※パラレル注意
地面が近い、というよりも目線が低い、と自分の状況に違和感を抱きながらも、僕は隣りに立ち、僕の手を引いてくれている「大好きな――のお兄さん」に何も言わなかった。 辺りに立っているのは僕とお兄さんと同じように黒い服を着た人たちばかり。 それがどこか不気味で怖かった。 いつもなら怖がる僕をからかったりしながら、怖がらなくていいようにしてくれるはずのお兄さんもどこか怖い顔をしてほかの人たちを睨みつけている。 どうして、と聞くこともはばかられるような表情だった。 白い花で飾られた祭壇に、僕の大好きなおじいちゃんの写真が飾られている。 おじいちゃんは昨日までずっと布団で休んでた。 今は狭い木の箱の中に入れられて、窮屈そうに眠ってる。 もう起きないんだって言われても信じられないでいる僕の手を、お兄さんがきつく握り締めた。 「お兄さん…?」 「一樹、」 耳慣れた声で名前を呼ばれる。 何度も聞いた声なのにどこか違って思えるのは、お兄さんが硬くなってるからだ。 緊張、あるいは覚悟に。 「ジジィとの約束だ。お前が数えで十八になるまでは間違いなくお前を守ってやる。その先は、お前次第だ」 そう言ったお兄さんがしゃがみこみ、僕の小指と自分の小指を絡める。 いつも約束をする時にしていた指きり。 「…おじいちゃんとの約束なのに僕と指きりするの?」 「……ジジィとはもうしたし、これはお前との約束でもあるんだ」 そう言ったお兄さんの顔に光がさす。 さっきまでよく見えなかった顔が見える。 その顔は、どう見ても、――「彼」とそっくりだった。 余りにも疲れていたからだろうか。 驚くほど鮮明な夢を見た。 何しろ、ただでさえ準備に時間を使い、注意に注意を重ねての慎重な計画を進めなければならなかった上に、突発的な事件によって更なる精神及び肉体の疲労を被ったのだ。 奇矯な夢を見たところで不思議ではないだろう。 残念なのはこれが初夢であったことかもしれない。 なんて夢だとも思う。 訳が分からないにもほどがある。 第一僕には子供の頃親しくしていた年長の男性なんていないはずだ。 軽く頭を振りながら体を起こし、水でも飲もうとしたところで、僕はぎょっとして目を見開く破目になった。 「よう」 薄く笑ったのは間違いなく彼だ。 僕がまだ夢の中にいるのでないならば。 しかし、どうして彼がここに? ここは鶴屋さんから借りた別荘の、僕に宛がわれた一室であり、僕は鍵を掛けて眠っていたはずだ。 それなのに、どうして。 わざわざマスターキーを借りてきたとでも言うのか? いや、彼がそうするだけの理由がない。 そもそも、どうしてこんな夜中に訪問されなければならないのだろう。 戸惑う僕に、彼は決定的な一言を口にした。 「ちゃんと思い出したか?」 起きたか、ではなくそう言われて、僕は目を見張った。 これが彼なのか、それともあの「お兄さん」なのかさえ分からない。 「どっちも同じ俺だ」 僕の心を読んだかのように彼はそう言い、 「やっとお前のジジィが残した術が解けてくれた」 ニヤリと笑った口元が、一瞬獣のように伸び、元に戻った。 テレビ越しに見たなら、間違いなく現代の映像合成技術に感嘆するようなシーンだったろう。 しかし僕はそれを間近で見てしまい、しかもそれに見覚えがあった。 それが引き金になったかのように、僕は夢の中でも思い出せなかったことを思い出していた。 幼い頃、一緒に遊んでくれた年上のお兄さんは、僕と祖父にしか会わなかったこと。 奇妙な術を使って見せてくれていたこと。 何より、その本性が狐であり、僕は「大好きな狐のお兄さん」として認識していたこと。 どうして今まで忘れていたのだろう、と思うほどお兄さんは優しく、いつも僕の側にいてくれた。 僕が明るすぎる髪の色でクラスメイトにいじめられ、泣いていた時には、 「俺は焦げ茶色の小汚い狐だから、お前の髪の色、好きだぞ」 と優しく頭を撫でてくれた。 それでも泣く僕に、 「特別だからな」 と微笑みながら、ふわふわした大きな、焦げ茶色の尻尾を僕に貸してくれて、それで僕を包み込んでくれた。 