彼は彼女に恋をする 5



こっそりと思いを通じ合わせた僕たちの関係がその後急激に変わったりすることはなかった。
そうしてはいけないとお互いに分かっていたし、それに耐えられるだけの忍耐力も備えていたからだ。
ただ、全く変わらなかったわけではなかった。
彼女は前ほどではないけれど度々保健室にやってきてくれるようになったし、他に誰か休んでいる人がなければゆっくりしていってもくれる。
僕のことを好きと言ったりはしないけれど同じくらい雄弁な瞳を向けてくれたりもする。
僕も同じように返しているつもりだ。
ある意味、付き合っていると言ってもいいのかも知れないけれど、でも、実際には違うし、何より僕は彼女に明かしていないことがある。
僕の性癖についてだ。
本当に彼女と付き合うつもりがあるなら、彼女にきちんと明かさなければいけないのではないかと
黙っていてもいいのではないか、と思う気持ちもある。
それまでがどうあれ、彼女を女性として好きになったことはもはや疑いようもないことなのだから、過去のことをわざわざ話す必要はないと思いはする。
それでも、そんなおかしな秘密を抱えたままでいて、彼女と付き合うとかそういうことをしてはいけないように思う方が強かった。
いつかは話さなければいけない。
それをいつにするかが問題だった。
夏休みを目前に控え、休み中の過ごし方や何かのプリントを製作していると、戸が元気よくノックされた。
「どうぞ」
と言いながらつい顔が緩むのは、来訪者が彼女だと分かっているからだろう。
「失礼します」
という声だけはきちんとかけて、でも保健室に入ってきた彼女は柔らかく笑っていた。
後ろ手に鍵を掛けるから、
「今日は何を企んでいるんです?」
と尋ねると、
「んー? うん、まあちょっと見せたいものがあって」
なんて台詞を悪戯っぽく言って僕に近づいてきたと思ったら、いきなりセーラー服をめくり上げ、脱いでしまった。
「なっ……!」
あまりのことに呆然とし、間の抜けた声を上げた僕に、彼女は愉快そうに笑っている。
「これ、可愛いだろ?」
と見せびらかしてくるのは、平らな胸に優しく沿う淡い黄色のブラだ。
「お前が前のはきつ過ぎて体に悪いって言うから、ちゃんとしたの買ってもらったんだ」
嬉しそうに言って、彼女はそれを僕の顔に近づける。
柔らかなフリルや花柄の刺繍の細い糸の一本一本まで見て取れるような距離にドキドキする。
ふわりとかすかに甘い香りがしたのは彼女のシャンプーだろうか。
制汗剤かも知れない。
まさか香水は使ってないだろうけれど。
顔が赤くなりかけるのを自覚しながら、
「可愛いですしよく似合ってますけど、女の子が男に軽々しくそういうことをするのはやめなさい」
と言うと、彼女は軽くふくれて、
「せっかく可愛いの買ってもらったんだから、見せびらかしたくなるだろ。でも、女の子に見せるわけにもいかないから、そうしたらお前しかいないじゃないか」
「だからって…」
「それに、お前に見せてそれでどうこうなっても、俺としては構わないし?」
そう言って偽悪的に唇を歪める彼女はまさに小悪魔だ。
「ほら、早く服を着てください。誰かに見られたらどうするんです?」
「鍵かけたんだから平気だろ。大体、」
そう言いながらも彼女は僕に背を向け、セーラー服を頭から被る。
「俺のブラ、緩めたこともあるくせに」
「っ、だ、から、それは、あの場合取るべき処置をしたまでで…!」
反論しても赤くなってしまってはまるで意味がない。
振り向いた彼女はやはりにやりと笑って、
「先生のエッチ」
と煽るようなことを言う。
「いい加減にしないと、立ち入りを制限しますよ」
出来もしない脅し文句を口にすると、彼女は意外にも、
「それはやだ」
と言う。
「先生に会えないのは嫌」
拗ねるように口にする彼女が可愛くて愛しくて、僕はむりやりパソコン画面に視線を戻し、とにかく彼女から目をそらさなければならなくなった。
「先生ー」
椅子に座り、細い脚をぷらぷらさせながら彼女が言う。
「もうすぐ夏休みだな」
「…そうですね」
「夏休みになったら、先生とも会えないな」
「……そうですね」
「…先生に会いたい」
「……」
そうですね、とは返せないような言葉に思わず手の動きまで止まった。
「なあ、先生は休み中も来たりするんだろ?」
「…それは……まあ、休み中でも部活動はありますし、それで怪我をすることも例年のことですから、ある程度はここに詰めてますよ」
「じゃあ、来てもいいか?」
