古泉の住んでいる館は大きい。 壁にも柱にも細かな模様が彫られているのは元々の造りであり、魔術的な意味はないようだが、それもまたこの館のもつ怪しい雰囲気に一役買っていたことは言うまでもない。 館には広々とした庭もあり、古泉が育てているという花や木が常に花を咲かせ、実を実らせていた。 ここは通常空間と位相がずれている、とは長門の言葉で、現実とは少し違っているんです、とは古泉の言葉である。 どちらが解りやすいかと言われたら古泉の言い方のほうが解りやすいが、より詳しく、正確なのは長門の方だろう。 二人の言葉を総合し、かつ、古泉の図書室で漁った本を調べたことからして、どうやらこの館は庭ごと、普通の場所とは別の空間にあるようだ。 そのため季節がないばかりか、どこにでも出没できるらしい。 館から出たい時には、通常の空間に出口を開き、その姿を現すため、移動する館の伝説を生む原因となったようだ。 とりあえずの疑問が解決されて、俺は満足と共に本を閉じた。 それだけで埃が飛ぶようなそれは、古い魔道書だ。 古語で、それも恐ろしく回りくどい表現で書かれているから、クルースニクとしての修行の一環として、それを勉強していなければ全く読めなかっただろう。 「満足した?」 と尋ねてくるのは、ずっと俺についていた長門だ。 「ああ」 「それなら、部屋に戻って」 「まだ大丈夫だ」 長門は俺の体を心配しているのだろうが、あまりにも大事にされすぎてもくすぐったいし、少々調べ物をしたところで体調を崩しはしないだろうと、俺はそう言った。 だが長門は首を振り、 「今のあなたは自分で思っているよりもずっと虚弱体質になっている。無理は禁物。この部屋は粉塵の飛散量が多く、体に悪い。せめて、ここから出て」 長門に逆らうのは得策じゃない。 長門が哀しそうな顔をするだけだからな。 俺はため息を吐き、 「分かった」 と頷いて図書室を出た。 廊下の空気は図書室内のそれよりもずっと清浄で、胸が軽くなった。 なるほど、長門の言葉も間違ってはいないらしい。 俺は自分に宛がわれた部屋には向かわず、通いなれた廊下を辿ってサロンへ向かう。 一部がサンルーム仕立てになったその部屋にある、大きな揺り椅子が気に入っているのだ。 黒檀の古めかしい扉を開いてサロンに入ると、そこには先客がいた。 暖かな日差しの中、ゆったりと揺り椅子にもたれて眠っているのは古泉だ。 俺は苦笑しつつ、室内のソファに掛けてあったひざ掛けを手に取った。 それを静かに古泉の膝に掛けてやる。 呼吸は規則的で、いたって穏やか。 長門によると、そんな風に古泉が寛げるようになったのも俺が来て以来のことだそうだが、俺の何が関係しているのかはよく分からない。 ただ、そうやって過ごせるのなら悪いことじゃないんだろうと思いながら、俺はソファに腰を下ろした。 揺り椅子は古泉が起きてから占領させてもらうことにして、テーブルの上に置きっぱなしのチェスセットへ手を伸ばす。 当然のように俺に付き随ってきていた長門へ目配せをすれば、長門も心得たもので、俺の向かいに腰掛ける。 正直、長門を相手にチェスをするとコテンパンに負かされるだけなのだが、チェスの練習にはいいだろうと諦めている。 問題はもうひとりの対戦相手が全然強くなく、せっかく長門から学んだ戦略を使うまでに至らないことだ。 ここまでで、吸血鬼の特性について疑問を持ったならそれは正しい。 一般に吸血鬼は夜に出現するため、太陽の光に弱いとされている。 昼間に出没するのは力が強いものだけだとも。 だがしかし、それが間違った認識であることは、古泉がサンルーム付きの屋敷に暮らし、かつ、日の当たるカウチか揺り椅子で昼寝をするのが好きだということを見ればすぐに分かることだ。 古泉曰く、吸血鬼も元は人間であるため、日光に弱いということは特になく、夜に活動することが多いのは、獣や鳥に化けた時、どうしても黒い体になってしまう以上、夜闇に紛れた方がいいというだけのことだそうだ。 もしかすると、古泉のような研究バカの結果、宵っ張りになった奴も多いのかもしれないが。 実際、古泉は研究熱心であるらしく、魔術関係の蔵書にはどれも細かな書き込みがされているし、夜中に爆発音が聞こえてきたりもする。 夜型というわけでもなく、かといって昼型生活でもない古泉の生活は、言ってみれば、寝たい時に眠り、起きていたい時に起きている、という気まま極まりないものだ。 いい身分だな、と思うものの、敵に襲撃される心配もなく、食料は野菜と果物なら庭で自給自足出来、肉が欲しければ狩りに行けばいいだけ、という状況なら誰だってこうなるんだろう。 