「どうしてハルヒなんだろうな」 俺の呟きに、黒の碁石を弄んでいた古泉がご丁寧に返事を寄越した。 「涼宮さんだからでしょう」 「答えになってないぞ」 「ではお聞きしますが、あなたはどうして自分が今の自分なのか分かりますか? 誰かによってそれが構築されたと思いますか? それとも自らそうなったのだと思いますか?」 俺は黙り込む。 俺は俺でしかない。 俺以外の何物でもない。 勿論、これまでに関わった色々な人の影響を受けては来ているだろうが、だからと言ってそれによって俺が創られたとは思わない。 俺は俺だ。 「つまりはそれと同じですよ。ただ涼宮さんの場合、持って生まれた、あるいは身につけた力が僕たちのそれとは明らかに違った様相を呈しているだけで」 そう言っておいて、古泉は、しかし、と続けた。 「もしも涼宮さんにあのような力を与えた存在があるとしましょう。その場合、それこそが創造主、神となるのでしょう。ではその神はどこへ行ったというのですか? また、涼宮さんに力を与えることが出来る以上、その神は意識的にその力を用いることが出来るのでしょう。そうであればそれこそ何故涼宮さんを選ぶのです? 彼女は行動こそ突飛ですが、至って常識的で頭の固い、つまりは平凡に近い女性ですよ」 あいつを評して平凡という言葉を使う人間はお前が最初で最後だろうな。 「混ぜっ返さないでください。話を振ってきたのはあなたの方ですよ?」 それはそうだろうが、あいつにしろ、あいつに力を付与したかもしれない別の神にしろ、余りにもいい加減過ぎると思ってな。 神様ってのはもうちょっと高尚で慈悲深いものなんじゃないのか? 「それはまた随分と楽観的な考え方ですね」 古泉は呆れたような笑いを見せた。 「歴史を紐解くまでもなく、今この世界に宗教を原因とした紛争がどれだけあると思います? 神など所詮争いの理由にしかならないのですよ」 それもまた乱暴な理論だな。 「ええ、そうかもしれません。しかし、聖書に描かれるような、あるいは神話に謳われるような、全知全能の神がいたとしたら、この世はもっと違っていたのではありませんか? 争いごとのない、いえ、争いという言葉さえない平和な世界が広がっているのではないでしょうか。しかしこの世に争いは絶えず、平和という言葉は虚しいばかりです。神は涼宮さんのように、多くの凡人に無関心な存在なのですよ。きっと」 勝手に言ってろ。 その時の俺はそう言って会話を打ち切ったのだが、後々になって考えてみると、この時の会話さえもがひとつのきっかけだったのではないかと思わずにはいられなかった。 季節として春と言うには程遠いと言うのに、もうしばらくすると始まるのは春休みだ。 まあ、名前なんかはどうでもいい。 春休みになることも、どうでもいいと言っていいかもしれない。 何しろ春休みでも構わずハルヒは俺の生活を掻き乱してくれるに違いないからだ。 たとえ学年が上がったとしても、おそらくハルヒはいくらでも今までと違った騒動を巻き起こすのだろうが、とことん振り回されるばかりの俺にしてみれば、これまでと大差ない日々が続くだけだろう。 なにしろ、俺は古泉や長門とは違う。 一般人だ。 だから俺に出来ることと言えば、俺に出来る限りと言う実に狭い範囲付きで、ハルヒの暴走を止めるくらいのものだ。 ――そう、それだけのはずだった。 それが変わった日の真夜中、俺は目を覚ました。 うっそりとした夜の暗さは闇には程遠い。 それでも、本来なら俺の視覚を不自由にするには十分なはずだった。 だが、俺には周りがよく見えた。 部屋の中の様子も、壁の向こうの様子さえも。 知ろうと思えばゴビ砂漠で舞い上げられた砂がどこへ向かって飛んでいるのかも分かったに違いない。 そんなことに興味はないから試みることもしなかったが。 俺は体を起こし、自分の状態を確かめる。 そうして一言、自分への確認のように呟いた。 「……今回は随分早いな」 俺の世界が静かに揺らごうとしているのが、分かった。 脳裏を掠める遥かな記憶。 神経に障る不快なノイズ。 だが、一秒一刻を争うほど早急にどうこうするほどでもない。 俺はもう一度横になり、目を閉じた。 眠れはしない。 ただ動き出すには早すぎるから、時の経つのを大人しく待った。 何時間か時が流れ、夜が明ける。 眠れもしないのに横になっているのは無駄だと俺は起き上がり、静かに考えを固めた。 落ち着かない。 本来ならもっと快いはずの場所が、酷く不安定なものに変わっている。 ため息を吐く気にさえなれない。 本当はもっと長く休めたはずなんだが、と思いながら俺は鳴り始めた目覚まし時計を止めた。 朝食を取り、身支度を整え、家を出る。 いつもと変わらない日常を意識的に演じる自分がいる。 因果なもんだ。 高校に着いても同じだ。 いつも通り国木田や谷口と話し、ハルヒに妄言に近いような話を聞かされる。 ただ、放課後だけはいつもと同じにするわけにいかなかった。 