微妙に暴力表現ありです
ご注意ください
ガラガラというよりもキラキラとさざめくような音を立てて粉々になる水晶が、雪か何かのように降り注ぐ中目を開いた彼女は、その目に狂気を宿していた。 大きくて茶色い瞳は、一瞬だけ大きく見開かれた後、キュッと細められた。 それは獲物の命を刈り取る猛獣の目にも似ている。 反射的に身構える俺を、彼女が見つめる。 そうして、彼女の唇が醜い笑みの形に歪んだのを見た瞬間、俺は自分の体を白い炎に変えて逃れるしかなくなった。 素早い動きに対応するにはそれしかなかったのだが、この姿は力を消耗しやすい。 以前と違って、自力で精気を作り出すことが出来ない身となった俺に、果たしてどれだけのことが出来るだろうか。 「古泉! 後で覚えてろよ!」 そう怒鳴ると、 「存分にしてください」 と返された。 「嫌われることも、軽蔑されることも、覚悟の上です」 それならそんな辛そうな顔を見せるんじゃねえ、と腹立たしく思いながら、俺は彼女の爪をかわす。 防戦一方なのは、どこかでまだ期待しているからだ。 彼女を助けられるんじゃないか。 古泉が何か見落としているんじゃないか。 そんなことを思いながら、彼女を観察する。 目の光に理性は見えない。 ただ目の前の動くものを追い、殺そうとしているだけだ。 それはおそらく本能的なものなんだろう。 気になるのは、口の端からこぼれるよだれだ。 どこかでこんな症状を見た気がするんだが、一体どこでだ。 文献や何かで見たなら、古泉が見落とすはずはない。 なら俺は実際にそれを目にしたんだろうか。 分からん。 我ながら呆れるくらいあちこち歩きまわってきたし、結果として散々妙な目にも遭ってきたが、こんな強烈なものを忘れるとは思えない。 いつ、どこで見たんだ、思い出せ。 そうすりゃ何か分かるかもしれない。 考えながら攻撃をかわし、彼女を目で追う。 その皮膚の薄い部分、唇や頬の色がおかしいことに気がついたのは、大分息が上がってきた頃だった。 息が上がっているのは俺も彼女も同様で、しかし、そうなると不利なのは俺だった。 体からぐんぐん精気が失われ、動きが鈍くなってきた俺とは逆に、彼女は生き残ろうとする本能ゆえか、余計に鋭く俺を狙ってくる。 「逃げてばかりではあなたがやられてしまいますよ」 いくらか焦れたような古泉の声は聞かなかったことにしてやろう。 そうじゃなかったら、吸血鬼を弱らせる呪文の二発や三発は、体に打ち込んでやったっていいところだ。 とまあ、そんな状況になってやっと、黒味を帯びた彼女の唇に、俺は気がついたのだ。 血の色がおかしいんだと。 そうして思い出したのは、ここよりかなり東に行った地域で見たとんでもない治療法だった。 犬に咬まれただかなんだかで、今の彼女のように正気を失った人間の腕を掻き切り、その血を捨てるというそれは、かなりにおぞましく、吸血鬼の伝承と結びつけて考えられていた。 だが実際は吸血鬼とは全く関係のないただの病だったはずだ。 ただし、その汚染された血を大量に捨てなければならないため、治療に耐え、正気を取り戻すのは一握りの人間だった。 ……彼女は、耐えられるだろうか。 原因がそれと同じという保証もない。 それでも、やらなきゃならんのだろうな。 古泉によって反魂の術を施されたという彼女もまた、俺と同じように吸血鬼になっちまっているんだろう。 それならたとえ全身の血を抜かれたとしても死にはしないはずだ。。 弱る危険性はあるが、古泉がいる以上精気が失われて消滅することはないと思う。 ――どうか、当たっていてくれ。 俺は祈るような思いで、彼女に向かって飛ぶと、その腕を切り裂いた。 黒っぽい血が勢いよく噴き出す。 それに触れないよう気をつけながら、俺は古泉に叫んだ。 