目が覚めると、すっかり見慣れた天蓋が見えた。 怪我をして古泉の館に担ぎこまれて以来使ってきた部屋の天蓋だ。 微妙な傷み加減も同じだから、間違いなく同じものだろう。 一体どうなったんだ、と思いながら考えをめぐらしかけて、赤面した。 頭の中にはごちゃごちゃと、全て夢だと思いたくなるような恥ずかしいあれやこれやが入っている。 古泉と手を繋いだのも恥ずかしいし、抱きしめられたばかりか恥ずかしいことを耳に吹き込まれたことについては言うまでもない。 その上俺まで妙なことを口走っちまって……。 くそ、全部忘れちまいてえ! 頭を抱え込もうとして、体がぴくりとも動かないことに気がついた。 倦怠感が全身を包み込んでいるような感じだ。 指先ひとつ動かせないほど、体が弱っているらしい。 声も出せん。 今すぐ古泉を殴りつけるかどうかしてやりたい気分だってのに、動くことも叶わないってのは厄介だな。 はぁっ、と息を吐き、出来るのはため息を吐くことくらいかよ、と呆れた。 その時、ドアがノックされた。 俺はこんな状態だったから返事は出来なかったが、ドアはすぐに開いた。 現れたのは古泉だ。 申し訳なさそうな顔をして入って来た古泉に目を向けると、小さくその顔が綻んだ。 「目が覚めてよかった。正直なところ、術がうまく行くか自信がなかったんです。あなたは……ちゃんと、あなたのままですよね?」 頷くことも出来ない俺にどうやって返事をしろって言うんだ。 恨みがましい目を向けると、古泉が苦笑した。 「失礼。精気が全く足りていない状態なんですね」 そう言った右手に銀色に光るナイフが現れる。 それが左手の手首にかかり、俺は目を見張った。 やめろ、と叫びたいのにそれさえ出来ない。 かすかに動いた唇に、赤い血が滴った。 恐ろしいほど甘いのに、同時に苦い味がした。 体に力が満ちる感覚もする。 傷口を口に押し当てられ、甘くて苦いものが口腔を満たし、喉の奥へと落ちていく。 俺は顔を顰めると古泉の手を引き剥がした。 「もうよろしいんですか?」 穏やかに言った古泉に、俺は機嫌の悪さを隠しもせず、 「まずい」 と吐き捨てると、古泉が驚いたように眉を上げた。 しかしすぐに笑みに戻ると、 「僕の血だからでしょうか」 誰の血でもまずいに決まってる。 出来ることなら今すぐ吐き出してやりたい。 とりあえずうがいか口直しをさせろ。 「口直しですか」 少し考え込んだ古泉が、まだ横たわったままの俺に顔を近づける。 なんのつもりだ。 「口直しですよ」 油断ならない笑みを浮かべた唇が、俺の唇に触れた。 「っ!?」 驚きの余り声も上げられない俺の唇を、古泉の舌が舐める。 くすぐったい。 同時に感じた甘い感覚に頭の芯までくらくらした。 やばくないか、これ。 「体が精気を欲しているんでしょうね」 したり顔で古泉は言った。 「実際にするのは初めてですが、口付けでもちゃんと精気は受け渡せると確認出来て何よりです」 そう言われて、俺は吸血鬼にまつわる伝承を思い出した。 『吸血鬼が精気を吸う手段には、血を吸うほか、性交による方法もある』 つまり、何か。 俺はこの先生きていこうと思ったら、こいつの血を飲むかこいつとやることをやらにゃあならんということか。 何てこった。 「顔、赤くなってますよ」 指摘されるまでそのことにさえ気がつかなかった。 一度死んだ割に元気な体だな畜生。 死んだ、といえば、 「俺の怪我はどうしたんだ? 残ってないみたいだが…」 「あなたが眠っている間にちゃんと治療しましたよ。もっとも、大部分は、吸血鬼の特性とでも言いましょうか、怪我をしてもすぐに復元する能力によって、戻ったようなものですが」 ほら、と古泉はさっき切ったはずの左の手首を見せた。 「この通り、もう治っているでしょう?」 その言葉の通り、そこはすでに薄く痕があるだけになっている。 人も吸血鬼も同じだと一度は思ったはずなんだが、そういう風に言われるとやっぱり違うものなんだと思わずにはいられない。 殊に、実際に自分が吸血鬼になっちまったとなるとな。 「それより、まだ精気が足りないでしょう?」 そう言った古泉がベッドに手をつく。 「いっ!?」 思わず声を上げて逃れようとするが、手足もまだ重く、思うようにならない。 ぎしりとベッドが軋む。 「精気が足りてるなんて嘘はやめてくださいね? もっとも、そう言われたところでやめるつもりはありませんけれど」 なんだよそりゃ。 「愛する人にキスをしたいと思うのはいたってまともな考えだと思いませんか?」 