第五話
開いたドアの向こうから現れたのは、今もっとも会いたくない人物だった。 どうせなら、長門かハルヒならよかったのに。 「こんなところで何をしているんです?」 朗らかに言いながら近づいてきた古泉は、俺が泣いていることに気が付くと、小さく息を呑んだ。 「どうしたんです!? 一体何が…」 「こいず、み…」 慌てて俺に駆け寄り、膝をついた古泉の腕を、俺は強く掴んだ。 「お前、一体誰が好きなんだよ…っ」 涙声がみっともなく響き、古泉が顔を強張らせるのが分かった。 古泉は俺と目線を合わせるように座ると、 「どうして……あなたがそんなことを知りたがるんです」 「…それ、は……」 答えられない。 古泉が好きだからだなんて、言えるはずがないだろう。 古泉にとって俺は男で、わざわざ転校してくるような破目になった原因ですらあったのに。 それに、許婚という前時代的な言葉が出てきたり、監視のためにわざわざ転校して来たりするということは、ハルヒの家同様、古泉の家もかなりの資産家なのだろう。 なんとなく察してはいたが、それならば余計に、古泉を好きになってはいけないと思った。 俺みたいな中途半端で、やっていることも怪しいことこの上ないような奴が、関わるのも古泉のことを思えばいいことではないに違いない。 そんなことを考えて口ごもった俺に、古泉は更に問う。 「それを聞いて……あなたはどうするのですか?」 分からない。 納得が出来る相手なら、俺だって涙を呑んで祝福くらいしてやれるだろう。 そうじゃなかったら、……俺はますます酷いことになる気がする。 「やっぱり、い…」 言わなくていい、と言おうとした俺を遮って、古泉が言った。 「聞いてください」 真剣な眼差しに体が震えた。 何を言われるとしても、俺にとっていい結果にはなり得ない。 だからこそ、怖かった。 怯えながらも、古泉から目が離せなかった。 初めて見た、怖いくらい本気の顔。 「僕が好きなのは……」 耳を塞ぎたいと思った。 それくらい、聞きたくなかった。 なのに、体が動かなかった。 「――あなたです」 世界が、停止した。 頭の中が真っ白になる。 今古泉はなんと言った? いやいやいや、音声としてはちゃんと聞こえた。 だがしかし、俺の耳に届いたあの音が俺の理解している意味と同じ意味である保証はない。 よく言うだろ。 英語圏の人間に掘った芋をいじくったかどうか聞くと今何時か教えてもらえるとか、バスから下りる時に揚げ豆腐というだとか、とにかくそう言う風に、聞き間違いや空耳だってあるわけだから、今のがそうじゃないとは限らないじゃないか。 な、だから冷静になれ。 なれ、と思うのに、顔はどんどん赤くなるし、頭もぼぅっとしてくる。 それなのに古泉は追い討ちを掛けるように、 「あなたが好きです」 そう言った顔が近くなる。 まだ動けないでいる俺の手を、古泉が握りこむ。 「…あなたも、僕のことが好き、…でしょう?」 心臓が止まるかと思った。 絶対何かの冗談だ。 こんなことがあるはずない。 からかわれてるだけだ。 何とかして誤魔化せ! 「な!? お、お前、何言って…」 「信じてもらえませんか?」 誤魔化そうとしたのを思いっきり封じられた。 そのセリフも、軽く目を伏せるのも、正直ずるいと思う。 再び黙り込むしかなくなった俺に、古泉は小さく微笑んだ。 「信じてもらえなくても仕方ないと思います。同じ男に突然こんなことを言われたら、誰だってまず正気を疑うでしょうからね」 同じ男に、と古泉は言った。 つまり、俺が半陰陽だと知らないまま、俺のことを好きになってくれたということなんだろうか。 高校に入学して以来、男として好きに振舞っていただけの、俺を。 ――好きという言葉をすでに半分以上信じようとしている自分に気が付いて、俺は痛いほど唇を噛み締めた。 そうでもしていないと、何を言い出すか分からない。 「すでに朝比奈さんから聞いているかもしれませんが、」 と古泉は苦笑しながら言った。 「僕があんな中途半端な時期に転校して来たのは、涼宮さんとあなたが親しくなったからです。涼宮さんは僕の親と彼女のご両親が決めた許婚なので、彼女が僕以外の異性と親しくしていることに不安を感じた僕の両親の命令で、僕はここに転校して来たわけです。その段階で僕が彼女に抱いていた感情としてもっともしっくり来るものがあるとしたらそれは、義務感と羨望でしょう」 なんで羨望なんか抱くんだよ、と俺が思ったのを見透かしたように、古泉は言った。 