涼宮さんの力が失われ、僕はただの高校生に戻れた。 戻った、と言いはしたがこれまでに僕がただの「高校生」であったことなどなかったのだから、「やっとただの高校生になることが出来た」、とでも言うべきなのかもしれない。 しかも、そうなったと思ったら、すぐにそれは終ってしまった。 僕らが卒業式の日を迎えたからだ。 もう、僕を縛るものはない。 以前は役目を理由に恋愛にうつつを抜かすことを禁じられてきたし、たとえ誰かにそう言われなかったとしても、それはすべきではないと自分でも思っていたが、その最大の理由がなくなった以上、誰かを好きになってもいい。 そのことが、単純に嬉しかった。 より正確に言うなら、好きだという気持ちを自分にすら隠さなくていいことが。 僕はもうずっと、好きな人がいたのだ。 いたのだと、思う。 ……いたんじゃないだろうか。 だんだんと自信がなくなっていくのは、ずっとそれに蓋をし続けてきたせいだ。 少しでもそうかと思っては、目を背け続けた。 それではいけないと、思ったから。 でも、もういいのだ。 これまでだって突拍子もないことをしてきた僕だから、今更世間体なんて気にするはずがない。 だから僕は今日、勇気を振り絞って、「彼」に告白しようと決めていた。 「どうしたんだ、古泉。早く行かないとハルヒが怒り狂うぞ」 卒業式の直後、彼の手を引っ張って連れて行った先は、人気がなく、ひっそりとした体育館裏だった。 遠くざわめく声を聞きながら、僕はじっと彼を見つめた。 どうしてこんな所に連れて来られたのか分かっていないのだろう。 軽くひそめられた眉に困惑が見える。 その困ったような表情を見ると、もっと困らせてしまいたくもなるし、明るい笑みを見たいとも思う。 怒った顔も、非難する時の強い眼差しも好きだということはつまり、僕は彼の全てが好きなんだろう。 きっとそうだ。 そう思うと、胸の中に火でも抱いたかのようにそこが熱くなった。 これまでずっと抑えてきた分、勢いよく燃え上がりそうなそれを、そっと押し殺す。 僕が黙り込んでいるのを不審に思ったのか、それとも、この沈黙が嫌だったのか、彼は小さく笑いながら、 「まあ、少々待たせたところでそこまで怒りはしないか? それに、もう怒らせても大丈夫になったんだろ?」 「…ええ、そうです」 やっとそう答えた僕に、彼は頷き、 「それならまあ、これまでずっと機嫌取りをさせられた分、怒らせてやったりしたくなる気持ちも分からんでもないな」 と悪戯っぽく言った。 「いえ、……そういうつもりでは、ないのですが…」 僕がそう言うと、彼は声を立てて笑って、 「分かってるに決まってるだろ。これまでのお前が、ハルヒの機嫌を損ねることを極度に怖がってたから、からかってやっただけだ。……で? 本当は何のつもりでこんな所につれてきたんだ?」 あなたに告白したくて、と言おうとして開いた口は乾いていて、上手く言葉が出なかった。 いや、口の中が乾いていたなんていうのは言い訳にもならない。 僕はただ、怖かったのだ。 彼と、友人といえる関係になれた。 それなのに、それを壊すようなことを告げるのが、怖かったのだ。 これまでに作り上げた関係が、僕の中で大きすぎたからだろうか。 それでも、僕は彼に思いを告げたいと思った、そう、決意したはずだった。 だが、それを言葉にすることが出来なかった。 心臓がとても大きくなってしまったようにすら感じられた。 それが脈打つたびに酷く痛む。 まるでこの思いの強さを僕に知らしめようとしているかのように。 いつの間にか握り締めていた手の平に、薄っすらと汗をかいているのが分かった。 顔は紅潮するどころか、不安のために血の気が引いて、見事に青褪めているに違いない。 怖いなら、言わなければいい。 友達のままでいればいい。 ……そう思う部分もある。 