※「悪戯心」と同じ設定で声フェチなキョンです








嫉妬心



彼の耳が弱い、というよりもむしろ、彼が自分好みの声に弱い、ということを知ったのは少し前のことであり、その結果として彼と両思いになれたことも記憶に新しい。
客観的に考えると少しばかりこそばゆいと思われるようなことを、二言三言、僕が耳元で囁くだけで、彼は酒にでも酔ったかのように頬を赤らめ、潤んだ瞳を見せる。
それは、他の誰にも見せないで欲しいと願ってしまうほど、艶かしい表情だ。
僕がそう指摘しても彼には自覚がないらしく、
「お前の目の錯覚だろ」
と返されてしまうのだが、それでも注意せずにいられないのは、彼の好みに合う声の持ち主が、僕ばかりではないからだ。
彼の口から引き出せただけでも、生徒会長に新川さん、多丸さん兄弟、他にも同級生や先輩後輩と、両手に余るほどの名前を挙げてくれた。
その全てが男性なのは、彼の性癖のせいではなく、彼の好みの声というのが低音で耳にくすぐったいような声音だから、らしい。
もっとも彼がそう言っただけなので本当にそうなのかは分からないが、確かに低くて朗々と響くような声の持ち主が多い。
その彼のお眼鏡に適ったことを、僕は光栄に思うべきなのかもしれない。
しかしながら、そんな悠長なことを言っていられる身分ではないこともまた確かだ。
というのも、彼が先に上げたような人の前では、あからさまに態度が違うからだ。
もし万が一にでも相手から迫られたりした日には、あっさり陥落するのではないかと思うほどに。
恋人を疑うなと言う人があるなら、その前に彼を見ろと言ってやりたい。
そんなわけで僕は彼と付き合えることを喜ぶ以上に、日々戦々恐々とさせられているのだった。

そんなある日、ちょっとしたアクシデントが起きた。
放課後部室に行くと、「本日休業」との張り紙がされており、それなら帰ってしまおうかと靴を替えに行った僕は、ふと思いついて彼の靴箱をのぞいた。
おそらくもう既に帰ってしまっているだろうが、まだ彼が残っているなら一緒に帰れたら、と思ったのだ。
まるきり思春期の子供のような自分を嘲笑いながら、同時にどうせ望み薄だろうと思ったのに、そこにはまだ彼の外靴が置いてあった。
つまり、校舎内のどこかにいるらしい。
一体どこだろうかと考えながら、とりあえず彼の教室へ向かっていると、近くから彼の声が聞こえてきた。
「榊、今日練習ないのか?」
どこか慕わしげな気配の滲む声に胸が騒ぐ。
榊、というのは彼と同じクラスの男子生徒で、グリークラブに所属するような美声の持ち主だったはずだ。
女生徒が騒いでいるのを聞いたこともあるし、彼の口から名前が出たこともある。
それだけに胸がざわついた。
「ああ、キョンも今日は休みなのか?」
「ハルヒの気まぐれでな。……練習してるなら聞きに行こうかと思ったんだが、間が悪いな」
「前もそんなこと言ってたな」
と小さく笑う気配がし、
「お前もそんなに好きなら入ればいいだろ」
「俺は人に聞かせるような声はしてない。聞いてるだけでいいなら入ってもいいが、そういうわけにはいかんだろう」
そうやって軽口を叩き合うような関係になっていただろうか。
ただのクラスメイトに彼がそんな風な話し方をすることがひたすら驚きだった。
同時に、まさかと考えそうになる自分を必死に抑える。
彼は一時に複数の人間を好きになったりするほど器用な人じゃない。
たとえそうなったとしても、それは抑え、どちらに対する好意も隠しておくような人だ。
だから、僕にああして告白してくれた時点で、こうして付き合っている時点で、他の誰かにも同じことをするなんてことはありえないはずだ。
つまり僕が今感じている嫉妬心は間違いなく的外れな代物で、そうであれば彼に対して非常に失礼極まりないものだ。
そう思っても如何ともしがたいのが人の感情というものなのかもしれない。
本当に、彼と関わるようになってから、調子を狂わされてばかりだ。
年下の、まだ子供らしい彼にこんなにも翻弄されて。
ため息を吐きながら、これ以上会話を聞くのは耳にも心臓にも悪いと決め付けた僕は、踵を返した。
その背に、彼の声が突き刺さった。
「お前の声好きなんだ」
