今日も俺は古泉とふたり、部室でチェスをしている。 あの恐ろしく長い夏休みのせいで少し前までばたばたしていたせいか、このところは実に静かに過ごすことが出来ている。 ハルヒ自身はそろそろ退屈の虫が騒ぎ始めているのかも知れないが、俺としては穏やかで何よりと言う他はない。 ない、はずなのだが……日々が平凡に見えれば見えるほど、気になり始めることが、ある。 慌ただしくしていれば全く気がつかないどころか、そんなことを気にしていたことも忘れてしまうのだが、この頃のように日々が落ち着いてくるとそれがやけに目につく。 一体それは何なのかと言うと、――今俺の目の前にいる野郎の不審行動である。 古泉はどういうわけか、チェスをしている間だろうが、将棋をしている間だろうが、カードで遊んでいる間だろうがとにかく構わず、俺の指を目で追い続けているのだ。 そのせいか時々妙なところへ駒を置いたりするのもあって、こいつは俺にゲームで負け通しているんじゃないかと思う。 ひたすら俺の指を追う目に、俺は指先どころか背筋までむず痒さを感じずにはいられない。 どうして、こいつは指を見ているんだ？ 指フェチかとも思ったが、俺の指は普通の、いくらか筋張った男の手だと思う。 どうせ鑑賞するなら朝比奈さんの、まさしく白魚のような指を鑑賞した方がよっぽど目に楽しいと思うのだが、フェチズムというやつは基準からして普通と違うのかもしれない。 俺は白のポーンに指を伸ばし、それを進めようと持ち上げ――それを目で追っている古泉を、少しからかってやろうという気分になった。 俺がひょいと指を上げると古泉の目がねこじゃらしを追うシャミセンのようにそれを追う。 左、右、左、と動かしても同様である。 それでぐるりと輪を描き、俺は古泉の鼻先にそれを突きつけた。 「古泉」 「なんでしょう」 何もなかったように古泉は答えたが、その表情はどこか引き攣って見えた。 「どうやら、自覚はあったらしいな」 「何のことでしょうか」 さっぱり見当もつかないと言わんばかりの表情を作って、古泉はそう言った。 どう考えても作った表情だと言うのにそう見えないと言うのもある意味凄い能力だと思うが、余計にこいつを信頼出来なくなるな。 何にせよ、こいつに遠回しな聞き方は無駄だ。 妙な理論で煙に巻かれるか、論理のすげ替えをされるのがオチだからな。 よって俺は、単刀直入かつ簡潔に言った。 「お前、指フェチか？」 どうやらその問いは古泉にとって予想外だったらしく、古泉は珍しく驚きを露わにした。 その顔からすると、指フェチじゃあないらしいな。 「あ、当たり前でしょう！？」 「じゃあなんで俺の指を執拗に見てるんだ？」 「そんなつもりはないんですけど…」 「嘘つけ」 「困りましたね…」 と古泉は苦笑して見せた。 「本当に、偶々ですよ」 この大嘘つき野郎、と睨みつけたが古泉には少しも堪えなかったらしく、結局古泉は白状しなかった。 俺は再三再四自分の手を見たが、指フェチ以外の理由でじっと見られる理由など、全く思い浮かばなかった。 大体、俺の指など古泉の指とどう違うと言うんだ？ 古泉の方が若干指が長く、手が全体的にいくらか骨ばっているくらいのことしか、俺には思いつかない。 それから数日後、俺がハルヒの命令で大量のチラシの枚数を確かめていた時のことだ。 全く、ハルヒはこれだけ大量のチラシをどうやって撒くつもりなんだろうな。 バニーガールがだめだったからと言ってあいつが諦めるはずがない。 どうせ、また別の衣装で朝比奈さんを泣かせ、男子生徒を大いに悩ませるつもりなんだろう。 せめてもう少し大人しい衣装であることを祈る。 そんなことを考えていたのが悪かったのだろうか。 俺はうっかり指を滑らせ、チラシの一枚で指を切った。 「痛っ！」 思わず声を上げると、ハルヒに命じられなかったがためにひとり詰め碁をしていた古泉が顔を上げ、 「どうしたんです！？」 「いや、紙で指を切って…」 「大丈夫ですか？」 狭い室内でのことなのに、古泉は軽く駆け足になりながら俺に近づいてきた。 その間に、一ミリにも満たない傷口から赤い血が溢れだす。 これくらいなら舐めときゃ治るだろ、と俺がそれを口に含もうとした途端、古泉にその手を掴まれた。 「古泉？」 驚いて古泉を見た俺の目に映ったその目は、正気の色をしていなかった。 背筋がぞっとするほどギラギラとした光は普段の古泉からは余りにも懸け離れすぎていて、正直、怖かった。 手首を掴む力が強い。 手の痕が残るんじゃないかと思うくらいに強く掴まれて、俺は傷の痛みも忘れた。 古泉の形の整った唇が軽く開かれる。 のぞいた赤い舌が、酷く淫靡で。 俺は無意識のうちに、それから目を逸らした。 指先に湿り気を帯びた、生温かいものが触れる。 ぬめるようなそれに包まれる。 傷をなぞられる。 指先をじゅっと吸われ、俺が感じるのは、傷のちりりとした小さな痛みと、奇妙なまでに強い羞恥心、そしてむず痒さ。 手が完全に解放されても、俺は必死に目を逸らし続けた。 他のものへ意識を集中させ、じっと耐えた。 最後に俺の指先が感じたのは、名残惜しげな唇の薄い皮の感触だった。 「すみません…」 古泉が申し訳無さそうに言い、俺はやっとそちらへ目を向けた。 