第四話
俺の体は完璧と言っていいような半陰陽だと言った。 ただ、完璧と言い切れなかったのは、俺の体が両性共に成熟しきっていなかったからだ。 今までの俺はどちらかと言うと男に近かったからか、初潮も来ていなかった。 これで完璧と言えるようになっちまったわけだな。 神官のジジィ共はそれを喜んで、またぞろ怪しげな集会を企画しているらしいが、俺には関係ない。 俺が気になっているのは、俺には来ないままなんだと思っていたそれが来た理由だ。 一体なんで、今更、それもあんなタイミングで来るんだよ。 「兄さんは既に分かっている」 長門に言われ、自分の顔が泣きそうに歪むのが分かった。 「兄さんの体は不安定。でも、だからこそ、兄さんの心と同期をとる。それより、」 と長門は小首を傾げながら俺の顔をのぞきこみ、 「今日も……行かない?」 かくん、と俺が首を縦に振ると、長門は困ったように少し息を吐き、 「もうすぐ期末試験」 だから行っておけというのだろう。 確かにテストを目前に控えて登校拒否というのもいただけないかも知れない。 それでも――行きたくないのだ。 行って、古泉の顔を見たら、俺はきっとまた、おかしくなってしまう。 あの時みたいに、涙が止まらなくなって、下手をすればあの時より悪いことに、わけの分からないことを口走ってしまう気がする。 そうやって、あいつに迷惑を掛けたくない。 だから、…行けない。 この感情をコントロール出来るようになるまでとは言わない。 せめて、いくらかだけでも押さえ込めるようになるまで、時間が欲しい。 ぼそぼそと、そんなことを言った俺を、長門がいつになく厳しい目で見つめた。 「それなら私だけで行ってくる」 「え!?」 すっと立ち上がった長門を目で追うと、長門は機械みたいな目で俺を見下ろし、 「お姉さん」 と、今俺が呼ばれたくないと思っていた呼称で俺を呼んだ。 「あの時私はわざとお姉さんと彼から離れた。そうすることが最善だと思ったから。これまで学校に行くよう勧めてきたのも、同じ。私は何が一番いいか考えて動いている。だから――今日も、そうする」 「待っ…」 長門は俺に背を向けて歩いていき、そのまま後ろ手に襖を閉めた。 俺は呆然として、動きもしない襖を見つめるばかりだった。 この場合俺は、これを長門の叱咤激励として受け取り、急ぎ長門を追いかけるべきなんだろうか。 それとも、長門があそこまで言うほど、学校に興味を抱いたことを喜ぶべきなんだろうか。 しかし俺にはどちらも出来ず、ただ、長門にすら見捨てられてしまった自分の不甲斐無さを嘆きながら、あの時のように膝を抱えて涙を流した。 そんなところまで、俺は既に女になってしまっているようだった。 俺は男女の両方だったはずなのに、片足立ちでもしているように、重心がずれて感じられる。 早くもとの調子に戻らなければいけない。 そう思いながらも、涙は止まらず、暴走する思考も止まらなかった。 止め処なく溢れてくる想いは、自分がどれだけ古泉を好きだったのかということを自分自身に見せつけるようなものばかりだった。 古泉とゲームをするのが楽しいと感じたのは、その間は古泉を独占出来るからだ。 他の時はともかく、少なくともゲームをしている間だけは、古泉は俺のことを考えていてくれる。 ゲームをしていれば、ハルヒも大抵邪魔をしてこなかった。 自分の体のことや役目のことなども忘れて、目の前にいる古泉のことだけ考えていればよかった。 だから、あんなにも楽しかった。 人を好きになってはいけないと俺に言ったのは、一体誰だったんだろう。 言っていた人の顔さえ思い出せないが、その言葉は真理のように思えた。 人を好きになってしまったから、こんなにも苦しい。 古泉に好きな人がいると知ったから、余計に辛くてたまらない。 苦しくて、悲しくて、神歌さえ歌えなくなってしまった。 そんな俺に、果たして存在意義があるんだろうか。 神歌が歌えればまだ、この想いを消すことが出来たかもしれないのに。 俺を閉じ込めようとしたジジィ共は、ある意味で正しかったのだろう。 閉じこもっていれば、こんな感情を知ることもなかったからな。 大人しくしていればよかった。 一人でいればよかった。 今更悔やんでも仕方がないと思うのに、止まらない。 それは知ってしまったこの感情を消せないからなんだろう。 古泉を想うと苦しくなるのに、それ以上に、あの笑顔や仕草を想い出すだけで、胸の内が暖かくなるように思える。 