古泉の館に住むようになってから、色々と変わったことがある。 それは生活習慣についてのみならず、俺自身および古泉や長門の変化でもある。 たとえば、朝。 どうやら一番寝汚いらしい俺を起こすのは、古泉の仕事になった。 そうと決めたわけではなく、結果としてそうなっているだけなのだが古泉が楽しそうだから別にいいだろう。 気に食わない点があるとしたら、その起こし方だ。 「おはようございます」 と古泉の声が最初に聞こえた。 俺は声に反応して手を伸ばし、 「ん…」 と返事だけはするのだが、まぶたが重い。 吸血鬼になっちまって以来、余計に朝が弱くなった気がするんだが、これは単純に俺の元々の性質のせいなんだろうか。 「ほら、起きてください。有希と一緒に朝食を作ると決めたのはあなたでしょう?」 食物をとったところで俺が自力で作り出せる精気なんざたかが知れているのだが、「人間らしい生活」を送るため、食事の習慣はなくしていない。 それに、長門と一緒に料理をするのは楽しいからな。 だからそう決めてはいるのだが、どうも寝覚めが悪い。 「もう少しだけ…寝させろ…」 目を開けもせずに訴える俺に、古泉はため息をひとつ吐く。 「困った人ですね。少しでは済まないでしょうに」 まあな。 「分かってるんでしたら、起きてください」 言いながら古泉はベッドに体重をかけた。 ベッドが軋みながら傾き、それが分かる。 抵抗するように寝返りを打とうとしたがもう遅い。 唇に柔らかい感触が触れ、甘ったるい精気が流れ込んできた。 正直鬱陶しいくらい深いキスに、俺は顔を顰めつつ目を開けた。 「んっ……は、――朝っぱらから盛るな、ばか」 「いつまで経っても起きないあなたがいけないんでしょう? 毎日毎日同じことを繰り返すってことは、あなたもおはようのキスが欲しいんじゃないですか」 「抜かせ」 吐き捨てながら俺は古泉の肩を掴んで体を起こした。 眠いが、このまま寝ようとしたところで襲われるのがオチだろう。 俺は眠い目を擦りながらベッドから下りた。 「起きてしまうんですか?」 残念そうに言うな。 「先にあなたの食事を済ませた方がいいかと思ったんですけどね」 普通にしてるだけなら、毎日補給する必要があるほど精気が減ることはないだろ。 能力を使ったり、大怪我でもすりゃあ別だろうが。 しかし、お前を見てると「ばかは死んでも治らない」という言葉を痛感するな。 「酷いですね」 酷いって言うならそのにやけきった顔を何とかしやがれ。 そんな風にぐだぐだ言いながら古泉を追い出し、着替えをする。 シャツのボタンをきっちり留める気になれず、タイすらしないが、どうせ古泉と長門しかいないんだから構わないだろう。 ふたりも特に咎めてこないしな。 それから部屋の外で待っていた古泉と共に食堂へ向かい、すぐ脇の小さめのドアから厨房に入った。 そこでは既に長門が野菜を切り始めていた。 「おはよう、長門。遅くなって悪かったな」 「いい。大丈夫」 そう言った長門の口元が少しばかり緩んで見えた。 と思ったのだが、それが思い違いであることを願いたくなるようなことを、長門は口にした。 「シャツのボタンを留めた方がいい」 「ん? なんでだ?」 ナイフを手に取ろうとしていた俺がそう問うと、長門は困ったように笑って、 「痕が見える」 長門の言葉を理解するまでに数秒かかり、 「――っ、あのバカっ!!」 と怒鳴りながらシャツを掻き合わせ、慌ててボタンを留める。 「夫婦仲がいいのは、いいこと。私の認識は間違っている?」 どちらとも言いかねる。 まず、俺と古泉は夫婦ではない。 だが、夫婦仲がいいのがいいことであるというのは間違っていない。 どう言ってやるべきかな、と俺が考え込んでいる間に長門はかまどに火をいれ、鍋をかけた。 この館の生活で便利なのはこういうところだろう。 いつでも好きに火が使え、火加減の調節も火を消すのも簡単だ。 古泉と長門に言わせれば、理論的にも技術的にも簡単な魔法だということなのだが、俺には素質がないのかうまく出来ない。 それは俺が未だにクルースニクでもあるからなのかもしれない。 吸血鬼としか言いようのない体になった今も、俺はクルースニクとしての能力が使える。 古泉が近くにいる時限定ではあるものの、お互いが館の中にいれば十分な距離なので、重宝する。 