「僕は親の望むまま、優等生の姿を演じるしか出来ない臆病者ですからね。奔放に振舞える彼女には尊敬と言ってもいいほどの想いを抱いていたんです。あるいは、この不本意な婚約関係を彼女が解消してくれないかという望みも、抱いていたのでしょう。しかし、曲がりなりにも許婚である彼女が下手な男にひっかかっていたのであれば、止めないわけにはいかないと思って、初めてお会いした時には不躾なことをしてしまいました。すみません」 と古泉は軽く頭を下げた。 それは初対面時にじろじろと俺を見ていたことを言っているのだろう。 あの時には本当に、最悪の印象しか抱かなかったものだが、今では全く逆と言っていいような感情を抱えて呻く破目になっているんだから、人生ってのは何が起こるか分からない。 古泉は俺が黙り込んでいる理由が、俺が何と言っていいか分からない状態にあるからであり、また古泉の話を聞いていたいからだと正しく理解してくれたらしく、話を続けた。 「あの時は普通の人だと思ったんですけれど、一緒に過ごすほどに、あなたは特別な人なんだと分かりました。何をしていても穏やかで、誰がどんなことをしようが受け入れてくれるようで、涼宮さんがあなたと親しくなった理由はすぐに分かりました」 ハルヒの場合は単純に、お互いの境遇に共感しあっただけなのだが、それよりも、古泉が俺のことをそんな風に思っていたことに驚いた。 「でも、だからこそ、僕はこの想いを伝えてはいけないと思ったんですよ。あなたをこんな想いで悩ませてはいけないとも思いましたし、あなたの清廉さを穢してはいけないとも思いました。でも、それ以上に僕は、想いを告げることで、あなたの側にいられなくなるのが怖かったんです。それほどまでに、あなたの側は気持ちがよかったから。……まさか、それがかえってあなたを傷つけることになるとは、思いもしませんでしたが」 傷ついたということすら、見透かされていたと知り、愕然とする。 自分の感情を押し隠すのは得意だと思っていたはずなのに、それさえ出来ていなかったとは情けない。 あるいは……古泉に、気づいてほしかったのかも知れない。 口に出しては言えないから、気が付いてほしいと、無意識のうちに望んでいたのかも知れない。 「僕は、あなたがそこまで苦しむ理由を知りません。いくらかは、調べたり、長門さんに聞いたりすれば分かったでしょうけれど、そうしたくなかったんです。あなたの口から聞きたかったから。だから僕は、あなたのことを、あなたから聞いたことの他は知りません。その結果、どんなことが分かったとしても、僕のあなたへの想いは変わらないと保証します。…よかったら、教えていただけませんか。あなたが何を思い、何にそんなに苦しんでいるのか」 「俺、は……」 声が震えたが、言わなくてはならないと感じた。 古泉にここまで言ってもらって、このまま何も言わずにはいられないとも。 「…人を好きになってはいけなかった、のに…好きになったんだ…。お前の、ことを…」 そう言った瞬間の、古泉の表情を、俺は決して忘れない。 古泉は嬉しそうに頬を緩めて、俺のことを抱きしめた。 「本当に、僕のことを?」 「知ってたんじゃなかったのか!?」 驚いて声を上げた俺に、古泉は苦笑し、 「寝言で僕の名前を呼んでいましたし、他にもあなたを見ているとそうじゃないかと思えるようなことも多々ありましたが、僕の思い違いの可能性もあると思ってたんですよ」 寝言って何のことだ。 昨日のことか、それともそれ以前にやらかしてたのか? 焦りながらなんとか思い出そうとした俺の無駄な思考を止めるような言葉を、古泉が言った。 「でも……本当に、僕のことを好きなんですよね?」 俺はひっかけられたような気になりながらも、乱暴に頷いた。 すると更に強く抱きしめられ、 「嬉しいです」 喜色に満ちた声で言われた。 その言葉に嘘はないと分かるほどに、明るく弾んだ声だった。 胸の内が暖かくなっていくのを感じながら、俺はそろそろと古泉のことを抱きしめ返す。 本当に、いいんだろうか。 こんなに幸せになれて、いいんだろうか。 分からなくて怖かった。 それでも、その温もりを離したくなくて、俺はいけないと思いながら、その抱擁をただ受け入れた。 突き放されても、この温もりを覚えてさえいれば大丈夫だ。 だから、古泉が話してくれた分も、話をしよう。 