小野大輔氏のミニアルバム「ひねもす」発売記念として、
以前ブログで連載したものです
気持ちよく惰眠を貪って、目を覚ました。 随分と高くなった日を見上げながら思うことは、古泉のことだ。 今頃何をしているんだろう。 俺じゃないからもう起き出してはいるんだろうが、全くのフリーな時間にあいつが何をやっているのか、俺には想像も出来ない。 真面目に勉強をしているんだろうか。 それともやっぱりボードゲームを弄っているんだろうか。 まさか、日曜のこんないい天気の日にはハルヒも閉鎖空間を発生させてはいないだろう。 根拠もなくそう思ってしまうのは、閉鎖空間が発生するたびにあいつのことが心配になるからだ。 いつだったかに聞いた時には「見た目ほど危険でもないんですよ」と笑っていたが、あいつが笑顔で嘘を吐くことを、俺は知っている。 それは機関の関係で必要な時もあるが、それよりも俺に苦しい思いをさせるのは、あいつが優しさゆえに吐く嘘だ。 俺に心配を掛けまいとして、嘘を吐いて、結果として余計に心配させていることに気が付きもしない、不器用な奴。 ため息を吐き、昼食としか言いようがない朝食を食べに台所へ向かう。 冷え切ったそれを食べながらぼんやりしていると、思考は勝手に古泉のことばかりになる。 生活能力の低いあいつのことだから、どうせ今日もロクな物を食べてないんだろうな。 宇宙人の長門と違って人間だってのに、どうしてあいつはああも食事に注意を払わないのだろうか。 学校がある日はいつも食堂で済ませているようだが、朝と夜はどうしてるんだろうかと思うほど、あいつの部屋の冷蔵庫はいつも空っぽで空しく冷えている。 一日外食や弁当で済ませているとしても不思議じゃない。 体に悪いと分かっているのかいないのか。 食事に限らず、あいつは妙に刹那的に生きているように見える時がある。 だからこそ心配している俺のことなんざ、全然分かってないんだろうがな。 ふぅ、と本日二回目のため息だ。 食べ終えた皿を流しにつけ、自分の部屋に戻る。 試験前でもなければ宿題も出ていない以上、俺が教科書を開いたりするわけもなく、テレビの前に陣取ってゲームをする。 反射神経に任せて惰性でボタンを押しながら、古泉はこういうゲームをするのかね、と思った。 あいつの口からテレビゲームの話題が出るところなど見たこともなければ想像もし難い。 ただ、以前コンピ研の連中がシミュレーションゲームを持ち出して来た時に「この手のゲームは不慣れ」というような発言をしていた記憶がある。 それがシミュレーションゲームについてなら古泉はテレビゲームもしくはコンピュータゲームをそれ以前にやったことがあるということになるんだが、あれはどっちの意味だったんだろうな。 あいつの部屋にはそんな設備は一切見当たらなかったが、コンピュータゲームの場合は外観だけでは分からないし、俺たちの世代なら三年前以前にゲームを持っていても不思議じゃないだろう。 今度、覚えていたら聞いてみよう。 というか、冷静になってみるとしばらく前のあいつの発言を記憶している時点で自分が気色悪くて堪らないのだが。 それからもまあ、そんな感じで一日を過ごしてしまった。 夕食の時には昼食とほぼ同様で、妹と遊んでやればあいつに兄弟はいるのかとか考えてしまったし、風呂に入った時に至っては、築ウン年の自分ちの風呂の比較対象としてあいつの部屋の小奇麗なバスルームを思い出し、ついでにあいつの部屋のバスルームを使用する破目になった原因となる事柄を思い出して風呂場でひとり赤面したりもした。 夜寝る時も同じだ。 冷えた布団に入りながら、あいつの体温を思い出したなんて口が裂けても言えやしねえ。 一日中、朝から晩まであいつのことばかり、よく飽きもせずに考えてられるものだと自分でも呆れた。 ……あいつも少しぐらい、俺のことを考えたりしたんだろうか。 |