けれど、そうしてしまうには、彼への思いも、彼という存在も、僕にとってあまりにも大きくなりすぎた。 隠してきた期間が長すぎた。 これ以上隠すことなど出来ないそれを、吐き出すしかない。 そうして、振られるしかない。 そうすれば、きっと、諦められる。 新しく誰かを思える。 唾を無理矢理飲み込んで、好きですと告げようとした瞬間、彼が言った。 「なぁ、古泉。……この三年間、いろんなことやってきたよな」 酷く、懐かしむような表情で。 それで僕は再び言葉を失い、ただ、彼を見つめた。 「入学そうそうハルヒに会って、長門のいた文芸部室を根城にするようになって、朝比奈さんを引っ張り込んで、お前が転校してきて、SOS団ってのが形になった。それから、色々やって……そりゃ、大変なことも多かったというか、はっきり言って、大変なことばかりだったが、それでも俺は、結構楽しかったぞ」 「……ええ、そうですね」 そう頷きながら、僕は本当に彼のことを愛おしく思った。 この上なく愛おしい。 そんな彼の、楽しかった高校での思い出の最後に、僕からの告白なんて言う嫌な思い出を残すこともないだろう。 彼のためなら、膨らんだ思いを押さえつけることも難なく出来た。 「本当に、楽しい三年間でした。…僕だけ、少しばかり出遅れたことが残念なくらい」 「ばかだな」 と彼は明るく笑った。 「精々一ヶ月だろ。そんなもん、大した差じゃないし、まだ、これからがあるんだからな」 「そうですね。……あなたもご存知の通り、僕は春から県外に出ますけど、これからもまだ、同じSOS団の仲間でいさせてくださいますか?」 「お前が逃げ出さなきゃな」 「逃げ出したりしませんよ」 そう、心から笑みを浮かべたはずだったのに、彼は軽く顔をしかめると、 「作り笑い」 とそれを指摘した。 「ったく、癖になってるのかも知れんが、表情を無理矢理作ったりするのはいい加減にやめろよ。笑いたいなら普通に笑え。笑いたくないなら無理しなくていい」 「そうしたつもりだったのですが…」 「どこがだ。……そんな、痛そうな顔してまで、無理して笑うなよ」 その手が僕の頬に軽く触れる。 くすぐったいと思う以上に、その暖かさが胸に痛かった。 どうして、そんな風に優しくするのかと問い詰めたい気持ちにすらなった。 彼が優しいことは、それこそ、誰にだって優しいことは、よく分かってる。 それくらい、僕は彼を見つめてきた。 彼が誰かに優しくするたびに痛みを感じ、優しくされても胸を押さえた。 「…逃げるなよ、古泉」 彼の綺麗な瞳が僕を見つめる。 瞳の中に移った自分の目は、酷く濁って見えた。 やっぱり僕は彼に相応しくない。 だから僕は、 「……そろそろ、部室へ戻りましょうか。涼宮さんがご立腹かもしれません」 と告げた次の瞬間、僕は彼に頬を思いっきりつままれていた。 「な…っ」 「逃げるなって言ってんだろうが」 彼の頬に朱が刺す。 刺した朱はだんだんと色を増し、その範囲も広がっていく。 「俺に用があるから、こんな所に呼び出したんだろ。用を果たしもせずに逃げるんじゃねぇよ」 ――その言葉で悟った。 彼ははなからお見通しだったのだ。 僕のこの醜悪な思いも、それを隠そうとしていることも。 「……どうして、分かったんです?」 口に出した言葉はみっともなく震えていた。 「分かるに決まってるだろ」 ぷいと顔を背けながら、彼は言った。 「あれだけ見つめてくるし、思わせぶりなことも言って来てたからな。それに、ハルヒの力がなくなった以上、お前がそれを隠す必要もなくなったんだろ? その状況下でお前にこんな場所に連れてこられれば、誰だって分かるに決まってる」 「僕、そんなに分かりやすかったですか?」 困ったな、と苦笑すると、彼は目を軽く伏せたまま、 「……お前のことだからな」 一瞬、思考が停止した。 