にっこりと楽しげに笑った顔に心臓が跳ねる。 古泉がいつも取り澄ましていたからこそ、こういう表情には慣れない。 だから余計に落ち着かない気分になる。 「ねえ」 と古泉はほとんど俺の上に覆いかぶさるようにしながら、わざわざ俺を真正面から見据えて言った。 「キスしても、いいでしょう?」 いつもの飄々とした様子はどこにやっちまったんだろうかと思うほど熱っぽく言われて、顔が赤くなるのが分かる。 だめだ、こいつには勝てん。 「…っ、好きにしろ!」 最後の矜持でそう言うと、古泉独特の、あの鼻にかかるような笑いが聞こえ、唇に古泉の唇が触れた。 やっぱり甘く感じられる。 まるで気持ちよさゆえに全身から力が抜けていくかのように感じられる甘さだ。 緩んだ唇から強引に割り入れられた舌も甘い。 頭が考えることを放棄してしまったかのように、俺は自ら舌を求めた。 古泉の体を抱きしめて、それだけでも流れ込んでくる精気の甘さに更に頭が融けそうになりながら。 「んぁっ……古泉…ぃ…」 甘さが伝染したかのように、甘ったるい声が漏れた。 それを古泉は笑いもせず、 「なんでしょう?」 「…だめ、だ…。これ、……やばい…」 「どうやばいんです?」 「甘すぎて、頭がおかしく…なる……」 話すことがあるってのに、口も舌も止まらない。 言葉の合間に唇を求めて、舌を求めて、精気を求めている。 自制心には自信があったんだが、こうなっては何を言ったところで空しく響くだけだ。 「大丈夫ですよ。今は本当に精気が足りないからそんな風になってしまうだけで、一度補給出来たら後はここまで乱れたりしません」 「乱れる、って、言うな…!」 やっぱりみっともないと思われていたのかと、涙が滲みそうになる。 涙腺まで緩んでやがるな。 「すみません。でも僕は、そんなあなたも好きですよ」 そう言ってまたキスされる。 感じている甘味が本当に砂糖や蜜による甘味だったら、今頃舌が馬鹿になって感じなくなってるだろうに、これは頭が甘いと感じているだけなんだろう、いつまで経っても感覚が鈍らない。 むしろ、より敏感になっている気がする。 キスされる気持ちよさと精気の甘さがごちゃごちゃになってもはや判別もつかない。 「冥府への道での会話を、ちゃんと覚えてくださってますか?」 耳元で囁かれ、背筋をぞくりとするものが這うのを感じながら、俺は答えた。 「残念ながらな」 「それはよかった。僕の見た夢だったらどうしようかと思ってたんです。でも、あなたが本気で嫌がらないところを見ると、どうやらちゃんと現実だったようだ」 現実とは言いかねる場所でのことを現実と言うのも妙だな。 「それを言ったらこの館だって、現実とは言いかねる場所にありますよ」 それもそうか。 「大切なのは、あれが妄想や幻覚でないということだけです。――僕のことを好きだと言ってくださいましたよね?」 問う声はかすかに震えていた。 これまでにこれだけ強く出ておいて、それだけのことに不安を感じるってのも妙だが、古泉はそういう奴なんだから仕方がない。 俺は苦笑しながら古泉を抱きしめた。 「言った。心配しなくてもお前の頭は正気だ」 「……本当に、あなたがあなたのまま生き返ってくれてよかった…」 抱きしめているからよく見えなかったが、古泉はどうやら泣いているようだった。 声が震え、しゃくり上げるような音が混じる。 「反魂の術は完璧じゃないんです。術者は僕がしたように冥府まで生き返らせたい人の魂を追わなければなりません。けれど魂は冥府への道で少しずつ千切れてしまうんです。場合によっては他のものの魂と混ざり合うこともあって、結果として生き返らせることが出来てもすでにその人でなくなっていることも、あるんです。だから、あなたがあなたのままでいるのは本当に奇跡的なことなんです」 奇跡、ねぇ? 胡散臭い響きだ。 「ただ単に、お前が頑張ってくれたからだろ」 言いながら、俺は古泉の背中を撫でた。 「ありがとな、古泉」 少しして古泉が体を離し、古泉の顔が見えた。 やっと見えたそれは情けないくらいぐちゃぐちゃの泣き顔で、俺は小さく笑いながらキスしてやった。 触れるだけのそれは、俺からしたものだからか、ほとんど甘味は感じられなかったが、その分あったかかった。 ぽかんとして俺を見つめる古泉に、俺は努めて渋面を作りながら、 「ところで古泉」 「は、はい、なんでしょう」 「まだ体が重いんだが、どうすりゃいいんだ?」 「それは、」 真顔で答えかけた古泉がにやっと笑う。 