そんなことを楽しげに言う声に、胸が痛い。
きっとあの、無防備極まりない笑みを振りまいているのだろう。
僕はこれ以上彼の声を聞きたくなくて、その場から逃げ出した。
みっともない嫉妬心を抑えることも出来ない。
彼のあの笑みが、声が、僕でない誰かに向けられていると思うだけで、感情が暴走してしまいそうだ。
感情だけならまだしも、行動まで暴走してしまったら、僕は何をしでかすか分からない。
それくらい強い思いだという自覚くらいは僕にだってある。
だから僕は表面上は平然とした表情を装いながら、実際には苛立ちをなんとか押さえ込もうと必死になりながら、家に帰った。
子供みたいな独占欲も嫉妬心も、醜いことこの上ない。
いや、今時子供だってこんな風にはならないだろう。
更に始末に終えないのは、僕にそれなりの力が与えられていることかもしれなかった。
持てる力の全てを使ってでも、彼を独り占めしてしまいたいと思ってしまう自分がいる。
彼を閉じ込めて、僕だけのものにしたいなんてことを、具体的に計画してしまいそうな自分を抑えるだけの理性があるのは、僕に課せられた役目があるからだろう。
その存在に、感謝さえした。
……いっそのこと、彼に振られてしまえばいい。
そうすれば独占欲も的外れなものとなり、そうであればまだ諦めがつくだろうから。
食事を取ったり着替えをしたりする気力もないまま僕はベッドに横たわり、目を閉じた。
明日はどうせ休日だ。
少々自堕落に過ごしたところで咎める人などいやしない。
そう思い、そのまま眠った僕だったのだが、
「制服のまま寝るなバカ。しわくちゃになってんだろうが」
という声で起こされた。
「……え…?」
戸惑いながら目を開けると、彼が呆れきった顔をしながらカーテンを開いていた。
差し込んでくる日差しの強さに、今が真昼であることを知る。
どうやら、あのまま完全に眠ってしまったらしい。
「…どうしたんです?」
「どうしたもこうしたもあるか。…約束してただろうが」
「…ああ……」
そういえば、そんな気もする。
忘れてしまったのは昨日の出来事が余りにも衝撃的だったせいだ。
けれど、僕のこんな態度は彼をイラつかせるのに十分だったらしい。
「なんだよ。忘れてたのか? …俺は楽しみにしてたのに」
拗ねたように唇を尖らせる彼は本当に可愛い。
それだけで目眩を感じてしまいそうなほどに。
けれども僕はまだやさぐれた気分を追いやれずにいて、
「…すみませんが、お引取り願えますか」
「……なんだと?」
彼が僕を睨みつける。
それは先ほどまでとは打って変わって、可愛らしさの欠片もないような厳しい視線だったが、僕は怯まず、
「少しばかり用事が出来まして、これからやらなければならないことがあるんです」
「さっきまで寝てたくせになに言ってんだよ」
「ええ、だからこそ、急いでしなければならないんです」
「…じゃあ、終るまで待ってる」
「どれくらいかかるか分かりませんよ」
「それでもいい。……夜までだって待っててやるから、さっさと終らせろ」
そんなに側にいたいと思っていてくれているんだろうか。
だとしたら嬉しいけれど、そんなことを他の誰かにも言ってるんじゃないかと胸がまたもや痛みを訴える。
「――迷惑なんです。お引取りください」
あえて冷たくそう言い放つと、今度こそ彼が顔を歪めた。
泣きそうに、というよりはむしろ、怒りに。
「……んだよ」
らしくもなく、苛立ちを露わにした彼が僕の胸倉を掴む。
「何怒ってんだ? 俺は千里眼でもなければ読心術の心得があるわけでもないんだから、黙ってられたら分からん。それなのに、一方的に怒られても、どうしようもないだろうが」
「……別に、僕が何に怒ろうが構わないでしょう。一緒にいるのが不快なら、誰か別の人のところにでも行ったらどうです?」
ぞんざいにそう言い放った僕を、彼は軽く目を見開いて見つめた。
「…なんです?」
「…いや……」
と首を傾げた彼は、
「…まさかとは思うんだが、お前、妬いてんのか?」
今度は僕が瞠目する番だった。
具体的に誰と言ったわけではないのに、気付かれるほどあからさまだっただろうか。
いや、そうかもしれないが、彼がそんな風に気付くとは思わなかった。