俺はまだ、少なくとも当分は、そんな風に気楽に暮らすことは出来ないだろうが、それでもここは居心地がいいと思う。 好きなだけ本を読み、ゲームをし、あるいは会話を楽しむ。 食事だって、十分美味いし、やりたければ自分で作らせてももらえる以上、何の文句もない。 全くもって優雅な生活だ。 「うぅ……ん…」 と小さく声を上げて古泉が目を覚ましたのは、俺の使っていた黒のキングがあえなく討ち取られたところだった。 丁度いい、と思いながら俺は体をねじって古泉の方へ顔を向けると、 「よく眠れたか?」 「…ええ、やっぱりいいですね。人の気配が近くにあるというのも」 そう言いながら、古泉は伸びをし、小さなあくびを漏らした。 「普通は人が近くにいたら寝辛いもんじゃないのか?」 「さあ、どうでしょう」 はぐらかすように笑った古泉は、 「僕は普通ではありませんからよく分かりません。ただ、静か過ぎるよりは多少物音がした方が落ち着けるということは、あなたにだってあるのではないでしょうか?」 それは否定しないでおこう。 大体、この館は静か過ぎて、夜中に目が覚めたりした時には不安にもなる。 無音というのが吹き荒れる風の音や獣の声よりもよっぽど恐怖を感じさせるとは、ここに来るまで知りもしなかった。 そんなところにずっと暮らしている古泉がそんなことを思っても不思議ではないだろう。 「それなのに、ずっと長門とふたりだったのか?」 俺が聞くと、古泉は苦笑しつつも頷いた。 「ええ。誰かと一緒にいられるなんて思いもしませんでしたし、そもそも人との係わり合いなんて、望んだこともありませんでしたから」 その言葉に俺は驚いた。 古泉は、懐くという言葉を使ったっていいくらい、俺を気に入っていたから、てっきりずっと寂しかったんだろうと思っていたからだ。 それに、そう言った古泉の声の冷たさにも驚かされた。 「吸血鬼なんてものになることを選ぶものは、大抵そんなものですよ。人一倍自尊心が強くて、目的のためには手段を選ばないほど利己的なものだからこそ、そんな方法を選ぶのでしょう。だから、他人なんてどうでもいいと思う。僕だって、そうでした」 そう言った古泉は悪戯っぽく笑って、 「…あなたに会うまでは」 と付け足した。 「からかうな」 俺は眉間に皺を寄せつつ、 「それなら、結婚しようとかも考えたことがないのか?」 「ありませんね」 余りにもあっさりとした調子で言うから、俺は思わず苦笑し、 「そりゃ、勿体無いな。お前みたいな奴なら結婚相手くらいよりどりみどりだろうに」 古泉は何故か一瞬驚きに眉を上げたが、すぐにいつもの笑みを取り戻すと、 「そうは言っても、僕は人ではありませんから」 「って言ったって、変な能力があるだけで後は大して人と変わらないだろ。お前が人じゃないなら、クルースニクである俺も人じゃないってことになる」 「あなたは人でしょう。ちゃんと年をとって、死を迎える。自然の循環の輪の中にいる以上、それは間違いのないことです。そして、そうであるからこそ、生きていると言えるのです。吸血鬼など、言ってみれば、既に死んでいるからこそ年もとらず、肉体の衰えも知らず、また自然に死に至ることもないのです」 「吸血鬼でなくなって、人に戻るってことは出来ないのか?」 俺が問うと、古泉は困ったように笑い、 「出来ません。死者を蘇らせるようなものですからね」 「ふぅん」 と俺は鼻を鳴らした。 俺がこうして、少しずつ吸血鬼についての情報を集めていることに、古泉は気がついているだろうか。 察しのいい奴だから、気がついていてそれを許してくれてる可能性も高い。 ただ、俺がどうしてそんなことをしているのかについては流石に分かっていないだろう。 別に、吸血鬼退治の役に立てたいとか、そういうことを思っているんじゃない。 単純に、吸血鬼について正しいことを知りたいと思っているだけだ。 クルースニクである俺でさえ、吸血鬼について知っていることは古い伝承や言い伝えにある、曖昧な情報ばかりだ。 その中に間違ったものがあったことは、今更言うまでもない。 ましてや、吸血鬼について詳しくない一般人が吸血鬼をいたずらに恐れ、吸血鬼を誤解していることなど、考えなくても分かることだ。 だから俺は、正しいことを知って、それを伝えたいと思う。 吸血鬼の大半が、伝承に言われるような悪人のなれの果てだったとしても、そうじゃない吸血鬼もいるということを、俺は知ってしまったんだからな。 そうして、誤解されていることを放っておけるほど、俺は古泉が嫌いじゃないんだ。 