ただ、古泉とはやはり相反する力なので、余り使わないようにしているのだが。 「長門、」 と俺が言ったのは、出来上がった朝食――野菜だけのスープとパン、それから果物だけという素食だ――をテーブルに並べてからだった。 「さっきの話だけどな、やっぱり少し間違ってると思うぞ」 「……具体的な説明を求める」 もちろん、そのつもりだ。 俺は、わけが分からないと首を傾げている古泉を無視して、 「夫婦仲がいいのがいいことだってのは合ってる。間違いじゃない。だがそれを俺と古泉に使うのはちょっと違う。まず第一に、俺と古泉は結婚していない以上夫婦ではない」 事実婚だと言われたら否定は出来んがな。 「それから、」 と俺は古泉を睨みつけた。 いきなりそうされた古泉は戸惑うような顔をしているが、それが憎たらしい。 「見えやすいような場所に、しかも本人の了承もなしにキスマークを付けるような行為を夫婦仲のよさの表れとするのは間違った認識だ」 俺の発言に古泉は飲みかけていた紅茶を放り出しかけたが、寸でのところで事なきを得た。 「な、なんの話をしてるんですか、あなた方は…」 困惑する古泉には、 「言葉の正しい使い方についてだな」 と答えておき、 「お前も、俺がボタンとかきちっとするの嫌いだって知ってんだからこんな場所に付けるんじゃない」 「でもそれ、あなたが付けてって言ったんですよ?」 「は!?」 くすくすと笑いながら古泉は言った。 「だから、あなたから僕に縋りついて、しかも目にいっぱい涙を湛えて、『お前のだって印、付けて』って可愛らしく哀願するから、僕も抗えなくて…」 「待て待て待て、勝手に捏造するんじゃない!」 そんな血迷ったことを言った記憶はないぞ。 「捏造じゃありませんよ。あの時点でかなり精気に酔ってましたからね。忘れてしまっただけでしょう」 精気の甘さに頭が朦朧として、後になっても何をしたのか思い出せないということはこれまでにもあったことだから、そう言われてしまえば否定は出来ない。 起きた時、キスマークを付けられていることに気がついていなかったくらいだから、全くの嘘ではないのだろう。 だが、俺からそんな風に哀願したってのは怪しいところだ。 「本当ですって」 信じてくださいよ、と笑う古泉に俺は渋面を作り、 「何にせよ、長門の前でする話じゃないだろう」 「あなたの方から始めたんじゃないですか」 「うるさい」 と一蹴した俺に、 「……今更だから気にしない」 長門の言葉が耳に痛かった。 俺は顔を赤くしながら、静かにため息を吐いた。 朝食の後はそれぞれ好きに過ごす。 長門は館の掃除や蔵書の手入れをしつつ読書に勤しみ、古泉は怪しげな研究をしたり俺にちょっかいをかけたりする、というのがいつものパターンだ。 俺はと言うと、庭の手入れをしたり、読書をしたり、あるいは古泉の相手をしてやることが多い。 ただ、もう十年以上もここに暮らしているふたりほど生活リズムが確定していないので、日によってやることも変わったりする。 だから、場合によると食事の時間以外ふたりと顔を合わせなかったりもするのだが、古泉も長門も、この屋敷のどこに俺がいるのかくらいのことは把握出来るらしく、特に気にしていない。 会いたくなれば会いに行けばいいという考えがあるらしい。 どこへ行くにもついて来られるよりはずっとありがたいんだが、そんな風に放っておかれても大丈夫なんだろうかと心配になるのは、この館が特殊だからだろう。 どれだけ部屋があるんだか、今のところ、俺には分からんし、どこに危険物があってもおかしくない。 特に危ないのは古泉の実験室だろうと、そこには滅多に近寄らないことにしているのだが、それ以外にも妙なものがあったりするので、油断は禁物だ。 いざとなったら古泉と呼べばいいんだろうが、それで間に合わないような何かがあっても不思議じゃないからと、俺は慎重に行動していた。 が、流石にここでの暮らしも長くなってくると気も緩んでくる。 だから俺は、うかうかとそこへ足を踏み入れちまったわけだ。 古泉の実験室に隣接した、古泉の書斎。 その奥にある隠し部屋へ。 書斎自体には、以前から何度か足を踏み入れていた。 図書室にあるよりもずっと貴重で難解な書物がたくさん並び、俺の興味をそそったのだ。 