彼は彼女に恋をする 4



久しぶりに訪れてくれた彼女は、なんだか気まずそうな顔をしてひょこりと現れた。
「こんにちは」
努めて愛想よく声を掛けると、少しほっとした様子が見えたけれど、それでもどこか決まりが悪そうに、
「…久しぶり」
と呟くように言った。
「はい、お久しぶりですね」
いやみにならないように柔らかな声を出せるよう心がけながら僕は言葉を継ぐ。
「学校には慣れました?」
「そりゃ、な。……えっと…友達が出来て、そいつにあれこれ振り回されたりしてた」
「おや、そうなんですか。相変わらず部活は…」
「してないけど……、つうか、お前も聞いてんだろ?」
と彼女はため息を吐いた。
「ハルヒが無茶苦茶やらかしてるの。俺もそれに巻き込まれてるんだって」
その言葉に、ずきりと胸が痛む。
ハルヒ、というのは先日彼女と一緒にいるのを見かけた女生徒の名前だ。
涼宮ハルヒというその少女は、それこそ人間の形をした竜巻か何かのような凄まじいエネルギーの持ち主で、あれこれ大騒ぎを起こしてくれるため、職員会議などでも度々話題になっている。
しかしながら、どちらかというと生徒の自主性を重んじる校風でもあり、くわえて彼女に関しては触らぬ神に祟りなしという言葉がそれこそ申し送りのように出身中学から寄せられていたため、こちらも静観の構えとなっているのだ。
僕は痛みなど感じなかったかのような顔で小さく笑って、
「大変そうですけど、楽しそうでもありますね」
と答えた。
「楽しそうだって?」
心外そうに彼女は顔をしかめたけれど、本当に楽しくないなら彼女のことだ、うまいこと言って逃げているに違いない。
きっと、彼女としても楽しいのだ。
それが羨ましくて、僕といるよりも楽しいのだろうと思うと少なからず妬けた。
「素直に楽しんだ者勝ちだと思いますよ」
「……」
彼女はむうっと唇を尖らせながら丸椅子に座り、そのままだらりとテーブルの上に顎を置く。
少しばかり汗ばむような気温になっているのにそんなことをすると、テーブルの上に広げたビニールのテーブルクロスがべたべたとくっつくんじゃないだろうかとどうでもいいようなことを思いながら、僕は彼女を見つめて彼女の言葉を待つ。
「………先生、」
「はい、なんでしょうか」
「…俺……しばらくここに来ないかも」
みっともなく歪みそうになる顔をなんとか笑みの形に保つ。
寂しいですとか嫌ですとか喚いてすがりたくなるのをぐっと堪えて、
「…あちらが忙しくなるから、ですか?」
「……そんなとこ」
「…そうですか。残念ですが、それなら仕方ありませんね」
仕方ないなんてちらとも思っていないくせに、偽善者の顔でそんなことを言う。
「でも、何かあったらいつでも来てくださいね?」
大人のふりをして、物分りのいい顔をしてみせる。
「……忙しさが落ち着いたら、来ていただけると嬉しいですけど…」
ほんの少しの本音を混ぜながら、僕は彼女に一杯のコーヒーを振る舞い、彼女がいなくなってからひとりでため息を吐いた。
彼女に友達が出来たことも、役に立つのかすら怪しい僕のサポートが要らなくなったことも、彼女にとってはいいことだ。
僕が寂しく思っても、それ以上に彼女の成長や彼女が馴染めたことを喜ぶべきだと思う。
嬉しいと、素直に思いもする。
それを心から喜び、祝福し、彼女の幸せを自分のそれと思えるようになりたいと願いながら、僕は少しばかり陰鬱な梅雨を過ごしていた。
梅雨が明けて本格的に暑くなってきたら、部活や体育の時間に脱水症状や暑気あたりで倒れる子が出てくるのも毎年のことだから、その準備だけでもきちんとしなくてはいけないという義務感であれこれ手配して気を紛らわす。
そうでなくても先日は屋内での朝礼だったにも関わらず、貧血で倒れる生徒が出たりした。
夏を前にダイエットしたいというのも理解出来ないわけではないけれど、倒れるほどにしてどうするつもりなんだろうか。