「……そうですね…」
それくらいなら、と応じると、彼女はただそれだけのことだというのに酷く嬉しそうな顔をした。
そうしておいて、
「ところで、先生には休みってのはないのか?」
「ありますよ。流石にお盆はお休みです」
「お盆か…。……で、先生は帰省したりは…?」
「しませんね。毎年自分の家でごろごろするだけですよ」
「……じゃあ、その間は先生じゃないんだな」
「………はい?」
「ただの古泉一樹として過ごす、ってことじゃないのか?」
それはまあそんなところではあるのだけれど、彼女は一体何を言いたいのかというのが分からない以上、迂闊に頷いてはいけないような気がした。
「……何がしたいんです?」
「んん…? 分からんか?」
「分かりません」
「…先生じゃない古泉なら、家に呼んでも問題ないかと思ったんだが、だめか……?」
上目遣いで言った彼女に、とっさには、
「だめです」
と返せたはずなのに、その後延々三十分に渡って可愛らしくおねだりをされ、敗北した僕はもはや退職願を提出するべきなのかも知れない。

そうしてやってきた八月の某日。
僕は彼女の家の前に立っていた。
本当にお邪魔してしまっていいのだろうかと迷っている間に、玄関が開く。
「よう古泉」
と顔をのぞかせた彼女は、ジーパンに半袖のシャツというラフな格好だった。
男の子っぽくもあるその服装は、いつも制服姿ばかり見ている僕にはとても新鮮で、どきりとする。
「こ、こんにちは。お邪魔します」
「ん、上がれよ」
学校でもラフな話し方をする彼女だけれど、今日はいつも以上にそう思えた。
更に言うなら、どこかふわふわしているようにも聞こえる。
「ご機嫌ですね」
「…そりゃ、だって、なぁ?」
恥かしそうに身をよじった彼女だったけれど、
「……お前が来てくれたら、嬉しいに決まってんだろ」
ふふ、と忍び笑いを漏らしながら僕は靴を脱ぎ揃え、彼女が出してくれたスリッパに足を突っ込む。
「こっち」
と案内されるまま階段を上がり、入ったのはどうやら彼女の部屋のようだった。
男の子っぽい簡素な部屋だけれど、さりげなく女の子らしさが滲んでいる。
部屋の隅にはちょこんと小さめのドレッサーがあったし、そこにはちまちまと香水のミニボトルがコレクションのように並んでいる。
時々彼女から香る甘い香りの正体はもしかしてこれなんだろうか。
それから、部屋の中にはちょこんとぬいぐるみが置いてあったりしたし、ベッドの布団や枕もあっさりとした寒色なのかと思うとよく見たら小さくリボンの模様がプリントされていたりもした。
女の子の部屋だなぁとしみじみしながら、用意されていたドット柄のクッションに座ったまではいいけれど、
「あの…今日はご家族は……?」
「まあちょっと待てよ。今飲物用意してくるから」
彼女は答えないままキッチンへ行ったかと思うと、ほどなくしてグラスに注いだアイスコーヒーを持ってきてくれた。
「コーヒーでいいよな?」
と言いながらそれを僕に差出すような格好で低いテーブルに置き、自分の分も隣りに置いた。
え、と思った時には彼女は僕の隣りに座っていて、照れ臭そうに笑いながら、
「なんか、今なら何でもやれそうってくらいハイになってる気がする」
と可愛らしいことを言うのはいいんだけれど、
「あ、あの……ご家族はどうされたんです?」
冷たい汗が伝うのを感じながら再度問うと、彼女は悪戯っぽく目を細めて、
「お盆なんだから、帰省してるに決まってるだろ?」
と言ってのけた。
「……ええと…あなたは……?」
「俺は、女の子として親戚に会うのはまだ怖いからって遠慮した。だから、残ってるのは俺だけってことになるな」
だから、と彼女は至近距離で僕の目をのぞき込み、
「古泉も、先生っぽい敬語なんてやめて、古泉として話して?」
とねだる目つきにくらりとした。
コーヒーに酒でも混ぜてあったのかと思うような酩酊感だけれども、そもそも僕はまだコーヒーに口をつけてすらいない。
「…キョンさん……」
「キョンでいい。…古泉がいいなら、名前でもいい」
ほんのりと赤い顔でそんなことを言う彼女はいっそ蠱惑的でもあった。
「……なあ、古泉…俺のこと…女の子として、見てくれる…?」
まずいかもしれない、と思いながら僕は正直に答える。
「見るも何も、あなたは女の子でしょう? …少なくとも、僕の中ではずっとそうですよ」
「…敬語で言われても、先生が言ってるだけみたいで、嫌だ……」
そう唇を尖らせて言われ、僕に勝てるはずがない。