「彼女の動きを封じてくれ! これで治せるかも知れん」 「どういうことですか?」 驚く古泉に、 「いいから急げ!」 「…分かりました」 古泉が呪文を唱えたのか、魔術の気配がし、腕を押さえてうずくまっていた彼女が倒れた。 「とりあえず眠らせましたが…これでいいんですか?」 「ああ。…その血に触るなよ」 言いながら古泉の側に着地し、人の姿に戻った。 古泉の体に掴まらなければ立っていられないほど消耗しきっている。 「大丈夫ですか?」 「大丈夫じゃねえよ、このばか」 「すみません」 そう言った古泉が俺に口付け、甘ったるい精気が注がれる。 この状況で盛るわけにもいかん、と俺はなんとか古泉を引き剥がした。 「もうよろしいんですか?」 「いいも悪いもない。彼女をほっといたらまずいだろ」 「……あなたには、何か分かったんですね。姉のことが」 「ああ」 俺は簡潔に、血が何かに汚染されることによって起こるその病について説明した。 「初めて知りました。今度、東方にも赴くべきですね…」 「その前に、今は目の前の彼女をなんとかしろよ」 吸血鬼特有の回復能力で、腕の傷は既にふさがり始めているが出血が物凄い。 広いとは言いがたいこの部屋の床は、隅に立っている俺たちの足元近くまで血の池が届きそうなほどだ。 狙ってやったとはいえ、見ていて気分がいいものではない。 「あの血を消せるか?」 俺が問うと、古泉は頷いた。 「お任せください」 次の瞬間には、あふれ出ていた血が消滅した。 便利だな、と思いながら俺は彼女を助け起こした。 顔も体も青褪めて血の気がない。 当たり前だ。 人間ならとっくに死んでるくらい出血したからな。 だが、これなら確実だろう。 「古泉、精気を」 「はい」 素直に応じた古泉が俺の側にかがみこみ、彼女の上体を抱えながらそっとキスした。 ……人工呼吸と同じようなもんだと思おう。 そうしようとする時点で、俺もどうかしていると思うんだが、それでもやっぱり、見ていられなかった。 「これくらいで大丈夫だと思うんですが」 と古泉が言ってからそちらに目を向けた俺は、彼女の顔色がいくらかよくなっているのを確かめて、 「じゃあ、後は普通に寝かせてさしあげろよ。看病は……長門に任せた方がいいかも知れんが、もしまだああなってたら危ないか?」 「いえ、大丈夫ですよ。有希はああ見えて強いですからね」 なら、長門に頼もう。 幸か不幸か、長門なら、血液を介して起こるこの病いがうつる心配もないからな。 古泉が彼女を抱え上げ、俺たちは隠し部屋から出た。 それから二日後。 あれやこれやの疲労感から、俺はだらだらとテラスで過ごしていた。 自分の部屋で過ごさない理由は、察してくれ。 共用スペースである分、テラスの方が安全なんだ。 そこへ、長門が報告に来た。 「朝比奈みくるが目を覚ました」 と。 みくる、というのが古泉のお姉さんの名前だと言うのは聞いていたが、何で名字が違うんだ? 古泉のお姉さんなら名字も古泉なんじゃないのか? 首を傾げる俺に、同じく報せを受けて彼女の部屋まで来ていた古泉が、 「姉は既婚者ですから」 と平然と言ってのけた。 既婚者って、彼女は14、5歳にしか見えなかったぞ。 「前にも言いませんでしたっけ? ああ見えて、28歳ですよ。死んだ時の年齢が、ですけど」 言われてみれば、古泉もこれで身体年齢32歳と称するような男だった。 どうも、年齢より遥かに若く見える家系らしいな。 呆れていると、古泉がドアを開け、部屋に入った。 「姉さん」 そう古泉が嬉しそうに声を掛けると、ベッドの上に横たわっていた彼女がこちらを振り向いた。 どこかまだ虚ろだった瞳に、光が宿る。 「…一樹……?」 その声は唸り声や悲鳴よりずっと彼女の外見に相応しく、柔らかで穏やかなものだった。 「よかった…」 古泉の目に、嬉し涙が滲む。 