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夏休みを目前に控えた、最後の土曜日。 私はお姉さんがよく眠っているのを確認して、お姉さんの部屋のクローゼットを開けた。 お姉さんを起こすまでまだ30分ある。 作戦の遂行には十分な時間。 それでも極力音を立てないようにしながら、私はお姉さんの服の中からいくつかを選んで取り出すと、クローゼットに鍵を取り付けた。 ……これでいい。 後はお姉さんをタイミングよく起こして、寝ぼけた状態のままシャワーを浴びさせればいい。 そんなことを考えながら、私はお姉さんに近づいた。 穏やかな寝顔も、最近になってやっと見慣れてきたもの。 以前はよくうなされていた。 特に、お姉さんが古泉一樹を好きになってからは。 お姉さん自身は気がついてなかったようだけれど、毎晩のように声を上げてうなされていた。 だから私は、それ以上お姉さんが苦しむ姿を見ていられなくて、あんなことをした。 お姉さんのためにはそれがいいと思っていたし、そうすることで確定される未来は悪いものではなかったけれど、万が一にも何かを間違えて、お姉さんに嫌われたらどうしようと、それだけが怖かった。 私にとってお姉さんは、私の存在理由と言ってもいいような人だから。 自分の力も、それを利用しようとする人も怖くて、頑なに殻に閉じこもっていた私を、殻を壊して引っ張り出してしまうのではなく、その殻ごと受け入れてくれた人だから。 私はもっとお姉さんに今を楽しんでもらいたいと思う。 やっと、自由になれたんだから、そうしたって誰にも責められはしないだろう。 何かあっても大丈夫。 私がお姉さんを守る。 私は手を伸ばし、春と比べると伸びてきたお姉さんの髪を撫でた。 また、切ってしまうのが勿体ない。 でも、それもまたお姉さんにとって必要なことなんだろう。 私はそろりとお姉さんの頬に触れ、それから肩に触れた。 「お姉さん、起きて。…もう朝」 「…ん……」 本当はもう30分ほど後に起こせば、お姉さんがすんなりと目を覚ますことは分かっていた。 でも、今日に限っては、それでは困るから、わざと早めに起こす。 「有希…もうちょっと、寝させて……」 「だめ。早く起きて、シャワーを浴びるべき」 「シャワー…?」 とろんとした目でお姉さんが私を見た。 私は頷き、 「今日、古泉一樹が来る」 「…え?」 まだ眠そうにしていたはずの目が大きく見開かれる。 「なんでだよ。今日は別に約束なんてしてなかっただろ」 「涼宮ハルヒの気紛れ」 と私は少しだけ嘘を吐いた。 本当は、先ほどからの私の行動も全て彼女の指示であり、計画だ。 私が嘘を吐くとは少しも考えに入れていないのだろうお姉さんには悪いけど、これも必要なことだから。 慌てて飛び起きたお姉さんは、 「何分後に来るんだ?」 「大体30分後」 「うわ、急だなまた」 慌てて部屋を飛び出していったお姉さんに私は小さく手を合わせた。 「…ごめんなさい」 それから、お姉さんが着替えも何も持っていかなかったので、用意しておいた着替えを抱えて脱衣所を兼ねた洗面所へ向かう。 ガラス戸を隔てた向こうでシャワーを浴びているお姉さんへ、 「着替え」 と言うと分かってくれた。 「悪い。わざわざありがとな」 「いい」 答えながら私は、お姉さんが着ていた下着類をまとめて洗濯機に放り込んだ。 とりあえず水をつけてしまえばもう取り戻そうとは思わないだろう。 あとのものは洗濯機の横のかごに入れて置いておく。 パジャマを着て外に出ようとは思わないはずだけれど……これでお姉さんに怒られるのはちょっと割に合わない気がするので、後で涼宮ハルヒに何か奢らせようと思う。 僕たち、つまり僕と涼宮さんと朝比奈さんが、彼女の家の玄関に到着したのとほとんど同時に、 「有希っ!! お前、何考えてんだよ!!」 という彼女の怒声が聞こえてきた。 涼宮さんの計画を知っている僕としては苦笑するしかない。 