そうして本棚にそって歩いているうち、書棚のひとつに妙な仕掛けを見つけた。 魔力だらけのこの館の中にありながら、魔力ではなく、物理的な力を用いた仕掛けだ。 魔術師というものは時として魔力及び魔法を過信しがちであるため、かえってこういう仕掛けには弱いと、どこかの本に書いてあったのだが、古泉は人間の技術にも造詣が深いらしい。 それは図書室やこの部屋の蔵書を見ていれば分かることではあったが、実際に使用しているとは、なかなかに嫌味なやつだな。 しかし、古泉がわざわざそんな仕掛けで隠すものには興味が湧いた。 それはおそらく、他の魔術師に見つからないようにと魔力を用いていないのだろう。 魔術師に見つかるとまずいものというのはなんだろうか。 そう思いながら俺はその仕掛けに触れた。 前にそれについて書かれた本を読んでいなければ分からなかっただろう、はめ込まれた木製の部品をカシカシと組み替えて正解へと導く。 ちなみにその本はここに来る前に読んだものだ。 この部屋にも図書室にも同じ本があった覚えはないから、おそらくこの仕掛けを作った後に処分したんだろう。 古泉がそうまでして隠す秘密を覗き見ようとすることにはいくらか心が痛まないでもなかったが、それよりも好奇心が勝った。 最後のひとつを動かしたところで、カチッと音がした。 これでロックは解除されたはずだ。 ためしに本棚を押してみると軽く動いた。 そのまま力を加えると、本棚は回転するように開き、その向こうに薄暗い部屋が見えた。 足を踏み入れると本棚は自然に閉まり、同時に部屋に明かりがついた。 狭いその部屋にはガラスケースがひとつだけあり、その中には大きな水晶があった。 透き通ったその中には、流行からは大分遅れた、しかし豪奢なつくりのドレスを着た少女が眠っていた。 穏やかな顔には化粧が施されていたが、それはまるで死に化粧のようだった。 「これは……」 一体どういうことなんだろうか。 彼女は何者で、どうして眠らされているのか。 死んではいないと思う。 その頬には赤味が差しているからな。 だが、なんだってこんなことに。 背後にあった扉がすっと開き、 「見てしまったんですね」 という言葉と共に古泉が姿を現した。 「すまん」 反射的にそう謝ると、古泉はいつものように苦笑して、 「いえ、構いませんよ。来てはいけないと言っていたわけでもありませんし、見られて困るわけでもありません。……説明が難しいので、ある意味では困りますけれど」 それはつまり説明してくれるということなんだろうか。 目で問うと、笑顔で答えられた。 答えてくれるというなら聞いてしまいたい。 だが、これは本当に聞いてしまっていいことなんだろうか。 それによって古泉が苦しむことになるなら聞かないでおきたいと思う。 古泉を苦しめたくはないし、知らない方がいいこともあると、知っているからな。 それでも聞きたいと思うのは、知らずにいて妙な誤解するのが嫌だからだ。 「……聞いて、いいか?」 「ええ、あなたにわざわざ隠すようなことではありませんから」 その言葉を信じさせてもらおう。 何を聞くべきかと考えた後、俺は慎重に口を開いた。 「あの女性は誰なんだ?」 「僕の姉です」 「姉?」 お前のお姉さんはずっと前に亡くなったって言ってなかったか? 「覚えていてくださったんですか? 光栄ですね。ありがとうございます」 「そうじゃないだろ」 というか、恥ずかしいから指摘するな。 「一体どうなってるんだ?」 あの様子なら、死んではないだろう? 「ええ、生きています。ただ……あの中で眠っている姉は、もう、僕の姉ではないんです」 そう言って、古泉はなんとも言いがたいような目で水晶の中の女性を見つめた。 悲しみを湛えた瞳には、愛おしさも覗いている。 「反魂の術を使ったのは、あなたで二度目だったんです」 苦しげに、古泉は述べた。 「姉が死んだのは、もう、三十年以上も前のことになります。姉は占い師として才能を発揮し、僕と共にあちこち渡り歩いて生きていました。それが、」 と古泉は一瞬唇を噛み、 「…事故で、命を落としたんです。優れた占い師でも、自分の未来は見えないというのは本当なんですよ」 自嘲するように笑った。 