キスがスキ



どういうわけか、子供の頃からキスが好きだった。
するのも、されるのも。
と言っても、唇にじゃないぞ。
頬に、だ。
別に、子供の頃欧米にいたとか、スキンシップ過剰な家に育ったとか、そういうわけじゃない。
その意味で言うなら、いたって普通の、特色もないような家に育ったんだから、俺だけが少々特異ということになるのだろう。
でもまあ、妹が小さい頃はよかった。
抱っこしてやった時に、軽くちゅっとしてやれば、妹も笑っていたし親だって微笑ましげに見てるだけだったからな。
だが、妹ももう小学校の高学年で、流石にまずいかと思い、自重することにした。
そうなると、どうにも欲求不満で、代わりにとシャミセンにキスしてみたが、毛の感触はあまり好ましくなかった。
俺がキスしたいのは、つるつるとした柔らかな頬であり、毛皮ではない。
そう、出来ればさらりとした手触りの頬がいい。
化粧なんて余計なものは要らない。
それでも白くて綺麗な素肌――と考えて、俺は小さく首を傾げた。
さて、この条件に当てはまる人間を何処かで見たような気がするのだが、一体どこの誰だ?
ニキビどころかニキビ痕もなく、そばかすも見当たらない肌。
手で触るだけでも気持ちいいだろうそれに唇を触れさせたらどんなにいいかと思いかけて、やめた覚えがある。
誰だったかくらい覚えておけばよかったんじゃないかと思ったが、その時の俺はどうやら、その肌にキスをしたいと思ったことさえ忘れてしまいたかったらしい。
となると、相手は男か?
考えながら、俺は目の前の市松模様の盤上に手を伸ばし、拾い上げたポーンを進ませた。
大した手でも状況でもないというのに長考に入る対戦相手には一瞥もくれず、更に考え込む。
谷口じゃないな。
あいつの肌は俺の好みからすると色黒過ぎるし、若干の肌荒れがあったのを覚えている。
国木田か?
いや、国木田だってニキビ痕くらいはあった。
俺が覚えている肌はそれすらなくて、いささか気色ばんだのを覚えているから国木田じゃない。
じゃあ誰だ、と考えかけて気がついた。
そうだよ、なんで真っ先に考え付かなかったんだ。
その理由はおそらく、その頬にキスしたいなんて考えたことすら忘れ去りたくなった理由と同じだ。
こんな奴相手にそう思ったことを認めたくなかったんだ。
恨みがましい気持ちになりながら顔を上げた俺は、涼しい顔をしている対戦相手を睨んだ。
夏でも白いままの肌。
化粧なんてものは当然してないから、きっとサラサラしているんだろう。
肌荒れなんてものとは縁遠いに違いないと思わせるほど、憂き世離れして見える。
それとも、何か手入れでもしているんだろうか。
しているとしたらそれは当人の趣味なのか、必要に駆られてなのか。
実は肌が弱くて、そのためにケアを怠れないとかだったら面白いのにな。
そういった努力の結果の美肌だとしたら、それはそれで好みだ……って、いかん、危険思考だ。
「あの…?」
それにしても本当に綺麗な肌だな。
本当に男か?
いや、男だってことはちゃんと知っている。
何の因果か一緒に風呂に入ったこともあるからな。
思ったより逞しい体つきで、着痩せするたちなのかと驚くとともに、非常に妬ましいような羨ましいような気持ちになったことを覚えている。
ああ、でも、腕とか背中とかも綺麗だったな。
ビタミン不足だかなんだか知らないが背中や首筋にまで発疹が出ている人間を思うと、同じ人間だってのにどうしてそこまで違うのかと首を捻りたくなるものだが、食ってるものでも違うんだろうか。
肌が綺麗ということは、食うものに気を配って無さそうなこいつでもちゃんと野菜をしっかり食ってるってことなのかね。
「あの、あなたの番ですよ?」
肌の肌理も細かくて、だが、もち肌と言えるほどではない。
おそらく、触れて一番気持ちいい――というのはあくまでも俺の主観であり好みだが――、さっぱりとした手触りなんだろうな。
触りたい。
キスしたい。
「聞こえてないんですか?」
そういわれて俺は初めて、古泉の顔が近くにあることに気がついた。
何かを注視しているとそれが接近して見えることがあるが、そうではなく、実際に近いのだと気がついて、驚いた。
何でこんなことになってんだ。
「顔が近いぞ。一体何のつもりだ」
「何のつもりかと仰られましても、」
苦笑しながら古泉が椅子に座りなおす。
そのせいで欲求対象が遠ざかり、心ならずも残念に思った。
相手は古泉だぞ、冷静になれ。
と、思いはするのだが、それでも欲求は収まらない。
年単位でキスしてないからな。
欲求不満もかなり強まっているらしい。
「あなたがこちらを見ているまま何の反応も示さないものですから、何かあったのかと思いまして」
「別に、何も」
「しかし、」
「というかだな、古泉」
俺は話をそらそうと、不機嫌な口調で言った。
「お前はどうして顔を近づけてくるんだ」
「どうして、と言われましても、僕としては自然にしているつもりなんですが」
自然にしててあれかよ。
「不快にさせてしまったのならすみません」
「いや…」
不快と言うよりはむしろどぎまぎさせられることに参ってるんだが、そんなこと、言えるはずがない。
言ったが最後ガチホモ認定だ。
これ以上、妙な肩書きを増やして堪るか。
だから俺はため息を吐くに留め、視線を盤上に戻した。
触れられもしないものを凝視したところで無駄だ。

ところで、人間と言うものは自分で思っている以上に理性的に行動できないものである。