今頃彼女は裸のまま怒ってるんだろうな。 涼宮さんの計画とはつまり、今日に限っては何があろうとも彼女を女性として連れ歩きたいので、下着も含めた男物の服を全て鍵を掛けたクローゼットに押し込んだ上、女物の服を着るしかない状況を作ると言うものだ。 彼女を何より大切にしている長門さんが同意したのも意外だったが、本当に実行したのも驚きだ。 涼宮さんは満足げににやにやと笑っているが、朝比奈さんは困り顔を浮かべている。 「有希、黙ってないで説明しろ!」 怒声はまだ続いていた。 涼宮さんは少し考え込んでいたが、 「古泉くん、ちょっと行って説得して来てくれない?」 「僕が、ですか?」 「うん、そう。あたしが行ったんじゃ流石にまずいだろうし、みくるちゃんを行かせた日にはキョンが憤死するか、そうじゃなくても恥ずかしくて家から出てこられなくなっちゃいそうでしょ。だからお願い」 「困りましたね」 僕としても、彼女に嫌われたくはないんだけれど。 「いいでしょ、もし裸を見ちゃったとしても、彼氏なんだから許してもらえるわよ!」 と涼宮さんは遠慮の欠片もなく僕の背中を叩いて、僕を送り出した。 仕方なく、僕は家に上がりこむ。 「お邪魔します」 と声を掛けても返事はないが、問題はない。 ご両親はすでに仕事を始めていたので、先ほど神社の境内の方で挨拶は済ませておいたのだ。 そうして声のする方へ行き、戸を開けると、一糸まとわぬ姿の彼女がそこにいた。 「なっ…一樹!?」 絶句する彼女。 絶句するのは僕も同様だ。 いくら長門さんと小さい頃から姉妹同然に育ったにしても、腰にタオルくらい巻きましょうよ。 正直、妬けます。 我に返った彼女は慌ててタオルを体に巻きつけると、 「な、なんで入って来てんだよ!」 と僕を睨みつけた。 すみません、誘ってるようにしか見えないんで勘弁してください。 そんなことを口に出したら変態呼ばわりされることは間違いないので、なんとかそれを取繕いつつ、 「すみません、一応声は掛けたのですが…」 「それにしたって、いきなりなんだ。どうせまたハルヒ絡みなんだろうが……」 「ええ。…ほら、今度合宿に行くでしょう?」 「ああ」 言いながら彼女の視線がさ迷っているのは、タオルを巻いているだけの状態で僕と話すのが落ち着かないからだろう。 だからと言って僕を追い出さないのは、着替えをしたくないためであり、着替えたくないのは彼女が着たくない服しかそこにはないからだ。 僕としてもいい眺めなので、彼女が言い出すまで極力普通に振舞うことにする。 「そこにプライベートビーチがあると知った涼宮さんが、みんなで水着を買いに行きたいと言い出したんですよ」 「それでなんで俺がこんな目に遭わなきゃならんのだ」 と彼女は唇を尖らせ、 「今日は男物を着ようと思うのに、長門に聞いたらクローゼットに鍵を掛けたとか言うし、唯一取り出してあった服は下着まで女物だし」 「それも計画のうちだったんですよ」 すみません、と僕は口先だけで謝る。 女物を着るように説得するよりは鍵を掛けてしまった方が手っ取り早い方法だと僕も認めているのだ。 何しろ彼女は中々強情な人だから、一度こうと言い出すとそれを曲げるのに時間がかかる。 それくらいなら、こういった非常手段に出た方が楽なのは確かだ。 「涼宮さんは、あなたに是非女物の水着を着て欲しいんだそうです。だから、今日はなんとしてでもあなたに女性でいて欲しかったんですよ。長門さんはそれに協力しただけですから、そう責めないであげてください」 彼女は長門さんに目を向け、 「なんで、協力したんだ?」 「…お姉さんに、可愛い格好をして欲しかったから」 という長門さんの返事には僕も彼女と同じように目を丸くさせられた。 まさか長門さんがそんなことを言うとは考えもしなかったのだ。 「それに、」 まだ思考が停止したままの彼女に、長門さんは言い添える。 「そうすることがお姉さんにとってプラスになると考えたから」 そう言って僕を見るのは、どういう意味なんだろう。 