机に突っ伏していた俺が目を覚ました時、俺の頭上の方向で、ハルヒと古泉が会話していた。 「古泉くん、本当に大丈夫なの?」 その言葉にひかれるように顔を上げると、ハルヒが心配そうに古泉の顔をのぞき込んでいた。 古泉はいつものように笑みを浮かべているが、その顔色はどこか精彩に欠くようだった。 土気色寸前、とまでは言わないが、妙に顔色が悪い。 しかしそれは今に始まったことじゃない。 昨日も一昨日も、ずっと似たような感じだった。 俺は一昨日気がつき、昨日は朝比奈さんも心配していた。 長門に動きはないが、気がついたのはおそらくハルヒが最後だろう。 ハルヒに気がつかれた上、心配されてるようじゃまずいんじゃないか? と古泉を見たが、古泉は弱々しい笑顔でハルヒの応対をするので手いっぱいらしい。 原因は――と考えるまでもなく、思い当たることがあった。 一週間ほど前、古泉は俺に、自分がヴァンパイアフィリアであることを明かした。 それは、俺にとってみれば他人に迷惑を掛けない限り構わないんじゃないかと思うような程度のことだ。 しかし古泉はあの時、俺の指を舐めた。 正確に言うなら俺の指から出た血を舐めたのだが、舐められた方としては変わらん。 だから俺は指を舐められた後、あいつを一発殴ってやろうかと思うくらいには怒り、二度とやるんじゃないと念を押したのだが――それから日が経つごとに、古泉の様子はおかしくなっている。 飢えや渇きに苦しめられているように見えるのは、俺の錯覚ではないんだろう。 これが俺の責任だとしたら、俺はどうするべきなんだろうな。 自問自答しようとしていながらも、答えは既に出ていた。 ハルヒが帰り、長門が帰る。 朝比奈さんも帰ると言うので俺と古泉も部室を出ることになった。 「それでは、僕もこれで…」 「ちょっと待て」 帰ろうとしてカバンを取ろうとした古泉を俺が止めると、古泉は凍りついたような笑みを浮かべたまま俺を見た。 「すいません、少々急ぎの用があるのですが…」 「すぐ済む」 俺がそんな風に強く出ると思わなかったのだろうか、古泉は一瞬意外そうに目を丸め、それから困ったように笑った。 「……分かりました」 俺と古泉はカバンを置いたまま部室を出た。 朝比奈さんが心配そうに俺たちを見ていたが、分かるように説明できる余裕もなければ、必要性もおそらくないだろう。 朝比奈さんが着替える物音さえ、耳を素通りして行く。 古泉は黙ったまま、俺も何も言わない。 ここにきてもまだ、俺は迷っていた。 本当にそうしてしまっていいのか、後悔しないのか。 ……後悔はするのかもしれない。 だが、このまま放っておけるほど俺は利己的でもいられないらしい。 問題はこれが同情からなのか連帯意識からなのかというところなんだが――それは多分、話してりゃ分かるだろ。 俺は極力古泉を見ないようにしながら言った。 「古泉、逃げるなよ」 「……」 嫌な緊張感のある沈黙の後、古泉が口を開いた。 だがすぐにドアが開く。 「あ、あの、着替え…終りました……」 びくびくしながら朝比奈さんが言い、俺は慌てて道を開けた。 「朝比奈さん、さようなら。気をつけて」 「はい、キョンくんも、古泉くんも、また明日」 ぺこんと頭を下げて朝比奈さんが歩いていくのを最後まで見送ることもなく、俺は部室に古泉を押し込んだ。 ついでとばかりに鍵を掛けると、古泉が戸惑うような表情を見せたが、構うものか。 それでも、習慣的なものからか、古泉が椅子に座る。 俺はその向かいに座りながら言った。 「古泉、お前、いつから血を舐めてないんだ?」 おや、と古泉は小さく首を傾けて見せた。 「お気づきでしたか」 当たり前だ。 他に理由があったらそれこそ驚きだとしか言いようがないな。 それで、なんでやめたんだ? 「思うところがありまして」 その思うところを聞いてるんだって分かってるんだろう。 