授業が終了するなり、俺は荷物を掴み、教室を出る。 向かう先は当然部室だ。 俺が到着した時には既にハルヒ以外の三人は揃っており、俺はとりあえず安堵しながらドアに鍵を掛けた。 「どうかしましたか?」 古泉が聞いてくる。 長門さえ本を閉じ、じっと俺を見据えていた。 朝比奈さんも、 「鍵を掛けちゃったら涼宮さんが来た時に困ると思うんですけど…」 と控え目に言ってくる。 俺は簡単に答えた。 「大丈夫ですよ。ハルヒは今日ここに来ません」 俺の断定に、朝比奈さんは一応の納得を示し、古泉は余計に眉を寄せた。 「どういう意味です? まさか、涼宮さんに急用が出来たから来ないなどと単純なことを言ってしまうつもりはありませんよね」 勘のいい奴だ。 口の端が吊り上がるのを感じながら、俺は言った。 「キョンくん…?」 朝比奈さんが怯えたような声を出した。 「怖がらないでください。あなたにも、それからハルヒや長門にも、勿論古泉にだって危害をくわえる気はありませんから」 そう言ったところで朝比奈さんが余計に怯えるだろうことは分かっていたが、とりあえずそう言った。 古泉が珍しく真剣な顔で言った。 「単刀直入にお聞きします。……あなたは何です?」 俺は答えずに薄く笑い、パイプ椅子を引くと三人がちゃんと視界に入る位置に座った。 「俺は神、あるいはそれに類する名で呼ばれるものだ」 俺の短い返答に、古泉さえ言葉を失い、室内には沈黙が落ちた。 表情さえ三人とも同様に、とでも言いたいところだが、各人の表情は微妙に違っていた。 朝比奈さんは俺の話が分からなかったらしく、ちんぷんかんぷんといった表情。 古泉は俺の頭がおかしくなったことを疑っているらしい眼差し。 長門は無表情のまま、ただ微細な動きはすでに行っていた。 「長門」 と俺は長門に声を掛ける。 「お前の言葉なら疑り深い古泉も信じるだろう。現時点で検索出来た範囲で構わないから説明してやってくれ」 長門はいつもより更に硬い声で答えた。 「…試みる」 長門が古泉を見つめ、古泉が長門を見る。 「厳密に言うと、今の彼と昨日までの彼は違う。変化が生じたのは本日午前0時丁度。彼に施されていた記憶及び能力上のロックが自動的に解除され、彼は自ら封じていた記憶及び能力を取り戻した。その理由及びロックの解除条件は不明。彼がいつから存在するのか、また彼がどこから来たのかも不明。統合思念体は彼を敵性でないと判断した。情報の不足から断定は出来ないが、彼はおそらく、」 と長門は言葉を切り、俺を見た。 俺はゴーサインを出すように頷いてやる。 「…涼宮ハルヒに情報を創造し拡散させる力を与えた張本人」 正確に言うなら人じゃないけどな。 付け足した俺を、古泉が信じられないと言わんばかりに見る。 長門も俺に目を向け、 「情報統合思念体はあなたとのコンタクトを望んでいる」 「ああ、それはまあ俺も考えてた。が、もう少し待ってくれ。一時間もかからないはずだ。それくらい、これまでに過ごしてきた時間と比べたら遥かに短いだろう?」 「分かった。そう伝える」 それで話は済んだとばかりに黙り込んだ長門とは別に、古泉が喋りだす。 「信じられませんね。あなたは自称にせよ他称にせよ普通の人間だったはずでしょう。一夜にして何が起こったと言うんです?」 「そうだな。それも説明しよう」 そう言って、俺は少し黙る。 膨大すぎる記憶を探り、目当てのものを見つければ、後は簡単だ。 「この世界の始まりから説明した方がいいのか?」 「必要なのでしたら」 「……そうだな。この世界は、俺が創ったものなんだ。ただ、いつかお前がハルヒの力を俺に説明する時、たとえとして話していたように、今このような状態で創り出したわけじゃない。この世界はちゃんと時間を掛けて進化してきた」 「では、あなたは何なのですか?」 「俺は、言ってみたら異世界人かな。人じゃないが、この世界の外から来たものだから」 「では、あなたのいた世界の人は皆世界を創造する力があると言うのですか?」 「ああ、その通りだ。ただし、あの世界はもう滅びていて、存在しない。俺は名残みたいなものだ」 「……では、何故涼宮さんがあのような力を持っているのです?」 「それは、俺が神でいられなくなったからだ」 「どういう意味です?」 「もう、ずっと昔のことだ。それまで俺は、この前お前と話していたように、この世界が平穏無事であるように力を振るっていた。それでいいと思っていた。だが、この世界に生まれたものたちは、それを拒んだんだ。進化が困難になってもいい。争いが絶えなくてもいい。自分たちの力で世界を変えていきたいと主張してな。世界は神を拒んだと言うわけだ」 俺はその時のことを思い出して思わずため息を吐いた。 例えるなら、ずっと小さな子供だと思っていた我が子がいきなり反抗期になって、しかも立派に反抗して見せたようなものだ。 嬉しいんだが、半面ショックでもあったな。 