嫌っても不思議じゃないし、むしろ、憎んでもいいはずだろう。 実際、再会するまではずっと古泉を――自分の人生を変えた吸血鬼を、恨んでいた。 今、そうでなくなっているのは、勿論、あのまま村にいたのでは分からなかった様々なことを、旅の間に学べたということもあるし、そもそも村を追われた原因は俺の過失が大きいということもある。 だがそれ以上に、吸血鬼は単なる化け物じゃないと知ったことが俺の意識を変えたんだろう。 吸血鬼である古泉だって、人間と同じように感情を持ち、暮らしているのに、憎めるはずがない。 その知識量や筋道立てた考え方をするところは好ましいし、そうであればこそ、人の間にあっても生きていけるんじゃないかと思う。 吸血鬼に血を吸われても死なないのであれば、共生だって可能だろう。 人と吸血鬼の共生なんて夢のまた夢だろうが、これまでの諸々の誤解や的外れな怨みへの贖罪の意味もあって、俺は珍しくやる気になっているのだ。 もし実現すれば、この寂しがりの吸血鬼ももう少し暮らしやすくなるだろうしな。 「楽しそうな顔をして、何を考えているんです?」 と古泉が言った。 長門が座っていた場所に移動し、チェスの駒を初期位置に並べている姿はどこか子供っぽい、と思いながら俺は答えた。 「今夜は何を作ろうかと思ってな」 動けるようになって以来、俺は長門に手伝ってもらいながら、少しずつ料理をしていた。 ずっと使わずにいた手足を少しでも使って、早くもとの調子を取り戻したいというのが最初の理由だったのだが、今では長門に料理を教えたり、新しい料理を覚えたりするのが楽しくなってきている。 もちろんまだ体が万全じゃない以上、あまり大掛かりなことは出来ないし、日によっては途中で投げ出すこともあるのだが。 俺は白のポーンを進めながら、 「お前は何か食べたいものとかあるか?」 「そうですね…。先日作っていただいた桃のコンポートがまた食べたいですね」 「分かった」 しかし、と俺は小さく笑い、 「お前って食べたいもの聞くといっつも甘いものを言うよな。子供みたいに」 「長門さんが料理をしたりするようになるまではずっと生の果物ばかりで暮らしてましたからね。自然、好みも甘いものに変わったようです」 「…なぁ、ずっと疑問だったんだが」 「なんでしょう?」 「お前、実際いくつなんだ?」 見た目は俺とそう違うように見えないが、まさか16、7なんてことはないだろう。 なにしろ、十年前にも全く同じ外見だったんだからな。 好奇心を隠しもせずに身を乗り出す俺に、古泉は笑顔で答えた。 「そろそろ60が近いですね」 その時の俺の感覚をどう説明すればいいんだろうな。 不老不死の吸血鬼である以上、見た目通りの歳なんかではありえないと思っていたんだが、それにしたって、こんな子供っぽく落ち着きのない60なんて、ありえないだろう。 歳相応の人生経験を積んでないんだろうか。 それもありそうだな。 「そんなに驚かなくてもいいと思うんですけど…」 と苦笑する古泉に、 「で、吸血鬼になったのはいくつの時なんだ?」 「32、3の時ですね」 ………ちょっと待て。 つまりその外見は32歳頃のものだということか? 「ええ。吸血鬼になった時点で老化は止まりますからね」 それにしたって、若過ぎるだろう。 多く見積もっても20代半ばだと思ってたってのに、予想より上じゃないか。 愕然とする俺に、古泉は笑いながら、 「僕の親類は似たようなものでしたよ。割と若く見られるんです。僕の姉なんて、20歳を過ぎても15、6にしか見られなかったくらいですから」 「姉って……お前、兄弟がいたのか」 驚いた。 古泉の性格からして、てっきり一人っ子だと思っていたのに。 「もうずっと前に亡くなりましたけどね」 と古泉は寂しげに視線を伏せた。 吸血鬼である以上、そうして親しい人と別れるのは仕方のないことなんだろう。 仕方ないと思うだけで耐えられることじゃないはずだ。 それなのに、この人より寂しさに弱いらしい古泉がそうなる道を選んだ理由が気になった。 だが、俺はそれを問わず、ただ黙り込んだ。 聞くべきじゃない、そこまで立ち入ってはならないと思ったのだ。 俺もいずれはここを去る。 そうなれば古泉と今のように過ごすことはなくなるだろう。 たとえ、古泉との親交が続いたとしても、いつかは俺も古泉を残して老いて死ぬ。 その時のためにも、俺は吸血鬼に関する誤解を解きたいと思った。 「そろそろここを出ようと思う」 と俺が言ったのは、ここに担ぎ込まれてから既に三ヶ月以上が過ぎたある日のことだった。 