あれは、いつ頃のことだったんだろう。 初めてまともなデートをした日。 季節も思い出せないくらい、彼を見てばかりいた。 男同士だからと体面を気にして嫌がる彼を強引に誘ったのは僕だったのに、いつも約束の時間直前にくるはずの彼が、待ち合わせの時刻より三十分以上も早く待ち合わせ場所に行った僕を待っていた。 「お待たせしてすみません」 「別に、大して待ってない」 そう言った彼の耳が寒さで赤くなっていたから、冬のことだったのかもしれない。 彼の場合、耳が赤くなった理由が寒さ以外にあるような場合も多いのだが。 「珍しく、」 と、かなりの間待っていたのだろう彼に僕はつい、憎まれ口を叩く。 そうすれば決まって彼はキツイ言葉を返してくれると分かっているから。 僕は、彼との会話が楽しくてしかたないのだ。 「今日は早かったんですね」 習慣で作り笑顔を浮かべ、敬語を崩せないままの僕に、 「人を遅刻魔みたいに言うな」 と彼は怒った顔をしていた。 そのくせ、怒る以上に喜んでいるのが愛おしくて、彼の手を握った。 振り解かれるかと思ったそれは繋がれたままで、虚を突かれた思いの僕の手を引いて、彼は歩きだす。 「手を繋いだままでいいんですか?」 尋ねた僕を呆れたように振り返り、 「離して欲しかったのか?」 「違いますけど……てっきり、振り解かれるものと思っていたので」 「ただの友達同士でも手ぇ繋いで歩いてる奴等くらいいるぞ」 「そうでしょうか」 僕の疑問を他所に、彼は顔を少し赤らめ、 「いいから、手くらい貸せ。寒いんだ」 「手袋をお貸ししましょうか?」 善意から言った言葉に、彼は余計に苛立ったらしい。 「お前は黙ってろ」 顔を赤くして、噛みつくように言うその表情や声さえ愛しくて、思わず笑みを漏らした。 その日行ったところも、僕は思い出せない。 彼と二人でいられるという、そのことだけが嬉しくて、頭に焼きついて、離れない。 キスもしなかった。 抱きあうこともしなかった。 それでも僕は満ち足りた気持ちで、彼も満足していた。 たまにはこんなのもいいと笑って、また行きたいと約束をした。 最後に別れた時も彼ははにかむような表情で、 「またな」 と言ってくれた。 それなのに、今、僕は彼の側にいない。 彼の側にいられない。 謝ることも、わけを話すことも出来ないまま、僕は彼から離れた。 それが最良の選択だと信じた。 それは今も変わらない。 あれ以外に方法はなかった。 だけど、僕は未だに彼を忘れられない。 彼を裏切ったことを忘れられない。 守ることも支えることも出来ずに去ってしまった自分の不甲斐無さが許せない。 彼はまだ僕を覚えているんだろうか。 いつまでも忘れずに願ってしまう身勝手な自分にも、彼の幸せを願ってやまない偽善的で嘘吐きな自分にも、嫌悪感ばかりが募る。 一度も彼の名前を呼ばなかった。 呼べなかった。 彼も僕の名前を呼んでくれなかったのは、どこかで僕の覚悟のなさを分かっていたからかもしれない。 想像の中の彼は優しくて、現実の彼も酷く優しくて、会うたびに泣きそうになるのを堪えていた、あの頃の自分に会えるなら、会って、一発どころでなく殴ってやりたい。 彼に甘えてばかりいた弱い自分を。 いつか、再びあの街へ行ける時がきたら、曖昧な記憶を辿って、彼と歩いたところをひとりで歩こう。 僕の隣りに立つ人はもういないし、要らない。 それが僕なりの勝手な罪滅ぼしでもある。 でもそれ以上に、僕は彼を忘れられない。 彼を本当に愛していたと、今頃になって気がつく、愚かな僕だけれど。 |