彼が何を言ったのかも分からない。 彼の恥ずかしがるような風情が何を意味しているのかも。 「…あの、それは、どういう……」 「…っ、分かれ、このばか! 鈍感!」 真っ赤になった彼がそう言って駆け出そうとするのを、慌てて腕を掴んで止める。 「逃げるなと言ったのはあなたでしょう?」 思わず笑いながらそう言うと、彼が噛みつきそうな勢いで、 「お前の方が逃げてんだろうが!」 「もう、逃げませんよ」 ぐいと腕を引っ張って、彼を抱きしめる。 「…あなたが好きです。ずっと、あなたが好きでした」 彼にここまで言ってもらわないと言えないなんて、どれだけ情けないんだろうと思いながらそう告げると、 「あれだけ言わなきゃそれくらいのことも言えないのかよ」 と不貞腐れた顔で言われてしまった。 「すみません」 「まあ、お前はそういう奴だよな。慎重なのかと思わせておいて実は小心なだけだし、ハルヒの機嫌を損ねるようなことはかなり本気で怖がってたくらい臆病だったし」 「す、すみません…」 本当のことながら、そうずけずけと言われると堪える。 いや、本当のことだから余計にそうなのかもしれないけれど。 「でも、まあ…」 と彼は小さく微笑むと、 「……嫌いじゃないぞ」 「…ありがとうございます」 笑みを返しながら腕を解くと、彼がきょとんとした顔をした。 「あの、何か…?」 「…何か、というか……だな…」 軽く首を捻りながら彼は僕を見上げ、 「……普通、ここで手を離すか?」 「何かおかしかったでしょうか?」 別に構わないと思ったのだが。 「……もう、いい。お前に期待なんぞせん。いや、期待まではしてなかったが」 ぶつぶつ言いながら彼は僕の首に腕を回すように抱きつくと、背伸びをして唇を重ねた。 絶句する僕に、 「分かってるだろうが、明言しないとお前が信じられないだろうし、そもそもお前は俺の返事も聞かずに、自分が一方的に言っただけで満足しそうだから言ってやる。――俺も、お前が好きだぞ」 その一言だけで死ねそうな気持ちですよ。 あるいはその、恥ずかしがって耳まで真っ赤になっているあなたの表情だけでも。 「ありがとうございます」 「…で、ヘタレ男、これからどうするんだ?」 ヘタレ男呼ばわりには苦笑するしかないが、悲しいかな事実なので仕方がない。 「そうですね。…とりあえず、部室へ行きましょうか」 「ハルヒたちに報告はするか?」 「いえ、それはよしておきましょう。せっかくの目出度い日に涼宮さんの機嫌を悪くはしたくありませんし、反対されたくもありませんから」 「……だからお前はヘタレなんだ」 唇を尖らせてそう言った彼に、 「すみません」 と謝り、 「その分あなたがそんな風ですから、きっとこれでバランスが取れると思いますよ」 「そんな風ってどんなだよ」 「さて、どんなでしょう?」 笑って誤魔化すと、 「さては考え付かなかったんだな」 と言われたが、それは違う。 「僕にだって羞恥心はあるんですよ」 あなたがそんな風に強気で、逞しくて、男前だから、僕が少々情けなくても丁度いい、なんて言うのは流石に恥ずかしい。 だから僕は笑って答えず、彼の手を軽く握るに留めた。 「……ヘタレ」 繰り返しそう毒づきながらも、実際にはさほど怒っておらず、むしろ手を繋ぐだけのことでもかなり嬉しく思っているのが分かり、僕は嬉しさで胸の中をいっぱいにしながらしっかりと彼の手を握り締めた。 吐き出したくて仕方がなかった思いは、それまで以上に大きくなったのに溢れ出すことはなく、ずっと空っぽだった僕の中を心地好く満たしてくれているようだった。 それもこれも全て、彼のおかげに違いない。 そんなことを考えて表情を緩めていると、 「間抜け面」 と隣りから注意されてしまったけれど、表情を作るのをやめろと言ったのはあなたですよ? |