彼は彼女に恋をする 3



僕の動揺を他所に時間は流れるし、彼女の様子だって変わる。
初めての委員会も終った頃には彼女にも友人が増えたようだった。
その割に相変わらず保健室にやってきてくれるのが嬉しい。
もしかするとそれは、身体測定や健康診断のデータをまとめるのに忙しい僕を手伝おうという全くの親切心によるものなのかも知れないけれど、それでも僕は彼女と過ごせるのが嬉しかった。
彼女の機嫌を取ろうとお茶を入れたりこっそりクッキーを添えてみたりする辺りとても滑稽だけど、それが彼女に通じるとは到底思えなかった。
今日だって、
「あー羨ましい…。なんでこんな細いのに胸はこんなにあるんだろ……」
などと随分と私見の入った感想を呟きながらせっせとデータを入力している彼女に苦笑するしかない。
「手伝ってくれるのはとてもありがたいですし、助かりますけど、いいんですか?」
「いいって何が?」
「部活とか…しないんですか?」
「んー…部活はいいかな、って。これといってやりたいこともないし、元々周りは男ばっかだったから、女の子ばっかりで何かするってのはちょっとな……」
「そうなんですか?」
「ん…。男ばっかりってのはそれはそれで緊張したりもするんだけどな。…それに、部活なんかしても、体育系だと体だけは男な俺が入ったら不公平だし、文系でもなんかな…」
「気を遣うんですね。…あなたらしいです」
「…俺のことどう思ってんだか」
ため息を吐いた彼女だったけれど、不意に何か思い出した調子で、
「なあ、前から思ってたんだが……」
「なんでしょうか?」
「…お前って、生徒にタメ口聞かれて文句ねえの?」
「別に構いませんよ。ただ、女の子があまりにも口汚いのはどうかと思いますけどね」
「う」
気まずそうに言葉を詰まらせた彼は、
「……ごめんなさい」
と言って頭を下げたけど、
「今後気をつけるなら構いませんよ。でも、」
と僕は小さく笑い、
「敬語は必要ありませんよ」
「……そうか?」
「ええ。…気安く接していただけるのは嬉しいです」
本心からそう言ったのに、彼はどこか不機嫌に、
「…お前ってどこまでお人好しなんだよ」
と呟く。
「お人好し……ですかね…」
「そうだろ。そんなだから、生徒になめられたりするんじゃないか?」
「なめられてますかね?」
「……どうだろ」
自分で言っておいて、彼は難しい顔で考え込んだ。
そうしておいて口に出した言葉は、
「…なめられては、ない…か」
という呟きで、おまけに、
「お前って、自分で言ってた通り、案外人気はないんだな」
と続けられてうろたえそうになるのを堪える。
「……そう…です…?」
「…自分で言ったくせになんだその反応」
「いえ…、第三者から見てもそうなのかと驚きました」
正直にそう言うと、彼は皮肉っぽく唇を歪め、
「だってお前、牽制してるだろ」
と言う。
図星を突かれた僕は驚きに目を見開いたまま黙り込むしかない。
「女子校の保険医なんてやってるからか? 必要以上に近づけないように壁を作ってるっていうか……少しでも下心のありそうなのは近づけないし、そういう感情を持たせないようにしてる感じがするのは、俺の見間違いか?」
「……あなたがそう仰るなら、そうなのかも知れませんね」
一昔前の政治家の答弁のようなことを言いながら、僕はそっと目をそらした。
彼女にそれを見抜かれたことよりも、それを知った彼女が僕を軽蔑するのではないかということが僕は何よりも怖かった。
怯える僕に彼女は小さなため息を漏らした。
けれどそれは、呆れや冷たいものを含んだものとは違い、暖かくて柔らか味のあるものだった。
「俺は、そういうところも立派だと思うけどな」
優しい声で呟かれた言葉はあまりにも僕にとって耳通りがよ過ぎて、一瞬幻聴かと思えたほどだった。
「立派…ですか……?」
