「そういうことですから、古泉先生には特に指導と支援をお願いすることになるかと思いますが、よろしくお願いします」 そう校長から名指しで言われ、僕はにこやかに頷く。 正直、そんなことを考えたこともなかったのに、いきなり言われても戸惑うばかりだ。 こんな話が出てきた段階で、いくらか調べもしたものの、詳しい情報はかなり少ない。 個々人の生き方や情報に関わるからだろうか。 情報があったと思っても、医学書では非常に難解で理解に苦労する。 それでも、僕だって一応教育現場に身を置く人間として力になりたいと思う程度には、まだ熱意やなんかも残っている。 僕はこの会議に出席していた、今度入学する生徒のご両親に目を向けた。 いくらか緊張もほぐれたようで、初めて会った時の強張った顔とはまるで違った表情だけれども、それでもまだ迷いや躊躇いが見える。 そりゃあ、迷うだろうし躊躇うだろう。 いくら心は女性とはいえ、体は完全に男である我が子を、よりにもよって女子校に入れようとしているのだから。 そうしてそれはどうやら通るようだった。 勿論、ちゃんとした入学試験などの手続きをクリアすればだけれど。 本当に、うちの学校は古い割に妙に進歩的と言うか革新的な人が多くて凄い。 だからこそ、未だに共学化せずにやっていけるのかも知れないけれど。 僕は小さなため息をそっと漏らし、与えられ、これから取るべき行動を取ることにした。 まだ残暑が残っていたその日から、そうあまり経っていないように思うのに、実際には時間の経つのは驚くほど早い。 学校という厳格なタイムスケジュールを持つ独特の世界に身を置いていてさえこれなのだから、もっと四季というものが曖昧な社会にいたら尚更だろう。 そう思いながら僕は入学式の後、足早に自分の根城である保健室に入った。 新学期早々、入学式早々、保健室に来る人間もいないだろうけれど、新学期というのは保健室が非常に忙しい時期だ。 保健委員会や身体測定に健康診断などなど、準備しなければならないことは山積だ。 今日もせっせと仕事をさせてもらおう、と思いながら、間違っても生徒に見られてはならないような極秘扱いの書類のチェックからはじめたのは当然、生徒がやってこない時間だからだ。 厳重すぎると笑われそうなほど立派な金庫から取り出したのは、件の新入生に関する書類だ。 そこにはあらゆる情報が書き連ねられている。 手書きされたものをコピーしたそのオリジナルは更に厳重にしまわれていることだろう。 書いたのは「彼女」の両親と主治医らしい。 彼女の入学が決定して、僕は彼女の主治医とも連絡をとることになり、ようやく性同一性障害なるものについて詳しい情報を得ることが出来た。 それでもまだ、ちゃんと彼女に接することが出来るのか不安だ。 おさらいではないけれど、僕はもう何度も繰り返し読んだ書類を丁寧に読んでいく。 添えられていた写真のコピーは不鮮明だけれど、オリジナルも見ているので思い出すことは出来る。 どこかぼうっとしていて、ちょっとだらしない印象がある目だった。 見た写真では中学校の制服らしい学ランを着ていたけれど、僕が直接会う時にはうちの可愛らしいセーラー服を着ているのかと思うとなんだか不思議な気がする。 あの男の子がどう女の子になるんだろうか。 それとも、体はまだ処置出来ないから、制服を着ても似合わないのだろうか。 意地の悪いことを考えつつ、読み終えた書類をしまい、別の仕事にとりかかった。 そうこうするうちに校内がざわめき始める。 どうやらホームルームが終って生徒も解放されたらしい。 保護者のオリエンテーションも終ったようだけれど、と思っていると、保健室のドアが控え目にノックされた。 「はい」 と応じながら書類を脇に避けると、そろそろと戸が開き、初めて会う生徒が顔を出した。 肩に届くかどうかというくらい短めの髪。 