とりあえず僕は笑みを浮かべ、 「僕も、あなたに可愛い格好をしてもらいたいと思うんですが、いけませんか?」 「いけなくは、ないけど…」 恥ずかしそうに顔を赤らめる彼女は、思わず抱きしめたくなるくらい可愛い。 「けど、俺が女物の水着を着たってみっともないだけだぞ。胸はないし、こ、こ、こ、股間に余計なものはついてるし」 「余計なものだなんて言わなくていいですよ。僕はあなたのそんな体のことも全てひっくるめて、あなたを愛してるんですから」 耳元に口を寄せて、囁くように僕がそう言うと、彼女はますます赤くなって、 「ゆ、有希の前で何言ってんだよ! ばか!」 と叫んだが、どう見たって照れ隠しだ。 「それに、最近の水着は色々なタイプがあるんですよ。あなたにぴったりの水着が見つかるまで、いくらでも付き合いますから、水着を買いに行きましょう」 「……」 黙り込んだ彼女の目を覗きこみ、最後の一押しだ。 「お願いします」 「……分かったよ。行けばいいんだろ」 と彼女はため息を吐き、 「着替えるからお前は出てけ」 と乱暴に僕を脱衣所から追い出した。 どうでもいいですけど、顔、赤いままですよ。 やっと出てきたキョンくんは、茶色のロングスカートに白のキャミソール、それから同じ白の薄い上着を羽織っていた。 可愛いというよりも、綺麗だと、女のあたしでも思うのはやっぱり、キョンくんが巫女さんだからそういうストイックなイメージの服装が似合うからなのかな。 あたしよりもよっぽど大人っぽくて素敵。 羨ましいな。 古泉くんとふたりで寄り添うように立っているところを見ると、本当にお似合いだと思う。 キョンくんが古泉くんを好きだって知らなかったとはいえ、この前は本当に悪いお願いをしちゃったな。 あの後謝ったらキョンくんは笑いながら許してくれたけど、罪悪感はまだ消えてくれないまま。 せめて今日は、あたしから何か買わせてもらおう。 物で誠意が示せるとは思えないけど、少しは罪悪感が軽くなると思うから。 「おはようございます、朝比奈さん。おはよう、ハルヒ」 まだ少し不機嫌そうな顔をしていたキョンくんが笑顔に戻ってそう言ってくれた。 あたしも笑顔を返しながら、 「おはようございます。今日はいきなりごめんなさい」 「いえ、いいですよ。とりあえず、納得しましたから」 本当にキョンくんは優しい。 そういうところがあるから、ハルヒちゃんもキョンくんを気に入ったんだろうなぁ。 それが友達としての好きなのか、あたしには分からないけど、多分、ハルヒちゃんも分かってないんだと思う。 ハルヒちゃんがキョンくんに、 「あんたもさっさと出てきなさいよ。往生際が悪いわね!」 「うるさい。俺は朝飯も食ってないんだぞ」 「女の子の格好してる時くらい女言葉で話しなさいって何度言えば分かるのよ」 「出来るか、そんなもん」 「全くもう…」 ぶつぶつ言いながらも、ハルヒちゃんは楽しそう。 あんな風にイキイキしたハルヒちゃんを見れるのも、全部キョンくんのおかげだと思うと、キョンくんにはどれだけお礼を言っても足りないと思う。 とりあえず、せめてものお礼と償いのために、 「よかったら、あたしに朝ごはん奢らせてください」 と言うと、キョンくんは困ったように、 「いや、そういうわけには…」 あたしはちょっと人差し指を自分の唇に当て、 「この前のお詫びもしたいんです。だから、ね?」 「……分かりました」 「ありがとう」 古泉くんが首を傾げながら、 「この前ってなんです?」 と聞くのへキョンくんは、 「うるさい。お前には関係ない」 とぶっきらぼうに言う。 キョンくん、そんな風に言ったら逆効果よ。 あたしが思った通り、古泉くんは眉間に皺を寄せた。 古泉くんにそんな顔をさせられるのも、キョンくんだからよね。 うふ、と笑ったあたしの近くでは、長門さんがハルヒちゃんに、 「私の分の朝ごはんはあなたが奢って」 「別にいいけど…なんで?」 