「……困りましたね」 細めていた目をすっと開いた古泉は、長門よりもよっぽど温か味を感じさせない目をしていた。 「どうしてあなたに説明しなくてはならないんです? 僕とあなたの間に、そんなことまで説明しなくてはならないような深い関係性など、ありましたか?」 俺を怯ませようとしてのことなんだろうが、それは逆効果だぞ、古泉。 俺は苛立ちに顔を顰めながら言った。 「やめた理由に全く関係ないとでも言うつもりか? ふざけるな」 俺とお前の間に深い関係性があるかないかだと? SOS団の団員っていうので不満なら、友人だのなんだのという改めて口にするのが恥ずかしいような系統の言葉でも並べ立ててやろうか。 とにかく、と俺は古泉を睨み、 「さっさと白状しろ」 古泉はくっくっと喉を鳴らした。 「あなたには逆らえませんね」 何しろ影の団長みたいなもんだからな。 「ああ、それは言いえて妙かもしれません」 そう思うなら、御託を並べるのはやめろ。 「……」 それでも古泉は躊躇うようにしばらく黙り込んでいたが、 「……自分の血が舐められなくなったからです。ただ、それだけですよ」 蚊の鳴くような声で、そう言った。 本来、蚊の鳴くような声、というのは朝比奈さんのような美少女に対してこそ使える表現なんだが。 「自分の血が舐められなくなったってのは何だよ」 「…美味しく感じられなくなったんです。だから、舐められなくなったんです」 その割に、吸血衝動は残ってるみたいじゃないか。 「ええ、残ってますよ。だから困るんです」 話しながら、俺は自分の手を適当に動かしていた。 不恰好な、大して特徴もない手。 古泉の目はそれをじっと追いかけていた。 半分以上無意識なんじゃないかと思わせるような光を宿して。 「あなたの、血を舐めたい」 砂漠で死に掛かっている旅人が水を求めるような声で言う。 その声に、背がゾクリと震えた。 「どうして、俺の血なら舐めたいんだ?」 「僕はおそらく……あなたの血しか、美味しいと感じないからです。今も、あの時のあなたの血の味を思い返して、それだけで、堪らなくなってしまいそうで…あなたを、傷つけてしまいそうで……なのに、どうしてわざわざこんな状況を作り出すんです」 俺は答えずに問い返した。 「血の味なんか、俺のでもお前のでもそんなに変わらないだろ。俺が菜食主義者だとかいうならまだしも。それなのに、なんで俺なんだ?」 「…分かってて……聞いているんですか…?」 血走る直前のような、古泉にあるまじき目が俺を見据える。 「分かってて、聞いているんでしょう…?」 「俺は超能力者でも予言者でもないんだ。言われもしないで分かるはずないだろう」 見当もつかない、と言ったら嘘になるんだが。 「…酷い人だ」 独り言のように毒づきながら、古泉は笑った。 その毒々しい笑みが自嘲なのか、それとも俺に対する嘲りなのかは分からない。 しかし古泉は俺に向かって言った。 「僕は、あなたが好きです。だから、あなたの血しか欲しくない。……これで、満足でしょう?」 最後の一言が余計だろ。 どうしてお前はそうやって普通に本音で言うことが出来ないんだろうな。 俺はため息をつきながら椅子から立ち上がり、ハルヒがごちゃごちゃと備品を置いている辺りに立つと目当ての物を取り出した。 銀色に輝く刃――と言ってもナイフやカッターではない。 むしろナイフなら持ちたくもないな。 朝倉の件はかなりトラウマに近い状態だ。 安全のために先が丸くなっているハサミでも、切れないことはないだろう。 古泉には背を向けているから、俺が何をしているのか見えていないのだろう。 俺はハサミを見せないようにしながら古泉を振り返り、逃げようとしていないことを確認した。 それからハサミを右手で持ち、左手の人差し指の腹へ押し当てる。 力を加えたまま勢いよく手前に引くと、指の皮が薄く剥けた。 しかし、血が出るほどではなかったらしい。 