ダイエットをしようとしているはずだというのについうっかり菓子類を貪り食ってしまったり、禁煙するつもりが人に一本貰ってしまったりすることも多いらしい。
俺はどちらも経験はないが、俺のこの感覚も似たようなものだろう。
無駄だと思うのに、気がつくと目が追う。
だめだと思っても衝動ばかりが募る。
キスしたい。
あの頬に唇を付けて、温かさを感じたい。
それとも、冷たいんだろうか。
赤味がさしているところなど滅多に見ないから、もしかするとひやりとしているのかもしれない。
確かめたい。
知らないうちに溜まっていた唾を飲み込むと、ごくりと音がした。
考え込むフリをして、唇を押さえる。
自分の手の平にいくら口を付けても、欲求は満たされない。
古泉の頬が自分の理想に近い――というか、ほぼ理想そのものだ。古泉の性別以外は――と気付いて以来、欲求は強まるばかりだ。
それでも、耐えた。
それを数日と思うなよ。
数ヶ月だ。
飢えるような渇くような感覚に、ずっと耐えてきた。
時折顔を近づけられるたびに、悪し様に罵ったり過剰なほどに嫌がって見せたのは、そうやって顔を近づけられた時に事故でも装ってキスしてしまいたくなったからだ。
そうしないために、俺がどれだけ自制心を働かせてきたか。
だがそれも――もう、限界だ。
俺が何の予告もなく立ち上がると、碁石を盤上に置こうとしていた古泉は不思議そうに俺を見上げた。
「どうかなさいましたか?」
「ああ、ちょっとな。悪いが少し付き合え」
そう言って、俺は返事も聞かず、古泉の腕を掴んで立ち上がらせた。
「どうしたんです?」
面食らっているらしい古泉には答えない。
俺は同じように驚いている朝比奈さんに、
「すいません、ちょっと出てきます。多分、すぐに戻りますから」
「え、はい…。キョンくん、どうしたんですか?」
「いえ、大したことじゃないんです」
そう笑い返しながら、俺は古泉を引き摺るようにして部室を出た。
ハルヒが来ていなくてよかった。
と言うよりは、ハルヒが来ていなかったからこそ抑制が効かなくなったんだろうな。
「本当に、どうなさったんです?」
怪訝な顔をする古泉を階段へと引っ張っていく。
「すぐ済むし、実害も多分ないから黙ってついて来い」
「そう言われましても……」
階段を下り、人気がないのを確認して、踊り場で足を止める。
「…ここでいいか」
「何がです?」
「いいから、じっとしてろ」
俺は古泉を躍り場に立たせ、自分は一段だけ階段を上った。
そうでもしなければ目線がうまく釣り合わないと言うのもいささか歯痒いものがあるのだが、身長というものは遺伝要素が強いものだから諦めよう。
距離はこんなもんでいいだろう。
「あの…」
「キス、していいか?」
「え、えぇっ!?」
一応聞いてはみたが、返事は要らん。
「するからな」
驚きに硬直しているらしい古泉の肩に手を置き、その頬にキスをする。
温かくて、さらりとして気持ちがよくて、つまりは予想通りだ。
そのことに満足しながら唇を離すと、古泉がいつになく驚いた顔で俺を見ていた。
「今のは、どういう意味なんです?」
真っ赤になりながらそう問われ、俺は少し考え込んだ。
キスが好きだと正直に言っていいんだろうか。
隠す必要があるくらい、白眼視されても致し方ないような趣味ではあると思う。
が、正直に言ってもいいだろう。
相手は古泉だし、やっちまった以上は俺にも説明責任はあるだろう。
「キスが好きなだけだ」
「……はい?」
「キスって気持ちいいだろ? それだけで満たされるような感じがしないか?」
「それは…まあ、分からないでもないですが……」
「何でお前にしたかって言うと、女の子にするのは流石にまずいだろうっていうのがひとつ。それから、お前を見てたら、キスした時に気持ち良さそうだと思ってたんだよ」
「ああ、そういう意味の視線だったんですね」
気付いてたのか。
「それは、まあ…。あなたのことですから」
どういう意味だと首を傾げつつ、俺は説明の続きを口にした。
「そういうわけで、恋愛感情は皆無だから、安心しろ」
「……そう、ですか」
なんでこいつは落ち込むんだ?
よく分からん奴だ。
何にせよ、
「これからもよろしく頼む」
と、もう一度キスをした。
「これからって……」
「中毒みたいなもんでな。たまに、どうしてもキスしたくてしょうがなくなるんだ。だから」
「……はぁ」
ため息だか返事だか分からない声を漏らした古泉に、
「お前からキスしろとまでは言わないから」
と宥めるような調子で言うと、
「…あの、それはどういう意味です?」
「キスするのも好きだが、されるのも好きなんだ」
だが、そっちはしたいという欲求よりも薄いから我慢出来るだろう。
「あの、じゃあ、僕があなたにキスしたいと言ったら…どう、思われるんですか?」
どうやら今度は俺が驚かされる番だったらしい。
「そりゃあ嬉しいが……いいのか?」
「あなたが、嫌でなければ」
「…じゃあ、してくれ」
俺は左の頬を突き出すようにして目を閉じたのだが、何故だか唇にキスされた。
そこまで要求した覚えはないのだが、と思いながらもそれを受け入れたのは、それが気持ちよかったからだ。
触れるだけで満足出来るのは、若いからなのかそれとも俺がいくらかおかしいのか。
その疑問はおいておくとして、とりあえず、古泉の挙動不審の理由を全てすっきりと解決させる言葉が、キスの直後、古泉の口から漏れたことについては、しっかり問い詰めてやろうと思う。