その腕が、彼女を抱きしめる。 「一体何がどうなってるの?」 戸惑う彼女に答える余裕は古泉にはない。 俺と長門はなんとなくそれ以上見ていられなくなって、そっと部屋を出た。 姉弟だと分かっていても、美男美女のとりあわせなのが悪いんだろうか。 「長門、今夜はご馳走でも作るか」 お祝いとして、それ以上に、気を紛らわせるために。 長門も同じような心持ちだったのか、こくんと頷いてくれた。 わざとらしく、手の込んだ料理ばかりを作ったら、古泉は気がつくんだろうか。 それとも再会の喜びに紛れて気がつかないか? どちらでも構わん。 この悋気染みた感情を忘れたくて、俺は闇雲に料理に打ち込んでやった。 その結果として、稀に見る大量の食事と、ついでとばかりに作った保存食の山が出来ちまったことは言うまでもない。 さてどうやって収拾をつけようか、と思ったところで、食堂に古泉と朝比奈さんが姿を見せた。 心なしか血色のよくなった朝比奈さんに、あらぬ妄想が湧き上がりかけるのを必死に抑えつつ、 「もういいんですか?」 と聞くと、 「うん、もう大丈夫です。一樹に血を貰ったから。あなたが、キョンくんよね? ありがとうございました」 深々と頭を下げる彼女に、俺も軽く頭を下げ、 「俺は大したことはしてませんよ」 「ううん、凄くお世話になったって聞いてるわ」 そう微笑む彼女は本当に美人で、花のように愛らしく、純粋無垢に見えた。 それなのに、そんな彼女に嫉妬している自分が腹立たしい。 どうかしてる。 そして、間違いなくその原因であるところの人物がへらへらと嬉しそうに笑っているから余計に腹が立つんだろうな。 「今夜はご馳走みたいですね」 にこやかに言った古泉に、 「まあな」 ぶっきらぼうにそう答えると、流石に機嫌の悪さが通じたのか、古泉が戸惑うような表情を浮かべた。 「えっと……僕、何かしましたっけ?」 「さあな。お前に心当たりがないなら違うんじゃないか?」 一度口にしてしまえば、トゲのある言葉は留まるところを知らない。 明らかにおかしく思われる、気付かれると思っても止まらず、それを止めるためには古泉から離れるしかなかった。 「長門」 と俺は廊下に続くドアへ向かいながら言った。 「悪いが、一眠りして来る。適当に食べてくれ」 「待ってください」 古泉の声は当然無視だ。 手荒くドアを閉め、自室へ向かう。 長すぎる廊下は頭を冷やすには十分過ぎるほどで、部屋に着く頃には嫉妬心に自己嫌悪が勝っていた。 「…何やってんだろうな……」 ここまで古泉のことが好きだったのか、と呆れるしかない。 ドアにもたれたままため息を吐くと、それがノックされた。 こんこん、と響く音の振動を背中に感じる。 「入っていいですか?」 と言う古泉の声も。 「入って来るな」 「どうしてですか?」 あわせる顔がない、とは言いかねて、 「…お前の顔を見たくないからだ」 と言うと、ドアの向こうで苦笑された。 なんでだよ、この野郎。 「すみません。……その、嬉しくて…」 嬉しいだと? お前はマゾヒストだったのか? 「違いますよ。あなたがそこまで不機嫌になってくれるのが、嬉しいんです」 思わず黙り込んだ俺に、古泉が囁くように言った。 「妬いてくれたんでしょう?」 カッと顔が赤くなったのが見なくても分かった。 鈍いと思わせておいて実は全て見透かしていたわけか。 なんて性格が悪いんだろうな、こいつは。 「ありがとうございます」 礼を言われて腹が立つというのも珍しい。 ぐっと眉を顰めた俺へ、古泉はドアの向こうから言い募る。 「部屋に入れてくれませんか? おいしいワインも持ってきたんです」 「やかましい。お前はお姉さんと一緒にいればいいだろうが」 「姉とはとりあえず十分に話しましたよ。