昨晩、俺のところへかかってきた電話は、古泉が怪我をしたことを告げる、古泉本人からの電話だった。 「怪我の療養のため、数日休むことになるかもしれないので、フォローをお願いします」 とかなんとか、珍しく気弱そうな声で言っていたから、俺はよっぽど見舞いに駆けつけようかと思ったのだが、その本人が今現在、部室の指定席でのほほんとした顔をさらしているというのはどういうことなのか、説明してもらいたい。 ちなみに昨日は4月1日ではないし、そもそもエイプリルフールに嘘をついて許されるのは午前中だけだという話だ。 痛み止めでも打ったのか、いつも通りすぎるこいつに苛立ちが募る。 俺がいくら心配したって無駄なんだろう。 こいつにとっては、あるいはこいつの所属する機関にとっては、古泉自身の体よりもハルヒの機嫌の方が大事に違いないからな。 それにしたって、そのハルヒが居もしないのに部室に留まり続けるこいつの神経が分からん。 思わずため息を吐くと、古泉が笑みを浮かべたまま、 「何か悩んでおられるんですか? 僕で力になれるようなことでしたら…」 「余計なお世話だ」 苛立ちに任せ、皆まで言わせずにそう言っても、古泉は表情を変えることさえしない。 それに俺がさらに苛立っていることくらい、お見通しなんだろうに。 忌々しい、と小さく唸りながら、俺はチェス盤の向こうにいる古泉を観察する。 どこを怪我したとは聞いていないんだが、さて一体どこをどうやられたんだろうな。 手足が折れてる様子もなければ、打撲も、とりあえず見える範囲には見当たらない。 まさか、昨日の電話が嘘だとは言わんだろうな。 それはないと思いながらも、そう思わずにはいられないほど、古泉はいつも通りだ。 俺は自分のナイトがあえなく討ち死にしたところで立ち上がった。 「帰るぞ」 古泉は驚いたように目を見開いて見せたが、予想はしていたんだろう。 「仕方ありませんね」 と立ち上がり、異論を唱えることもない。 長門と朝比奈さんにとりあえず別れの挨拶をし、部室を出る。 そのまま部室棟を出、坂を下ってもまだ、俺は口を開かなかった。 言ってやりたいことは山のようにあったが、どれから口にするべきか、判断がつかなかったのだ。 坂を下りきったところでやっと言うことがまとまった。 「悪かったな。強引に連れ出して」 それは冷静になってきたために思ったことでもあったし、古泉に話しやすくするための言葉でもあった。 だが古泉は小さく笑い、 「いえ、嬉しいですよ。あなたにそこまで心配していただけて」 ……まさかとは思うが、怪我をしているのに出てきたのはそのためとか言うんじゃないだろうな。 昨日の電話も。 「それは違いますよ。電話の件は、あの時は検査結果がまだだったので、つい不安になってしてしまっただけのことです」 検査だと? 「ええ。……実は昨日、頭を強かにぶつけてしまったんですよ。原因は、申し上げるまでもないでしょうから言いませんが」 出てきたってことは、大丈夫だったってことか。 「そういうことです。軽くたんこぶが出来てますけどね」 まあ、黙っていられるよりはずっといい。 今度からも怪我をしたりしたら迅速に連絡しろよ。 「分かりました」 本当の所、と古泉は付け足す。 「今日はまだ安静にしているように言われていたんです。医師にも、機関からも」 なら、なんで出てきたんだよ。 訝しむ俺に、古泉は事も無げに答えた。 「あなたといたかったんです」 ……バカだ、こいつ。 「よろしければ、」 と古泉は楽しげに言った。 「今日、泊まって行かれませんか。心配なさらなくても、不埒な行為に及ぶつもりはありませんよ。ただ、あなたの側にいたいだけです。ああでも、抱きしめるくらいは許していただきたいですね」 俺はため息を吐いた。 なに考えてるんだろうな、こいつは本当に。 「それくらいなら許してやるよ」 「ありがとうございます」 怪我人をひとりで放っておくのが心配だからな。 |