大体、軽く抱え上げられるくらいの体重しかないのに、どうして痩せたがるのかが分からない。
女の子というのは不思議な生き物だ。
呆れていると、ばたばたと派手な足音がして戸が乱暴に開かれた。
ガシャンとかなんとか音を立てたそれを振り返りながら、
「廊下を走ると危ないですよ」
とお決まりの文句を口にすると、そこにいたのは彼女を背負った涼宮さんだった。
「…一体何事ですか」
慌てて椅子から立ち上がると、涼宮さんは血の気の失せた顔で、
「キョンが急におかしくなっちゃって…それであたし、とにかく連れてこなきゃって……」
「おかしく?」
こくんと頷いた涼宮さんから彼女を受け取り、まっすぐベッドに向かう。
そっと横たえても彼女は目を覚ます様子はなかった。
呼吸と脈拍は乱れているけれど、切迫した様子はない。
「キョンが最近ちょっとおかしいから、保健室にでも行って来たらって話してたんだけど、話してる間からなんだかどんどん青褪めていって、かと思ったら過呼吸でも起こしたみたいになって、なんだかよく分からないことをぶつぶつ言うから、どうかしてると思って、慌ててつれてきたの」
「ふむ……軽いパニックか何かですかね…」
こればかりは当人に聞かないと分からなさそうだ。
「…キョン……大丈夫よね…?」
心配そうに不安そうに呟く涼宮さんに僕は小さく微笑んでみせる。
「ええ、大丈夫だと思います。僕の手に負えないようでしたらきちんとお医者さんに連れて行きますから、任せてください」
「あたしもついてたいけど……多分、そうしない方がいいわよね」
落ち込んだ様子で涼宮さんはそう言った。
「涼宮さん?」
「…キョンって、何か隠してるんでしょ。何があるのか知らないけど、着替える時とかいつもこそこそしてるし、あたしがくっついたりすると凄く嫌がるし……。どうしてなのか、あたしは知らないけど……キョンが言いたくないことがあるなら、こういう時、あたしは側にいない方がいいわよね…」
「……そうかも知れません」
残酷かもしれないけれど僕は正直に言う。
「けれど、彼女もきっと話したいと思っていると思いますよ。今は無理でも、いつかは打ち明けるのではないでしょうか?」
「……先生は知ってるの?」
じっと見上げてくる視線に僕は笑みだけを返した。
涼宮さんがいなくなると、保健室の中にいるのは僕と彼女の二人だけになる。
誰かが駆けつけてきていきなり開けられるとまずいかも知れないと思い、部屋の戸には処置中との札をかけ、鍵もかける。
リノリウムの床をこつこつ鳴らしながらテーブルの横を過ぎ、奥のカーテンの向こうに入り込む。
白いベッドに横たわる彼女の顔は紙のように白く、眉を寄せて苦しげな呼吸を繰り返していた。
セーラー服は決してきつくはないはずだけれど、もしかしてきついブラでもしているんだろうか。
これも仕事、決してやましい気持ちはないと半分くらい嘘でしかないことを自分に言い聞かせながら、彼女の胸元をのぞき見ると、淡いピンク色をした下着が目に入ってどきりとした。
まっ平らな胸を彩るフリルやリボンに、間違いなくパットで作った膨らみに、僕はどうしようもなく興奮していた。
ああやっぱり白旗を上げて宗旨替えをするしかない。
今更異性を好きになったなんて昔の遊び仲間に知られでもしたら、それこそ裏切り者と罵られそうな気もするけれど。
ドキドキしながら、せめて呼吸が荒くなったりはしないようにと抑えて、僕は小さく声をかける。
「…緩めます…ね」
彼女は身動ぎもせず、眠り込んでいる。
僕はそろりとその細い背の下に手を滑り込ませ、構造が分からないためにいささか苦労しながらもホックを緩めた。
かなりきつめにしてあったのだろうそれは勢いよく外れ、彼女の呼吸も少しばかり大人しくなったので、これでよかったんだと判断する。
そうしておいて慌てて彼女から離れたのは、そうでもしなければこのままよからぬことをしてしまいそうだなんて恐ろしいことを思ったからだ。