俺はもう一度、今度は更に力を込めてハサミを引いた。 さっきよりも強い痛みが走り、少し待つだけで血が滲んできた。 俺はハサミを元の位置へ戻すとぷくりと膨れ上がってきた血の玉を落とさないようにしながら古泉に近づいた。 「何をなさっていたんですか?」 「切ってた」 あっさりと俺が答えると、古泉はかなり驚いたらしい。 「切ってたって……」 間抜けにも開いたままの口へ俺が指を押し込むと、一瞬の躊躇いの後、舌が傷口に触れた。 痛くないはずがない。 だが、それ以上にぞくぞくする。 これが何なのか、俺にはもう分かっていた。 長机の上に腰を下ろし、空いている右手で身体を支える。 そうしなければずるずると床にまで崩れ落ちそうに思えた。 移動しながらも、目は古泉から離せない。 余裕のない表情。 形のいい唇。 それで俺の指を包み、貪るように舐めている舌。 視覚だけでもかなりクるが、それよりも指から伝わってくる感触が酷く俺を煽る。 漏れそうになる声を抑えるために噛んだ唇からまで、血の味がしそうだと思った。 そうして、名残惜しげに俺の指を舐めて、古泉の唇が離れていった。 「…どうして」 先程までよりいくらか平常に近い声で古泉が言った。 「どうしてあんなことをしたんです?」 「どうしてだと思う?」 「…分かりません。あなたのすることはいつも、予想出来ない。どうして、僕なんかを気に掛けるんです。酷い言葉を投げつけておきながら、甘やかしもする。あなたが、分からない……」 不器用な奴だな。 そう思いながら俺は唇を舐める。 歯型はついていたが血は出ていないらしい。 それを残念と思うほど、俺はおかしくなっているらしいぞ、古泉。 「どういう…」 まだ分からないらしい鈍感な唇へ、自分のそれを押し付ける。 生理的な嫌悪感とか羞恥心とかを、俺はどこへ落としてきたんだろうな。 歯型のせいで不自然に凹んだ唇を、古泉の舌が触れる。 血を舐める時の遠慮のなさを忘れたように、酷く恐ろしげに。 それをついと舌先でつつくと、それだけで体が熱を持ってくる気がする。 口の中の柔らかな部分を探られ、歯列をなぞられて、自分の体も支えられなくなった俺は古泉の上へ被さるように倒れかかった。 古泉は俺を器用に抱き止めると、更に深く口付ける。 「っは……ぁ」 そんな声が出たのも、口が離れる間際になってからだった。 声さえ漏らせないほどに唇を合わせていたらしい。 古泉の膝へ乗るような形で俺は座らされていた。 至近距離で見ても古泉はやっぱりきれいな顔をしていた。 男だと分かる顔なのに、きれいってなんだ。 「……やっぱり、あなたは分からない…」 不安そうな目で俺を見ながら、古泉はそう言った。 「何が…」 キスの余韻のせいか、自分の声が奇妙に甘ったるく聞こえた。 「僕の都合のいいように思って、いいんですか?」 「……ああ」 俺は左手の人差し指を見ながら答えた。 「お前に指を舐められて、……気持ちよかったんだ」 だからあの日、もう二度とやるなと言ってしまったわけだ。 嫌悪感を感じたっていいだろうに、そんなものはかけらもなかった。 感じたのは、少しの痛みと恥ずかしいまでの快感だけで。 そんな自分が信じられなかった。 だが、 「それが、お前を好きだってことなら、お前のせいだからな。……責任、とれよ。俺も……とる。…だから……俺の血なら……舐めて、いい」 熱のせいか、言葉が上手く出てこない。 目もおそらくおかしいほどにとろんとしているんだろう。 「僕に出来ることならなんでもします」 古泉の真摯な表情が熱っぽくなっている目に痛かった。 「あなたのためなら、なんでも」 それならお前の膝に触れてるだろう、俺の股間で熱を持ち始めてるものに気がついてもいいと思うんだが。 まあ、とりあえず今は、 「もう一度、舐めるか?」 聞いておきながら俺は古泉の答えを聞きもせず、指先を口に突っ込んだ。 |