「好きなんです」 唇から飛び出した言葉は消せない。 音声は一瞬で消えてしまうのに、言葉は消えないのがなんとも不思議な気分だ。 同時に、吐き出したはずの思いが、僕の中で量を減らすどころか更に大きく膨らんで、内側から僕を圧迫していくことが、不思議でならなかった。 「あなたが、好きなんです」 そう言わなければ死んでしまうと思った。 それくらい、苦しくてたまらない。 胸が痛い。 姿を見るだけで、涙が出そうになる。 彼女の隣りで笑っている時など、余計に。 「…何、言い出すんだ……」 彼の声が震えていた。 どうして。 「なんで、今更…」 そう、今更だ。 だって彼はもう彼女のものになってしまった。 付き合いはじめて三ヶ月。 関係は良好だと、僕は回されてくる書類で知っている。 それなのに、僕はどうしても彼を諦められなかった。 彼に振られるために、言葉を口にした。 彼の目から、涙が零れ落ちる。 どうして。 「…っ、お前の、ためだと、思って…ハルヒと、付き合ってんのに…なんで、今更そんなこと、言い出すんだお前は…!」 言葉の意味が理解できなかった。 違う。 理解できなかったのは、彼の心情だ。 僕のために彼女と付き合う? どうして。 「この、バカっ!」 彼が僕の胸倉を掴む。 乱暴に引き寄せられる。 唇が、彼の唇と、重なった。 どうして。 「――バカ、やろ…」 ぼろぼろと涙をこぼす彼を僕は反射的に抱きしめた。 その体は見た目以上に細く華奢で、胸が騒ぐ。 彼は僕の手を振り解こうとしないどころか、ぎゅっと力を込めて僕を抱きしめ返してきた。 どうして。 彼は答えない。 答える必要などない。 僕はただ、認めたくなくて無駄な問いを繰り返す。 彼が僕を好きなんて、そんなことはあり得ない。 神に等しいとされる人に選ばれたような人が、僕の方を選ぶなんてことは、絶対に。 ……あっては、ならない。 だから僕は黙り込み、彼もまた口をつぐんだ。 目を閉じてしまえば、感じられるのは彼のしゃくり上げるような泣き声と、彼の体の暖かさだけになる。 そのままじっとしていると、時間の感覚さえ失った。 どうしてだろう。 僕は今この瞬間死んでしまったとしても惜しくはないくらいに幸せで、彼がどうして泣いているのか分からなくなってしまった。 どうして泣くんですか。 僕はこんなに幸せなのに。 ねえ、どうして。 古泉のことが好きなんだと気がついたのは、さほど以前の事でもないと思う。 気がつくと、その距離の近さに嫌悪を抱くことがなくなり、長話に付き合わされても、よっぽど内容のない無駄話でもなければ嫌だと思わなくなった。 それを、単純に慣れただけだと思っていたのが、そうではないと気がついたのは、偶発的な事故のせいだ。 ハルヒたちとともに出かけた時、悪路に足を取られて転びかけた俺を、すぐ隣りを歩いていた古泉が抱き止めたことがあった。 その時、俺は我ながらどうかと思うほど挙動不審になった。 「す、すまん!」 どもりながら一応そう言いはしたものの、それ以上に早く放してくれと言いたかった。 腹に回された腕の力強さに、自分でも驚くほどどぎまぎした。 心臓の動きが異常なまでに活発化したのは、転びかけて驚いたからなんて理由ではないことはまず間違いないだろう。 「大丈夫ですか?」 心配そうな声に、余計に心臓が飛び上がった。 そうして――俺は、気がついたのだ。 自分が、古泉を好きだということに。 相手は男だぞ。 それも、古泉だ。 俺よりガタイもいいし、やることなすこと胡散臭くてどこからどこまで本気かすらわかりゃしねぇ。 何より、好きになったところでしょうがないじゃないか。 古泉は、俺とハルヒがくっつけばいいと思っている節がある。 節どころか、あからさまにそう言ってばかりだ。 そんな相手を好きになってどうするっていうんだ。 告白したところで、ハルヒを理由にされるまでもなく、断られるのが目に見えている。 だから、古泉のことなんて考えるな、何かの間違いだ。 ――そう、自分を誤魔化そうと思った。 それなのに、どうにも出来なかったことは言うまでもない。 