故泉です
死にネタです
自壊型ヤンデレにもご注意ください
病院の一角に、特別な部屋がある。 院長の親類がいるとか、どこかの金持ちがいるとか、好き勝手に噂されるだけのことはある、特別な部屋だ。 白い壁は他の部屋と同じだが、足元には柔らかなカーペットが敷かれ、部屋の隅にはちょっとした調理設備まである。 精神病患者を収容する部屋にはありがちな鉄格子も外付けの鍵もなければ、本来危険物として取り除かれるはずの刃物や割れ物まで置かれているところは、普通のワンルームマンションとなんら変わりがないかのようだ。 実際、この部屋の住人である彼は、そうしようと思えば自由に部屋を出入り出来た。 だが、彼はそんなことを望みはせず、暇さえあれば目を閉じ、眠っていた。 そうでなければ、窓の外に広がる街の景色をじっと見つめていることが多かった。 彼を、私をはじめとする医師や看護士らは「キョン」と呼んだ。 いささか間の抜けたニックネームだが、そう呼ばなければ彼が反応しないのだから仕方がない。 それに、我々も、もう足掛け五年以上の付き合いになる彼に、親しみを持っていたから、愛称を用いるのは当然のことのようにも思えた。 彼は、いたって穏やかな患者だ。 暴れることもなく、叫ぶこともない。 無茶な要求もしないが、同時に、外に出たいとも望まなかった。 彼の望みはただひとつ。 ――幸せな夢の中にあり続けることだけだ。 「キョンくん」 私が呼ぶと、窓の側に座っていたキョンが振り返った。 一瞬の間があって、私を認識するのもいつもの通りだ。 「…先生」 「こんにちは。今日は何か見えますか?」 「ああ」 私が敬語で話し、彼が砕けた言葉で話すのも、彼との間にある暗黙のルールだ。 どんなに親しさを増しても、私は彼と敬語で話さなくてはならない。 そうしなければ、彼はますます心を閉ざしてしまうだろうから。 キョンはもう二十歳を過ぎた青年のはずなのだが、その顔だちもほっそりと華奢な体つきも、とてもそうは思えない。 言動もいささか幼さを帯びている。 それは、発症以来の傾向だと聞いているが、私は発症前の彼を知らない。 「あそこ、鳥が見えるだろ」 彼が無邪気に指差す先に、灰色がかった色をした鳩の姿が見えた。 「ええ」 「さっきから、あそこから飛び上がっては戻ってくるんだ」 「…キョンくんは、鳥が好きなんですね」 彼から鳥の話を聞くのも、これで何度目だろう。 そう思いながらそう言うと、彼はこくんと頷いた。 「古泉みたいに、空を飛べるから」 『古泉』。 それは彼がいつもいつも口にする名前だ。 その古泉という人物が何者だったのか、私は知らない。 私が知っていることといえば、その人物こそが彼の発症の原因であり、彼の恋人であったということだけだ。 いや、あるいは、彼の恋人は未だに、その人物なのかもしれない。 私は彼の口から古泉なる人物の話を聞きたくなくて、話を逸らした。 「危うく忘れるところでした。キョンくん、あなたにお見舞いの品が届いてますよ」 「お見舞い?」 首を傾げるキョンに、私は持ってきた小さな花束を渡した。 「誰からなんだ? 先生からじゃないんだろ」 「涼宮さんからですよ」 私がそう言うと、キョンは首を傾げた。 眉間に皺を寄せ、ひとしきり考えた挙句、降参するように、 「悪い。……それ、誰だったっけ?」 と私に問う。 このやりとりも、何度目だろう。 数え切れないほど繰り返したことだけは確かだ。 「キョンくんの、高校の同級生ですよ」 「…分からん。何かの間違いじゃないのか?」 「そう言われましても……困りましたね」 苦笑する私に、 「知らない人から物は貰いたくない」 との追撃を彼は忘れない。 私はため息を吐き、奥の手を出すことにした。 あまり使いたくないのだが、仕方ない。 「『彼』には花が似合うって前に言ってませんでしたか? 『彼』のためのお花だと思って、受け取ってはどうでしょう?」 私の言葉にキョンはぱっと顔を輝かせた。 「そうだな。そうする」 嬉しそうに受け取った花束を花瓶に移すべく、部屋の中を横切るキョンに、私は苦笑せざるを得ない。 『彼』と言うだけで通じるのか、と。 彼とは勿論、古泉という人物のことだ。 キョンの世界にはもはや彼しかいないに違いない。 その証拠に、時折訪れる家族にも、キョンはロクな反応を寄越さない。 