離れて、深呼吸などしてなんとか気持ちを落ち着けようとする。
それでもどうしようもなく彼女が気になって、僕は彼女の側に椅子を持って行くと、そっと腰を下ろした。
少しだけ穏やかになった彼女の寝顔は、それでもまだ苦しげで、みているだけしか出来ない僕にはもどかしくてならない。
何も出来ない自分が歯痒くて、申し訳なくて、それなのに彼女の寝顔に見とれた。
寄せられた眉はとても色っぽく、引き結ばれたままの唇は触れてみたいようなこじあけたいような衝動を駆り立てる。
柔らかそうな髪も、それの中に隠れる白い耳も、震える胸も何もかもが触れてみたくて堪らない。
それでもその衝動を抑えられたのは、自分の立場もあれば意識のない彼女に卑劣な真似をするような人間になりたくないという理由があったからだ。
何よりも彼女に嫌われるのが怖い。
じっと辛抱していると、やがてそっと彼女が目を開いた。
「お目覚めですか」
「…え……あ………?」
状況が理解出来ないというような様子で彼女は辺りを見回す。
「気分はどうです?」
「…こ…いずみ……?」
「はい」
大丈夫だろうか、と心配になり、彼女の顔を覗き込むと、いきなり彼女の目から涙が溢れ出した。
「キョンさん…!?」
一体どうしたんだろうか、と慌てる僕が見えているのかいないのか、彼女は子供のように泣き喚く。
「や、だ……! 保健室、来たくなかった…のに……! お前に、あ、会いたく、なかったのに……」
泣くほど嫌がられるなんてことはまるで想定していなかった僕は、その言葉に驚き、無防備な心をずたずたに引き裂かれるような思いがした。
どうしてとか、僕が何をしたのかと問いたくなるのをとにかく堪えて、彼女が吐き出したいことを全部言わせてしまうことにする。
そうしなければならない状態だと思ったからだ。
もしかしたら、言いたいことを溜め込んでいたがためにパニック障害めいたものを起こすことになったのかも知れないから。
彼女がそれで楽になるなら、自分がどれだけ傷ついても構わないと思う程度には、僕は彼女のことが好きだった。
「会えない、のに……会いたくないのに……」
彼女は同じような言葉を繰り返しながら泣きじゃくる。
僕はそれを聞きながら、彼女が落ち着くのを待つしかないと思っていた。
彼女はぼろぼろと涙をこぼす。
その大粒の涙を舐め取りたいと思いながらじっと見つめていると、
「…あ、会いたかったけど…会いたく、なくて……会うと、苦しくて、嫌、なのに……ひっく……なんで……なんで……」
会いたくないのか会いたかったのかよく分からないけれど、彼女には何か事情があるらしい。
少しばかり落ち着いてきたのを見ながら、僕は可能な限り柔らかな声で、
「…今の僕は、古泉一樹個人ではなく、ちゃんとした養護教員で、カウンセラーです。あなたが言ってしまいたいことがあるなら、聞かせてはくれませんか? 決して誰にも言いませんから……」
「……先生…?」
訝るように彼女は僕を見つめた。
自分でも何を口走ったか分かっているのだろう。
不安そうな瞳の中に申し訳ないと思っているのが伺える。
だからと僕は笑みを浮かべて、
「話せずに苦しいことがあるのなら、言ってください。…覚えていてほしくないことなら、ちゃんと忘れますから」
彼女は僕の言うことを理解してくれたらしい。
少し考え込んだかと思うと、小さな声で、
「…誰にも……古泉…一樹にも……内緒にしてくれる…か……?」
「はい」
「……古泉にだけは、絶対に言っちゃいけない、って、思ってること…なんだ」
「守秘義務はきちんと守ります。…信じてください」
「………他の…誰にも言えないし、言いたくなかった…。でも、言わないでいるのも苦しいんだ」
ぽつぽつと彼女は呟くように言葉を口にした。
その目からはまだ止まらない涙がじわじわと溢れ出しては頬を濡らしている。
