夏にワくもの



暑くなってくると生き物の動きも活発化するのか、やけに色んなものがわく気がする。
ちょっと暑くなっただけでハエは湧くし、水道水だって沸く。
暑さで苛立つからかちょっとしたことで頭を沸かして怒っている人間も増える。
微生物まで活性化して、嫌な臭いが沸き上がってくるのも早い。
ついでに変質者まで湧くのは暑さでタガが外れるからなんだろうか。
そうして、俺の近くにもどうやら、暑さで頭の沸いた輩がいたらしい。

この八月が――というか八月後半が――数えるのも嫌になるほど繰り返されたものだと長門に聞かされたのは、つい昨日のことだ。
ハルヒによる本日の予定は「天体観測」なので、俺は思う存分部屋でだらけているのだが、寛ぐというところまでいかないのはやっぱり、重すぎる懸案事項ゆえだろう。
一体どうすりゃハルヒは満足するんだろうな。
こうやって俺や朝比奈さんや古泉の頭を悩ませるだけでもあいつは満足してくれそうな気がするんだが。
長門は悩んでるのかよく分からないが、あいつもさすがにげんなりしているんだろうか。
ただでさえ精彩に欠く能面顔が更に強張って見えるから、あいつなりにこの状況に厭いているのかもしれない。
話を元に戻そう。
夏休みが終らないってことは、ハルヒが夏休みにしたいと思っていることを全部出来ていない、または出来ていないとハルヒが思っているということなんだろうな。
で、夏休みの最初からやり直さないのは、夏休みの最初の方には満足しているってことなんだろう。
よかったな、古泉。
それでこそ、わざわざ茶番を用意した甲斐もあるってもんじゃないか。
それから、17日からやり直すってのは多分、それ以前だと都合が悪いからなんだろう。
俺は田舎に行っていたし、ハルヒにもそんな事情があったのかも知れん。
そうじゃなかったら、あいつのことだ、もっと長期間を一まとめに扱ったに違いない。
あと分かることはなんだ?
ハルヒのやりたいことってのには日数を要しないってことだろうか。
長門に聞いたところによると、17日から31日という期間は決まっていて、それ以前にリセットされたことはないらしい。
もし、ハルヒのやりたいことが何日もかかるようなものなら、30日辺りにそれが出来ないことが確定した、その時点で17日に舞い戻っても、短気なハルヒのことだ、別に不思議はないだろう。
同じ理由で、日付の限定もないと見た。
可能性としては、31日にしか出来ないってことで、31日まで行ってからリセット、ということもあり得るが、31日に特に何かイベントがあるとも思えないので、頭の隅に留めておくだけにしておこう。
一万五千…何回だ?
とにかく、それだけ繰り返していれば、やっていないことなんてないんじゃないかと思うんだが。
だらだらと考えだけを巡らせていると、不意に携帯が鳴った。
誰だ、とディスプレイを見ると古泉の名前が表示されていた。
何か解決の糸口でも見つけたんだろうか。
古泉の頭が俺よりはいいらしいということと、機関という妙な背後を考えると、それもないわけではないだろう。
俺は淡い期待を抱きながら、開口一番、
「何か分かったのか?」
『あ、いえ――』
古泉にしては歯切れが悪かった。
電話に出るなり聞いたのは悪かったか、と思いつつ、
「すまん。昨日あんなことを聞かされたばっかりで、そればっかり考えてたんだ。別の用事だったんだな?」
『いえ、気にしないでください。用事といっても、大したことではありませんから、また掛けなおします。思索の邪魔をしてしまって、すみません』
「けど、わざわざ電話してくるようなことなんだろ?」
ハルヒのことはこれ以上考えたところで何かいいアイディアが出るとも思えないから気にするな。
『すみません。……これからすぐ、会えますか? ほんの少しでいいんです』
俺はすぐに行くと答え、待ち合わせ場所をいつもの公園に設定すると部屋を出た。
急いでやったのは、古泉がどうも気弱な声を出していたためと、いくらかの罪悪感があったからだ。
チャリを止め、すっかりお馴染みになっちまった公園のベンチに向かうと、どこか悄然とした古泉の姿があった。
「待たせたな」
言いながら俺は古泉の隣りに腰を下ろした。
「いえ、大した時間ではありませんよ」
そう言って微笑むのはいつも通りなんだが、妙な違和感があった。
何でだか分からんが、古泉がやけに弱々しく見えたのだ。
思わず眉を寄せつつ、俺は言った。
「それで? 一体どうしたんだ?」
「その……」
古泉は一度、らしくもなく口ごもったが、
「…このシークエンスで確定する保証はないんですよね」
と聞いてきた。
なんでそんなことをわざわざ確認するんだ、と思いつつ、
「そうなんだろ。勿論、失敗するって保証もないだろうが」
「でも、成功させるよりは失敗させる方が簡単でしょう。違いますか?」
「そりゃそうだろうが」
一体何が言いたいんだ?