出来たことといえば、俺が古泉に惚れてるなどというはっきり言って異常事態としか言いようのない状態を押し隠すために、必死になって平常心を保ったことくらいだ。 その甲斐あってか、誰にも気付かれずに済んだ。 だが、そうしたことで、俺は知ってしまったのだ。 仮面をつけ、自分を押し隠すことがどんなに辛いことか。 どれだけ、苦しいことなのか。 ……そんな思いを、古泉もしているんだと。 いや、古泉の場合はその程度じゃないだろう。 ただ自分の意思や感情を隠すだけではなく、ハルヒの望むような姿を演じている上、わけの分からない空間に赴き、戦うことを余儀なくされている。 それも、俺が体験しているよりもずっと長く。 その苦行がどれほどのものか、俺には計り知ることすら出来ないのかもしれない。 だとしたら、その苦しみを少しでも和らげることは出来ないだろうか。 俺は、自分のことを凡人だと思っているし、そうである以上、自分に出来ることは大したことではないとも思う。 その俺でも出来ることがあるなら、なんでもしたい。 「やれやれ。――変なところで健気だね、俺も」 自分をちゃかすように呟き、ため息を吐きながら、俺はひとつの手段を考えた。 つまり、古泉の負担が少しでも減るように、ハルヒの機嫌を取ることを。 ――それが高じた結果として、ハルヒと付き合うことになっちまったことについては、コメントのしようもない。 ハルヒにも申し訳ないし、それ以上に胸が痛んだ。 だが、それでも俺がそれをやめなかったのは、古泉が見るからに落ち着いた様子を見せるようになったからだ。 それとなく探りを入れると、閉鎖空間の発生率も規模も格段に下がったらしいことが分かった。 機関の意向に沿うような形に俺が動いていることで、上層部からの圧力も減ったらしく、その面でも楽になったらしい。 それなら、俺のやっていることも無駄じゃないんだと思った。 どんなに胸が痛んだとしても耐えられると。 なのに、どうして。 「好きなんです」 今更になって、古泉はそんなことを俺に告げるんだ。 冗談なのか? それとも、俺のどうしようもない感情がついにばれてしまったのか? そうではないと分かっていてもなお、俺はそう思わずにはいられなかった。 「あなたが、好きなんです」 苦しそうに、吐き出すように、古泉は言った。 俺に聞かせるというよりむしろ、そうしなければ死んでしまうかのように。 どうして、そんなことを言うんだ。 「…何、言い出すんだ……」 辛うじて口にした問いは、みっともなく震えていた。 否定しなければならないのに、出来ない。 古泉が驚いているのが分かる。 伝わってしまったんだ。 俺が本当は古泉を好きなんだということが。 絶対に、伝えてはならなかったのに。 「なんで、今更…」 呟いた瞬間、涙が目から伝い落ちたのが分かった。 止めようにも止められない。 涙も、言葉も。 「…っ、お前の、ためだと、思って…ハルヒと、付き合ってんのに…なんで、今更そんなこと、言い出すんだお前は…!」 涙声でまくし立ててやると、古泉が今度こそ本気で驚き、戸惑ったのが分かった。 理解出来ないと言わんばかりの表情に、苛立った。 「この、バカっ!」 もう、知らん。 形振りなんて構うものか。 このまま世界がどうなろうと、知らん。 古泉を消したければ消せよ。 そうしたら俺も消えてやる。 俺は古泉の胸倉を掴み、俺より若干高い位置にある頭を引き寄せ、その唇に自分のそれを押し付けた。 一瞬、これが初めてのキスならよかっただろうにと思った自分の女々しさを笑う余裕もない。 零れるのはただ、涙ばかりだ。 「――バカ、やろ…」 毒づいた俺を、古泉が抱きしめた。 暖かい。 その暖かさに安堵してもいいだろうに、それ以上に切なさが増す。 それでも、もっと欲しいと思ってしまった。 腕が勝手に古泉の体に回され、抱きしめる。 優男風の見た目以上に逞しい体に触れられることが嬉しくて、余計に涙が止まらなくなる。 苦しくて、切なくて、恋しくて、嬉しくて、何もかもが分からなくなった。 どれが理由で涙が流れるのかも分からない。 俺は古泉の胸に縋り、泣き続けた。 言葉を口にすることも出来ずに、ひたすら。 今この瞬間に世界が終ってしまえばいいと、願いながら。 |