これが、好きという感情なんだろう。 同時に、湧き上がってくる嫉妬と呼ばれる醜いものがなければ、知ることが出来たことを喜べたかも知れない。 それほど、心地よい感情。 だからこそ捨て切れない苦しみに変わるんだと、知ってしまった。 ――ああ、いっそ、女として高校に入学していればよかったのかも知れないな。 そうすれば、古泉を好きになっても、望みがあっただろうに。 俺はのそのそと衣装を入れてある箱に近づくと、蓋を持ち上げた。 中には衣装だけでなく、俺の髪で作ったかつらも入っている。 祭祀の時しかつけないはずだったそれを頭に載せて、鏡台に向かう。 かつらを載せただけだと、「キョン」の顔にしか見えないことにため息を吐きながら、置きっ放しの化粧道具に手を伸ばした。 祭祀の時よりもよっぽど慎重に白粉を伸ばし、紅をつける。 時間は持て余すほどあるんだし、集中して化粧をしていれば、嫌な事を少しでも忘れられるだろうと、俺は見せるあてもない化粧を施し続けた。 「う……濃い…」 出来上がった顔を見て、思わず呟いたが、わざわざ落とすのも面倒臭い。 というか、もう部屋からすら出たくない。 俺は敷きっ放しになっていた布団の上にぽすん、と横になるとそのまま目を閉じた。 着物が皺になろうが知るもんか。 せめて夢の中では穏やかでいられるよう願いながら、眠りに落ちた。 …古泉……。 「お姉さん、起きて」 と長門の声がして目を開けると、目の前にあるのは何故か古泉の顔だった。 ……なんでだよ。 まだ夢でも見てるのか? 「夢じゃありませんよ」 と古泉が笑った。 困ったように、いくらか顔を赤らめながら。 この顔は見たことがない。 見たことのない表情を夢に見られるほど俺は器用じゃない。 ……ということは、夢じゃないのか? 俺はばっと飛び起き、ついでに古泉から距離を取った。 その拍子に乱れた裾を直す。 俺の顔はもうわけが分からないくらい真っ赤になっているに違いない。 いや、化粧が濃すぎて分からない可能性もあるが。 俺は言葉もなく長門を見つめた。 長門はいつも通りの表情で、 「連れてきた」 「な、なな、なんで!?」 「その必要があったから」 そう言って長門は立ち上がり、 「私からは何も説明していない。お姉さんがするべき」 とだけ言い残して、出ていってしまった。 呆然とそれを見送った俺に、古泉が困ったような笑みを浮かべて言った。 「えぇと…どうしましょうか」 「俺の方こそ聞きたい…」 と頭を抱え込んだ。 本当に、長門は俺に何をさせたいんだよ。 古泉にこんな姿を見られて……って、今、俺、古泉と二人っきりなんだよな。 ど、どうすりゃいいんだよ。 「あの、」 「ひっ!?」 思わずびくっと竦み上がった俺に、古泉は一瞬傷ついたような顔をした。 それなのに、俺がしまった、と思うより早くそれを引っ込め、苦笑に変える。 「驚かせてしまってすみません。体の具合はよろしいんですか?」 「体の具合って…」 「ここ数日、お休みされてたので、心配していたんですよ」 「…あぁ、そっか……」 そう呟きながら、俺は笑みを浮かべた。 嬉しさと、困惑に。 あの時差し出された手を振り払った理由や、今俺がこんな格好をしている理由など、俺に聞きたいことならいくらでもあるだろうに、古泉はそれを聞こうとさえしないでいてくれる。 その優しさが嬉しくて、愛おしい。 でも、だからこそ、困ってしまう。 古泉に甘えてしまっていいはずがないのに、優しくされると、頼ってしまいたくなる。 そうしていいと、錯覚してしまいそうになる。 俺は出来るだけ平静を保つように気をつけながら、古泉に言った。 「心配掛けて悪かったな。…もう、大丈夫だから」 「じゃあ、明日はいらっしゃるんですね?」 「――ああ、そのつもりだ」 大丈夫だろう。 今だって、こうやって古泉と普通に話せるんだから、暴走はしなくて済むはずだ。 そう思いながら俺は言ったのに、古泉はふわっと微笑み、 「よかった」 とまるで独り言のように呟いた。 「…よかったって……」 なんでお前がそんなに喜ぶんだよ。 驚いた俺に、古泉は取繕うように微笑した。 「放課後、あの部屋であなたと一緒に過ごすのは、僕にとっても楽しい時間ですから」 その言葉には、おそらく他意はない。 そう思うのに、嬉しくてたまらない。 こんな風に優しく、嬉しい言葉をくれるから、俺は古泉を好きになったんだろう。 