「しかし、拒まれたからと言ってこの世界を見捨てて他に世界を創るのもつまらない。俺の手を離れたこの世界が、一体どう育って行くのか見守っていこうと、俺は思ったわけだ。そのためには神としての力は邪魔だからな。俺は力をある程度まで封じた。そうしてこの世界でもっとも原始的でありながら、妙な特殊性を持っていたこの星の有機生命体に紛れ、暮らしてきた」 時々神としての力を発揮して人を助けてやったりもしたな。 しかしそれも、数百年前までだ。 昔は純朴だった人類も、今じゃ神なんて信じちゃくれなくなってるからな。 「時々発生する、神としての力を使わない限り対処出来ないような予想外の出来事に対処する他は、俺のするべきことはなくなった。いたって平和な生活だったな」 「それが何故、涼宮さんに力を与えることに繋がるんです?」 もっともな問いだ。 そして、答えたくないような質問でもあるな。 俺は苦笑を浮かべながら答えた。 「こういうとお前には本当に悪いんだが、――俺の、娯楽のためだったんだ」 「…娯楽、ですか」 「そう。娯楽じゃなかったら興味、実験でもいいか。――ゆっくりと変化する世界を楽しんでいたはずなのにな、手出ししたくなったんだ。だが、直接介入したんじゃ俺は面白くない。だから俺は、あらゆる可能性の塊として、ハルヒに力を与えたんだ」 この世界を変えうる神として、あるいは進化の可能性として。 ハルヒはこの地球だけでなくこの世界自体の、進化への起爆剤みたいなもんだ。 それを誰がどう使うのか、俺は見てみたかった。 もちろん、ハルヒ自らが変える世界も見たかった。 だから本当は、と俺は苦笑いを浮かべ、 「いつだったかお前が言ってたみたいに、安全圏からハルヒの巻き起こす騒動を見下ろしているつもりでいたんだが、あいつに見つかって、巻き込まれてな。普段の俺は記憶も力も封じているから、これは全くの偶然なんだが、これもあるいはハルヒが望んだからなのかもしれないな」 異世界人と言われればそうだからな、俺は。 「では何故今、あなたはこうしてその記憶や力を取り戻しているんです?」 「それは、俺にしか対処出来ないような予想外の出来事が発生したからだ」 さっきも言っただろ? それだけが俺に残された仕事だってことは。 「俺はそれをバグと呼んでいる。放っておけば、この世界の根幹さえ揺るがす危険因子だ。だが、それもこの世界の自立進化の過程で発生したものだから、俺としても問答無用にデリートするのは趣味にあわない。それを上手くコントロールして安定させてやりたいんだ。バグをバグでなくすと言えばいいのか?」 「それは僕にはよく分かりませんが、とりあえず、僕たちが今までのあなたの話を信じたとしましょう。しかし、どうしてそれをわざわざ我々に明かしたんです? あなたの話を聞く限りでは、あなたは涼宮さんを上回る力を持っており、しかもそれを意識的に行使できるようです。それなのに、何故わざわざ?」 俺は軽く頭を掻いた。 答えられないのでもなければ答えたくないのでもないが、なんとなくこの答えは恥ずかしいのだ。 恥ずかしいというこの有機生命体たちが持つ感情さえも、すでに自分のものとなっていることが、いくらかくすぐったくもあり、嬉しくもあるが。 「お前も、長門も、それから朝比奈さんも、自分の正体を明かしてくれた。そして俺が望む望まないに関わらず、俺を巻き込んでくれた。それならその礼をしたっていいだろ」 その言葉になんのごまかしもない。 それでもなお、俺を疑うように見る古泉に、長門が言った。 「彼は、彼。いつもの彼は神ではないが、神である今の彼はいつもの彼と同じ」 長門、それは分かり辛いと思うぞ。 と俺は言い換える。 「要するに、お前たちがキョンと呼んでくれている俺は神ではないが、神である俺とキョンは同じだ。人格もほとんど変わらない。ただ、今の俺が妙な力を持っていて、なおかつ特殊な作業をやらなきゃならんというだけでな」 出来れば、と俺は言い添える。 「バグの除去を手伝ってもらえると有難い。俺は力を完全に解放していないし、それをすると余計に危険性が高まる。だから、ハルヒより少し強力でしかも意識的にそれを行えるってだけだ。出来るだけリスクは回避したいから、力を借りたい」 「私は構わない」 真っ先に答えたのは長門だった。 「わ、私も……その、何の力にもなれないかもしれませんけど…」 朝比奈さんもそう言ってくれた。 ありがとうございます。 あなたは居てくれるだけでも嬉しく、心強いですよ。 「……僕も手を貸しましょう。ただひとつだけ確かめたいことがあります」 「なんだ?」 「バグを除去したら、あなたはどうなるんです?」 「元に戻る。記憶も能力も全て、元通り封じ、この世界も若干改変されることにはなるが」 「そうなるとあなたはどうなるんです?」 そのあなたってのは、神、あるいは異世界人としての俺ってことか。 まったく、お優しいことだな、古泉。 