優しくて、大好きなお兄さんが僕の側からいなくなり、僕の記憶からさえ消えてしまったのは、僕が十になるかならずという頃に祖父が死に、その葬式が終った後だった。 記憶については祖父がそうしたのかお兄さんがそうしたのか、それとも自然にそうなったのかは分からない。 けれど、忘れていたおかげで僕は寂しさを感じなくて済んだのかと言えば、そうではない。 いつも何かが足りないと感じていた。 誰かが、必要な誰かが側にいない悲しさを感じていた。 それがどうしてなのか、自分でさえ分からず、もどかしくて、そして最近では、「彼」にその何かを求めていたように思う。 今考えると、「彼」が「お兄さん」であると無意識的にかぎつけていたということなのだろうか。 ともあれ僕は自分が知っていたことを思い出し、お兄さんのことを思い出した。 「…っ、お、兄さん……!」 じわりと涙が滲む。 そんな僕に向かってお兄さんは笑いながら、 「なんだ、相変わらず一樹は泣き虫のままか」 と言いながらベッドに膝をつき、僕を抱きしめてくれた。 「一体、何がどうなっているんです…? あなたは最初からあなたとして涼宮さんに関わっていたんですか? それとも、途中で入れ代わったとでも言うんですか? 僕の近くにいてくれなかった間、どうしていたんです?」 矢継ぎ早に問う僕に、 「ああ、その辺も全部説明してやる。だからとりあえず落ち着いて聞いてくれ」 そう言ったお兄さんは僕を抱え込むように座りなおすと、きゅっと目を細めた。 そうすると余計に狐らしく見える。 「お前、ジジィのやってたこと、覚えてるか?」 「祖父のやってたこと、と言われましても……」 「ああ、やっぱり覚えてないんだな。ジジィもお前には見せないようにしてたから、当然か」 独り言のように呟き、 「お前のジジィは、狐使いだったんだ。俺みたいな野狐とも仙弧とも言いがたいような中途半端な狐を使って、あれこれ術を使うような。ジジィは人間にしては力が強かったから、先を見通したりするような術も使えた。その力で、お前が将来面倒なことに巻き込まれるってことを知ったジジィは、自分が死ぬ前に、俺にお前を託したってわけだ」 「面倒なことというのはまさか…」 「分かってんだろ? 今みたいにハルヒに巻き込まれることだ」 そんなことを祖父が分かっていたなんて。 しかも、それで僕を守らせていたなんて。 驚くしかない僕に、お兄さんは更に付け加える。 「俺はずっとお前を守ってきたんだ。ここ数年は特にな。…ジジィの指示に従って、この街に先回りしたまではよかったが、ここまでハルヒに気に入られちまったのは、正直計算外だった。けどまあ、それもジジィの計画だったんだろうな。…くそ、忌々しい」 そう吐きすてたお兄さんに、僕ははっとして尋ねた。 「待ってください。それじゃあ、今のあなたのご家族は……」 「そりゃあ勿論、俺が化かして入り込んでるだけに決まってるだろ」 あっけらかんとそう言われ、僕は拍子抜けするしかない。 予想はしていたが、ここまであっさり言われるとそれを咎めていいのかさえ分からない。 「あの家は本来三人家族なんだが、色々と都合がよかったんで、4年くらい前から入り込ませてもらってる。勿論、その分守ってやったりもしてるし、妹だって可愛いと思ってるんだ」 どこかばつが悪そうに言ったお兄さんに僕は、笑って頷いた。 「…ええ、それは分かります」 いつもの彼にも、今のお兄さんにも、嘘の色はなかった。 本当に、人として生きることを楽しんでいるんだろうとも思う。 それくらい、お兄さんは狐らしくなくて、人間らしかったから。 「それより、本題だ」 そう言ってお兄さんは僕を見据えると、 「今日が約束の日だ。今日でお前は数えで十八になったからな」 言われてみればその通りだった。 だからこそお兄さんは、「やっと術が解けてくれた」と口にしたのだろう。 まさかこのままいなくなってしまうつもりなのでは、と警戒する僕に、お兄さんは楽しげに微笑んだ。 「このまま消えてやるには惜しいくらい面白いことになってるし、お前のこともSOS団のことも気に入ってるからな。――お前、俺を守り神として祀れ」 「…守り神、ですか?」 