こういう分かり難いことを言われる時は決まって嫌なことが起こる気がするんだが、まさか古泉が朝倉のようにナイフを振りかざして襲ってくるということはないだろうと思い、平静を保つ。
「僕が、今回このシークエンスを確定させるつもりがない、と言ったら、どうします?」
お前は何を考えてんだ?
長門のことも考えてやれよ。
これ以上あいつに同じことを繰り返させるつもりか?
「……やっぱり、あなたは女性に優しいんですね」
俺の発言に対する感想としては妙なことを呟くな。
何が言いたいんだ。
「でも、すみません。…少しだけ、わがままを言わせてください。難しいことじゃありません。ただ、聞いていただきたいだけですから」
古泉はそう言って笑いを引っ込めた。
俺の記憶の中をさらっても見つからないんじゃないかと思うほど、真剣な目が俺を見つめる。
驚いて目を見開いた俺に、古泉は言った。
「…あなたが、好きです」
ひゅっと耳を掠めたのは、俺が息を呑んだ音だったらしい。
それさえ一瞬分からなかったほど、俺は驚いていた。
むしろ、戸惑ったと言ってもいいかも知れない。
世の中に同性愛者がいることは知識と知っていても、実際に遭遇したことはなかったし、ましてや、告白されるとは思ってもみなかったのだ。
だから、俺の口を吐いて出たのは、
「……マジか?」
という呟きだった。
自分の耳を疑っての呟きなのか、それとも古泉の冗談であることを期待しての言葉だったのかは分からないが、古泉は笑みを浮かべもせずに頷いた。
「本気です。冗談でもドッキリでもありません」
その表情からして、そうなんだろうな。
俺はため息を吐き、背もたれにもたれかかる。
古泉も、何もかも投げ出してやりたい気分だったところへ、さらなる案件を持ってくることもないだろうによ。
あるいは、何もかも投げ出してやりたいと思ったのは古泉も同じだったのかも知れない。
そうでなければこんなことを口にしたりはしなかっただろう。
少なくとも、俺の知る古泉一樹という奴は、それくらいには慎重な奴のはずだ。
今も顔色が悪いのは、俺がどうするか怖くて仕方がないからかも知れない。
とりあえず、このシークエンスで確定させるつもりがないと言った理由は分かったが。
俺は古泉を見ないようにしながら言った。
「悪いが、俺はお前を恋愛対象としては見れないぞ」
「そうでしょうね…」
頷いていながらも、その声には生気がない。
古泉は力なく笑い、
「すみません。いきなりこんなことを言ってしまって…」
別にそれは構わん。
だからどうってこともないからな。
「……ですよね。僕も、あなたが僕なんかのことを思ってくれることなんてあり得ないと思ってました。それでも…」
俺が顔を上げたのは、古泉が泣いてるんじゃないかと思ったからだった。
それくらい、細い声だった。
だが、古泉は笑っていた。
かすかに頬さえ紅潮させて。
「…止められなかったんです。今すぐ、あなたへの思いをなくせるならそうしたいのですが、流石にそれは難しいようなので、もうしばらくだけ…あなたを好きでいてもいいですか?」
「そりゃあ…まあ……」
頭をどこかでぶつけて記憶喪失になってこいとまで言うつもりはないが…なんだろう、この寒気は。
「ありがとうございます」
そう微笑んだ古泉が、俺に顔を近づけてくる。
よせ、何のつもりだ。
「ずっと、あなたが好きでした」
思わず黙り込んだ俺に、古泉は小さく笑い、
「そう、ずっと前から、僕はあなたが好きだったんです」
「ずっとって、いつからだよ」
そんなことを聞いてしまったのは、古泉があまりにも悲しそうだったからだろう。
これまでと変わらずに接してやると言う代わりに、そう聞いたのだ。
古泉は意外そうに少し目を大きくした後、嬉しそうに笑い、
「機関の報告書で、あなたのことを知った時からです」
と答えた。
……なんだって?