「……女の子だと思ってる」
苦笑しながら答えると、彼女は嬉しそうに笑う。
「嬉しい」
見ているだけでも分かるのに、わざわざそんなことを言うのも、言っておいて照れ臭そうにするのも、やっぱり女の子だなあと思う。
「可愛い女の子だよ」
そう付け足すと、彼女はそれこそふわふわと夢心地になっているような顔をしたのだけれど、
「あ、あのな…」
と声を震わせる。
「……分かってると思うけど、」
そう前置きして彼女は瞳を潤ませた。
「…俺は……古泉が好き…だ…」
僕がどう思っているかなんて知っているだろうに、彼女は震えながらそう言い、不安を紛らわせるようにきつくクッションを握り締めた。
力が入りすぎて白くなっている指先にそっと手を触れさせながら、あえて敬語に戻して言った。
「……僕はあなたの思いにこたえてはいけない立場だと、聡明なあなたには分かるはずですよね…?」
「それは…先生の古泉は、だろ。……俺が好きなのは…古泉だ。先生じゃない………」
「困った人ですね」
先にそんな詭弁を使ったのは僕だけれど、こんな風に使われるとは思わなかった。
そう苦笑しておいて、でも僕にもどうやら我慢は出来ないようだった。
僕は声を潜め、そのくせ強く彼女の手を握り締めて、
「……僕も、好きだよ」
と囁いた。
それは本当はどうあっても隠すべきことだと分かっていたのに、言わずにおれなかった。
彼女は感激に涙をにじませながら、
「大好き」
と囁いて僕に抱きつこうとした。
それをやんわりと押し止め、
「でも、ちょっと待って。……聞いておいてほしいこと、いえ、話しておきたいことがあるんだ」
「…なに……?」
心配そうに彼女は眉を寄せた。
「……僕は…」
今言うしかないと決めて、僕は口を開く。
「…僕は、いわゆる同性愛者…なんだ……。それとも、そうだった、と言うべきなのかな…」
僕が話しておきたいことがあると言った時、彼女が一体どういうものを思い浮かべたかは分からないけれど、多分、予想はしていなかったんじゃないかと思う。
驚きに目を見開き、
「え、ええと…それって……つまり…どういう……?」
混乱した様子を見せる彼女に、僕は慌てて言い添える。
「誤解しないでください。だから、体が男であるあなたを好きになったわけじゃないんです。むしろ、あなたの女の子らしいところに惹かれているから…」
「……そう…なのか……?」
「ええ。…あなたのことは女の子だと思ってる。女の子として、好きになったんだ」
「……でも………そういうことなら…この体のままの方がよかったり……?」
「え、いえ……それは……あなたの自由だと思うし…あなたなら……その、ちゃんと女性になっても、魅力的だと思う…から……」
「……本当に?」
「うん…」
頷いた僕に、彼女は今度こそ抱きついてきた。
そればかりか、不意打ちのようにキスされて驚く。
「っ…!?」
かあっと顔が真っ赤になるのを感じながら、彼女を見つめる。
僕よりよっぽどうぶなはずの彼女は、それなのになんでもないような顔をしていて、僕の首に腕を絡めたまま、
「手術とか…そりゃ、怖いと思うんだけどな。……せめて前はなくしたいって思うんだ…」
という話を始める。
「そう……なんだ?」
「うん。……だって、あれが一番の違和感の元なんだ」
あれ、と言う声にも嫌悪感が滲んでいるように聞こえる。
「なんでこんなもんがあるんだろうって、本当に苦しくなる。俺にはこんなもんないはずなのに。触りたくないし見たくもない。気持ち悪い」
そう本当に嫌そうに言って、
「…俺は女なのに」
と呟いた声があまりにも切なげで悲しくて、僕はつい彼女の背中を強く抱き締めていた。
「…女の子だよ」
「……ん、ありがとな…」
くすぐったそうに笑って、彼女は僕を見つめ、
「お前がそういう性癖なんだったら、ちゃんと作らなくってもいいかな…」
なんて呟き、
「あ、でも、胸はほしいな。柔らかくって丸いの」
と嬉しそうな声で言う。
腰がくびれてて、胸はそこそこあって、なんて語る楽しげな彼女の声に、女性になった彼女の姿がありありと思い描ける。
僕はそれを思いながらうっとりと、
「きっと素敵な女性になるんだろうね」
と呟いた。
彼女はまだどこか疑うように、
「……なって、いいのか?」
と尋ねてきたけれど、僕の答えは決まっている。
「もちろん、なってください」
幸せそうに笑った彼女は僕をもう一度きつく抱き締めておいて、
「ちゃんと、三年待つから、お前も待って…?」
と囁いた。