その日キョンは古泉の部屋で朝を迎えた。 まだ昨夜の疲れが残っているだろう体でベッドから這い出し、のぞき込んだ冷蔵庫は空っぽに等しい状態だ。 「……またか」 嘆息したキョンに、古泉は肩を竦め、 「すみません。普段、買ってきた物で済ませてしまうものですから」 「それにしたって、もう少し物があったっていいだろ」 冷蔵庫の中にあるのは清涼飲料水の類と缶詰、レトルト食品と…と視線をめぐらせていたキョンは、小さなボトルを手に取り、古泉を睨み上げた。 「お前は何を考えてるんだ。こんなもん、冷蔵庫に入れとくなよ」 「要冷蔵って書いてあるんですけど」 「それならせめてもう少し目立たない奥の方に突っ込んでおけ。わざわざドアポケットの目立つところにローション入れとく必要ないだろ。俺への嫌がらせか?」 顔を赤くしたキョンに古泉は笑い、 「取り出しやすくていいでしょう?」 「黙れ。セクハラ野郎」 「それより、朝食はどうします?」 「この状態なら食べにいくしかないだろ。ただし、その後買物にも行くからな」 「畏まりました」 無駄に恭しく頷いた古泉へキョンは顔を顰めた。 近くの喫茶店のモーニングセットで朝食を終えた二人は徒歩でスーパーに向かった。 当然のように古泉がカゴを持ち、キョンが陳列へ目を走らせながら先に立って歩く。 カゴにいくつか放り込んだところで、古泉が楽しげに言った。 「こうしていると、夫婦のようですね」 「バカ」 「すみません」 「それを言うならそこいらの夫婦以上だろ」 「……」 思ってもみなかったキョンの言葉に古泉が沈黙してもキョンは気にせず、 「あ、こういうのお前好きだろ」 といたって普通に菓子袋を指差す。 「好きです」 古泉はそう言いながら、カゴを持っていない方の手でキョンの手を握った。 「おい、何やってんだよ」 「夫婦以上なら、手を繋ぐくらいいいでしょう?」 「……やれやれ、面倒な奴だな」 ため息を吐きながら、キョンはすぐに手を振り解こうとはしなかった。 荷物を分け合って帰りながら、機嫌よく古泉は言う。 「夫婦以上なら、一緒に住みたいですね。僕の部屋へ来ませんか?」 「そういうことは経済力を持ってから言え」 「あなたを養うことくらいは出来ますよ。僕のアルバイトは普通の仕事よりはそこそこ上の収入がありますからね」 「危険だからな。そんな仕事についてる旦那なんか、俺は嫌だぞ」 「困りましたねぇ」 ちっとも困っていない顔で言った古泉にキョンは冷たい声で言う。 「それに俺は、養われるだけなんざごめんだぞ。女じゃなくて男なんだからな」 「でも僕は、あなたが待っている部屋に帰るのが理想なんですけどね」 「……お前って、本当に俺を甘やかすよな。今日だってこんなに買っても何も言わないし」 「それを言うなら、あなたの方こそ、僕を甘やかしていますよ。今日買った物で作ってくれるのは僕の好物ばかりなんでしょう?」 「…甘やかしてるか」 「ええ」 二人は顔を見合わせて、小さく笑った。 「十年経っても、二十年経っても、お前といたいな」 冗談のようにキョンが言う。 「僕もです」 「約束な」 言いながら、今度はキョンの方から手を繋いだ。 それを軽く握り返しながら古泉が言う。 「アメリカに行ったのでも、どこか小さな教会に頼みこんだのでもいいですから、結婚式はしましょうね」 「マジか」 「もちろんマジです。素敵なウェディングドレスを用意しますよ。あなたのためだけに」 「用意しても着ねえよ。そんなもん」 「それは残念です」 二人は無邪気な顔を作って幸せそうに語りあった。 それが叶わぬ夢だと知りながら。 |