「…古泉……」 「なんでしょうか」 「……俺の話も、聞いてくれるか?」 怖々と小さな声で言った俺に、古泉は頷き、 「場所はここでいいですか? それとも、中庭にでも行きましょうか」 ここでいい。 というか、移動する時間も惜しい。 「暑いですから、体調が悪くなりそうだったら言ってくださいね。まだ体の調子もよくないでしょうし」 皮肉か、と思ったが古泉は本気で心配してくれているらしい。 俺は思わず笑みを漏らしながら、 「休んでた理由も含めて、ちゃんと話すから、…聞いて欲しい」 と、長い話を始めた。 俺の力のことや体のことも。 中でも話し辛かったのは、俺の生い立ちのことだった。 何度も言葉を詰まらせる俺に、古泉はその都度、 「無理はしなくていいんですよ」 と言ってくれたが、今話さなければいけないとひしひしと感じていた俺は言葉を紡ぎ続けた。 ――俺は生まれてすぐ、神歌を歌った。 この世の全てを祝福する、古い神歌を。 当然驚き、怯える両親に接触したのが、うちの神社の奴らだった。 ご託宣だかなんだか知らないが、とにかくなんらかの方法で俺の誕生を知った奴らは、俺を神社に迎えるべく病院に押しかけて来たのだが、両親はそいつらを不審がる余裕もなく、ただただ不気味なことこの上ない俺を奴らに引き渡した。 だから俺に名前を付けたのも奴らだし、俺は自分の両親が今何をしているのかも知らないわけだ。 「それは、本当なんですか? その、あなたを引き取ったという人たちの創作ではなく?」 困惑気味に言った古泉に俺は頷き、 「その時のことだけは、覚えてるからな」 「生まれた時のことを、ですか」 「全部しっかり覚えてる。ただ、覚えているだけで、その時に自己主張まで出来たわけじゃない。出来ても泣き叫ぶくらいだ。両親は本当に俺を怖がってたから、あいつらの所へ行くことも、それでいい、逃げ出すまでもないと、思ったんだ。あの時はまさか、ここまで監視されるとは思わなかったしな」 それでもまだ、幼くて物を知らない頃はよかった。 あるいはそれも、行動範囲が狭くてよかったからかもしれない。 だが、成長するにつれ、自分の置かれた立場や体のことを知り、もっと多くを知りたいと思うようになり、閉じ込められた生活が息苦しくなった。 それを察してか、就学はさせてもらえたものの、そこでもやはり監視の目は厳しく、閉塞感はなくならなかった。 このままじゃ押し潰されると思ったからこそ、監視の緩やかだろう公立高校への進学を希望したのだ。 そのために苦労もしたが、そうしてよかったと思う。 「…お前に会えたから」 そう言って笑ったつもりだったが、ちゃんと笑えたのか、自信はなかった。 案の定、 「……それならどうして、そんなに辛そうなんです?」 と問われた。 うまく笑えなかったらしい。 「…俺には、分からないんだ。どうすればいいのか、どうすべきなのか、何も」 古泉と付き合うわけにはいかない。 俺は純潔を守らなくてはならない巫女で、古泉には婚約者がいる。 付き合うことが即ち純潔を失うことには繋がらないだろうが、途中で止められる自信はない。 きっと、一つ許してしまえば全て許してしまうに違いないからだ。 「あなたはどうしたいんです」 問われても、答えられるはずがない。 どうしたいかさえ、俺には分からないのだから。 「……古泉は?」 問い返すと、古泉は躊躇った後、口にした。 「…あなたとお付き合いしたいと思います」 「付き合って、どうするんだよ」 「あなたを縛るものから、あなたを助け出したいんです」 そんなこと、出来るはずがない、と俺は唇を歪めた。 あいつらが力を持っていることをこれまで嫌と言うほど味わされてきた。 どこへ行こうと逃れられないに違いない。 それなら、と考えて俺は自分がどうしたいかをやっと分かった。 それをそのまま口にする。 「……お前がいくら資産家の息子だとしても、俺をあの場所から解放させられるとは思えない。だから、せめて、」 声が震える。 「…せめて、出来るだけ長い間、お前の側にいさせて欲しい。友人として、でも」 「……残酷な言葉ですね」 分かってるから、そんなに辛そうに言わないでくれ。 それしか出来ないんだ。 俺がどんなに妙な力を持っていても、自分の宿命は変えられない。 自分の力をなくすことが出来れば、あるいは解放されるかも知れな…… 「そうか」 「どうしたんです?」 