大抵色恋沙汰については思わず僕が頭を抱えたくなるほど鈍いくせに、どうしてこういう時ばかり鋭さを発揮してくれるんだ、彼は。
ニヤッと笑った彼は、
「なぁ、妬いてたんだろ? 誰にかは知らないが」
「…っ、ええ、妬きましたよ。いけませんか!?」
気がつけば、噛みつくようにそう言っていた。
「あなたが誰か別の人間と楽しそうに話し込んだり、その人を褒めたりしているだけで、どうにかなりそうなくらい腹が立ちました。あなたの笑顔が僕以外に向けられることさえ嫌です…! ――こんな男にもう用はないでしょう? 榊氏でも誰でも、あなたの好みの声の人のところに行けばいいじゃないですか!」
ヤケになりながらそう言うと、彼は楽しげに笑いながら僕を抱きしめた。
どうして、と僕は戸惑うしかない。
我ながら、みっともないことを口にしたと思う。
それなのにどうして彼はこんな風に楽しそうで、しかも優しく僕を抱きしめてくれるのだろうか。
「…嬉しい」
ぽつんと呟かれた彼の言葉が信じられない。
嬉しいって、そんな、まさか。
「何がまさかだ」
ほんのりと頬を染めながら、不貞腐れるように言った彼は、
「お前も、妬いたりするんだな」
と微笑む。
「……まさか…ひっかけたん…ですか……?」
「ん?」
「昨日……わざと榊氏に好きとか言ったんじゃ…」
「いや、そういうつもりじゃないが。というか、あれ聞いたのか」
と苦笑した彼は、そういうつもりじゃなかったという彼の言葉に再びどつぼに陥りそうになる僕の背中を優しく撫でながら、
「あれは、単純に声が好きって話に過ぎないんだ。榊も普通にありがとうって言ってただけだしな。だから、妬かなくていいとも思うんだが…でもまあ、俺としてはそういう些細なことでお前が妬いてくれたと思うと嬉しい」
「……」
もはや、なんと返せばいいのかさえ分からない。
本当にこの人は分からない。
純粋なのか計算高いのかさえ、分からない。
けれど、そんな人に翻弄されて、それでも愛おしく思うのもまた事実だ。
絶句した僕のことを更に強く抱きしめながら、彼は優しく微笑んで、
「一番好きな声はお前の声だし、お前のことは声だけじゃなくて性格も何もかもひっくるめて全部好きなんだから、安心してろよ」
「……安心なんて出来ませんよ」
というのは僕の本音だ。
これだけ魅力的でしかも無防備な人に、安心なんて出来るものか。
「なんだと?」
そうやって不機嫌に顔を歪めてさえ魅力的なのに。
それに、流されやすいところも心配だ。
どちらかというと受動的な性格も。
だから僕は、せめて自分が特別だと思いたくて、
「…そう仰るなら、証拠をください」
「……証拠?」
「ええ。…あなたから、キスしてくれませんか?」
「……え」
黙り込んだ彼が、真っ赤になる。
それはそうだろう。
彼からねだってきたことはあっても、これまで一度だって彼からキスをしてくれたことはない。
羞恥心が強いらしい彼にあまり無理を言って嫌われたくなくて、一度もそんな要求はしていなかったのだけれど、この機会だから少しくらいわがままを言って彼を困らせてもいいだろう。
彼は困ったように視線をさ迷わせていたが、
「……触れるだけで、いい、よな?」
と僕に確認してきた。
「ええ、それで十分ですよ」
とりあえず、今のところは。
「……分かった」
眉を寄せ、硬い表情になりながら彼は僕に顔を近づけると、
「…目、閉じろ」
「はい」
言われた通りに目を閉じると、唇に柔らかな感触が触れた。
すぐに離れていったそれと共に目を開けば、恥ずかしそうな顔をした彼が見える。
「これで満足か?」
「ええ」
「…ったく、こんなことしなくても、俺が好きなのはお前だけなんだから、分かれよ」
不貞腐れたように言っているけれどそれが照れ隠しに過ぎないことくらい、僕にも分かる。
僕は自然に笑みが湧き上がってくるのを感じながら彼を抱きしめると、彼が好きだと言ってくれる声で、
「僕も、愛してますよ。あなただけを、愛してます」
と彼の耳元で囁けば、彼は敏感過ぎる体を震わせながら僕を抱きしめ返し、
「…っ、お前の声、エロい」
と、おそらく彼にとっては褒め言葉なのだろう台詞を口にしてくれた。

……まさかそれと同時に押し倒されるとは思わなかったけれど。