「神でなかったとしても、涼宮さんと親しく出来るような人がいるとは思っていなかったんです。彼女はあの通り、かなり個性的な人柄ですからね。そんな僕にとって、あなたの存在は衝撃でしたよ。同時に、それだけで既に、僕はあなたに惹かれていたんでしょうね。あなたがどんなことをして過ごし、どんな人といるのか、他にも色々なことを知るほどに、あなたに惹かれていきました。添付されていた写真も、まだ大事に取ってありますよ」
ぞっとしたものが背筋を這った。
これが怖気立つということか。
純情系告白話が、いきなりストーカー話に切り替わったかのような感覚だが、まんまだからまるでたとえになってないな。
「古泉」
まだ何やら並べたてていた古泉を遮り、俺は言った。
「ひとつ、言っていいか?」
「なんでしょう?」
「――気色悪い」
古泉は一瞬目を見張り、それから苦い笑いを浮かべた。
傷ついた子供のような表情ははっきり言って卑怯だと思うが、俺は間違ったことは言っていないつもりだ。
「同性愛者なんて、やっぱり気持ちが悪いものですか」
そうじゃない。
「では、どういうことです?」
首を傾げる古泉は本当に分かっていないのだろう。
ストーカーか何かのようなことを言われて、不快に思わない奴がいるとでも思っているのだろうか。
それとも、ストーカーもどきの発言をしたことを自覚していないのだろうか。
……後者の方がありそうだな。
「頼むから、写真を捨ててくれ。撮られた覚えもないような写真が人の手元にあるかと思うと気分が悪い」
「大丈夫ですよ。隠し撮りとは思えないような写りですから」
そんなことは誰も言っとらん。
「じゃあ、ちゃんと撮った写真ならいいんですね?」
まさか、他にも持ってるのか!?
「ええ、先日の旅行の写真もきちんと取ってありますから」
捨てろ。
「嫌です」
自分の写真がお前の手元にあってどんな風に使われてるか想像するだけで気分が悪い。
とっとと捨ててくれ。
「大丈夫です、ちゃんと保存用観賞用携帯用使用用予備用と確保してありますから」
キモ過ぎて言葉も出ない。
ツッコミも入れたくない。
俺はにっこにっことやけに機嫌のいい古泉へ侮蔑の目を向けると、思いっきり叫んだ。
「頭をどこかでぶつけて記憶喪失になってこい!」
言うまいと思っていたセリフだが、捨て台詞には丁度いい。
俺はそのままダッシュで逃げた。
後で長門に会ったら、古泉の手元にある俺に関する物を全て消去、ないしは回収してもらえないか頼んでみよう。
ただでさえこの夏、SOS団の中でもっとも苦労をしている長門に頼み事をするのは気が咎めないでもなかったが、他に方法を思いつかない以上仕方がない。
更に長門に申し訳ないのは、少なくともあと一回は8月後半を繰り返さなければならないということだ。
繰り返したところで、春から俺を好きだったと言った古泉の言葉からして、向けられている感情に変化は訪れないだろうが、知らない状態に戻れるならその方がずっといい。
そう思ったはずなのだが、なまじっかハルヒの求めることを考えていたのが悪かったのだろうか。
運命の8月30日。
俺は喫茶店で思いっきり叫んでしまったのだ。
キーとなるその言葉を。
迷わなかったと言えば嘘になる。
しかし、もう一度俺がそれに気がつくためにどれだけのシークエンスが無駄になるかと考えると、止められなかったのだ。
ただ、それだけだ。

9月1日。
俺が部室に行くと、ハルヒは財布だけを持って駄菓子屋に買い出しに行ってしまった。
長門は来ない。
あいつも疲れていたのかも知れないな。
朝比奈さんがいらっしゃらないのは、鶴屋さんあたりと昼食をとっているかどうかしているからだろう。
古泉は――と思ったところでドアがノックされた。
「どーぞ」
なおざりに言うと、古泉が入ってきた。
「こんにちは」
「よう」
古泉との関係は至って良好だ。
古泉はあの日の夜から既に、あの時のことなど忘れたようにしている。
長門によって写真の数々をこの世から抹消してもらっても、だ。
諦めてくれたってことだといいんだが。
なんてことを考えながらやったポーカーでバカ勝ちした俺は、大変気分がよかった。
だからこそ、古泉もあんなことを言ったんだろうか。
手つきだけは一丁前に、やけに格好をつけてトランプをしまいながら、古泉は言った。
「どうしてあのシークエンスで確定させたんです?」
単純に、せっかく思いついたことをやらずにいられなかっただけだ。
深い意味はない。
「それでも、嬉しく思いますよ。あなたが僕の想いを認めてくれたように思えますからね」
そう言った古泉が俺の手を取り、それを引っ込める隙も与えず、軽く口付けた。
気色悪いなんてもんじゃない。
ぞっとした。
肌が粟立ち、顔が嫌悪に歪むのが分かった。
俺は強引に取り戻した手で拳を固め、思いっきり古泉を殴った。
「痛いですね」
そう言いながらも笑みを消さない古泉を、俺は心底恐ろしく思った。
同時に、あのシークエンスで確定させたことを悔やみ、自分の頭を撃ち抜いてやりたくなる。

夏の暑さに頭を沸かせていたのは、古泉だけではなかったようだ。