ふっ――と。 本当に何の前触れもなく、頭の中が恐ろしく静かになる時がある。 それは谷口や国木田と馬鹿話をしている時だったり、街を歩いている時だったりと、発生条件に特に共通点はないらしく、予想も出来ないまま突然に訪れるのだ。 俺は確かに人としてそこにあるのに、頭の中だけが人でなくなったかのように、静かで冷たい形を取る。 人ならざるものの、それゆえに客観的で、冷徹と言ってもいいほど静かな感覚に。 「キョンは最近変わったね」 と最初に口にしたのは国木田だった。 「そうか?」 平静を装いつつも、実際は冷静でなんかいられなかった。 「うん。なんていうか……うまく言えないんだけど、時々凄く近寄り難いような顔をするようになったよね」 「自覚はないんだが…」 というのは嘘だ。 本当は分かっていた。 国木田が言うのは、俺の感覚だけが人でなかったものに戻ってしまった時のことだろう。 「疲れてるのかもしれないな」 そうため息を吐くと、国木田は首を傾げた。 「そうは見えなかったけど…」 「じゃあ、どんな風に見えたんだ?」 「……大人っぽい感じかな」 僕の表現力じゃうまく表現しきれないよ、と国木田は言っていたが、どちらにしろ、俺がおかしいことは傍目にも分かることのようだった。 次に口にしたのはハルヒだった。 授業が終って休み時間に入ったかと思うとすぐに俺の背中をつついてきたハルヒは、不機嫌そうに眉を寄せて言ったのだ。 「あんた、最近何かあったの?」 「何かってなんだよ」 「それが分からないから聞いてるんでしょ」 「そう言われても心当たりはない。というか、何でいきなりそんなこと言い出したんだ?」 「……なんとなく、」 ぶすったれた顔をしながら、ハルヒは俺から顔を背けた。 「あんたが、遠くなったような気がしたのよ」 察しがいい、と俺は思いながら表面上は仏頂面を作り、 「アホか」 とぶっきらぼうに言った。 「あんたね、人が心配してやってるんだから…」 ハルヒは一瞬むっとした顔をしてそう言いかけたが、何故だか途中で言葉を途切れさせた。 「……本当に、何かあったんならあたしに言いなさいよ? あんただって、我がSOS団の団員なんだからね」 俺は出来る限り適当に頷いて、正面を向き直した。 ハルヒにまで気を遣わせてしまって悪いとも思うし、それほどまでにわかりやすい変化を起こしている自分を不甲斐無くも思う。 本当に円滑な状況でありたいのなら、長門に頼んで記憶を封じてもらうのが一番いいんだろう。 だが俺はそこまで無責任にはなりたくなかった。 いくらそれを望まれたからと言っても、世界を作っておきながらそれを手放したということは、責任感のなさを謗られたとしても仕方がないことだというのに、俺は更に世界の秩序を管理する役目さえ手放した。 それならばその分の重みを背負い続けるべきだろう。 たとえこの心がどれほどに苦しめられようとも、そうなるだけの心を得たことをいっそ喜びたい。 それに、今の俺は以前の俺とは違って、ひとりじゃない。 心配してくれる友人も仲間も、…恋人もいる。 だから、大丈夫だと思っていた。 赤いものが見えた。 明るく輝く赤。 それは地面を舐めるように広がっていく。 家々が崩れ落ち、燃え上がり、悲鳴が上がる。 子供たちが泣いていた。 「神様!」 助けを求める声がそう響いて――、 「っ!」 思わず飛び起きた俺は、全身に冷や汗をかいていた。 今のはただの夢だ。 今どこかで起こっていることを見たわけでもなければ、これから起こることでもない。 かつて見た光景。 その時は特に何も思わなかった。 些細なことだ、これもまた必要なことだと流しただけだった。 それなのに今、心臓はありえないほどに脈打ち、胸が苦しいほどだ。 「俺はもう、神様じゃないんだ…」 唸るように呟いた。 神じゃないからどうしようもない。 そう思おうとするのに、そうしようとすればするほど罪悪感が募る。 俺の作った世界だから、すべての災厄は俺のせいで起こると言ってもいいんだろう。 だから、こんなにも苦しい。 もっと安らかな世界を作ればよかったのに、俺はそうしなかった。 それじゃつまらないと、子供が積み木を危なっかしく積み上げるように、世界を作った。 存在するものたちを煽って、変化を求めて、わざと混沌とした世界を作った。 最悪だ。 「どうかしましたか?」 傍らから声がして、俺ははっとして振り向いた。 