緊張に少しばかり強張った顔。 そのくせ瞳はきらきらと明るく輝いている。 「失礼します」 丁寧に言った声は低いけれど、その低い声が妙に色っぽく響いた。 「どうぞ。なんのご用でしょうか?」 習慣となっている愛想笑いを浮かべながら声を掛けると、彼女はそっと保健室の中に滑り込み、閉めた戸に鍵を掛けた。 「…どうしました?」 「……ええと…分かりませんか?」 「……どういう…」 「……俺は…」 そう言って彼女が口にしたのは、僕が見ていた書類にあったあの名前だった。 僕が驚きに目を見開くと、彼女は悪戯っぽく微笑する。 その頬にかすかに浮かぶえくぼもチャーミングで、本当に可愛らしい女の子でしかない。 「…驚きました」 正直に言った僕に彼女は声を立てて笑った。 「それはよかった」 それから用事を思い出した様子で、 「あ、そうだ。先生にちゃんと挨拶しておけって言われて来たんだった。これからお世話になります」 と言って軽く頭を下げた彼女に僕は慌てて椅子から立ち上がり、 「こちらこそ、何かと至らないことも多いかとは思いますが、よろしくお願いします。養護教諭の古泉一樹です」 と彼女に手を差し出した。 握り締めた手は僕のよりも一回り小さいけれどしっかりした男のそれだし、背だって僕より少し低いくらいだから女性としては随分高い方になってしまうだろう。 それでも、彼女は本当に女の子だった。 はにかむような笑みを浮かべたところも、恥かしそうに目をそらしているのも。 他の、ちょっとした指の仕草や何かも女の子にしか見えない。 思わずぼうっとなって見とれていると、 「…先生……?」 と首を傾げられて慌てた。 「あ、す、すみません」 「……やっぱり、どこかおかしいですか?」 心配そうに彼女は言い、点検でもするように自分の髪を撫で、案外華奢な肩を触り、胸元を押さえる。 不安げに揺れる瞳にどぎまぎしながら、 「いえ、おかしなところなんてありません。…女の子らしくて、かわいらしいなと思っただけで……」 「え…」 驚いて僕を見上げた彼女は、見る間に顔を赤く染める。 余計なことを言ってしまっただろうか、といささかうろたえながら、 「す、すみません、セクハラでしたね。ごめんなさい」 と見っとも無いほど謝ると、彼女は赤い顔のまま、 「う…あ、べ、別に……いいですけど…、そんなこと、言われると思わなかった……」 ぼそぼそと独り言のように小さな声で呟いた彼女の赤く染まった小さな耳まで、おかしなくらいに僕の目を惹き付けて離さない。 「その、」 こちらまで顔が赤くなりそうだと思いながら、僕はとにかくこれだけは言っておこうと口を開く。 「校内でのサポートは担任の先生もそうですが、僕にも任されていますから、何かあったらいつでも来てください。何もなくても来てくださっていいですよ。お茶くらい、お出ししますから」 彼女は軽く眉を寄せて、 「…ナンパじゃないんだから……」 と呆れたように言ったけれど、それでもすぐに柔らかく微笑し、 「先生、もてそうだから不安だったけど、案外不器用なんですね」 と小悪魔のように囁かれ、今度こそ僕の方が赤くさせられた。 赤くなりながら否定しても説得力はないだろうと僕は諦めて白旗を上げ、 「ええ、そうですよ。不器用で純情な朴念仁ですから、あまりからかわないでください」 と言うと、彼女はますます楽しそうに笑った。 先生可愛い、なんて言葉は聞き間違いということにしておきたい。 それで気に入られでもしたんだろうか。 彼女は次の日にも保健室にやってきた。 「今日は校内を見て回ったり、委員会決めたりしてきました」 と楽しそうに報告する彼女に僕は目を細めながら、 「何委員になったんですか?」 「勿論、保健委員です」 どこか誇らしげに言う彼女に僕は笑みを深め、 「勿論、なんですか」 「ん、だって、そうしたらここに入り浸っても文句は出ないでしょう?」 