それに、姉よりあなたの方が大事ですから」 再び黙り込む俺に、古泉は、 「入れてくれるまで、ここで待ちますからね」 と言い、ドアの前に座り込んだらしい。 俺はため息を吐きながら鍵を外し、ドアを開けた。 座ったまま見上げてくる古泉のにやけ面に蹴りのひとつも入れてやれれば、おそらくかなりすっきりするんだろうな。 「愛してますよ」 立ち上がりながら、古泉は事も無げに言った。 「あなたのことを、世界で一番、愛してます」 「歯が浮くからやめろ」 「つれないですね」 そう言いながらも、古泉の表情は緩んだままだ。 ああ、くそ、忌々しい。 イライラしながらベッドに座ると、サイドボードに古泉がワインのボトルとグラスを置いた。 そのまま俺の隣りへ、いささか近すぎるだろうと思うほど側に、腰を下ろす。 「白ワインは甘口がお好きでしたよね?」 「…ああ」 仏頂面で応じても、それが照れ隠しだとばれていては意味がない。 古泉は笑みを崩すことなくグラスにワインを注いだ。 それを渡された俺は、まだ少しばかり残っている苛立ちに任せて、 「お姉さんが無事目覚めたことを祝って?」 皮肉っぽく言ったのだが、古泉はふふっと小さく笑い、 「あなたへの感謝を込めて」 とグラスと鳴らした。 口に含んだワインは本当に甘くて、そのくせアルコール飲料特有の感覚を伴って喉から胸の辺りまでを温めてくれた。 どうせならついでに、心まで温めてくれねぇかな。 「あなたには助けられてばかりですね」 いくらか苦味を含んだ笑みで、古泉が言った。 「いくら感謝しても足りないくらいです」 「…別に」 俺は自分が大したことをしているという感覚じゃないし、感謝されたくてしているわけじゃないから、どうだっていいんだ。 むしろ、何もせずにこの屋敷で世話になることの方がよっぽど心苦しい。 「あなたは気がついていらっしゃらないようですけどね、あなたはいてくださるだけでも十分なんですよ」 いてくれるだけで十分と言われると、自分がさも役立たずのように思えるんだが。 「そう自分を卑下しないでくださいよ。僕が言いたいのは、あなたは側にいてくれるだけで僕たちにいい影響を与えてくれる、僕たちをよりよい方へと導いてくれるということなんですから」 嘘くさいな。 「嘘なんかじゃありませんって」 「まあ、何にせよ、お姉さんが元に戻ってよかったな」 「ええ、そうですね」 「……だからと言って、長門のことを用済み扱いしたりはしないだろうな?」 一抹の警戒を込めて問うと、古泉が心外そうに眉を寄せた。 「するはずがないでしょう。最初のきっかけこそ実験であっても、今となっては大事な家族ですからね」 「それを聞いて安心した。……安心、と言えばな、」 「なんでしょう?」 「お前がお姉さんのために魔術師になって、吸血鬼になったって聞いて、俺はほっとしたぞ。私利私欲のために手を染めたんじゃなくてよかったと思った」 「……私利私欲ですよ」 自嘲するように呟く古泉の頭を、空いている手で撫でてやる。 「そう落ち込むな」 「しかし、事実ですから。自分のため、自分の身勝手な思いゆえに姉を生き返らせ、あなたを生き返らせ……僕はわがまま過ぎるんですよ」 俺が少し言っただけで、どうしてここまで落ち込めるんだろうな、こいつは。 さっきまでにやけてたのはなんだったんだ? 俺は首を傾げながら、小さく笑い、 「まあ、お前のそういう妙に素直なところ、俺は好きだぞ」 ぴくっと反応した古泉が俺を見つめる。 「――もう一回、言ってくださいませんか?」 誰が二度も言ってやるか。 「お願いしますよ。ねえ、もう一回だけでいいですから」 しつこい。 おい、距離を詰めてくるんじゃない。 というか、それ以上近づいたら距離はゼロになるしかないだろ。 「あなたのそういうところが好きですよ」 そういうところってどこだよ、と言うより早くキスされた。 |