俺は笑いながら答えた。 「もう一度眠るだけだし、俺はキョンとして楽しんでる。それでいいんだ」 「……分かりました」 どこか憮然とした表情ながら古泉も承諾してくれた。 それじゃあ、と俺はまず朝比奈さんに言う。 「先にお礼を渡しましょう。手を出してください」 「え? はい」 朝比奈さんが素直に出してくれた白く美しい手に、俺は自分の手をかざす。 念じることは簡単なことだ。 朝比奈さんが好きな茶器と茶葉を出現させること。 そうしてそれはその通りになった。 「わぁ…」 歓声とも驚きの声ともとれない声を上げる朝比奈さんに俺は言う。 「すみません、それくらいしか思い浮かばなくて」 「ううん、嬉しいです。ありがとう、キョンくん。…あ、キョンくんじゃだめだったかな?」 「いえいえ、もちろんそれでいいですよ」 「うふ、よかったぁ」 本当に可愛い人だよ。 次に、と俺は長門に言う。 「情報統合思念体とのコンタクトを取りたい。今の俺はただの有機生命体だ。お前に中継を頼むが、いいか?」 「いい」 俺は長門の手を握り、軽く念じる。 情報の奔流が流れ込み、流れ出す。 そうして俺の持つ情報のうち数パーセントにも満たないそれを送っただけでも、統合思念体は一定の満足を見せたらしい。 「とりあえずこれがお前へのお礼だな。お前さえよかったらお前個人にも何か送りたいんだが…」 「いい。私はこれで十分」 まあ、統合思念体の進化を補助しただけでも、長門の地位はある程度固まっただろう。 そして、と俺は古泉に言う。 「お前、何か望みはないのか?」 「ないと言えば嘘になるでしょうけど、とりあえずわざわざあなたにしていただくようなことはないように思うのですが」 「じゃあ何でもいいから思いつけ。ひとつ叶えてやる」 「それは有難いですが……何やら、やけに僕が優遇されてるように見えますね」 まあ、ある意味ではそうかもな。 俺も、お前にはかなり罪悪感を感じるから。 「どうしてです?」 「俺がハルヒに力を付与したことで、一番大きな影響を受けたのはお前だろう? 古泉」 古泉の表情が一瞬強張った。 しかし古泉はすぐに柔らかく笑い、 「残念ながら、というべきか、それとも、幸い、というべきなのか僕には分かりませんが、この頃こうしてここで過ごすことも、涼宮さんに振り回されることも随分と楽しくなってきまして、この力にも感謝しているんですよ。それがなければここであなたに出会うこともなかったでしょうから」 「…そう言ってもらえると少しは楽だ」 「しかし、神も罪悪感を感じるんですね」 「神なんて言っても、もうお前たちと余り変わらないぞ」 何しろ、人に紛れて暮らす一番の理由は「寂しいから」なんだからな。 と、それは口には出さなかったが。 ハルヒを除くSOS団のメンバーに自分の正体を明かした夜。 俺の部屋には長門と喜緑さん、それから怪しげな天蓋領域の端末が来ていた。 今の俺は直接天蓋領域に働きかけられない。 俺に出来ることは天蓋領域を消してしまうか、あるいはその方向性を強制的に変えてしまうことだ。 それでは公平ではないし、俺は一応ある程度の公平性は保ちたいと思っている。 世界を創った者としての矜持みたいな軽いもんだが。 だから俺は長門、喜緑さん、周防九曜と名乗った天蓋領域側の端末を介して、天蓋領域と名付けられたものへ連絡を取った。 目的は簡単かつ単純明快――警告のためだ。 そのために情報統合思念体及びその端末にも力を借りた。 為されたのは対話とも会話とも言えないやりとり。 周防九曜は言語能力が未だ完全でないらしく、妙な得体の知れなさを持っていたが、それはあくまでも俺の中の人間的な感覚が感じているものであり、人間的でない俺の部分はその正体まで見通せる。 天蓋領域が行おうとしていたことは、長門への攻撃及び長門とハルヒの情報解析。 特に重要と目されていたのは、去年の十二月十八日前後の情報だ。 あの冬の日、長門はハルヒの力を使って、一年の範囲内だけとはいえ世界をすっかり改変させてしまった。 そのデータだけでも、天蓋領域にしてみれば垂涎ものだ。 ハルヒの力及びそれによる自立進化は天蓋領域にとっても重要なことなのだから。 それを手に入れようとするだけなら、バグとは言えなかっただろう。 むしろ自然な行動だ。 しかし天蓋領域は古泉の属する機関と対立する組織の超能力者及び、朝比奈さんらと対立する未来人と共謀し、ハルヒの力を強引に奪い、かつ世界を改変させようとしていた。 世界の改変によって起こるのは、未来の限定だ。 それを突然強行された場合、俺や長門、古泉などがどう動こうと、対抗するすべはなかった。 それこそが、バグなのだ。 俺はハルヒに奪い去られることのない力を付与した。 他者が利用することなら辛うじて可能だが、無理に強奪することは出来ない。 その属性が無視されてはいけない。 それに、未来を限定することは許されない。 