僕は呆然と彼を見つめた。 今、彼は何と言った? 僕の頭の中にある辞書が間違っていないなら、それは紛れもなく別れの言葉だった。 それは彼の辞書でも同じ意味をなす音の羅列なんだろうか。 混乱した頭で必死に考える僕を見限るように、彼は僕に背を向けた。 「じゃあな。……さよなら」 そう言い残して、歩きだす。 僕は追いかけることも出来ずにただ立ち尽くすだけだ。 追いかけたいと思った。 無理矢理にでも振り向かせたいと思った。 けれど、……僕に、その資格はない。 彼は眩しいほどの光の中へ歩いていく。 振り返ることもなく、迷いのない足取りで。 光は彼の姿と共に小さくなり、僕は闇の中へ取り残される。 引き止める言葉も出なかった。 ただ、涙だけがこぼれた。 「おい、古泉、大丈夫か?」 目を開けると、心配そうに眉を寄せた彼の顔が見えた。 「あ……」 「悪い夢でも見たのか? 泣いてたぞ」 言われるまま目へ手をやると、確かに濡れていた。 「部室で居眠りした挙句泣いてたなんて、ハルヒに見つかったら遊ばれるぞ。見つけたのが俺でよかったな」 呆れたような声で言う彼の存在が、怖いほど頼もしかった。 突然いなくなるとしたら彼ではなく、僕の方だろうに、僕はこんなにも彼を頼っている。 彼に依存している。 自分の方こそ、彼を不安にさせ、実際今もそうしているだろうに。 身勝手すぎる自分に、自嘲の笑みさえこぼせない。 笑みを忘れた僕の顔を彼はのぞきこみ、 「本当に大丈夫か? 顔色も悪いぞ」 「大丈夫です」 しっかりしろ、と自分を叱咤する。 彼にこれ以上心配を掛けてどうする。 僕はぎこちなく笑みを作った僕に、彼はため息を吐きながら、 「長門もいないんだ。無理するな」 と僕の髪を撫でた。 いつか、そうしなくてはならない時が来た時、僕はこの手を捨てられるんだろうか。 忘れられはしない。 きっと、繰り返し何度も夢に見るんだろう。 今日のように、酷い悪夢を。 こぼれそうになる涙を堪えた僕の髪へ、彼はそっと口付けた。 天使が祝福でもするかのように、軽く、優しく。 神様。 これは罰なんでしょうか。 あなたのものを穢した僕への、罰なのでしょうか。 それならせめて、彼にそれを償わせようとはしないでください。 僕が全て報いましょう。 たとえこの命を失っても。 存在さえも失っても。 だから、神様。 あと少しだけ。 ほんの少しだけでいいのです。 彼の側に、いさせてください。 |
「どうしたのよ、キョン」 ハルヒに顔をのぞき込まれ、思わずのけぞりながら俺は答える。 「いや、今、古泉がいたような気がして…」 「古泉くんが?」 ハルヒは俺が見ていた方へ目を向ける。 雑踏を見知らぬ顔ばかりが流れて行く。 「見当たらないけど」 「…じゃあ、多分俺の見間違いだ」 あいつに会いたくて仕方がない俺の見た幻に違いない。 いつだったかの冬にあいつとともに手を繋いでこのあたりを歩いたことを思い出す。 「暗いわよ。ほら、さっさと歩く!」 言いながらハルヒが俺の手首を掴んだ。 それをほとんど反射的に振り解いた俺を、ハルヒが妙な顔をして見つめた。 「…すまん」 「あんた、潔癖症でもないのに凄い反応ね。