涙がぼろぼろと零れ落ちていく。 「ど、どうしたんですか!?」 慌てる古泉に、笑みを見せ、 「なんでもない」 と言う。 ただ、少しだけ、甘えさせて欲しい。 古泉に俺を好きになって欲しいとは望まない。 だから、今、ほんの少しだけ。 俺は手を伸ばして古泉の体を抱きしめると、その肩に顔を埋めた。 古泉は困ったように手をさ迷わせていたが、少ししてから、その手をそっと俺の背中に回してくれた。 落ち着かせるように。 俺を受け入れてくれるかのように。 古泉にしか聞こえないよう、俺はぽつぽつと説明した。 俺と長門がここの巫女であることだけを。 自分の体や力のこと、生い立ちのことまでは話せなかった。 ここまで来ても、古泉に軽蔑されたり、嫌われることが怖かったのだ。 だから当然、古泉への想いも口にはしなかった。 それでも、じっと話を聞いてくれる古泉に、あんなにも荒れ狂っていた心が落ち着くのが分かった。 もう大丈夫だと思った。 二度と、あの恐ろしい感情の嵐は訪れないだろう。 何があっても。 「聞いてくれて、ありがとう」 俺が言うと、古泉はいつもの笑みで頷いた。 「どういたしまして。僕でよろしければ、いくらでもお付き合いしますよ」 「そういうセリフは俺じゃなくて好きな子に言え」 自分でも驚くほどすんなり、そんな言葉が出た。 古泉は苦笑し、 「そうかもしれませんが、本心で言ってるんですよ? これくらいであなたが楽になるなら、僕はいくらでも時間を割きます」 「…ありがとう。――お前と出会えてよかった」 「僕の方こそ、あなたに会えてよかったと思っていますよ」 それが社交辞令でも嬉しいな。 「本当ですって」 「分かった分かった。それより、そろそろ帰った方がいいんじゃないか?」 気がつけば、日が暮れかかっている。 長門は古泉が部室に来るなり連れてきたらしいから、随分長い間話していたことになる。 「そうですね。……では、また明日、学校で」 「ああ。気をつけてな」 古泉を部屋の出口まで見送ると、長門がそこに立っていた。 「門まで送る」 と言う長門の頭を撫でて、 「頼んだぞ」 そうやって、送り出すことが出来た。 それもこれも、古泉と一応ちゃんと話せたからなんだろう。 しばらくして戻ってきた長門に、 「心配どころか、面倒を掛けて悪かったな。すまん」 と頭を下げると、長門はいつものように俺の側に座って言った。 「いい」 「…ありがとう、長門」 「……どういたしまして…」 俺はその頭をもう一度くしゃりと撫でると、 「明日からテストだったか? 悪いが、勉強教えてくれ」 「任せて」 「任せる」 そう普通に笑えた。 本当にもう大丈夫なんだと思った。 翌朝教室に顔を出すと、ハルヒがぱっと顔を輝かせた。 「キョン! もう大丈夫なの!?」 「ああ、心配掛けたな」 「全くだわ。SOS団の貴重な活動時間を無駄にした代償は大きいんだから、今度の探索の時にはあんたの奢りになると思っておきなさい」 それくらいは覚悟の上だ。 「それで、本当に大丈夫なんでしょうね?」 大丈夫じゃないように見えるか? 「テストだからって無理してきたんじゃないかと思ったのよ。でも、あんたならそんな風に考えたりはしないわよね」 むしろ、調子が悪いのを言い訳にしてサボるくらいはしそうだな」 「自分で言ってんじゃないわよ」 と笑うハルヒに、ほっとした。 そんなふうに暖かな感情を抱けるということはつまり、俺はハルヒを嫌いにはなれないということなんだろう。 古泉の片思いの相手は、多分、ハルヒだ。 古泉はハルヒにだけ気を遣っているようだったし、あの時の言葉にも、ハルヒが当てはまるように思えた。 けれど俺は、ハルヒに嫉妬したりしない。 見も知らぬ相手よりは、ハルヒの方がずっといい。 そう心の底から思った。 「お話しがあるんです」 と俺が部室に入るなり言ったのは、朝比奈さんだった。 ハルヒに指定されているはずのメイド服に着替えることもなく、いつになく真剣な顔をした彼女に俺は、 「えぇと、俺に…ですか?」 「そうです。一緒に来てもらえますか? 出来れば、ひとりで」 俺は隣りにいた長門に目を向けた。 長門は無言で頷き、部室内の指定席に腰掛ける。 「屋上へ行きましょう」 と言われ、朝比奈さんについて歩きだした。 彼女が俺に話がある、というのが分からない。 それも、あんな真剣な顔で言ったんだから、不真面目な話や浮かれた話ではないだろう。 