首を不自然に一定方向へ向け続けていたせいで、首も肩もどうかなりそうだ。 俺は古泉に言った。 「説明しろ」 その一言で古泉には十分だったらしい。 俺たちは広げていた碁盤や碁石、チラシの束なんかを長机の隅に押しやると、いつものように向かい合わせに腰掛けた。 古泉はたっぷり数十秒の躊躇いを見せた後、口を開いた。 「ヴァンパイアフィリア……というものをご存知でしょうか」 知らんな。 なんだそれは。 「吸血病や好血症とも呼ばれるのですが、簡単に言えば、血液を好む病気といったところでしょうか。好むと言っても流血を見るのが好きと言うわけではなく、血液を口にすることを好むのです」 つまり、お前がそうだということか。 俺の問いに、古泉は長年隠し通してきた犯罪を暴露させられた老犯罪者かなにかのように、がっくりと頷いた。 そのまま俯いて、顔を上げようとしない。 俺が古泉の目から逃れたくて顔を背けたのと同じように、古泉は俺の目から逃れるように顔を伏せたまま、話を続けた。 「他人の血液でないといけないという人もいるのですが、僕はもっぱら自分の血液で満足していたんです。しかし、あなたの手を見ていると……その、血色がよくて、美味しそうだなって……」 思ってたわけか。 「はい…」 俺の妹を頭ごなしに叱り飛ばしたところでこうはならないだろうというくらいにしょげた様子で古泉は頷いた。 「今も、あんなことをするつもりはなかったのに、あなたの指から流れる血を見たら……我慢が出来なくなって…」 もし、これが古泉の作戦なら、これ以上はないというくらい成功したと言えるんだろう。 何しろ俺はいきなりあんなことをされたというのに、すっかり怒る気をなくしちまってるんだからな。 「その吸血病ってのはどういう病気なんだ？」 「主に鬱病が元でなると言われるものです。人によっては他人を傷つけて血を飲むような人もいますけど、僕はそんなことはしていません」 「鬱病？ お前、鬱病なんかになってたのか？」 「そうですね…。三年前の僕は、そんな感じでした。ですが……自分の血を舐めるようになって、その症状は落ち着いているんです。そのために僕も止められなくなって…」 三年前、か。 お前、三年前って言えば俺が折れるって分かってて言ってんじゃないよな？ 「え？」 いや、なんでもない。 俺はため息を吐かずにはいられなかった。 全く、ハルヒはどれだけ俺に迷惑を振りまけば満足するんだ？ 「あの……すみません」 「うん？」 いきなり謝られて、俺は戸惑いながら古泉を見た。 古泉はすっかり縮こまってしまっている。 「もう、あんなことはしませんから…」 ……どうやら、俺の吐いたため息を自分に向かってのものだと思ったらしい。 「別に、あれくらいなら気にしてないぞ」 どうせ自分で舐めようと思ってたしな。 「しかし、ずっと目を逸らして……」 …あれか。 あれは……その…あー……。 「…お前、一度自分が他人の指を必死になって舐めてるとこ、想像してみろ」 「はい？」 下手するとＡＶやエロ漫画よりもエロいから。 俺が言うと古泉は少し考え込んだ後、にっこりと笑って見せた。 それは表面上は大人しい笑いだったが、俺には底意地の悪いものにしか思えなかった。 「想像しても分かりませんね。試してみてもいいですか？」 「はっ？」 おいお前今何て言った？ というかもうしないって言ったよな？ 「いきなりはしないということです」 いいや、あれは血を舐めること自体しないって意味だった。 今になって翻すんじゃない。 発言が信用ならないのは政治家と官僚だけで十分だ。 「他人の指を舐めている姿がエロいと言われたところで僕にはこうする他に確かめようがないでしょう？ 僕としても信じたくないんですよ。そんなことは。だから、そうだったと言うなら証明してください」 「だからって何でまた指を舐められなきゃならんのだ」 「他にいないでしょう。それとも何ですか。僕に他の人の指を舐めて来いとでも言うんですか」 そうしてこい、と言える性格なら俺は今頃この部室にいなかったに違いない。 俺は古泉の携帯を持たされ、古泉に向かって指を差し出すはめになった。 しかも、それを証拠としてカメラに収めるには、さっき思いっきり目を逸らしたそれを直視しなくてはいけない。 どういう拷問だ。 さっきの殊勝だった古泉はどこへやった。 ハルヒが世界を改変させたんだと誰か言ってみろ。 今の俺なら信じるぞ。 「では、失礼します」 やけに恭しく言って、古泉が俺の指を口へ運ぶ。 かすかに血の滲んだ傷口に古泉の舌が触れる。 それだけでは足りないとでも言うのか、古泉は俺の指を第一関節までくわえ、痛いほどに吸った。 またあのむず痒さと恥ずかしさがぶり返してくる。 ぴちゃりと嫌に猥らがましい水音が静かな部屋の中に響く。 空いている方の手は自由なはずなのに、ぶるぶると震えて撮影ボタンを押すことも出来ない。 俺の指が白くふやけてしまうほど長い間それを口に含んでいた古泉は、それを解放するなり笑顔で言った。 「あなたの方がよっぽど色っぽい顔をしていると思いますよ」 古泉の言葉を裏付けるかのように、頬が熱くなっているのが分かった。 |