ちょっとあくどい笑みだが、泣き顔よりは、見てても気分が悪くならない程度に古泉らしい表情だ。 その方がずっといい。 「精気が足りないんですよ」 「そいつは困ったな」 俺は自分のどこにそんな度胸があったんだと思いながら言った。 「精気と言えば、吸血鬼が性交で精気を吸えるってのは本当なのか?」 「試してみますか?」 「……そうだな」 俺はまだ重い腕を古泉の首へ回しながら答えた。 「お前がそうしたいんだったら、それでもいい。それに、血を吸うよりはそっちの方が効率がいいんだろ?」 「そうですね。ほとんど無駄なく受け渡せますから」 「なら、そっちの方がいいな。お前の精気だって無尽蔵じゃないんだろ?」 「魔力を精気に再変換することは可能ですから、無尽蔵に近いですよ? 少なくとも、あなたが求めるだけ与えたところで干乾びたりはしません」 「そりゃよかった」 そんな風に言えるのも、古泉を信じているからだろう。 これから先、何があろうと古泉は俺を助けてくれるし、同時に頼ってもくれるだろう。 大事にされるのは性にあわんが、それでも大事にされたくないわけじゃないし、こんな風に間近で人の体温を感じるのも、十年ぶりだ。 心から誰かを信じることも、誰も恨まずにいることも。 そして、そう出来るようにしてくれたのも、目の前にいるこいつで間違いないんだ。 だから、俺はこれでいい。 さっきの強烈過ぎる快楽に流されたためじゃなく、落ち着いて考えてそう思った。 「吸い尽くされると思ったらさっさと逃げろよ? 俺の方からは止められないからな」 何しろ精気を吸うのも無意識でやってるからな。 意識して出来るようになればセーブも出来るんだろうが。 「あなたの方こそ、僕がやり過ぎそうになったら逃げてくださいね? 僕は多分、止まれませんから」 人のセリフを真似するな。 むっとして皺を寄せた眉間にキスされた。 「愛してます」 囁かれた言葉が何よりも甘かった。 自由に動ける程度どころか、以前より体が軽く感じられるレベルまで精気を補給した俺は、古泉に連れられて長門が寝かされているという部屋に向かった。 長い廊下を辿りながら、古泉が言った。 「色々あったので聞き忘れていましたが、どうしてあんなことになったんです?」 その声には苛立ちが滲んでいる。 俺はわざと、 「あんなことってのはなんだ?」 ととぼけようとしたのだが、返って来たのは非難するような視線だった。 「言わなくても分かるでしょう? ……あなたがあんな風に捕らえられて、命を落とすほどにまで石を投げられたことです」 俺は苦い笑みを浮かべて答えた。 「俺の言葉と考えが足りなかったんだよ」 思い返すだけでも苦々しい。 もう少し考えて行動してれば、あるいは、もっとうまく話せていれば、あんなことにはならなかっただろうに。 「どういうことです?」 「俺はな、古泉」 俺は軽く眉を寄せながら言った。 「吸血鬼が全て化け物じゃないんだって、伝えたかったんだ」 先に立って歩いていた古泉が足を止め、俺を振り返った。 その顔には驚愕が浮かんでいる。 「そんな馬鹿げたことをしたんですか…!」 馬鹿げたことってのは酷いが、まあそう言われるだろうな。 特に、俺の故郷の村はどういうわけか昔から吸血鬼の襲撃が多いから、誰もが吸血鬼を憎み、恨んでいる。 そんな場所でいきなりそんなことを言えば、俺が吸血鬼の仲間になったと見なされるのは少し考えれば分かることだった。 それでも俺は、 「知って欲しかったんだ。お前みたいないいやつもいるんだってことを。そうしていつか、お前と堂々と友達付き合いが出来ればって思ってた」 そうすれば、古泉にだって俺以外の友人が出来たかもしれない。 そうなれば、この寂しがりの吸血鬼も今ほど寂しがらずに済んだだろう。 長門だって、色んな人に出会い、知識に触れて、人間らしくなれたかもしれない。 そう思うと、それが出来なかったことは悔しい。 だが、あんなことがなければ、俺は今ここにこうしてはいなかっただろうし、古泉とこんな関係になることもなかっただろう。 どちらの方がよかったかなんて、俺には分からない。 分かるのは、今の状況に俺は満足してるってことくらいだ。 「だから、村のみんなを恨まないでくれ」 「……あんなことをされてなお、そんなことを言うんですか」 拗ねたように視線を伏せながら、古泉はそう言い、 「あなたが誰にでも優しい人だということは知っていましたが、そこまでお人好しだとは思いませんでしたよ」 「俺は確かにお人好しかも知れんが、みんなを恨むなってのはみんなのためじゃないぞ。