君が選んだ日



誰も触れなかったはずの古めかしいパソコンが電子音を立てて起動した。
真っ暗な画面に、白い文字が躍る。
ただそれだけのことなのに、無性に胸が騒いだ。
「緊急脱出プログラム」
「時空修正」
そんな文字に、ずきりと胸が痛むのは何故だ。
涼宮さんが彼に向かって怒鳴るようにして問うのを、僕はどこか遠い感覚で聞いていた。
今、僕が気になっているのは、涼宮さんの機嫌や感情の揺らぎではなく、彼の選択だけだった。
彼は、エンターキーを押すのだろうか。
それとも、押さないのだろうか。
点滅するカーソルを、彼はしばらくの間見つめ続けた。
そうして、顔を上げた彼は、酷く迷うような表情で、困惑しきっている文芸部員の少女を見た。
「長門、これに心当たりはないか?」
「……ない」
「本当にないのか?」
「どうして?」
彼女のもっともな問いに、彼は答えなかった。
再び沈黙し、考え込む。
その唇がかすかに動き、吐息のような音を漏らす。
「こんなものを残せるってことは…」
「……ああ、そうか。長門も…」
「…俺は……」
切れ切れの言葉の断片に、僕たちは口を挟めなかった。
彼が恐ろしく真剣に考え、そして、どうやら見つけてはならなかった答えを見つけてしまったのだと、何故か分かった。
「ハルヒ」
と彼が涼宮さんを呼んだ。
流石の涼宮さんもこの状況を面白がる様子はなく、ただ不安げに彼を見た。
「お前、SOS団を作る気でいるんだよな?」
「当たり前でしょ。二番煎じってのがちょっと気に食わないけど、そんな面白そうな話聞いて、あたしが放っとけると思うの?」
「だろうな」
と彼は笑った。
しかし、その笑みはどこか辛そうなものだった。
痛みを感じているような、苦しげな表情。
「長門が宇宙人じゃなくて、朝比奈さんも未来人じゃない。ハルヒも厄介な能力は持っていない」
言いながら彼はぐるりと室内の面々を見回した。
当然、僕に向かっても、
「古泉も、超能力者じゃない」
と言った。
言い終わる時には、どこか満足した様子ですらあった。
おそらく彼は決めたんだ。
自分の選ぶ道を。
彼の指がキーボードの上に伸びる。
エンターキーを押すのか、と息を呑む僕の目の前で、彼はわざわざデリートキーを選んで押した。
一度きりのチャンスを、彼は自ら捨てたのだ。
パソコンの画面には、
[・・・deleted]
の白い文字だけが残った。
「これでよし」
すっきりした表情で言った彼は、肩の荷が下りたかのようにぐっと伸びをした。
それから、僕たちに向かって、
「これからよろしくな」
と笑みを向けた。
優しく、それでいてどこか悪戯っぽい笑みは、涼宮さんのそれと似ていた。
「ハルヒ、団員の勧誘は団長の仕事だろ。朝比奈さんと長門をちゃんと勧誘しろよ」
「あんたに言われるまでもないわ」
強気に言い放った涼宮さんは、さっきまで確かに不安を感じていただろうに、それを微塵も感じさせなかった。
「みくるちゃん、当然、入るわよね?」
「ふぇえっ?」
怯える朝比奈さんに涼宮さんがにじり寄るのを眺めていると、彼が窓にもたれるようにしながら、
「古泉、お前は当然入るんだよな?」
「ええ、そうですね。面白そうでもありますし、涼宮さんを放っておくのもいささか心配ですから」
「そうだと思ったよ」
呆れるように、面白がるように言った彼は、朝比奈さんに無体を働く涼宮さんを懐かしむような目で見つめていた。
その穏やかな表情には、先ほどの大決断を思わせる要素は少しもない。
もうずっとこうしていたかのような落ち着きと安堵がある。
僕は、涼宮さんが好きなのだと彼に告げた。
それは間違いのない事実のはずだ。
それなのに、どうしてだろう。
今は、彼のことばかりを思っている。
「よかったんですか? あなたは元の世界に帰還したかったのでは…」
あるいは、時空を修正したかったというべきかも知れないが、と思いながらそう聞くと、彼は小さく笑った。
「ハルヒがいて、長門と朝比奈さんもいて、お前もいるんだ。それなら、今の状態でも同じことだろ? それに多分……世界を改変した行為者は、長門なんだ」
「…長門さんが、ですか」
「ああ。…ハルヒの力を利用したんだろうな。そんな能力のある奴はあいつとその仲間くらいしかいない。それに、元の世界と今の世界で大きく性格が変わっているのはあいつだけなんだ。それなら多分、やったのはあいつなんだろう。長門も、変わりたかったんだろうな」
「普通の女の子に、ということでしょうか」
彼は頷き、
「それならそれで、いいと思ったんだ。それに、今の世界ならお前が危険な目に遭うこともないだろ」
事も無げにそう言ったが、僕は驚かずにはいられなかった。
彼が、僕のことも思って、自分の世界を捨てたなんて。
「お前のそんな顔を見るのも初めてだな」
そう笑う彼は楽しげですらあった。
なんともない、平々凡々とした人間に見えるのに、本当はなんて強い人なんだろう。
同時に優しくて、穏やかで、しなやかで、それがために美しい人。

僕はきっとその時に、彼に恋をしたのだ。