「そうでなくても文句なんて出ませんよ」 「出るって…。先生、人気あるんだから」 唇を尖らせて言う彼女に僕は首を傾げ、 「人気…ですか?」 「ない、なんて冗談でも言うなよ」 と軽く睨まれたけれど、 「僕は別に、人気者ということもないと思いますけどね。……目立つ顔だという自覚はありますけど」 「ん?」 「…顔と、人気の有無は関係ありませんよ」 と自嘲するように笑った僕に、彼女はよく分からないという様子で何度も首を捻っていたけれど、 「あなたの方こそ、人気がありそうですね」 という僕の言葉にはいよいよ頭が肩につきそうなほどになりながら、 「そうか…?」 「ええ。…あなたは人を惹きつけるところのあるタイプだと思いますよ」 「…ふーん……」 どこか気のない返事をよこした彼女は、僕の背後にやってきたかと思うと、 「それ、俺が見てもいい書類?」 「構いませんよ。……ああ、お暇なんでしたら、手伝ってもらえますか?」 僕が言うと彼女はぱっと顔を輝かせて、 「何かあるのか?」 「ええ」 僕はテーブルの隅に積んであったチェックシートの束を引き寄せると、それを彼女の前に置く。 「これがちゃんとクラス別で出席番号順になっているかチェックしてもらえますか?」 「分かった」 彼女は嬉々としてその仕事に取り掛かる。 僕はというと間近に迫っている身体測定や健康診断の必要書類などを確認しながら、 「クラスには馴染めましたか?」 と聞いて見ると、 「まだ二日目だからよく分からないけど……まあ、悪くはない…かな。早速あだ名も付けられたし」 「あだ名、ですか?」 「ん、キョンだって。変なあだ名だろ」 「可愛いと思いますよ。…キョンさん、ですか」 彼女はぽっと顔を赤くして、 「なんか、先生にそう呼ばれると恥ずかしい」 「だめですか?」 笑いながら言うと、 「だ……めじゃない、けど…」 くすぐったそうに顔を伏せるところも、本当に女の子だ。 僕はくすくす笑いながら、 「それはそうとして、キョンさんはどうしてうちの学校を希望したんです?」 「…そりゃ……俺みたいなのを受け入れてくれるっていうし…、それに、共学校なんかで、男が近くにいた方がどう接したらいいのか分からなくて困るんだ」 照れ隠しなのか、チェックシートに視線を落としたまま、彼女は言う。 「…俺は、どうしたって男にはなれないから、男同士の付き合い方にはついていけないし、話題にもついていけない。男ってのはまた、俺みたいなのを気持ち悪いとかって堂々と言うやつも多いし、本当にそう思ってるかはともかく、そういうことを言って自分は男らしいんだって誇張したがったりするもんだろ? ……だから、今の俺には同年代の男といるってのはつらいもんがあるんだ」 「…僕といるのは平気ですか?」 「先生は、そんなこと言わないだろ?」 と彼女は笑う。 「それに…なんでだろ。先生は怖くない。……俺の体が女の子じゃないってことも、俺の心が男じゃないってことも、分かってると思うから、かな」 「怖がってもいいんですよ? これでも若い男なんですからね」 冗談めかして僕が言うと、彼女は声を上げて笑い、 「だからこそ、俺には安全だろ?」 なんて言ったけれど、どうだろうかと僕は考える。 あるいは僕こそ、この学校の中で最も、彼女にとって危険な人間かも知れない。 何故なら僕は、同性しか好きになったことがない種類の人間だからだ。 そんな僕が彼女に気に入られてしまったのは、もしかすると、僕にも彼女が言っていたように、同年代の男と普通に過ごすということが難しいというところがあるからかも知れなかった。 「どうでしょうね。安全ではないかも知れませんよ? ……あなたは魅力的な人ですからね」 「からかうなよ」 軽く睨み返してくるその目つきに射抜かれるような思いがした。 |