺はベッドから出ると手早く身支度を整えた。
持って行くものなんてほとんどない。
財布と携帯くらいのもんだ。
まだ暗い中、駅に向かい、動き始めたばかりの電車に乗る。
新幹線もこの時期と時間帯なら平気で乗れるだろう。
眠れないまま、不機嫌を絵に描いたような表情で歩く俺は、さぞかし不気味だったのだろう。
進行方向にいる人間が慌てて避けることさえあるのが、いっそ愉快だった。
電車を乗り継ぎ、新幹線に飛び乗ってもまだ、携帯はうんともすんとも言わなかった。
全く、あいつは何をやってるんだ。
これで何事もなかったら俺は完全にバカみたいじゃないか。
いや、何もないに越したことはない。
それは分かる。
それでも絶対に腹は立つだろうと思いながら、俺は携帯を睨み続け、東京までの時間を無駄に過ごした。
東京駅で乗り換えて、古泉に聞いていた駅で下りる。
それでもまだ沈黙を守る携帯に、そろそろ故障を疑いながら、住所を頼りにたどり着いた学生向けマンションは、新しくはあるのだが女性専用というわけでもないからか入り口に面倒なチェックがあるわけでもなく、簡単に建物内に入れた。
そうしてやっとたどり着いた古泉の部屋の玄関チャイムを押すと、ややあって中から返事が聞こえた。
「はい。………って、えぇ!?」
らしくもなく慌てた声がしたかと思うと、どたばたと慌ただしい物音がし、勢いよくドアが開いた。
「ど、どうしたんです!? 突然…」
「いいから、中に入れろ」
と語調も荒く言ってしまったのは、古泉の無事を確認した途端、とてつもない眠気に襲われたせいだ。
このままだとこの場にずるずると座り込んで眠ってしまいそうなくらい、眠い。
実質24時間程度も起きていないと思うのだが、これも眠れなかった反動ということなんだろうか。
考え込みながら古泉を押し戻すように部屋の中に入ると、古泉に抱きついた。
「え、あ、あの…っ!?」
驚く古泉の体にそうして体重を預けなければ自分の体も支えられないくらい眠い。
「一体…どうされたんですか……?」
戸惑いながら俺を抱きとめ、そっと背中を撫でる手が心地好い。
話さなきゃならんと思うのに、それだけで眠り込んでしまいそうだ。
「会いたかったんだよ…」
なんとかそう言ったものの、もう脚も立たず、その場に座り込む。
古泉も道連れにしてフローリングの冷たさを感じると、少しだけ頭がはっきりした。
「……昨日、何で、電話してこなかったんだ……?」
眠気のせいで緩慢にしか動かない口でなんとかそう聞けば、古泉は申し訳無さそうに表情を歪め、
「すみません」
と口にした。
「昨日、うっかり携帯を大学の教室に忘れてしまったんです。ロックを掛けていたのでメールなどを人に見られたりはしなかったようなのですが、知人に拾われ、それを盾に飲み会に連れて行かれまして……最後まで解放してもらえなかったんです。終ったらもう朝の5時くらいで、それから連絡してもご迷惑かと思ったんですが……」
なんだそりゃ。
もてる奴は大変だなとか、一体どんな連中に連れまわされ、どんな店に行ったんだとか、色々言ってやりたい。
が、今最も言うべきことはそれじゃないだろう。
俺は古泉が聞き逃したりしないよう、古泉の耳に口を出来るだけ近づけて、
「…日付が変わっててもいいし、一言お休みって言うだけでもいい。頼むから、電話して、お前の声を聞かせてくれ。……じゃないと…眠れん……」
それだけ言って、目を閉じる。
もう限界だ。
「約束します。もうこんなことのないように……あなたを不安にさせることのないようにします」
そう真剣に言う声を聴いて、もういいんだと思った。
睡魔に白旗を揚げた俺の耳にはよく聞こえなかったのだが、古泉が、
「これからは毎週あなたに会いに行ってもいいですか?」
などと言ったのは、俺の聞き間違いだろうな。
そんな金の掛かることさせられるか。
金……ああ、今日の帰りの分、金持ってたかな…。
ATMがあるから大丈夫か…?



結論から言おう。
古泉の発言は俺の聞き間違いでも勘違いでもなんでもなく、大マジだった。
しかも、あのバカは携帯がなくても連絡が取れるようにと言って、備え付ける予定のなかった固定電話まで設置しやがった。
一応俺のパソコンにはメールを送っていたのだが、俺が気付かなかったからだという。
だからと言ってそんなことをするバカがいるか、というかどうせ送るならパソコンじゃなくて携帯に送れ。
俺が十数時間眠りこけた挙句、目を覚ました時には既に手配が済まされていたので止めようもなかったが、軽く殴っておいたことは言うまでもない。
「別に少しくらい、いいじゃありませんか」
殴られた額を押さえながらそう言った古泉に、
「俺のワガママのせいみたいで嫌なんだって言ってるだろうが」
と可愛げの欠片もなく、憤然と言い放ってやると、古泉は小さく微笑んで、
「あなたのワガママではなく、僕のワガママ、ですよ」
と俺を抱きしめた。
暖かい、と思うと同時にその暖かさにまた眠気に襲われそうになる。
せっかく会いに来たって言うのに寝てばかりじゃ勿体無いだろうと思うのに、だ。
「本当は、もっとずっと前からこうしたかったんです。あなたを不安にさせないように、僕に出来ることはなんだってしたいと、ずっと思ってました。お金で片付くことなら簡単ですし、僕としてはそれを悔やんだりはしないのですが、あなたは嫌でしょう?」
当たり前だ。
自分のため、他人に散財なんてさせられるか。
「そう仰ると思って、我慢してたんですよ。でも、もう我慢は止めます。これからは毎週だって会いに行きますよ。ですから、週末の予定はちゃんと空けておいてくださいね」
お願いします、という古泉に俺の頭は勝手に前後した。
それ以来、古泉は本当に毎週のように帰ってくる。
よっぽど忙しい時なんかは流石に無理なのだが、代わりというように長電話を掛けてくるくらいで、俺としてはほどほどにしてもらいたいと思うし、実際そう言ってもいる。
だがその度に古泉は明るく笑って、
「少しくらいのワガママは認めてください。あなたも、いくらだってワガママを言っていいですから」
ただし僕にだけでお願いします、と悪戯っぽく言った古泉には、お前以外の誰にそんなもん言えるかと吐き捨てておいた。