「ああ。だって、実際難しいだろ。かわいい子とか綺麗な子とかがいっぱいいるのに、それに興味がありませんって顔をして、相手にも自分を好きにならせないようにするって。並大抵のことじゃ出来ないと思うぞ。けど、立場としてそうあるべきって理想だとも思う。それを実行出来るお前は立派だと思う」
ストレートに褒めるのが恥かしいのか、彼女ははにかむように笑いながら、それでも言葉を惜しまない。
「だから、お前はかっこいいし、凄くいい教師だと思う」
「……ありがとうございます」
でも僕は、そんな風に褒めてもらえるような人間じゃない。
女生徒を近づけないのはこれまでの習慣のせいだし、その習慣だって、興味もない女性陣に騒がれるのが煩わしかったから身についたものに過ぎない。
それを好意的に言われ、肯定され、なんだか酷く肩身の狭い思いがした。
彼女が僕に向けてくれるまっすぐな視線すらはねのけてしまいたいのか、それともそれに向き合えるようになりたいのかさえ分からなくなる。
でも僕には、そのどちらをする勇気も度胸もなくて、ただくすぐったいまま黙り込むしかない。
彼女は微笑を浮かべたまま僕を見つめ、
「それなのに、俺のことはずっと近いところに置いてくれて、ありがとな。……俺がこういう面倒な人間だからだってのは分かってるけど、それでも…嬉しい」
と囁き声で呟く。
恥かしいのだろう、ほんのりと頬を赤く染めて、うつむき加減になっていると、意外と長い睫毛が影を薄く落とす。
それをじっと見つめられていることに気付いていない様子で、
「俺……こうだから…どうしても仲のいい友達とか作れなくて、どうしても距離を置いてたんだ。……だから…凄く…嬉しい………」
「……僕もですよ」
とこればかりは正直に言うと、彼女は驚いたような顔で僕を見つめた。
「僕も、同じようなものです。…ただ遊ぶだけの友人はいても、本当に仲のいい友人なんて、まるでいませんね。……どうしても…距離を置いてしまって…。だから…、あなたがいてくださって、嬉しいんです」
言っておいて恥かしくなり、
「こんなこと言うのは、情けない話ですけど」
と誤魔化すように付け足すと、彼女はそっと首を振った。
「ううん…嬉しい……」
そう言った彼女を抱き締めたいと思った。
この頃にはもう僕は自分の抱いている感情が恋愛感情以外の何ものでもないと認めざるを得ないほどになっていたのだけれど、それでもどこかでは悪あがきをしていて、彼女を好きになったのは彼女がまだ男の体をしているからだなんて思いこもうとしてみたりもするのだけれど、妄想の中でどういじろうとも、目にする彼女は彼女でしかない。
おかしなもので、自分が根っからの同性愛者だと信じていたのがいきなり崩されると、なんだか混乱してしまい、まさかそんなことがあるはずがないと否定したくてたまらなくなる。
まるでヘテロだと思い込んでいたのに同性を好きになってしまった人みたいだ。
実際それは僕にとっては同じようなものだった。
ずっとそうだと思っていたそれは、価値観というよりもむしろそれ以上の基準軸のようなものだというのに、こんなにもあっさり変わってしまうことが信じられない。
相手の事情が複雑なのもあって余計に混乱する。
それでもやっぱり、僕は彼女が好きで、彼女のことを好きになった理由の中に、性別なんてものは含まれてなかったのだと思う。
たとえば今後彼女が歩むべき道を順当に歩み、体も女性になったとする。
そうなった時の彼女の誇らしげで歓喜に満ちた笑みを思い浮かべるとそれだけで僕は胸の中が暖かくなるように思うし、そんな彼女を見たいと思う。
そうして生まれ変わった彼女の体を見たいとさえ思った辺り、この感情は持て余すほどに本気だった。
更にそれを実感させてくれたのは、休み時間にたまたま、教室を移動するため歩いていた彼女を見かけたことだった。