「僕が魔術師になったのは、姉を生き返らせるためで、そのために魔力を欲しました。そのために人を襲い、精気を奪い、――そうして、あなたに出会ったんです」 古泉の目が、やっと俺の方へ向く。 「あなたに助けられ、大きな力を得た僕がしたことは、姉に反魂の術を施すことでした。姉の場合、あなたの時とは違って、時間が経っていましたから、魂は幾千にも裂け、集めるだけでも大変でした。それでも、反魂の術は成功したはずだったんです。でも――」 ぎゅ、と古泉は顔を顰め、 「目を覚ました姉は、既に姉ではありませんでした」 その言葉に、俺が生き返った時の古泉の言葉が思い出された。 『あなたは……ちゃんと、あなたのままですよね?』 あれは、お姉さんの経験があったからだったのか。 「どう……なってたんだ?」 怖々と聞いた俺に、古泉は小さく答えた。 「獣のように、理性を失っていました。いやむしろ、感情を失ったのでしょう。人として誰しも持ち合わせているはずのものを」 俺は思わず水晶の中で眠る彼女を見つめた。 あどけなさの残る幼い顔立ちには、とてもそんなことが起きたとは思えないほど安らかな表情が浮かんでいる。 「あの時僕は、軽々しく反魂の術を使ってはならないと痛感したんです。だから、」 と古泉は少し言葉を詰まらせ、 「あなたに術を使うことも躊躇ってしまって…」 「それについては、それでいいだろ、別に」 俺は未だに、お前に禁忌を犯させたことについて罪悪感を覚えてるくらいだからな。 むしろ、躊躇うくらいの理性をお前が持ち合わせていてくれたことの方が嬉しいくらいだ。 「…ありがとうございます」 それでもまだ古泉は辛そうな顔をし、 「……有希を作ったのも、姉のためだったんです。感情を作り出すことが出来れば、姉を元に戻せるかもしれないと、そう思って」 それで長門は生き人形なのにあんなにも精巧に作られたのか。 「そうです。……それも、姉を元に戻す役には立ちませんでしたけれど」 それでも、お前が平穏を取り戻すには十分だったんだろ。 「ええ、そうですね。…有希とあなたがいなければ、僕はいつ姉の後を追ってもおかしくなかった」 …そんなに、お姉さんのことが好きだったのか。 「姉だけが、僕の存在理由だったんです。物心がついた時にはすでに両親は死んでいましたから。僕を育ててくれたのは姉で、流れ者の僕らを温かく迎えてくれるような街がない以上、僕を受け容れてくれるのも姉だけだったんです。だから、僕は…」 「もういい、無理して話すな」 俺がそう言って止めると、古泉は小さく笑った。 だがその笑みは余りにも苦しげで、俺は思わず顔を顰めずにはいられなかった。 そんな顔をさせたかったんじゃないのに。 「あなたは本当に優しい人ですね。その優しさに付け込むようで申し訳ないのですが…」 と古泉は水晶を指し、 「姉を、輪廻の輪の中へ還らせてくださいませんか?」 一瞬、何を言われたのかと思い、唖然とする俺に、古泉はもっと直接的な言葉に置き換えて言った。 「姉を、殺してください。あなたの持つ、クルースニクとしての力で」 「な…何言ってんだお前…!」 「それしか方法がないんです。姉をこのまま眠らせ続けるわけにはいきませんし、かと言って僕の力では、吸血鬼と化した姉を葬ることは出来ません。それが出来るのは、人間かクルースニクだけです。そして、人間では姉に勝てない。……だから、あなたにしかお願い出来ないんです」 「待てって!」 俺は動揺をなんとか鎮めようとしながら、時間稼ぎしたさに口を開いた。 「そもそも、反魂の術は本当に失敗したのか? 他に要因があっておかしくなってる可能性は?」 「ないとは言い切れません。一応、手は施しました。出来る限りのことをして、思いつく限りのことをして、し尽くして……それでも、だめだったんです。せめて安らかな死を願うのは、間違ったことですか?」 そう俺に問う古泉の目は、静かだった。 そんな目を、俺は知っている。 いつだったかに立ち寄った村の、吸血鬼のせいで娘を失った母親の目が、こんな目をしていた。 悲しみの余り、静かになってしまった目。 言葉を失った俺に、古泉は言う。 「…お願いします」 そうして、不意に古泉の持つ魔力の気配が強まったかと思うと、大きな水晶が音を立てて砕け散った。 |