未来はいくつもの可能性を持ち、時が経過すればするほど世界は重なった世界を増やしていく。 そうして出来上がった平行世界の群れが互いに作用しながら互いの進化を促す。 世界とはそうでなければいけない。 だが彼等は自分たちにとって有利な未来を確定しようとした。 それは許されざるべきことだ。 それだけで彼等の存在を抹消するのに相応しい理由となりうるかもしれない。 だが、何もかも俺の思うとおりにしたのでは意味がない。 だから俺は条件を付与する。 ハルヒの力を奪いたければ、ハルヒの代わりとなって力を受け継ぐ、この人間を用意すること。 更に、あくまでもハルヒとその代わりとなる者の意思を尊重すること。 そして何より、俺の承諾を得ること。 その俺が覚醒していようがいまいが関係ない。 そう簡単に行くとはとても思えないが、何も知らない俺自身を彼等が上手く出し抜くのもいいだろう。 条件通りに彼等が接触を行い、決められた段階を踏むのであれば、ハルヒの力を使おうが長門を解析しようが、それは彼等の勝手だ。 とまあ、そんな交渉――むしろ俺からの一方的な通告をし、彼等も受け入れた。 これでとりあえず大き過ぎるバグは解消なんだが、まだ元に戻るわけにはいかないな。 古泉の望みもまだ叶えてないし。 翌日の放課後になって、俺は呟いた。 「やっぱりつまらんな」 「何がです?」 律儀にも古泉が尋ねてきた。 俺が苦笑しながら、 「世界が」 と意地悪く答えると、案の定古泉はぎょっとした表情を見せた。 「だからって世界を改変する気はねえよ。俺が言いたいのは、なんでも思い通りになる、なんでも分かっちまうってことがつまらないってことだ」 「もしかすると、涼宮さんがなんでもかんでも望みを実現させないのはそのためですか?」 「あれは俺がロックを掛けてあるんだ。基準以上の強い望みしか叶えないように。その上ハルヒは保守的だからな。余計に力が発現することも少ないわけだ。無自覚の神ってのは楽しくていいだろうな」 「あなたはそうできないんですか? その、ロックを掛けるというようなことですが」 「やってるようなもんだろ。だが、いくら力を封じていても、風船のガスが抜けてくみたいに少しずつ漏れてくるからな」 「そうなんですか」 俺は小さく息を吐き、窓の向こうへ目を向けた。 「あとは組織と未来人その2か」 俺は駅前へ足を向け、そこで意外と言えば意外な人を見つけた。 朝比奈さん(大)だ。 「こんにちは」 朝比奈さんはしかし、憂いを帯びた表情で俺を見つめ、 「いつものキョンくんじゃないあなたに会うのは久し振りね。と言っても、私にはあなたと接触したという記録があるだけで、実際に覚えてはいないんだけど」 とほのかに微笑んだ。 俺は穏やかに笑みを返しつつ、 「そうでしょうね」 と言ったのだが、朝比奈さんはどこか緊張した様子で、 「……あなたには不要かもしれませんが、あなたの探している人の所まで案内するよう言われてます。こちらへどうぞ」 そうして朝比奈さんに連れていかれたのは、SOS団御用達の店とは違う、喫茶店だった。 そこに入るなり朝比奈さんは姿を隠してしまったが、別に構わない。 目的の人間の姿は見つけられたからな。 「おい、そこの未来人」 そう声を掛けると流石にぎょっとしたらしい、いけ好かない野郎が振り向いた。 「お前は…」 そうやって驚く辺りは古泉の足元にも及ばないな。 あいつのポーカーフェイスはいっそ泣かせてでも表情を変えてやりたくなるほど絶妙だぞ。 「俺が何か、説明する必要はあるか?」 俺の問いの意味も、未来人は理解できなかったらしい。 多分、それだけの情報を持ってないのだろう。 「何を言ってるんだ?」 前に会った時に散々煙に巻かれたことを思うといい気分だな。 だが、まあ、丁寧に説明してやるのもバカらしい。 どうせ記憶は消すんだからな。 俺はそいつに指を突きつけて言った。 「未来を限定しようとするなよ、未来人」 「何だと?」 「過去も限定するな。不完全な時間遡行能力しか持てないような時代の有機生命体が」 そもそも、と俺は語る。 「世界はいくつも重なり合って存在する。それぞれの中に時間的な連続がある場合もあれば、ない場合もある。それを不完全な理論に基づいて、過去は常にひとつしかないと思うのは愚かしいことだと思わないか? すでにお前たちは未来がひとつに限定されないことを知ってる。間違った時間に飛んでおいて、その時間の歴史を歪めようとするな。それは新しく別の平行世界を作り出すだけだ」 そう、時間の操作、歴史の操作なんざ無駄でしかない。 なにしろ、時間が経つほどに世界はいくつもに分かれ、増えていくんだからな。 もちろん、ベースとなる世界や時間はひとつだけだ。 しかしそれはせみが脱皮して抜け殻を残してくように、抜け殻となった時間を過去においていくだけ。 未来は何も決まっていない。 可能性はいくらでもある。 