Nauseate



今日は土曜日で、本来なら休日として自分のために使える日なのだけれど、そうは行かなかった。
涼宮さんが例によって例の如く、不思議を求めて探索をすると決めたからだ。
彼女の機嫌を損ねるわけにはいかない以上、どうしたって僕も行かなければならないのだが、そう思うだけで吐き気が込み上げてきた。
「う、え…っ」
吐瀉するまでには至らないものの、喉の辺りまで胃液で焼けた気がする。
込み上げてくる吐き気だけでも、息が詰まって苦しい。
キリキリと痛んでいるのは胃の辺りだろうか。
臓器の中で、胃の位置が一番分かりやすくなってしまっているというのも問題だと思う。
買い置きしてあった胃薬を、詰まる喉へと無理矢理に押し流す。
ひとりきりの部屋に、
「ぐぇっ」
とか、
「うぇっ…!」
とかいう不快な音が何度も響く。
息が詰まるせいで心臓まで落ち着かない。
どれもこれも、部屋から出たくない、涼宮さんに会いたくないと思うせいだ。
本来ならちゃんと心療内科でも精神科でもいいから受診して、薬を処方してもらうなりカウンセリングを受けるなりするべきなんだろう。
だが、そうしたところで彼女と顔を合わせなければならないことに変化はなく、つまりはこの症状が改善される見込みもない。
幸い、一歩玄関から外へ出てしまえば、緊張感からか症状は治まる。
だから、と僕は今日もまた早めに家を出た。
駅前で虚しく立ち尽くすことになるんだろうけれど、吐き気に苦しめられるよりはずっとマシだ。
そういうわけで、僕が待ち合わせ場所へ向かう時間は、回を追うごとに早くなっている。
彼は僕が涼宮さんより早く到着している理由についてあれこれと推測しているようだが、真実はこのように単純かつ、切実なものなのだ。

その日もやっぱり探索があり、吐き気が酷かった。
この吐き気は平日にも起こるのだが、それでも平日なら涼宮さんと顔を合わせるまでにタイムラグが大きいからか、ここまで酷くはならない。
早く家を出てしまおうか、と思ったものの、まだ二時間以上もある。
どうせなら起床時間を遅らせるべきだった、と思いながらも、今朝は緊張のためか、勝手に目が覚めてしまったことを思い出した。
どうしようもない。
どうせ吐き気だけで、本当に吐いたりすることはないんだから、諦めよう。
息が詰まって少し苦しいだけ。
そう、それだけだ。
そう思っていたのに、
「うげ…っ…か、はっ…!」
と込み上げてきた吐き気はそれだけじゃ治まらなかった。
吐き出したものが、服の腹とズボンを汚し、座っていたソファにまで落ちる。
湧き上がる匂いに、余計に吐き気が込み上げて来そうになるのを抑えながら、僕は流し台へ走った。
喉どころか口の中まで胃液に焼かれて痛いくらいだ。
蛇口をひねり、水を手に受けて口をすすぐと、やっと人心地がついた。
それでも、服も床もべちゃべちゃに汚れて気持ちが悪い。
とにかく着替えよう、とシャツを脱いだところで、玄関のチャイムが鳴った。
誰だ、と思いながらも、どうせ宅配便か何かだろうとタンクトップのままドアを開けると、
「…古泉?」
しまった、と思ったところでもう遅い。
なんて失態だ。
彼に「古泉一樹」らしからぬところを見せてしまうなんて。
愕然とする僕に、彼は小さく笑い、
「悪い、着替えの最中か何かだったのか?」
「え、ええ、そんなところです」
「悪かったな」
と言った彼は視線を落とし、僕のズボンにこびりついていた吐瀉物に気が付いてしまった。
「……吐いたのか」
「え、あ、その……」
何とか誤魔化そう、と焦ったのがまずかったんだろうか。
「けほっ」
と乾いた咳が飛び出した。
そのまま立て続けに咳が出る。
「古泉!」
慌てた彼が僕の背中を擦る。
止めてください、そんなことは。
「震えてるじゃないか。風邪でも引いたのか?」
言いながら彼が僕の肩に触れる。
「や、めてください…っ!」
涙まで溢れてきてどうしようもないのに、僕はそう叫んでいた。
「優しく、…っく、しないで、ください…! あなたに、優しくされたら、僕は、僕は……」
その後はもう言葉にもならず、ただぼろぼろと涙が零れ落ちていった。
それからの彼の行動は素早かったように思う。
思う、と付くのは僕の精神状態が普通でなく、彼のしたことを正確に見ていられなかったからだ。
彼は僕を支えるようにしてベッドに運ぶと、そこへ寝かせ、汚れた服を着替えさせた。
水を汲んできて僕に飲ませ、落ち着かせつつ、涼宮さんたちへ欠席の旨を連絡した。
汚れたソファや床の掃除までしてくれたらしい。
その上、僕がうわ言のように唸るたびに僕の手を握ってくれて。
感謝してもし切れないと思うと共に、どうしてそんなことまで、と思わずにはいられなかった。
しかし、僕が問うより先に、彼の方が僕に尋ねてきた。
「俺に優しくされたら、どうなるっていうんだ?」
ベッドの脇に腰を下ろし、横になった僕の髪を撫でながら、彼はそう言い、僕は顔を顰めた。
「俺は、お前のことを仲間だと思ってるから、力になりたいとも思う。溜め込んでるものがあるなら、吐き出した方が楽だろ。ちゃんと聞くから、言ってくれないか?」
「……だから、どうしてそんな風に優しくしてくれるんですか」
分からなくて不安になる。
怖い。
根拠の見えない優しさは、いつなくなるか分からないから縋ることも出来ないのに、縋りたいと思ってしまうから、嫌だ。
だが彼は小さく笑って、
「お前がちゃんと答えたら、答えてやるよ」
僕はぎゅっと眉を寄せた。
本来なら、彼の前で多用すべきでない表情だ。
でも、今日はもう既にこれだけ醜態をさらしてしまっている。
今更取繕ったところで、どうせ変わりやしない。
僕が、らしくないことを言っても。
僕は口を開き、
「あなたに、優しくされたりしたら、それに縋ってしまうから、嫌なんです。そうなったら僕は、古泉一樹の仮面を被ることさえ出来なくなってしまう。それでは、いけないんです…」
「…別に、縋るくらいいいだろ」
彼は僕の震える手を握った。
「俺で支えられる程度なら、支えてやるよ」
「……ど、して…」
また涙が流れてくる。
「ハルヒのフォローをするのが、俺の役目だからかな」
冗談っぽく言って、彼は笑った。
「いつだって俺はあいつの尻拭いをさせられて、でもそのおかげで色んなことを体験出来てるんだ。それなら少しくらい、自発的にしてやってもいいかと思ってな」
彼の言葉に、僕は一抹の寂しさを覚えた。
そんな筋合いなんてないのに、彼がもっと特別な感情を僕に対して持ってくれているのではないかと期待した自分が浅ましく思える。
恥ずかしい。
「それに、」
僕が目線を伏せたのに気付かず、彼は付け足した。
「お前のことを嫌いと言うわけでもないからな」
「え」
顔を上げると、かすかに頬を赤くした彼が、何もない壁面を睨んでいた。
これって、……期待していいってことなんですか?

その後、彼にすすめられるまま、僕は色々と愚痴らせてもらった。
機関のことも、涼宮さんに会いたくないということも、何もかも。
そのおかげか、近頃では吐き気を催すこともなくなっている。
それは、探索の時に彼が迎えに来てくれるからかもしれないけれど。


吐き気