あたしの知り合いに、物凄い潔癖症で、人がちょっと触ってきただけで1メートルくらい逃げちゃう子がいるけど、その子みたい」 「なんだそりゃ」 努めて笑顔を作りながらハルヒと話していると、どうしてもあいつの顔が脳裏をよぎる。 あいつもこんな気持ちで笑顔を作り、何事もないかのように装って話をしていたんだろうか。 そんなことを続けていれば、逃げたくなっても仕方ないだろうな。 ……あいつがいなくなった理由を自分以外のところへ求めようとする自分の浅ましさに、俺は苦い笑いを浮かべた。 ハルヒと別れた後、何度も開けた他人の部屋の扉を、俺は今日も開ける。 もう随分時が経つのに、部屋の中のものがなくなることもなければ、鍵が掛け変えられることもない。 部屋の主が帰って来ることも、ない。 「……一樹」 一度も呼んでやらなかった名前を呼ぶ。 聞きつけて、あいつが戻ってこないかなんて、馬鹿なことを思いながら。 部屋の中は埃も積っていない。 冷蔵庫も空じゃない。 俺が、いつあいつが戻ってきてもいいようにしているからだ。 必要な物はある。 それなのに、あいつだけがいない。 何度も触れ合ったベッドに顔を埋め、流れる涙を隠すのは、なけなしのプライドがどうとかそういうのじゃない。 ただ、あいつのために泣いてしまう自分が、嫌なだけだ。 突然転校していったあいつに、ハルヒも怒っていた。 もしかすると閉鎖空間が発生したんじゃないかというくらい。 当たり前だ。 団長に無断でいなくなるような無責任な副団長がいるものか。 そのままハルヒが世界を変えてしまえばよかったんだ。 あいつがちゃんとSOS団にいられる世界に。 俺と一緒にいられる世界に。 だが、ハルヒはすでにあいつへの怒りを忘れたように見える。 副団長の座は空白のままだが、いつか長門か誰かが座るんだろう。 そうして、あいつのいるべき場所が減っていく。 それを大して嘆きもしていない自分がいる。 自分の隣りさえ空けていれば、戻ってきてくれるんじゃないだろうかなんて、情けないことを考えている自分がいる。 そうでなくても、俺の隣りにはもう誰も立たない。 立たせない。 あいつしか、いさせない。 だから、……一樹、 「……帰ってこい…」 だが、勝手にいなくなるような身勝手なバカを綺麗な思い出扱いなんてしてやるものか。 今は無理でも、いつか時間を手に入れて、俺は絶対にあいつを探しに行く。 いや、取り戻しに行く。 あいつが拒もうがどうしようが構うものか。 全世界にカミングアウトしてやったっていい。 そんなことを考えて色々とダメになるくらいには、俺はあいつが好きなんだ。 人前で野郎に取り縋られて、泣き喚かれて、恥をかくのが嫌なら、その前に戻って来い。 ……頼むから。 |
言ってはいけない。 何があっても決して。 ――そう、思っていたはずなのに、言ってしまったのは、あまりにも条件が整い過ぎたからだと思った。 その日、僕と彼は、朝比奈さんに新しい衣装を着せてみると言って大きな袋を抱えて現れた涼宮さんに部室を追い出され、仕方なく中庭にいた。 暦の上ではもう秋と言えるはずなのに、差し込む日差しも気温も鬱陶しいほど暑い。 いつもの彼なら文句を言いながらぐったりとしていそうな状況だというのに、どういうわけか今日は機嫌がよく、僕にアイスコーヒーを奢りさえした。 「随分とご機嫌ですね。何かいいことでもありましたか?」 僕が問うと彼は首を傾げ、 「機嫌がいいように見えるか?」 「自覚がないんですか?」 彼は自分の感情を正しく把握できる人だと思っていた僕は少なからず驚いた。 