二通りしかないわけでもないし、ましてやひとつだけではない。 それだけの話なら、朝比奈さんたちのやっていることも俺の好むようなものではないんだが、それはまたおいおい調整してやるとするさ。 それに、この話も多分どこかで聞いてるんだろう。 ――それを考えると、もう少しソフトな言い方にするべきだったかもしれないが。 とまあ、そんなことを話してやったのだが、未来人は現代人の古泉よりも理解力が低かったらしい、わけが分からないという顔だ。 俺はため息を吐き、 「まあ、いい。お前を通してお前の時間のお前の世界に通達しておく。未来を限定するなというだけだが、しないよりマシだろ」 そもそも、この時間の人間じゃない以上、大して干渉は出来ないんだし。 「お前、なんなんだ…?」 訝るそいつに、俺は答えた。 「神様さ」 俺はぽかんと立ち尽くしているそいつの額を指先で小突くと、さっさと背を向けた。 これで未来人も終りだ。 俺は店を出て、朝比奈さんの姿を探すこともなく歩きだした。 ポケットから携帯を取り出し、古泉へ電話を掛ける。 「組織とかいうのと連絡はついたか?」 『ええ、大丈夫です。会う場所はあちらが指定して来ていますが、それで構いませんか?』 「ああ、どこだって関係ないからな。俺が組織とやらの本部までいきなり行ってやってもよかったんだが、それだと穏やかに対話なんか出来ないだろうしな」 『…対話をするつもりでいるんですか?』 「うん?」 古泉、何が言いたいんだ? 俺があいつらをいきなり消すとでも思ったのか? 『いえ…そうではないのですが』 「まあ、消してもいいんだけどな」 俺は笑って言ったのだが、電話の向こうで古泉が凍りつくのが分かった。 そんなにビビるなよ。 「あいつらの存在自体がすでに、ハルヒに力を与えたことによって発生したバグみたいなもんだし、消したっていいんだが、天蓋領域とのことやなんかを考えると丁度いい存在だ。それに、」 と俺は思わず短い笑い声をもらした。 「俺も、存在まで消してしまうような真似は、したくないんだ」 人に慣れ過ぎたかな、と呟くと古泉の雰囲気が柔らかく緩んだのが分かった。 『本当に、あなたはいつものあなたなんですね?』 「そうだって言ってるだろ」 『怖いことを言うのはやめていただきたいですね。僕の方がびくびくしてしまいそうです』 「お前がそうして欲しそうだと思ったんだよ。だから、あんなことを聞いたんだろ?」 対話をするつもり云々とな。 『そうですね…そうかもしれません。あなたが、本当にいつものあなたなのか、不安で仕方がないんですね』 「気持ちは分かるが、信じてもらうしかないな。まあ、後は組織の奴等と話して、お前の願いを叶えたら、俺は元に戻る。それまでの辛抱だとでも思ってくれ」 『その願い……のことなのですが』 なんだ? 決まったのか? 『ええ。簡単なことなので恐縮なのですが、』 簡単でも何でもいいが、どんなことなんだ? 言い辛そうだな。 『……あなたに、いなくならないでいただきたいというのが、僕の望みです』 ……どう言う意味だ? まずその「あなた」の定義から聞かせてくれ。 『あなたはあなたです』 それはいつもの俺と言うことか? それとも今の――尋常ならざる俺のことか? 『どちらにせよあなたであることに変わりはないのでしょう?』 そりゃそうだが……やっぱり、その望みの意図が分からん。 『僕は確かに、あなたと涼宮さんのおかげで人生を大きく変えられましたけど、それでも、この生活もそこそこ気に入ってるんですよ。それはおそらく、あなたがいてくれたからです。あなたが神だとか、あるいは涼宮さんに選ばれた鍵であるとか、そんなことはもうどうでもいいんです。僕はただ、僕個人の望みとして、あなたにいなくならないで欲しいんです』 「別に、全て終ったからって、いなくなったりはしないぞ。どうせならもっと別のことを願ったらどうだ?」 『それでも、不安なんです。いなくならないのでしたら、他の願いを叶えるより手間が省けるんです。これでいいじゃありませんか』 「……全く、変なところで頑固な奴だな。分かったよ。約束する。俺はいなくならない。これまでと同じようにキョンとして、SOS団員としている。それでいいんだな?」 『ええ、ありがとうございます』 「それにしてもお前…」 俺は笑いを乗せた声で言った。 「俺のこと、大好きなんだな」 『っ、や、ま、まあ、そうですけどっ、変な意味じゃなくってですね、』 「あーあー、慌てなくても分かってるって。落ち着け」 ああしかし、本当に、 「ここにいられて、お前等に会えて、よかったよ」 嬉しくてそう言ったのに、古泉は不機嫌そうに、 『別れ際のセリフみたいなことを言わないでください。縁起でもない』 「はいはい」 適当に相槌を打った俺の前に見慣れた黒塗りのタクシーが止まる。 窓の中に、古泉の顔が見えた。 連れていかれたのは普通の小さなオフィスに見えた。 