それまでに俺が干し果物や干し肉といった保存食を作っていたことから察していたんだろう。 古泉も長門も驚きさえしなかった。 「そうですか…」 古泉はため息を吐くようにそう言い、 「残念ですが、仕方ないでしょうね。あなたにはこんな薄暗い館よりも、太陽の光の方ががずっとよく似合います」 薄ら寒い言い回しをするな。 そもそもこの館は言うほど暗くもなかっただろうが。 「こんな風に掛け合いを楽しむことももうなくなるんですね」 古泉はそう言って憂いに満ちたため息を吐いた。 「長門だっているだろ」 俺はそう本心から言ったのだが、長門自身が首を振った。 「感情の断片をやっと理解できるようになったばかりの私では不十分。私では役不足だろうけれど、それでも、あなたの代わりを少しでも努められるように、頑張りたい」 そう紡がれる言葉も、最初と比べるとずっとスムーズになった。 「お前なら大丈夫だな」 少しは不安が緩和された、と思いながら俺は言い、 「それから、さっきなんか言ってたけどな、」 こんな風に掛け合いがどうのとか言ってたやつのことだぞ。 「俺はお前のことを友人だと思ってるんだ。これっきりでもう会わないなんてことはするつもりはないから、覚悟しておけよ」 びしっと指を突きつけてやると、古泉は珍しく唖然とし、それから肩を震わせながら笑った。 「ありがとうございます。嬉しいですよ。あなたがそんなことを言ってくださるなんて、思ってもみませんでしたから」 お前は人を何だと思ってたんだ。 「そういう風にストレートな言葉を口にしたりしない人でしょう? あなたは」 「それはそうかもしれないが、俺だって言うべき時くらいは弁えてるつもりだ」 そう言っておいて、つい吹き出した。 「なんか、変だな。俺はずっとお前のことを敵だと思ってて、探し続けてたのに、今はこんな風に話せるんだから」 「そうですね…」 かすかに憂いの色を帯びた古泉の額を指先で弾き、俺は笑った。 「全部、お前のおかげだろ。ありがとな」 「……こちらこそ、ありがとうございます。何度言っても足りないくらい、あなたには感謝していますよ」 「それじゃあ、俺はもう行くから、出来れば俺の村から一日くらいの距離の場所に出口を開いてくれるか」 「ええ、それくらい、お安い御用です」 古泉が座っていた椅子から立ち上がる。 長門も伴って、庭に出て、更にその先にある鉄格子の門の前に立った。 出口を開くためにそれへ触れながら、古泉は俺を見ないようにしながら言った。 「何かあったら、今度こそ、僕の名前を呼んでくださいね。あなたがどこにいようと、あなたに何があろうと、必ず駆けつけて、最善を尽くしますから」 「ああ。約束する」 「お願いします」 金属の擦れる重い音を立てて、門が開いた。 その先に見えるのは懐かしい故郷の風景だ。 思わず目を細めた俺の袖を長門が引いた。 「長門?」 「…気をつけて。私も、またあなたに会いたいから……」 「…ありがとう」 俺は長門の髪を撫でた。 それだけじゃ足りない気がして、思い切り抱きしめる。 「今度会う時までに、もっと色々料理とか覚えてくるからな」 「楽しみにしている。私も、あなたのために色々なことを覚える」 「ああ。約束だ」 長門が頷いたのを見て俺は顔を上げ、ついでとばかりに古泉を抱きしめた。 「えっ…」 よっぽど予想外だったのか、驚いて声を上げた古泉に、 「本当に、世話になった。ありがとう、古泉」 そうしてぱっと手を放した。 「じゃあまたな」 出来るだけ明るく言って二人に手を振り、門をくぐった。 地面の感触は館の庭と変わりはしない。 ただ、吹きぬける風の匂いが違っていた。 俺は何度も館を振り返りながら村の方へと歩き続けた。 必要なものは全て肩に担いだ袋に入っている。 それなのに、なんでだろうな。 何か大切なものを忘れてきちまったような寂しさがあった。 古泉と長門の前では無理矢理にテンションを上げて虚勢を張ったものの、館の影さえ見えなくなったらそれさえ保てなくなった。 歩きながら、ぼろぼろと涙をこぼす。 それほどまでに、俺はあの穏やかな場所が好きだったのだ。 俺が望めば、古泉も長門も、俺をいつまでもあの場所にいさせてくれただろう。 だが、あの場所が好きだからこそ、それに甘えたくなかった。 本当の意味でやりたいことも見つかったんだ。 今度こそ、それを果たしたい。 それでも涙はなかなか止まってくれず、嗚咽を上げながら歩く俺を見ているものなどないのをいいことに、涙がこぼれなくなるまで、俺は泣き続けた。 |