すっかり忘れていたがここは古泉の部屋の、古泉のベッドで、当然のように古泉もいた。 それさえ忘れるほど、夢は強烈だった。 「何か悪い夢でも?」 起き上がりながら発せられた声が優しくて、涙が零れた。 古泉ははっとした表情を見せたがすぐに微笑み、俺を優しく抱きしめてくれた。 それ以上、何かを問うこともせず、ただ俺をなだめるために。 あたたかい、と思った。 すべての傷を癒されるようなぬくもりに、涙が止まらなくなる。 「古泉…っ」 「僕はここにいますよ」 古泉の手が、俺の髪に触れた。 「あなたの側に、います。いつも一緒に、というのは不可能でしょうが、少なくとも心だけは、いつだってあなたの側にいるつもりですよ」 「……ありがとな…」 本当に、古泉は優しい。 おそらく、分かっているんだろう。 俺が苦しんでいるその理由に。 分かっていて、何も言わないでいてくれる優しさが嬉しい。 今の俺は、たとえ古泉が言うことであっても、何を言われたとしても言い訳や屁理屈だと言って否定するしか出来ない。 それくらい、罪悪感が勝っている。 そうして否定しておいて、古泉の善意を無にした自分への嫌悪感を強めるだけだろう。 だから、何も言わないでいてくれた方がいい。 こうして抱きしめていてくれれば、それで十分だ。 「お前を好きになって…よかった……」 言いながら、震える腕で古泉を抱きしめ返す。 お前のために神としての力を捨ててよかった。 力を捨てるのが、お前のためで本当によかった。 「僕も、あなたを好きになってよかったと思います。あなたに思いを告げてよかった、とも。そうでなければ、こんな風に満たされる気持ちになることはなかったでしょうから」 「満たされる?」 なんでだよ。 とてもそんな気持ちになる状況じゃないと思うんだが。 「こう言うとあなたに呆れられてしまいそうなんですが、」 と古泉は苦笑し、 「あなたを支えることが出来るなんて、僕は少しも思わなかったんです。神でなかったとしても、あなたは強い人ですから、僕のように弱い人間が何かしてあげられるとは思えなかったんですよ。でも今、僕の思い上がりでなければ、僕はあなたを支えられていますよね?」 「ああ」 思い上がりなんかじゃない。 確かに、俺のことをしっかり支えていてくれている。 「だから、僕は満たされた気持ちになるんです」 そう微笑む古泉の方がよっぽど強いと思う。 俺がただの人間でないと知っても、国木田やハルヒにだって分かるほど俺が以前と変わってしまっても、少しも態度を変えず、俺に何か言わせようともせず、ただ寄り添っていてくれるなんて、そう出来ることじゃないだろう。 俺は古泉を抱きしめる腕に力を込め、 「愛してる」 と告げた。 「僕も、あなたを愛してます」 あっさりと告げられる言葉に、特別な熱意は込められていない。 だからこそ、真摯に響く。 俺は腕の震えが止まっているのを確かめて、ぐいっと古泉の耳元に唇を寄せ、 「なあ、シよう?」 と囁いた。 「え」 古泉は一瞬絶句した後、赤くなり、 「ええっと、でも、その…」 「したくないならいいが、その分抱きしめててくれ」 不安で仕方がないから、お前の熱を少しでも感じていたいんだ。 「したくないなんてことはないんですけど……」 困ったように古泉は俺を見つめ、 「…明日、学校ですよ? しかも体育が一時間目からあるはずですけど……本当に大丈夫ですか?」 俺は一瞬ぽかんとして古泉を見つめ、それから声を上げて笑った。 「な、なんで笑うんですか?」 「だって、お前…」 嬉しくて、くすぐったくて、笑いが止まらない。 ここまで大事にされているとは思わなかった。 それに、そこまで俺のことを分かってくれているとも。 人は愛するが故に臆病になると言った奴がどこかにいたが、全くだと思う。 臆病とまではいかないにしても、古泉が俺に気を遣いすぎていることは間違いないだろう。 過剰なほど大切にされるとかえってくすぐったくなるから勘弁してもらいたい。 「俺は別に割れ物でもなんでもないんだから、そこまで気を遣わなくていいだろ。というか、俺の方からしたいって言ってるんだから心配するな」 笑いながらそう言って、俺は古泉を押し倒した。 優しく受け止められ、唇を重ねながら、俺はそっと目を閉じた。 古泉がいてくれる限り、俺は今以上に苦しめられたりはしないだろう。 古泉を好きになって、本当によかった。 |