真面目な彼女にとって重大な何かがあったのだ。 屋上に上がり、人が他にいないのを慎重に確認する彼女に、俺は尋ねた。 「朝比奈さん、一体どうしたんですか?」 「…ハルヒちゃんと古泉くんのことで、話しておきたいことがあるの」 その言葉に俺はどきりとした。 朝比奈さんも、古泉がハルヒに片思いをしていると気がついていたのだろうか。 しかし、朝比奈さんの口から出たのは、それ以上に驚かされる言葉だった。 「これは、他の人には言わないでほしいことなんだけど……」 なんでしょう。 「――ハルヒちゃんには、生まれた時に決められた許婚がいるの。ハルヒちゃんは嫌がって相手に会いもしないどころか、名前を覚えてもくれないんだけど、でも、ご両親は乗り気なの。相手方のご両親もね」 それがどう古泉に繋がるんだ、と思い掛けたが、まさか、 「その相手って言うのが古泉なんですか」 朝比奈さんは頷いた。 なんだ、それなら古泉は悩まなくていいんじゃないか。 それとも、古泉は許婚がハルヒだと知らずにいるんだろうか。 そんなことを考えた俺に、朝比奈さんは言う。 「古泉くんは知っているはずなの。だからこそ、ここに転校して来たんだろうし」 「…どういう意味です?」 「ハルヒちゃんが同じ年頃の男の子と仲良くするのは初めてのことなの。だから、あたしもはじめ、ハルヒちゃんがキョンくんのことを話していた時はびっくりしたわ。それも、あんなに楽しそうに」 と朝比奈さんは目を細めた。 「あたしは、正直言って、生まれた時から許婚を決めるなんて、いいことだと思っていないの。特に、あのハルヒちゃんだから。もちろん、これはあたし個人の考えですけど」 だから、と朝比奈さんは少しその表情を曇らせた。 「古泉くんが転校して来たのは、あたしがそんな風に思っていることを気付かれたからかもしれません。あたしじゃ、監視の役目に足りないと思われたのかも…」 「えぇと、つまり、なんですか。古泉はハルヒと俺が付き合わないよう見張るために転校して来たってことですか?」 「それと、ハルヒちゃんとの顔合わせの意味もあると思います。お見合いみたいな場所をセッティングしたところでハルヒちゃんは顔を出さないでしょうし、顔を出したところでいい印象を抱いたりしないと、キョンくんも思うでしょう?」 それは、まあ、そうでしょうね。 「それで、本当にハルヒちゃんが古泉くんを好きになるなら、それでもいいと思うんです。でも、知らない人よりはいいって、流されるみたいに決めちゃったらと思うと嫌で……だから、あたしは、キョンくんに賭けたいと思ったんです」 そう言って朝比奈さんは俺の手を握りしめた。 「今は多分、ハルヒちゃんのことをそういう風に見ていないと思うけど、でも、考えてみて。ハルヒちゃんはきっと、キョンくんのことを憎からず思っているから」 そうしてぽかんとしている俺をおいて、朝比奈さんは屋上を出て行ってしまった。 俺をひとりで残したのは、俺を見捨てたのではなく、俺に考える時間を与えたかったのだろう。 そう思うのだが、しかし、今の俺に考える時間というものは不要でしかなかった。 古泉とハルヒが許婚同士だというなら、古泉がハルヒに片思いをするはずがない。 勿論、ハルヒが古泉の思いに気が付いていないという意味でなら片思いだってありうるだろうが、この場合は違う。 古泉ははっきりと言っていた。 『その人を好きになったとは決して言えない』と。 許婚ならそんな言葉は言わないだろう。 逆に、古泉の片思いの相手がハルヒ以外なら、この言葉は恐ろしくしっくり来るわけだ。 許婚がいる以上、他の相手に思いを告げることは立場上難しいだろうからな。 胸の内を渦巻くどす黒い感情から、俺は逃れられないのだろうか。 古泉とは友人として付き合っていければいいと納得したはずなのに、相手がハルヒではないと分かったら、またもや嫉妬が湧き上がる。 これが古泉への恋愛感情ゆえなのか、はたまた、古泉が同じSOS団の仲間だと言うことからきているのかさえ、分からない。 俺はずるずると床に座りこんだ。 立ち上がる気力もない。 頬を伝う涙を拭うことも出来ない。 ただひたすら、古泉を虜にした誰かを恨んだ。 もし、歌えたなら、酷い呪歌を歌っていたに違いない。 そうして自分の身や心が穢れてもいいと思った。 その時、屋上にある唯一のドアが軋みながら開いた。 あるいはその時、全てが決まったのかもしれない。 |