「そうだったんだ」 笑い声を上げた俺に、古泉が怪訝な顔をする。 気持ちは分かるがそこまで怪しまなくてもいいと思うぞ。 「古泉っ」 俺は勢い込んで古泉の手を握った。 それだけで顔を赤らめる古泉は見た目以上に純情だと思う。 「な、なんですか?」 「交わろう」 一瞬、古泉はその言葉の意味を把握しかねたかのようにぽかんとしていたが、次の瞬間、音がするかと思うくらい赤くなった。 「な、な、な、何を言いだすんですか!?」 「純潔を守れの何のと神官のジジィ共が言う以上、それを失うことで何かが変わるかも知れないだろ。そうして力がなくなれば万々歳だ。晴れて俺は自由になれる。力がなくならなかったとしても、それはそれでお前と付き合うことを止める理由が少しは減るはずだしな」 「そ、それにしたって、いきなり、どうして…」 「嫌か?」 ずいっと顔を近づけると、古泉が目をふらふらとさ迷わせながら、 「い、嫌とか嫌じゃないとかじゃなくて、付き合うことも許されないのにどうしてそんな…」 「付き合うとか付き合わないとかは関係ない。自由になれない限り、俺はお前と付き合うことも出来ないんだ。自由になれる可能性があるなら、俺は何だってする」 「何だって、と、言われても…」 「それに、」 と俺は顔を歪めた。 そうしたかったわけじゃない。 笑みを作ろうとして、またもや失敗しただけだ。 よっぽど痛々しい表情にでもなったんだろうか、黙り込んだ古泉に俺は言う。 「それが失敗して、別れさせられても、一度だけでもお前とひとつになれたら、それだけで俺は満足出来る。この先の長い一生を……耐えることが出来る。そう思うから…」 頼む。 たっぷりと時間を置いて、古泉の首が縦に振られた。 「…ありがとう」 「……いいえ」 「それじゃ、部室に行こう。ここじゃ流石に無理だろ」 「あ、当たり前です! 屋上でそんなことをしたいと思うんですか!?」 いや、まさか。 だが、部室でってのも嬉しくはないな。 「……部室に行こうというのは、部室ですると言う意味なんですか? 荷物を取りに行くとか、長門さんに相談をするとか、そういうことではなく?」 「他のところには行けないだろう。俺にはほら、」 と俺は自分の奥歯を指差し、 「こういう枷があるから、不自然に校外に出たらその時点で追っ手がかかる。だから、そうするしかないんだ」 「……忌々しいですね」 苦い表情で言った古泉に、 「まったくだ」 と頷きながらも笑みを浮かべられたのは、古泉が本当に俺のことを想ってくれているのだと改めて知ることが出来たからだ。 手を繋ぎたくなるのを堪えながら部室に戻ると、そこには長門だけが待っていた。 「ハルヒと朝比奈さんは?」 俺が聞くと長門は、 「帰らせた」 どうやったんだ、と思うがそれを聞いてる場合じゃないな。 「その、長門…」 じっと見上げてくる長門に、俺は赤面しながら言った。 「……色々、ありがとう」 「いい。…お姉さんの幸せが、私の幸せ」 それは無理をしているのでもなければ立て前でもないのだろう。 俺は長門を抱きしめて、 「…巫女であることを捨てようと思う」 「…そう。それがいいと私も思う」 「お前にも迷惑が掛かるかも知れない。それでも、やっちまっていいと思うか?」 「そうすべき」 その言葉に迷いはなく、強く俺の背中を押してくれるようだった。 「ありがとう」 もう一度強く抱きしめると、長門は古泉に向かって言った。 「お姉さんを、お願い」 「勿論です」 そう、古泉が力強く頷いてくれたことが嬉しい。 長門もそうだったのだろうか。 にこりと微笑んだ。 生まれて初めて見る長門の笑みに俺がぽかんとしている間に、長門は俺から体を離すと、 「日暮れまでに」 と言って出て行った。 「長門さんも笑ったりするんですね…」 驚いているらしい古泉がそう言うのに、 「俺もはじめて見た…」 と言うのがやっとだった。 本当に、そこまで長門が俺のことを考えてくれていることが嬉しくてたまらなかった。 同時に、古泉を選ぶのは間違いじゃないと保証されたようで、涙がぼろぼろと零れていく。 「どうして泣くんですか?」 「嬉しいからに、決まってんだろ…っ」 古泉のきれいな指が、零れ落ちた涙を拭う。 「泣いてるあなたも好きですよ」 「ば、か…」 「……愛してます」 頷いて目を閉じると、唇に柔らかなものが触れ、俺はぐっと近くなった体を抱きしめた。 幸せな思いと共に、俺は今度こそ、女になった。 |