不安げに布団を握り締めて、顔を半分隠すようにしながら、それでも彼女は僕を見つめた。
「……俺……古泉一樹が…好き…なんだ……」
驚きを最小限に抑えて頷くと、彼女は少しほっとした様子で口を開いた。
「俺…男の人を好きになったのは……初めてじゃないから、まだ…それはよかったんだ。だって、俺はこんなだけど…自分としては女なんだから、男を好きになるのは当然だろ…? でも……今までと違って、古泉は俺がこんなだって知ってるんだ…。だから……怖かった…」
そう言いながら泣きじゃくり、肩を震わせる。
「古泉、は…俺のこと、知ってるのに、俺に凄く優しくしてくれて……だから、それを別の意味があるんじゃないかって、先生だからじゃなくて、別の意味で……優しくしてくれるんじゃないかなんて、思いあがりそうになるのが怖くて、凄く苦しくて……。だから、古泉に会いに来るのが…嫌になって……来なかったんだ…。古泉が呼んでくれたらとか、引き止めてくれないかなんて、馬鹿みたいな期待して……。それが叶わなくて当然なのに、凄く悲しくて……」
ひくんと体を痙攣させ、それでも彼女は言葉を続けた。
「…こっ、こい、ずみ、が、この間の朝礼の時…貧血起こした女の子を…ぱっと抱えて運んだりしただろ……? ああいうの見ると……、ううん、ああいうのじゃなくても、他の子にだって優しくするんだなと思うと……それが仕事だって思っても……嫉妬して……苦しくて……嫌で嫌で堪らなくて……。会わなければ…まだ……いいかなって思ったのに……会えないのも苦しくて……」
思わず抱き締めて僕も同じ気持ちだと告げたくなるようなことを、痛々しいほど震えながら言った彼女は最後に、
「…あ……諦めなきゃ…だめ……だよな………」
とまだ涙をこぼしながら言うので、僕はつい微笑した。
作り笑いでも愛想笑いでもなく、心から。
「…どうしてですか?」
小さな声でそっと問うと、彼女はびくりと身を竦ませて、
「だ、だって……俺は…こんなだし……、古泉が…好きになってくれるとも思えないのに……苦しいまま…好きでいるなんて……」
「…あなたが諦めたくないのであれば、諦めなくてもいいのではないでしょうか? 諦めなければならない、ということはないと思いますよ?」
「…けど……苦しい…」
不貞腐れたような声で言う彼女に一層笑みが深まる。
「本当に、苦しいことばかりでしたか?」
「それ……は…」
「……楽しいこともあるんですよね」
僕にも分かります、とは言わなかったけれどそういう意味を含んでいることくらい、彼女には簡単に分かったらしい。
「…先生は……好きな人…とか……恋人が………いるんですか…?」
震える声で問われ、僕は小さく笑う。
「好きな人ならいるんですけどね。……どうやらその人は、僕を好きでいることを諦めたいようです」
「……は…?」
きょとんとした顔をする彼女に僕は真面目ぶった、つまりはふざけた調子で、
「これでも教師ですから、僕はどんなにその人のことが好きでも、それを口に出せないんです。……その人がせめて三年ばかり待ってくれると、僕もきちんと伝えられるんですけどね」
と大げさにため息を吐いてみせると、察してくれたらしい彼女がどんどん赤くなっていく。
「せ…先生……?」
目をぱちくりさせながら、彼女は僕を見つめている。
呆気にとられているのか、大きく見開かれた目が可愛い。
「僕はその人のことを諦めるつもりはありません。少なくとも三年待って、教師と生徒でなくなったら……なんて思ってもいます。…あなたはどうしますか?」
そう問いかけると、彼女はこれ以上はないほど真っ赤になった顔で僕を見つめ、
「お……俺も…三年くらい、諦めずにいてみよう…かな……」
と言ってくれた。
「ええ、そうしてみてはいかがでしょうか?」
にっこりと笑って見せると、彼女はくすぐったそうに笑い、それからしかめっ面を作った。
「先生って、案外意地悪だったんだな」
なんて可愛らしい一言と共に。