少し考え込んだ彼は、小さく、しかし魅力的に笑い、 「そうだな。確かに、機嫌はいいかもしれん」 「理由をお聞かせ願いたいですね。あなたが自分でも気付かないうちにそんなに上機嫌になるなんて、そうあるとも思えませんし」 「理由なぁ…」 彼は空を見上げ、考え込んだ。 そうすると彼の喉が見え、僕は思わず目を逸らした。 夏に日焼けをしたはずなのに、もうすっかり色が抜けつつあるらしい喉の白さが目に痛かったのだ。 だから、 「久し振りに、お前とのんびり出来るからじゃないか?」 と彼が言った時の表情を僕は見逃してしまった。 驚いて彼を見た時にはすでに彼はいつも通りの表情で、 「お前、ここのところバイトとやらでさっさと帰ってただろ」 「え、ええ、そうですが…」 どうして彼は平然としていられるんだろう。 さっきの言葉に他意はないということなのだろうか。 それでも、うかうかと抱いてしまった希望を棄てられない。 彼も、僕と同じ感情を、しかも僕に対して抱いているとしたら? そう考えるだけで、止まらなくなりそうだ。 「あなたが、僕のことをそこまで気に掛けてくださっていたとは知りませんでしたね」 上擦りそうになる声を抑えてそう言うと彼は軽く眉を寄せて、 「人を薄情者みたいに言うな」 どうしよう。 言ってしまいたい。 あなたのことが好きだと、大声で叫んでしまいたい。 強い衝動に突き動かされそうになった時、彼の携帯が鳴った。 メールだったらしいそれを見た彼は、 「もう戻ってきていいらしいぞ」 やれやれ、と言いながら腰を浮かせた彼を、このチャンスを、逃がしたくないと思った。 思い違いでも勘違いでもいい。 今この時、この勢いがなかったら、決して口に出来ないであろう言葉を、僕は口走った。 「す……好きなんです! あなたのことが…」 ――唐突過ぎだろう。 せめてもうちょっと手順を踏むと言うか、会話を引き伸ばしてもう少し彼の真意を探るとかしろよ自分。 というか本当に何をやっているんだろうか僕は。 これじゃあ冗談と流されるか、何言ってんだと罵倒されるかじゃないか。 愚かしいにもほどがある。 いくらいきなり、しかも勢いに任せてとはいえあれはない。 終った。 何もかも終ったんだ。 そう思った。 しかし彼は、 「な、お前、い、いきなり何言って…」 と妙に驚き焦るような声で言った。 僕は知らず知らずのうちに俯いてしまっていた顔を上げ、彼を見た。 彼の顔は、これまでに見たこともないほど真っ赤に染まっていた。 ――あれ、これって、もしかして。 僕は、小さな希望に縋るように、もう一度繰り返した。 「…大好きです」 彼は、いつも人の目を見て話す彼にしては珍しく、視線をあちこちへさ迷わせ、決して僕の方を見ないようにしながら、 「お前、暑さで頭がおかしくなったんじゃないのか!?」 「声、裏返ってますよ」 「っ!」 意地悪く指摘した僕を睨むように見た彼の手をテーブルの上に押し留めながら、僕は彼の顔をのぞき込む。 潤んだ瞳が綺麗だった。 「あなたも……でしょう?」 僕が言うと彼は余計に顔を赤くしながら、 「違う! 俺は…」 と何か言い募ろうとしたが、僕は耳を貸さない。 そんな必要はないと思ったからだ。 「自分に正直になりませんか?」 「な、何で、お前、そんなに強気なんだ」 それは、 「鏡を見れば分かりますよ」 僕のことを言えないほど嘘つきなあなたの唇と違って、あなたの顔は随分と正直なようですから。 そう言って僕は彼に口付けた。 彼は少しの抵抗もせず、ただ、ほんの少し震えながらそれを受け入れた。 初めて彼と口付けた日のことを思いだしたのは、あの時と同じように今年も残暑が厳しく、酷く暑かったからかもしれない。 