話すことといえば彼のことばかり。 その中には、若い女性が耳を覆いたくなるような内容のことも多いから、始末に終えない。 少し前から、キョンは自分の妹さんのことも理解出来なくなりつつある。 キョンの中で、妹さんはいまだに小さな小学生であり、高校生の愛らしい女性ではないからだ。 治療はおそらく不可能、と診断して以来、私はご家族に見舞いを促すことをやめた。 見舞いに来てもキョンを混乱させるだけであり、またご家族にも辛いことだと考えたためだ。 同様に、キョンの友人にも面会は出来るだけ避けてもらうよう告げた。 それでもまだ、複数の人物から見舞いの品が届くと言うことは、発症前のキョンはよほど魅力的な人物だったのだろう。 ただ、「涼宮ハルヒ」という女性に関しては、なんとも言いがたい。 彼女もまた、キョンがこんな場所に棲む原因になった人物なのだから。 私の手元にある書類には、次のようなことが簡単に記されている。 交通事故で一人の男子高校生――古泉一樹――が命を落としたこと。 それは涼宮ハルヒを追いかけてのことだったこと。 キョンは全てを見てしまったということ。 駆けつけた救急車は、即死状態だった古泉一樹ではなく、その時のショックで発狂していたキョンを搬送したこと。 そんなことくらいだ。 その日以来、キョンは幸せな夢の中にいる。 「古泉は、優男で人当たりもいいくせに、結構酷いんだ。俺が嫌だって何度も言ってるのに、嫌がっているのは上の口だけでしょうって笑いながら、何度も何度も俺のことを抱いたりして」 くすくすと笑う唇はどこか淫靡に歪んでいた。 「ぐちゅぐちゅって恥ずかしいくらい音を立てるのは、絶対あいつがわざとそうしてるせいだ」 怒ったような口調で言いながら、その笑みは消えない。 私はもう何度目か分からない、キョンの猥雑な話に軽く赤面しながらも、苦笑を浮かべて言った。 「キョンくんは本当に彼が好きなんですね」 キョンは迷いもせずに頷いた。 「ああ、愛してる。古泉だけを」 その言葉が嘘ではないことを、私たちは知っている。 キョンに彼の死を納得させようと、何度も治療を試みた。 言葉で、書類で、写真で、彼の死を証明しようとした。 それでもキョンは、決して受け付けなかった。 ぼろぼろ泣きながら、嘘だと叫んで抗うのだ。 キョンと彼の関係者だと言う、森と名乗る女性によると、キョンと彼の関係は間違いなく恋人と呼ばれるそれであり、かつ、何があろうと涼宮ハルヒには隠さなければならないことであったらしい。 必死に押し隠し、それでもそれが露見してしまい、弁明か何かをしようと彼女を追いかけた彼は命を落とし、キョンはそれを見てしまった。 目の前で、最愛の人が車に轢かれ、原形すら留めなくなる様を。 隠していたことがいけなかったのだと、キョンは思ったのかもしれない。 だから、今のキョンは何も隠さない。 嘘も吐かない。 それどころか、相手が嘘を吐いていると感じたら、忠告さえ寄越すのだと言う。 嘘を吐いてもいいことなど何もないと、真剣な表情で言われてしまったと、若い看護士の女性が苦笑いしながら話していた。 そうして嘘を見抜くくせに、キョンは彼が生きているという嘘を吐いてもそれを真実として認めるのだ。 「キョンくん」 部屋を出て行きかけた私は、足を止めて言った。 「ん?」 振り返ったキョンに、私は言う。 「…彼に、よろしくと伝えてください。あと、あんまり無理はしないようにしてくださいね」 「ああ」 そうキョンは朗らかに頷く。 「でも、先生が言ったんじゃ逆効果かもな」 「どうしてです?」 「先生は、古泉ほどじゃないがかっこいいから」 臆面もなく言ったキョンに目を見開くと、キョンは楽しげに目を細めた。 「からかわないでくださいよ」 「別に、からかってなんかないさ」 「……とにかく、今日はこれで。また明日、来ますね」 「ああ、また明日」 ドアを閉めてしまえば、いつも通りの病院の一隅だ。 他の患者に面会するべく、白く冷たい廊下を歩きながら、私はひとつの考えにいたった。 中世の欧州では、狂人とは即ち、神に愛された証なのだと考えられていた。 そのため、狂人は各集落や都市で手厚く扱われたのだと言う。 キョンもまた、神に愛された存在なのだろう。 ――キョンが、正気を失うほど、『彼』を愛したように。 |