お前と俺のためだ」 人を恨む苦しさを、俺は知っている。 人を憎み続ける痛みも。 古泉にはそんな思いをさせたくないと思うほど、それは辛かった。 「……あなたが彼らを恨んでいないのに、どうして僕が恨めると思うんです?」 そう言って小さく笑みを作った古泉を、俺はそっと抱きしめた。 痛みと苦しみを宥めるために。 「ありがとな」 「…それより、早く有希のところへ行きましょう。もう少し先ですよ」 照れているのを誤魔化すように歩き出しながら、古泉は俺の手を握り締めた。 俺は笑みを浮かべながらその手を握り返し、足を早めた。 そうして、館でも隅の方まで来てやっと、古泉は歩みを止めた。 「こちらです」 そう言って古泉がドアノブに手を掛ける。 その表情は暗く、沈痛と言っていいようなものだ。 ノックもせずに開かれたドアは俺にあてがわれた部屋と同じ黒檀で出来たものだったが、部屋の中の光景は全く違っていた。 普段から長門が使っているはずだというのに、恐ろしく物がなく、あるのは簡素なベッドと読書用のテーブル、照明くらいのものだった。 女の子なんだからもう少し何かあったっていいだろうに。 と思ったが、よく考えてみると長門はいつだってメイド服姿だった。 着るものにさえ無頓着な奴が部屋の装飾に気を遣うはずもない。 俺はため息を吐きながらベッドの傍らに立った。 横たわっているのはこれが長門かと驚くような代物だった。 石膏で出来た白い身体。 埋め込まれたガラス玉の瞳。 髪は細い絹糸だった。 むき出しの関節は滑らかさの欠片もない。 「長門……こんなになって…」 思わず顔を顰めると、ぴくりと石膏の指先が震えた。 「もっと、言葉を掛けてください」 期待に満ちた声で古泉が言った。 「言葉って言われても…」 なんて言やいいんだよ。 困惑しながらも俺は長門の指に触れた。 石膏であることを主張するかのように、冷たい。 「あー……長門、聞こえるか?」 ぴくん、と指が動いた。 「俺はこの通り戻ってきた。前と全く同じってわけでもないが、それでもこれで、ずっとお前と古泉と一緒にいられるから、だから、寝てないでさっさと目を覚ませよ」 じんわりと指に熱が起こり始める。 俺は、隣りでじっと長門の変化を見守っている古泉に言った。 「お前も手を握れ。でもって、なんか言ってやれ」 「あなたがいれば僕は必要ないでしょう」 真顔で言った古泉に、俺はため息を吐く。 あほだ、こいつ。 「お前なぁ、曲がりなりにも長門の親なんだろ。娘が心配じゃないのかよ」 「それは、心配に決まってます。でも、彼女は僕に対して特に何も感じていないと思いますよ」 「違うな」 俺はきっぱりと断言してやった。 「長門はちゃんとお前のことが好きで、大切に思ってる。だから、ほら」 言いながら、古泉の手を掴み、長門の手と重ねるように握りこむ。 「お前だって、長門が大事なんだろ。だから、俺を生き返らせるなんて馬鹿なことまでしたんじゃないのか?」 「それは…」 「なら、ちゃんと言葉を掛けてやれ」 古泉は戸惑いながら長門の顔を見つめ、それから口を開いた。 「有希、お願いですから目を覚ましてください。僕はあなたに生きていて欲しいんです。研究のためや生活のためでなく、単純に、あなたとこれまでのように暮らしていたいんです。だから…」 言葉が途切れたのは、長門に劇的な変化が起きたからだった。 さっきまで人形そのものだった身体が柔らかな丸みを帯びた少女のそれに変わり、絹糸の髪が絹糸よりも艶やかなものに変わった。 ガラス玉の瞳は白いまぶたに隠され、それがまた開かれる。 透き通った目が古泉を見つめ、俺を見つめた。 薄桃色をした薄めの唇が開かれ、 「主も…あなたも、無事でよかった…」 長門の淡々と響く声が妙に懐かしく感じられて、俺も古泉も思わず笑みを浮かべた。 俺は長門の髪に触れ、 「長門、俺はここで世話になることになったんだ。これからよろしく頼む。料理を覚えてくるって約束は反故になっちまったが、新しい料理はふたりでなんとか頭を絞って考えるってことで、チャラにしてくれ」 「あなたがいてくれるだけでも、私は十分嬉しい」 そう言って長門は笑みと言えなくもない形にぎこちなく唇を歪め、 「…ありがとう」 と言った。 俺は笑みを返しながら、 「俺の方こそ、ありがとな。長門」 ともう一度長門の頭を撫でた。 長門がいて、古泉がいる。 俺の身体は変わっちまったが心までは変わってない。 それなら、これから始まる少しばかり奇妙な生活だって、悪くはないに決まってるさ。 |