あの時後先も考えずに行動した結果として、僕は彼の元を離れ、彼を傷つけてしまった。 それでも、あの時ああしなければ、その後の彼との思い出の数々もありえなかっただろう。 遠目にちらちらとこちらを伺っている女子学生に呼び止められないよう、正門へ向かう足を速めた僕の目に、ありえない姿が飛び込んできた。 「やっと、見つけた」 そう言って駆け寄ってきた彼の姿を、僕は幻覚なんだと思った。 彼がここにいるはずがない。 僕なんかを探してくれるはずがない。 だからこれは幻か夢なんだと。 それだからか、彼は笑みを浮かべて、嬉しさに震える声で言った。 「会いたかった」 ほら、やっぱりこれは幻に違いない。 本当の彼ならこんな風に優しい言葉を言ったりせずに、まずは勝手にいなくなった僕を責めるはずだ。 こんな風に僕を抱きしめるはずがない。 人の多い、大学のキャンパス。 抱き合う男二人、あるいは男に抱きつかれている男、というちょっと見られないようなものに、周囲の視線が集まっているのを感じないでもないが、そんなものはどうでもよかった。 これは夢だと思うし、たとえ夢でなかったとしても、彼以上のものなどないのだから。 「ずっと探してたんだぞ」 彼は僕とは違って地元の大学に進んだという話を聞かされていたのに、どうやって探してたというんだろう。 信じられない、これは幻なんだ。 そう思おうとするのに、彼の体温が懐かしい。 彼の声も、滅多に見せてくれなかったはずの笑顔も、愛おしくて堪らない。 これは、現実なんだろうか。 「いつまで呆けてんだ? いい加減、何か言えよ」 自分の表情がひとり百面相でもするかのように、微妙に揺れ動くのが分かった。 喜び、困惑、混乱、驚き、興奮、自分でも知らなかったような感情の群れの最後に現れたのは、彼にいつも見せていた笑顔だった。 それでもそれは、作った笑みじゃない。 心からの笑みだ。 嬉しくてたまらない。 「僕も、ずっとあなたに会いたいと思っていましたよ」 それまで驚きの余り直立不動状態だったことさえ忘れたように、僕は彼の体を痛いほど抱きしめた。 他に言うべきことがあったかもしれない。 どうやって僕を見つけたのかとか、大学はどうしたのかとか。 でも、一番聞きたい言葉は、彼の方から発してくれた。 「今でも俺のことを好きだと思ってくれてるのか?」 いくらか恥ずかしがるような表情に、僕はつい笑みを零す。 「もちろんです。あなたのことしか目に入りませんよ」 「…俺もだ」 彼はじっと僕の目を見つめ、 「一樹、だいすきだ」 決して呼んでくれなかったはずの僕の名前を呼んで、滅多に言ってくれなかったはずの言葉を口にした。 自分でもどうしようもないほどに嬉しい。 胸が、初めて恋をした頃のように高鳴る。 「……不意打ちですよ」 彼の顔を見ていられなくて、わざと彼の耳元でそう囁くと、彼はくすぐったそうに笑った。 その相変わらず魅力的な唇へ、軽く口付ける。 やっぱりこれは、現実だ。 夢や幻なら、彼の唇の感触は変わっていないはずだから。 昔と違って、唇の感触と共に彼の体つきも少し変わっていた。 それに幻滅するどころか、僕が知らない間の彼を余すところなく知りたい、暴き立てたいと思っている僕がいる。 彼は動じることもなくキスを受け入れておきながら、唇が離れるといかにも良識ある彼らしく言った。 「いいのか? ここ、お前の大学構内だぞ」 「そんなものを気にしていられる余裕が、あなたにはあるんですか?」 「…ないな」 彼は笑ってそう答え、今度は彼の方から僕へキスをした。 |