彼女は渡り廊下の二階を、僕は校舎の一階を歩いていて、こちらからは彼女が見えるけれど彼女は僕に気付かないような位置関係だった。
当然僕としても声を掛けるような距離ではないのだけれど、ついつい彼女の様子を見てしまったのは、彼女が他の生徒と一緒にいたからだ。
黄色いカチューシャで押さえた肩くらいまでの髪をなびかせ、気の強そうな目をして何やら熱烈に語っている少女に、彼女が向ける目はとても優しい。
姉のような母のような慈愛に満ちた目をしていた。
そこに恋愛感情めいたものなんてまるでないと分かるのに、それでも僕は彼女にそんな優しさを注がれる相手に嫉妬した。
それは間違えようもないような強い感情で、今すぐあの女生徒を押し退けて彼女の隣りに行きたいというような子供染みたものでもあった。
彼女を独占したいという醜い欲。
それが恋愛感情とは切っても切れないものであることくらい、嫌というほどよく知っていた。
彼女が欲しい。
どうしようもないほどそれをこいねがいながら、僕にはどうすることも出来ない。
何故なら僕は一応教師であり、立場として彼女にそんな思いを告白するべきではないどころか、本来ならそのような思いすら抱いてはならない類の人間だ。
更に言うなら僕自身も、彼女にそれを告げたくないと思った。
それを告げることで、今の関係を壊してしまうことが何よりも怖かった。
少なくとも彼女が寄せてくれているだろう信頼を、おそらく想像できる中でも最低の理由で壊してしまうのが恐ろしかった。
恋をすると人は臆病になると言ったのが誰だったかは思い出せないけれど、その言葉はまさにその通りだと思う。
その通り正しい言葉だと思うけれど、それが分かったところでどうしようもない。
僕はなんだかぬるま湯で煮られているような気持ちになりながら、そのくせそのぬるま湯から逃げ出そうとも出来ないまま、時間を過ごした。
じわりじわりとでも時間は否応なく過ぎて行き、山に青葉が輝き始めたと思うとそれらをじっとりと重く濡らす雨の季節がやってくる。
彼女の足が保健室から遠のくようになってきたのは、そんな梅雨の先駆けの頃だった。
入学から一ヶ月半も過ぎれば、魅力溢れる人柄をした彼女のことだから友達も出来るだろうし、そうなればようやく出来た女友達と過ごす方が楽しいに決まってる。
だからこれは仕方ないことで、仕方ないというよりもむしろ当然のことなのだと自分に言い聞かせる。
言い聞かせるということはつまり、そう納得出来ていないということに他ならない。
僕はどうしても彼女に会いたいと思ってしまうし、ちらとでも彼女の姿を見かけられるとそれだけで幸せなようでいて、ぎゅうと胸を締め付けられるような気持ちにもなる。
順応性の高い彼女のことだから、心配しなくても学校に馴染み、僕のサポートなんていらなくなっただけなんだろうとも思うのに、自分の存在や価値を否定されたように思えてしまう。
酷い被害妄想だし、あまりにも身勝手すぎる。
僕は自分のことをそう笑うことでなんとかまともであろうとしていた。
気を紛らわせるためには、目の前にある仕事ややるべきことに集中するのが一番だと経験で知っていた僕は、前にも増して仕事に精を出した。
新しい救急救命手順の勉強もしたし、思春期の悩みがどうのなんて本をも熱心に読んだ。
それでもなお、彼女のことは頭から離れてくれない。
むしろちょっとしたことからも彼女のことを思い出すあたり、重症化しているとしか思えない。
いつかはこの重症化した恋の病も楽しめるようになるのだろうか。
彼女の幸せをきちんと願えるようになるのだろうか。
そんなことを考えてぼんやりするあまり、今頃五月病ですか、なんてからかわれるようになっていた僕は本当に腑抜けていたに違いない。
そうでなければもっと早く、気付くべきことに気付いていたはずなのだから。