だが、やっぱり異質な空間と化しているのは、超能力者が集まっているからなのか、はたまた天蓋領域の端末や未来人が出入りするからなのか。 「やっぱり、集まるだけでいくらか異空間化するものなんですねえ」 特殊能力はそれだけで空間を歪ませる要素だからな……ってなんでお前がいるんだ古泉。 俺はお前に帰れと言わなかったか? 「あなたひとりで来たところで、彼等が信用するとは思えませんよ。何しろあなたは、中身はともかく、外見は以前のあなたのままなんですからね」 別に証し立てする必要もなければ、対話だって俺の自己満足に過ぎないのだが、それを言うとこいつはまたへそを曲げるんだろう。 俺は諦めて古泉と共に中に入った。 通されたのはいかにもと言った感じの応接室で、身体的に高校生の俺としては居心地が悪い。 背中の辺りがむずむずしてきそうだ。 しかし、顔を出したのはいつぞや見た朝比奈さん誘拐犯の少女だった。 彼女は古泉へ目を向けながら、 「あなたの方からこちらへ接触してくるなんて珍しいわね。しかもこの人を連れてくるなんて。どういう風の吹きまわしなの?」 「僕はただのお供ですよ? おそらく僕は、彼の役にも立てないでしょうね」 「おかしなことを言うのね、古泉さん」 くすっと笑った顔は普通の女子高生なのにな。 それがこんな深謀遠慮にも似た考えを巡らせて立ち回らなきゃならないってのも、やっぱり俺のせいなのかね? バグを消去して、組織を解散させてやる方が親切なんじゃないかと思えてくるが、天蓋領域との約束もあるし、仕方ない。 それに、動かなくてもいいものをわざわざ積極的に動いて来たのはこいつらの方だ。 自らの意思で超能力者をやってる、楽しんでると思わせてもらおう。 俺は古泉のように笑みを作りもせず、口を開いた。 「宇宙人や未来人と一緒になって実行しようとしていた計画は頓挫したぞ、と言えば分かるか?」 俺が何の前置きもなく言ったので、誘拐少女――橘っつったか?――は驚いたようだった。 「何のこと?」 それでもとぼけ方は上手いな。 「本来なら、佐々木も無関係なんだがな」 そう、あれはただの友人だ。 神もどきでもなんでもない。 だから、あいつを神だと思ったのはこいつ等の勘違い、というか、あいつと俺の接触が多かったから、あいつを神だと勘違いしちまったんだろうな。 しかし、天蓋領域は神の代役として佐々木を担ぎ出すつもりでいるらしいし、それならこいつらを消すわけにもいかないだろう。 だから、それはいい。 俺が言いたいのは簡単なことだ。 古泉、お前も聞いておけよ。 「自覚のある神は、安全装置でしかない。この世界の群れを調整する役割しかない。だから俺は、力を与えたものに自覚を与えなかった」 それなのに、と俺は俺を不気味そうに見ている橘に言う。 「お前たちは宇宙人たちと一緒になってハルヒの力を強奪し、佐々木に自覚ある神としての役割を与えようとした。それは、許されない。――ただし、絶対にではない。宇宙人との交渉で、そのための条件を作った。それさえクリアすれば、ハルヒの力を佐々木にやっても構わない。条件は宇宙人にも未来人にも伝えてある」 「あ、あんた、なんなの!?」 「安全装置。――ついでだから言わせてもらうが、自覚のある神なんて、つまらないことこの上ないぞ」 好き勝手に世界をいじれるならまだしも、俺の場合はそうじゃないしな。 橘は説明を求めるように古泉を見たが、古泉は古泉で俺の話を反芻しているらしい。 興味深げに頷きながら、 「では、あなたは僕たちにも選択権をくださるということですね」 ……あれだけの話でよく分かったな。 「ええ、まあ、あなたの考えることでしたらある程度は分かりますし」 でも、と古泉は苦笑した。 「それは余計な選択権かもしれませんね」 そうか? 「ええ。要するに、僕や朝比奈さん、長門さん、そして涼宮さん自身に、今のままでいいのか、それとも平凡で在りたいかを問いたいのでしょう? 12月にあなたが選んだように」 そうなるな。 「しかし、あらためて聞かれるまでもなく、僕たちは現状に満足し、そこそこ楽しめていると思います。もちろん、投げ出したくなるような時があることも否定は出来ませんが」 「俺の自己満足だとは思う。それでも俺は、お前等に選ばせたいんだ。いや、違うな。……投げ出してもいいんだぞと言いたいってところだな」 「お心遣いありがとうございます」 そう微笑むことができる古泉は本当に強いと思う。 橘、お前等は本当にこんな風に強く、神を支えていけるのか? 混乱しているらしい橘を一瞥して、俺は立ち上がった。 古泉も一緒に立ち上がりながら、 「これでいいんですか?」 ああ。 「彼女の返事は必要ないと?」 対話したいとは思ったが、理解さえ出来ないなら無理だろ。 俺のすべきことはこれで終了だ。 後はお前等に丸投げさせてもらうとしよう。 「光栄ですとでも言うべきでしょうかねぇ」 文句を言ってもいいんだぞ? 