「別に、お前になら使役されてやってもいいが、お前にはジジィほどの力も知識もないだろ。だから、祀れ」 そう言ってお兄さんが語ったところによると、彼ら妖力を持つ狐たちは祀られることによって力が強まり、出世できたりするというシステムを持っているらしい。 「お兄さんも出世欲なんてあるんですね」 驚きながら僕が言うと、お兄さんは軽く顔をしかめて、 「位階なんてのはどうでもいいんだが、力の強さはどうしてもな。…守りきれないと困るだろ。ただでさえ、守るものが増えちまってるのに」 言っておいて、気恥ずかしくなったのだろうか。 少し顔を赤くしたお兄さんだったが、悪戯な笑みを僕に向けると、 「それにお前、俺のこと、好きだろ」 と言い切った。 「……え」 「ああ、友人としてとかじゃないぞ?」 ニヤニヤと意地悪く笑いながら僕の耳元に唇を寄せて、 「…俺のこと、抱きたいとか思ったこと、あるだろ」 「……っ!?」 今度こそ絶句した。 絶句するしかない。 真っ赤になって何も言えない僕に、お兄さんは喉を鳴らして笑い、 「それくらいのことは、術を使って心を読んだりするまでもなく、丸分かりなんだよ。お前、自分で思ってる以上に顔に出るし、大体、赤ん坊の頃からお前を知ってるんだ。分からないわけないだろ」 「…っ、僕に、一体どうしろっていうんですか…!」 「だから、俺を祀れって言ってんだろ」 「それは、勿論そうしますよ。あなたに消えられては困りますし…」 「困る?」 お兄さんは不満そうにそう呟き、僕を見つめた。 「困るじゃないだろ。…消えられたら嫌だって正直に言えよ」 「っ、も、もう、分かってるなら言わなくていいじゃないですか!」 「嫌だ。お前に言わせたいに決まってるだろ。ほら、言えって。行かないでくださいって。またひとりになるのは嫌だって」 「……それが分かってるなら、」 またもや涙が零れだすけれど、止められない。 「…どうして、置いていこうとするんですか……。僕は、…っずっと、さびし、かったのに……」 ふわり、と柔らかなものが僕の体に触れた。 驚いて目を開くと、焦げ茶色の毛の塊が見えた。 「…すまん、少しいじめすぎたな」 「……尻尾は狐にとって命と同じくらい大事なものなんじゃなかったんですか?」 「大事だぞ。…けどまあ、お前になら、こうやって貸してやってもいい」 大きな尻尾で僕の体を包みながら、お兄さんは優しく言う。 「お前が祀ってくれるなら、俺はお前の側にいる。消えてなくなったりしない。お前に、命じられない限り」 「そんなこと、命じるわけないでしょう…!? …側に、いてください。もう、いなくならないでください……」 そう言って抱きしめた途端、ベッドに押し倒された。 「…っえ、ちょ、なんですか!?」 「長いことろくに精も吸い取ってないんだ。お前等を守るのには力が足りん。力さえあれば、昨日の――いや、一昨日か?――あれだって、退けられたんだ。だから、お前の精をよこせ」 精って、えええ…!? 驚き戸惑う僕に、お兄さんが口付ける。 付ける、というよりもむしろ貪るようなキスに目眩がする。 それは比喩でもなんでもない事実だ。 体から力が抜けて行き、どうしようもなくなる。 時間にしておよそ数十秒。 それでも僕にはもっと長く思えた。 ぐったりした僕を解放したお兄さんは、いくらか艶を増した尻尾を軽くつくろいながら、 「もっと効率のいいやり方でした方がよさそうだな。お前が今疲れてるだけかも知れんが、毎回この調子じゃお前が使い物にならなくなりそうだ」 と一人呟くと、 「悪いが、今日は時間がない。そろそろ人も起き出してくるだろうしな。だから、とりあえずこれだけもらう。…それじゃあな」 一方的にそれだけ言って消える直前、まるでそれが証拠だとでも言うように一瞬だけ尖った耳を見せてくれた。 子供の頃、何度も触らせてもらったそれに手を伸ばすより先に、お兄さんは消えてしまった。 これから一体僕はどうしたらいいのだろうと頭を抱える暇もなく、僕を起こしに来た森さんがドアをノックする音が聞こえ、僕は頭を切り替えるしかなかった。 |