「あなたの計画のおかげで私はお姉さんに怒鳴られた。その代償」 「…そうね。悪かったわ。難だったら水着もあたしがお金出そうか?」 「いい。お父さんとお母さんからお金を預かってる」 「そう。…そんじゃあ、まずは朝ご飯食べに行くわよ!」 とハルヒちゃんが言って、私たちは歩きだした。 あたしが歩く後ろを、みくるちゃんたちがついてくる。 一応お目付け役のみくるちゃんがあたしのすぐ後ろにいるのはともかくとして、キョンの左右をがっちりガードするみたいにして古泉くんと有希が歩いてるのって、なんとなく面白いわ。 今日はまだキョンが女の子の格好だからいいけど、男子の制服を着てる時もこんな風にキョンを挟んで歩くから、見てると結構面白いのよね。 キョンは少し前まで凄く不機嫌だったり、調子が悪かったりしたのもすっかり忘れたみたいな感じで、幸せそうにしてる。 笑ってるわけじゃないけど、長々と古泉くんと話したりしてるのを見てると、幸せを感じてることくらい、あたしにだって分かる。 羨ましい、と思うのは別に古泉くんと仲良くしているからじゃない。 そうやって自分のことを大切に思ってくれる人が近くにいてくれるキョンが羨ましいだけよ。 別に、あたしのことを誰も考えてくれてないなんて思ってるわけじゃないけど、あたしのためって言いながら色々と押し付けられるのにあたしはうんざりしてるの。 その分高校が楽しいからいいと言えばいいんだけど、夏休み中のことを考えると気が滅入るわね。 精々、みんなと会えるように何か口実を考えておかないと。 「で、朝ごはんはどこで食べるの?」 あたしが聞くと、キョンが、 「適当なところでいいんじゃないか?」 「適当って何よ」 「聞かれても俺はさっぱり分からんからな」 神社は小さいくせに、キョンは結構箱入りで育てられてるらしくって、思ったよりも世間知らずなのはあたし以外の誰しもが知ってるところだ。 ……まあ、世間知らずについてはあたしも人のことは言えないんだけどさ。 古泉くんもいいところの育ちみたいだし、有希もキョンと同様。 となると、頼れるのはみくるちゃんだけなんだけど、本当に頼りになるか考えると疑問ね。 「ハルヒちゃん、それは酷いわ」 反論できるの? 「あたしは別にお嬢様でもなんでもないから、結構外に出たりするでしょう?」 あたしのことを置いてね。 「ハルヒちゃんを見張っておかなきゃいけない立場のあたしが連れ出せるわけないじゃないですか」 「あーもー、泣かなくていいからさっさと連れてってよ」 「連れてくのは構わないんですけど、その前にひとつ教えてくださいね」 「何?」 「お父様に確実に怒られそうなところと辛うじて怒られなくて済みそうなところだったら、どっちがいいですか?」 あのばか親父はあたしが何をしたって怒るじゃない。 それなら確実に怒りそうなところってのに興味があるわ。 「やっぱりそうですよね」 とみくるちゃんは小さく笑って、 「じゃあ、ファーストフードでも食べてみましょうか。ハルヒちゃんは初めてよね?」 前に入ろうとした時に止めたのはみくるちゃんでしょ。 思い出しても腹が立つわ。 「キョンくんと長門さんは…」 「ない」 有希が即答して、キョンも頷いた。 「俺もありません」 「古泉くんはどうですか?」 「僕も食べたことはありません」 やっぱり、古泉くんも普通じゃないみたい。 こんなので大丈夫なのかしら、SOS団は。 でも、普通を知らないってことはこれからどんどん面白いことを知ることが出来るってことよね。 「じゃ、決まりね。みくるちゃん、案内よろしく」 「はい」 あたしはみくるちゃんを自分の隣りに呼んで、足を少し速めた。 今日はみくるちゃんだけじゃなくて有希とキョンにまで色んな水着を着せて遊べるのに、移動や朝ごはんにそんなに時間をとりたくなんかないし、何よりそうしただけでちゃんと足を速めてついてきてくれる仲間がいるのが嬉しい。 あたしは自然に笑みを浮かべていた。 |