「いえいえ、あなたに――神であろうとなかろうと、あなたにそれだけ信頼されていることが、僕は嬉しいですから」 そう古泉は楽しげに笑って見せた。 「それで、これからあなたはどうするんです?」 「そうだな…。一応、朝比奈さんや長門に報告を含めて話したいことがあるし、明日の放課後まではこのままでいることにしようと思ってる」 「でしたら、この後、少しお付き合い願えませんか? あなたの創った世界の、ほんの一部でも見に行きませんか?」 古泉の申し出は魅力的だが、受けられないな。 「いや、いい。すまんが、正直、長い間人間として過ごしてきた俺としてはこの状態は疲れるんだ。帰って休みたい」 休んだところで余り変わらないんだがな。 「どう、疲れるんです?」 タクシーに乗り込んでも古泉は会話を止めなかった。 「参考までにお聞かせ願いたいですね」 「そうだな…。例えば、一目見るだけで、相手の考えていることが分かるとしたら、その疲れ方が分かるんじゃないか?」 「あなたはそれが分かるのですか?」 「望めばな。それを望まないように、見ないようにと理性で押さえ込むことに、疲れるんだ」 人間になりきってなかった頃は、見ても平気だったことが見れなくなっている。 「多分、俺の力も弱まってきてるんだろう」 そうしていつか、ただの人間になる。 俺は、まだ遠いのだろう、その日が待ち遠しい。 そうして、また朝が来て、昼を過ごし、放課後を待つ。 俺は長門、古泉、朝比奈さんにざっと今回のバグのこと、その修正などについて話した。 朝比奈さんはしきりに役に立てなかったことを詫びていたが、大きい朝比奈さんがいくらかは手を貸してくれた形になっているし、こう言うと酷いが、そもそも朝比奈さんに多きを求めてはいなかったので構わない。 そうして俺は言う。 「短い間だったが、俺として過ごせて楽しかった。ありがとう。長門、朝比奈さん、それから古泉」 悪いが、これで終りだ。 「どういう意味です?」 古泉が訝しむのももっともだ。 「悪いが、記憶は消させてもらう。お前等だけじゃなく、組織も、未来人その二もな」 「では、なんのために会いにいったんです?」 「暗示を掛けてやるためさ」 俺のルールに従うという、な。 「それに伴って世界をいくらか改変させる。これでバグは完全にバグじゃなくなる。それから俺は自分の記憶も力も封じて、元に戻る。全て元通り、世は全てこともなし、だ」 「しかし、」 と古泉が言い募ろうとするのを、俺は遮った。 「お前が記憶を消さないで欲しいと思ってくれるのは嬉しい。お前はきっと、俺が神でも神じゃなくても同じに接してくれるんだろう」 おそらく朝比奈さんも長門も。 「でもな、俺は怖い。少しでも同じじゃなかったらどうしようとか、小さな子供みたいに考えて、どうしようもなく不安になるんだ。神なんて偉ぶったところで、もう、俺はただの臆病者なんだよ。だから、すまん」 そう言って俺は念じる。 変化は一瞬だ。 古泉と朝比奈さんは記憶を消した上、椅子に座ったまま眠らせた。 意識を持って、俺をじっと見ているのは長門だけだ。 「長門」 長門の目が俺を促すように見つめる。 「情報統合思念体の関係もあってお前の記憶は消さない。お前なら、不用意に俺の正体を口にしたりしないと思うし、多分、これも必要なんだろう。――もし、何かあって、俺の力が必要だと思ったら、呼んでくれ。必ずそれに答えるから」 「……分かった」 「念のために言っておくが、統合思念体になにかあったらじゃないぞ。お前や、SOS団にだ」 「分かっている」 「……頼んだぞ、長門」 俺は椅子に座りなおし、目を閉じた。 目を覚ました俺は大きくあくびをしながら部屋の中を見回した。 俺が居眠りをするのは初めてじゃないが、古泉や朝比奈さんまで寝てるってのは珍しいな。 起きてるのは長門だけか。 しかし、はて、なんで俺は寝てたんだろうな。 「長門…俺、いつから寝てた?」 「…少し前」 長門にしては嫌に曖昧な返事だが、長門も本に夢中になっていて気にしてなかったのかもしれない。 「疲れてたのかな…」 言いながらあくびをもうひとつした俺に、長門がふいに尋ねてきた。 「あなたは、この世界が好き?」 いきなりどういう質問なんだ? 唐突過ぎて、いつぞやの朝倉の発言を思いだすぞ。 だが、まあ長門だから他意はないだろう。 「ああ、好きだ。…うん、好きだな」 なんとなく繰り返してしまうと、不思議と笑いがこみ上げてくる。 鶴屋さんのように大笑いをするわけではないのだが、口元が緩むという感じで。 長門はじっと俺を見つめていたが、 「…そう」 と答えて目を膝の本に戻した。 質問の意図するところは分からないままだが、長門はなんとなく満足そうに見えた。 窓はゆるやかに赤く染まろうとしている。 いつもとなんら変わりない、穏やかな日の終り。 平凡なはずの世界が、何故だか奇妙に愛おしく思えるほど、その日の夕陽は綺麗だった。 |